/7 書庫~鐘楼(五月二十一日)

 パチリ。微かな雨音を断ち切るように、硬く、小さな音が鳴った。


「ねえ。こんなことをしてて良いの?」


 火曜日の放課後。書庫の長机を隔てて正面、自分の手番を終えたまひろが言った。机上には、プラスチックでできた安物の将棋盤。共通の知人である神代祭から拝借してきたものだ。校風的にはチェスの方が合っているのだろうけど、まひろはチェスのルールを知らないようだったし、わたしも将棋の方が親しみ深かった。


 お互い下手の横好きであるものの、実力が拮抗している分、暇つぶしには丁度良かった。そんなわたしたちを、心臓痕はふわふわ宙に浮かびながら、退屈そうに眺めている。


「鈴白先生が相手だからな。何か手を打てるかは分からないが、今日明日くらい考えてみるさ。前みたいに煙に巻かれちまえば、結局時間を無駄にしてお仕舞いだ」


 わたしの手元にあるのは、白瀬の証言を除けば、相変わらず状況証拠と推論だけだ。嘘が吐けないという男の性質を利用すれば、あるいはそれだけで白状させることもできるだろうが、何せ落としどころが見えていない。


 仮にすべての事実をこのまま白日の元に晒したとして、それが生徒らの支持を得られるとは考え辛い。口惜しいが、それでは駄目なのだ。赤木の依頼はまだしも、わたし本来の目的を果たせなければ何の意味もない。


 幸いにも、赤木が怪我をしたという話は今のところ聞いていない。赤木に課したはひとまず有効に働いているらしい。押し付けたティーバッグも無駄ではなかったというわけだ。


 穴熊を切り崩そうと突いてきたまひろの端歩を同歩で受ける。しかしまひろは攻めを緩めることなくノータイムで打ち返してくる。9三歩。厳しい手だ。このまま寄せ切られるのは目に見えていた。ルールは知らずとも状況は理解しているのか、頭上で硝子の笑い声が聞こえた。ゲーム自体に興味はないくせに、わたしが追い詰められている様を見るのは愉快らしい。こちとら対局中もブンブン飛び回られて良い迷惑だ。ひらひら揺れるスカートから覗く脚が、幻覚の分際でまたなまめかしくて、ろくに集中できやしない。もしかして、妨害のためにわざと見せつけているのだろうか?


 悶々とした思考を飛び散らせているうちに、軋むような大きな音が聞こえた。音のした方に視線を遣ると、書庫の戸口にお嬢様然とした下級生が立っている。


「あ、るいちゃん」


 まひろが振り向き、挨拶代わりに軽く右手を挙げた。しかし赤木は無言のまま、まっすぐ我々の方へと歩いて来る。


 見る限り怪我どころか、以前より大分血色が良いようだ。むしろ少々頭に血が昇り過ぎているようにすら思える。心の中でラデュレに合掌する。どうやら効き目があり過ぎたようだ。


「やあ。随分元気そうだな。をちゃんと守ってくれてるようで嬉しいよ。

 わざわざ来てくれたところ悪いけど、報告はまた今度だ。何せまだ詰めが残ってる」


 軽口を叩けど、実際詰まされてるのはこちらだったせいか、様にならなかった。横目でまひろに同意を求めたが、苦笑いしか返って来ない。


 わざとらしく茶化してみせたわたしを、赤木は冷たい目で見下ろしながら、凪いだ声で言った。


「――花枝に、何を言ったんですか?」


「何だ。本人から聞いてないのかよ」


 てっきり白瀬が洗いざらい白状したから、肩をいからせながら来たものだと思ったが。


 しかし、先日はすっかり消沈していたお嬢様が、人並みに怒りを露わにする様は少々意外に映った。間に挟まれたまひろもおろおろと狼狽えているくらいだ。普段の様子と今の彼女の態度が結びつかないのだろう。一方で、相変わらず宙を泳いでいる硝子は完全に面白がっていた。


 そんなのことなどまるで眼中にないように、赤木はその細い喉からひりついた声を出す。


「訊けるわけないじゃないですか。

 花枝は泣いていたんですよ。それでも何があったかは教えてくれなかった。 

 だから先輩に訊いてるんです。昨日、花枝の部屋に行きましたよね?」


「ああ、行ったよ」


 そもそも隠す気もなかった。昨日は声量こそ抑えたつもりだったが、場合によってはもう少し白熱していただろうし、いっそ誰かに見られても構わないとすら思っていた。


 しかし、白瀬が赤木に口を割らなかったことはやはり予想外だった。保身のためなら当然だが、それでも――いやだからこそ、いい加減話して楽になりたがると思っていたから。


 確かに白瀬が白状しまえば、彼女たちの麗しい友情はそれまでだ。白瀬と黒川は、ある意味では被害者と言えど、極めて自己中心的に立ち回っていた。今回も赤木は深く追及することはなかったようだし、結局白瀬は赤木の人の良さに救われたわけだ。


「何で押し入ったりしたんですか。花枝が思い詰めてるって知ってたんでしょう? 怪我人を――怯えている花枝を追い詰めて、一体何が楽しいんですか!?」


「るいちゃん――!」


「まひろ。口を挟むな」


「でも」


「良いから。

 ――悪いけど、白瀬さんが話せないなら、わたしからも言えることはないよ。これは白瀬さんの名誉にも関わる」


 赤木の怒りは、純粋に友人を傷つけられたことに対するものらしい。


 思えば、初めからそうだった。この愚直な少女だけが、一連の出来事の本当の意図を理解しなかった。あるいは赤木が金澤と最も親しかったからか。何にせよ、この子に真相を語るのは少々酷かもしれない。


「――何それ。まるで私たちのためみたいに言うんですね」


 感情を抑えつけるかのように、震えた声で赤木が言う。


「まるで、じゃなくて本当に君たちを想ってのことだよ。これでも禍根が残らないよう気を遣っているんだ。

 君だって、おかしいとは思ってるんだろう? 謝るくせに理由ワケは話せない、なんてのは脛に傷を持っている奴の態度だよ」


 その指摘にようやく赤木は口を噤んだ。彼女は馬鹿だが、決して巡りが悪いわけじゃない。それでも良心が、無意識に友人を庇おうとしているのだろう。


 ――ああ本当に、見ていて苛々する。


 硝子の言う通りだ。彼女は――いやは、赤木の被害者ヅラがはなから気に食わなかった。


「――赤木さんはさ、きっと良い人なんだろうね」


「馬鹿にしているんですか」


 睨みつける赤木のまなこには、もはや明確な敵意が灯っていた。他人の悪意にことさら鈍い彼女でも、わたしが今嘲っていることくらいは分かるらしい。


 それでもなお、わたしは彼女をせせら笑った。


「曲解だよ。しかしわたしの知るすべてを話したところで、君が理解し得ないこともまた事実だ。

 ――納得がいかないか? なら一つ、テストをしてみようか。何、ちょっとしたたとえ話だよ。

 たとえば、そうだな。仲の良い四人が降霊術――交霊会セアンスに手を出したとしよう。そして不運なことに、しばらくしてそのうち一人が怪我をした。

 良いか? 三人じゃないぞ。

 そして君は知らないかもしれないが、。なら、彼女は一体誰に突き落とされたんだろうね?」


 わたしの問いに、赤木が顔を強張らせた。その反応を見るに、恐らく問いの意味を理解できていないのだろう。まひろが不安げな目でわたしと赤木を交互に見る。そして硝子だけが実に愉しげに、囃し立てるように両手を叩いていた。


「私が――莉音をた犯人だと言いたいんですか?」


「たとえ話と言っただろう?

 金澤さんの転落は事故だ。誰もてなんかいないよ」


たのは誰かって、訊いたのは先輩の方じゃないですか!」


 ここまで来るともはや苦笑しかない。予想通りというか、ある意味で百点満点の回答だった。問いそのものに疑問を持たない時点で、視野狭窄にもほどがある。


「そうとも。だからこれはたとえ話なんだ。

 そして君はやはり愚直だよ。真相を知れば君はきっと後悔する。

 ――忘れてしまえよ、赤木るい。一生のうち、たかだか二ヶ月のささやかな友情じゃないか。そんなものに縋らなくても、君は生きていけるさ」


 それは本心からの忠告だった。ここが分水嶺だ。彼女がすべてを忘れられるような人間なら、これ以上傷つかずに済む。


「でも、そんなこと――」


 和らいだわたしの口調から何か感じ取ったのか、未だにわたしの真意を推し量ろうとしているのか。赤木が舌の上で言葉にならない音が転がす。激情と平静の間に立とうとする、彼女の混乱は目に見えていた。


 その人の良さが他人を苛立たせることに、どうして気づかないのだろう。


「ああ。できないよな君には。黒川さんはまだしも、少なくとも白瀬さんにはできなかったんだ。君にできるはずもない。

 だったら口を出すなって。一週間の辛抱と言ったろう。期日まで待ってくれれば、落としどころくらいは見つけてやるさ。

 これ以上、わたしを煩わせてくれるな」


「――このっ!」


 ついぞ柄にもなく振り上げられた赤木の手は、割りったまひろに掴み上げられた。


「ストップ! るいちゃんめて!


 たみちゃんも、あんまり煽らないの!」


「まひろ先輩、先輩は何だってこんな人を――!」


「まひろ、離して良いぞ。

 どうせ平手だ。この一年は拳の握り方なんか習っちゃいない」


「たみちゃん!」


 赤木が乱暴にまひろの手を振り払い、すぐに後退した。そのまましばらく赤木はわたしたちを睨んでいたが、やがて大きな溜息を吐くと、無言のままこちらに背を向けた。


「るいちゃん」


 まひろの呼びかけに躊躇いが生じたか、扉を前にしながら赤木が足を止める。しかし、両者とも続く言葉を見つけられないまま、時間だけが過ぎていった。


 仕方なしに、わたしは再び口火を切る。


「これは、本当に親切心から言うんだが――しばらくの間、鈴白先生には近寄らない方が良い。

 あれは君たちの手に負える相手じゃない」


 口を挟もうとするまひろより早く、赤木は平静を装いつつ半身を返した。


「先生は聖歌隊わたしたちの顧問で、聖職者です。貴女なんかより、よほど信頼できる」


 赤木の言葉にはしかし、何か含むところがあった。彼女がここを初めて訪れたとき、鈴白に相談しても取り合って貰えなかったと話していた。赤木もあのとき既に、男の態度に不審を抱いていたのだろう。


「なあ赤木さん。

 君たち聖歌隊の面々は、鈴白のことを随分信頼しているようだが――ひょっとして、金澤さんはそれだけじゃなかったんじゃないか?」


 一瞬、赤木が瞠目した。わたしの問いに、何を思ったかは分からない。しかし赤木は、やはり黙秘したままその場を去った。


「たみちゃん。何もあんな言い方をしなくても」


 少し間を置いてから、まひろがわたしを嗜める。バツが悪くなり顔を背けると、その先に硝子の意地の悪い微笑が待ち受けていた。思わず舌を打つ。彼女の微笑みは、そのどうしようもない造形美から、かえって直視することが憚られた。


 仕方なしに、わたしはまひろに向き直った。


「――お前がそんなことを言うとは、思わなかったよ。いつだろうと、わたしの味方をしてくれるんじゃなかったのか?」


「当たり前じゃない。

 事情ワケを話せないからって、たみちゃんが悪者にならなくても良かったでしょ」


 まひろの鳶色の瞳が、気遣うように揺れていた。どうやら、不安にさせてしまったらしい。わたしは努めて明るい声音を選び、彼女に笑いかける。


「そんな殊勝な考えじゃないよ。

 結局、赤木も自業自得だ。それなのに一人だけ何も知らない顔をして、腹が立っただけさ」


 赤木るいに、きっと事実は受け止め切れない。今この場所に来てしまった時点で、もうどうしようもなかったのだ。


 ほかに頼むべきところのない、とざされた学院。たった二月ばかりでも寝食をともにすれば、特別な執着が芽生えても不思議はないのかも知れない。それは多分、かつてのわたしと硝子かのじよのように。


 だから――友人を憎むより、見知らぬわたしを憎んだ方が、赤木にとってもきっと都合が良かったはずだ。


「はいはい。そういうことにしておいてあげる。

 でも、あたしの見てないところであんなことするのだけはめてね。たみちゃんは他人が嫌いなくせに、自分も大切にしないんだから」


 諦めの混じった声でまひろが言った。流石に本質を突いた言葉だ。学院に入る前からの付き合いなだけはある。


 決まりが悪くなり、わたしはまた顔を背ける。窓の外は、じきに夕闇が迫ろうとしていた。 


「――まだ少し、やらなきゃいけないことが残ってる。

 夕食までには片付けるから戻っていてくれ。間に合わなかったら、先に食べていてくれて良いから」


「ううん。待ってるから。

 気をつけてね」


 まひろはそれ以上何も訊こうとはせず、一人書庫を出て行った。


「善処するよ」


 わたしの答えは、誰もいない書庫に、寂しく木霊した。


「あんなに想われて、羨ましい限りね」


 ――そして、誰もいないはずの部屋で、誰のものでもない声が響いた。


「お前は愉しそうだったな」


「そう視えたなら、それは貴女自身の歪みよ。分かってるでしょう?」


 背後に立った硝子を視上げる。彼女の薄い唇は、三日月のように均整な弧を引いていた。煌々と輝く虚構の瞳には、自身の姿がすっかり映り込んでいた。


 ――これがわたしの歪みというのなら、わたしはとうの昔に壊れている。


「都合の良く幻覚ぶりやがって。せめて人が話してるときくらい、ふわふわ飛び回るのはしてくれよ。目障りったらない」


 吐き捨てるわたしを、硝子がまたクスクスと嘲笑った。


「それでどうするの? 赤木あのこ、もう限界でしょう? 小細工の効き目も切れたようだし」


「予定を早めるしかないだろう。

 出たとこ勝負になるが、鈴白がまたちょっかいかけないとも限らない。そうなればどうなるか知れたもんじゃないからな」


 予定では鈴白を言いくるめて、赤木のを手伝わせるはずだったが。赤木も鈴白に疑念を抱いているようだから、このまま吶喊とつかんを決め込まないとも限らない。そうなる前に、すぐにでも鈴白を見つける必要がある。


「そうね。既に、手遅れじゃないと良いけれど」


 嫌味を言うだけ言い終えると、硝子はいつもの如く、霧のように消失した。わたしもそれを見送りはせずに、すぐに手荷物を纏めて席を立った。


 立ち去る前に、机に置かれたままの盤面を見る。やはり、いくら考えても詰んでいた。


 数手先で、わたしは打つ手を失くすだろう。



   *



 三度目の正直、ということわざがある。


 一度目は聖書の講義のあとに、聖堂で。あのとき、鈴白は既に意味深な態度を取っていて、疑惑を抱くには十分だった。


 二度目は休日の昼下がりに、鈴白の執務室で。そのとき、鈴白への疑惑はもはや確信へと変わり、事件への関与を前提に情報を整理し直した。


 そして、三度目。わたしは鈴白の姿を探して、例の如く聖堂を訪れていた。


 幸いなことに、昼過ぎまで続いていた長雨がようやく途切れ、久しぶりに綺麗な夕暮れが頭上に広がっている。小脇に鞄こそ抱えているものの、余計な荷物を増やさずに済んだ。空の両手で、古めかしい木の大扉を押し開く。


 聖堂内には、人の気配がなかった。今日は聖歌隊の練習もないのだろうか。いや、それとも学舎の音楽室で行っているのか。特別関わりがないため、ルーチンを把握できていない。


(そう言えば、赤木は練習を休んでいるのかな)


 先週の金曜も、そして先ほども、彼女は書庫を訪れていたわけだが。鈴白は歌唱指導まではあまり口を出さないようだし、聖歌隊の礼拝奉仕も土日のみと聞いているから、意外と顔を合わせる機会は少ないのかもしれない。


 聖堂の会衆席の右手にある小さな螺旋階段を上がり、二階も軽く見て回る。楽廊にも、祭具室にも人影はない。


 ゆうべの祈りには、まだ時間があるはずだし、鈴白がいるのは執務室か、それでなければ学舎の方か。日も暮れ始めたし庭園や菜園ということはないだろうが。こういうときに、無駄に広い敷地が恨めしくなる。


 面倒に舌を打ちつつも踵を返した瞬間、古めかしい金属の音が時刻を報せた。


 意味もなく天井を見上げる。ゴウンゴウンと大袈裟に響いたそれは、聖堂の東側に位置する、塔の最上に取り付けられた鐘の音だ。例によって、海の向こうで数百年前に鋳造された、価値のあるものらしい。


(鐘楼、か――?)


 予感があった。司祭棟にある執務室へ行くには一度聖堂を出るか、司祭棟との中間にある塔――鐘楼を通過する必要がある。鐘楼の階段室はここ聖堂の二階とも接続しているし、執務室に行くついでに上ってみても良いだろう。どうせ大して高さがあるわけでもない。


 聖堂から鐘楼へと移動する。聖堂側の出入り口の対面には、司祭棟との出入り口がある。塔は上階に設備室があるくらいで、ほかに部屋もなく、ほとんど通路としての役割しか持たない。直進するか、あるいは階段を下れば執務室にほど近いが、ひとまずご立派な鐘とやらを拝んでみるとしよう。


 鐘楼内の階段は螺旋状ではなく、ごくありふれた折り返し階段だった。建物自体が古いためか、床の板張りは学舎や寄宿舎のそれよりさらに年季の入った風合いをしている。


 ともあれ階段に足をかけようとしたそのとき、上方から踏み板を叩く硬い音が近づいて来ることに気づき、わたしはその場に留まった。


 正面――二階と三階の間にある踊り場を見上げる。踊り場の壁面にはシンプルな丸窓が設えられており、暗い塔の中に陽光を差し入れていた。


 不意に、光が途切れる。折り返しの向こうから、黒衣の男が現れた。


「――ああ、君でしたか」


 何かを待ちわびていたのような口振りで、鈴白要はそう言った。


「上で何をされていたのですか?」


「何を、というほどのことではありません。この塔の上からの景色が好きでしてね。

 特にこの時間は良い。数日ぶりに綺麗な夕日だったので、ついつい時間を忘れて長居してしまいました。残念ながら、生徒は原則立ち入り禁止ですので、お見せすることはできませんが。

 ――白瀬君と、話をしたそうですね」


 男は律儀に答えたあと、わたしを見下ろしたまま、一層厳かに声を響かせた。今更隠し立てるつもりはない。わたしは無言で視線を返し、肯定の意志を示す。


「言ったはずです。弁えなさいと。そうでなくても、下級生を虐めるのは関心できたことではありません」


 何か――すこぶる残念そうに首を横に振って、鈴白が言った。しかしその顔は、あのいつもの微笑みを貼り付けたままだ。


「虐める? わたしが?

 馬鹿を言わないでください。虐めているのは先生の方でしょう。白瀬に余計なことを吹き込んで、一体どういうおつもりなのですか?」


 わずかに、息を呑むような間があった。


「何のことでしょう。僕の何が――余計だったというのですか?」


「余計でしょう。心臓痕硝子は殺された、なんて与太話を聞かせるのは。

 そこまでして、先生は白瀬を部屋に閉じ込めておきたかったのですか?」


 わたしの問いに、鈴白がまたしても首を横に振った。


何か誤解をしているようですね。僕は決して、白瀬君が周囲から孤立してしまうことを望んでいたわけではありません。

 僕はただ、彼女の誤解を解きたかっただけなのです。黒川君が金澤君を突き落としたという誤解を」


 男の言葉は、まるで生徒を慮る聖職者のそれだった。だが、わたしにはどうしてもその響きが、空虚に聞こえてならない。


「たとえ望んでいなくとも、予期していなかったわけではないでしょう。それに誤解を解くことと、虚言を囁くことに、一体何の関係があるんですか?

 まさか、心臓痕硝子が殺された、だなんて、本気で思っているわけじゃないでしょう?」


 口に出してからようやく、奇妙な違和感に気づいた。まるで自分の言葉が、自らが吐き出したものではないかのような錯覚。どこか何かを掛け違えたような、嫌な手応えがわたしの中に生じた。


 張り巡らせた思考の網が、徐々に違和感の輪郭を捉え始める。


 ――鈴白要は、嘘を吐かない。いや。自分を偽り、他人を偽っても、紡がれる言葉そのものに、嘘はないはずではなかったか。


 男の表情をしかと見定める。そこにあるのは、自己主張のない、何を思っているのかすら分からない、ただひたすらに薄っぺらな微笑みだった。


 意識して、ほんの少しだけ視線を下げる。男の礼服カソックの立襟を見つめながら、逸る気を抑えつける。あの微笑に惑わされてはならない。あの男の考えが読めないのはいつものことだ。


 ならば思考すべきはただ一点。わたしは、一体何を見落としている?


 ここ数日における、鈴白とのやり取りを思い返す。ゆっくりと、記憶の奥底から男の言葉を引き揚げていく。


 ――彼女が自ら死を決意するほどに思い詰めていたとは、誰一人として考えてはいませんでした――


 ――彼女は生来異常だったために、我々に理解できない理由をもってして死を選んでもおかしくはない――


 肌が、粟立つような感覚があった。


 。鈴白要は、今まで一度たりとも。たとえ話の前提として、それを暗に示すような口振りだったとしても。実のところ、鈴白要は彼女の死について、これまで一切己の見解を示してこなかったのではないか。


 再び、男の顔をまっすぐに見る。先ほどと――いつもと変わらない、貼り付けたような笑み。だがそこには、確かに感情が滲んでいることに、ようやく気がついた。


 ――鈴白要が、嗤っていた。


「ええ、その通りです。心臓痕君は殺された――僕はそう考えています」


 ゆっくりと、一つ一つ丁寧に踏みにじるように、男が階段をくだり始める。


「去年の秋――心臓痕君が落ちた直後、屋上の扉は間違いなく施錠されていました。

 屋上への出入り口はほかにありません。また屋上側からは施錠できない以上、第三者が居合わせていなければ辻褄が合わないのです。

 そして、職員室に保管されている屋上の鍵を自由に持ち出せるのは、やはり教職員以外に有り得ないでしょう」


 男の足が、わたしの立つ踊り場の床を踏む。ゆっくりと、わたしとの距離を縮めて来る。わたしも気圧されるように、ジリジリと後ろに退がる。


「――成程。どうして君がと言い切ったのか、気になっていましたが。

 驚かないのですね、貴家君は。あのとき屋上が施錠されていたことは、教職員われわれしか知らないはずなのに」


 取り繕おうとしたときにはもう遅かった。男は既に、わずかに手を伸ばせば届く距離にいた。その痩躯が、今は酷く威圧的に見える。


 当然だ。いくら頼りなく見えたとしても、男とわたしには揺るがし難い体格差がある。こうして間近に迫られれば、それこそ身動き一つ取れないほどだ。


 さらに後ろへ退がろうとして、気づく。わたしは既に、踊り場の端に立っていた。これ以上は、背を向けたまま階段を降りていくことになる。鈴白の隣をすり抜けて、通路に出ることも難しいだろう。


 にも関わらず、男は一層その威圧感を強めるように、わたしを見下ろしていた。


 ――鈴白を追い詰めるつもりが、いつの間にか、わたしの方が追い詰められていたのだ。


「ああ、やはり思っていた通りだ。

 君も気づいているのでしょう? 僕たちがであることに」


 男の影が、わたしの頭上に覆い被さるのが分かった。しかしわたしは俯いたまま、その場でただただじつとしていた。


 男との距離が、あまりに近すぎる。わずかでも見上げれば、バランスを崩してそのまま後ろに倒れかねない。


 失策だ。言い逃れができぬよう最短で問い詰めるつもりが、どうやら初手から誤ってしまった。鈴白も、既にわたしの秘密に気がついている。


 だからこそ、今の状況が奇妙に思えた。鈴白は何故、こんな回りくどい言い方をするのだろう。たとえ鈴白が、心臓痕硝子の死は他殺だったと本気で考えていたとして、わたしの秘密に気づいた男が、このような語り口を選ぶ意味が分からない。男はただ、好奇心の赴くままにわたしを追及してしまえば良い。


 これではまるで――


「――そういう、先生はどうなんですか?

 先生は、硝子を――」


 喘ぐように、言葉を紡ぐ。もはや退路すら絶たれたわたしのそれは、ほとんど悪足掻きに等しい。それでも、尋ねずにはいられなかった。


 ――言い終わる前に、男の影が揺らいだ。


 その理由に気づいたときには、やはり遅かった。


 わずかに身を逸らすが、倒れ込む男の身体に押し出されるように、わたしは足を踏み外した。


 刹那、身体が宙を泳ぐ。体験したことのない浮遊感のあと、わたしはすぐに現実へと蹴り落とされた。


「―――――!」


 ゴリゴリと、背骨を削り取ろうとする痛みに、声にならない叫びを上げる。階段の踏み板が無遠慮に爪を立て、わたしを引き裂こうとする。勢いづいたわたしの矮躯は、小石みたいに小気味よく階段を跳ねて行き、最後には背中から床面に叩きつけられた。


 気づけば、一つ下の踊り場――一、二階間の折り返しの壁際に、わたしは寝転がっていた。ほとんど引き摺られる形で転がり落ちたのだろう。


「痛ッ――」


 幸いにも、咄嗟に頭を庇うことには成功したらしい。恐る恐る、手足の挙動を確かめる。こちらも取り立てて違和感はなかった。


 ゆっくりと上体を起こす。痛みとは異なる冷ややかさが胸を撫でた。首が軋むのを感じつつも見下ろすと、制服の右肩の縫い合わせが綺麗に破れており、下着のストラップが覗いていた。


 それでも驚くべきことに、いくらかの内出血と、擦り傷掠り傷、背中のヒリヒリとした痛みを除けば、特別大きな怪我はないようだった。骨折はおろか、恐らく捻挫すらもしていない。もしかしたら、ここは神に感謝すべきところなのかもしれない。


 ――しかし、わたしを引き摺り下ろすかの如く倒れ込んだ男が、起き上がる様子はなかった。


「――先生?」


 返事がない。肩を揺らしてみても、やはり反応がない。


 視界の端の不自然な朱色が目につく。うつ伏せに倒れた男は、顔と接するあたりの床に、小さな血溜まりを作っていた。


 先ほどの衝突音を思い出す。耳の後ろのあたりに、じっとりと嫌な汗が噴き出してくる。


 あの音は、床に頭を打ち付けたときのものではないか。


「先生。鈴白先生!」


 粘っこい水音とともに、流れ出た血液がより広がっていく。男の体は鉄塊のように重く、わたしの力では揺さぶるのが精一杯だった。


 ――そしてようやく、わたしたちを見下ろす影に気がついた。


 膝を突いたまま、その影を仰ぎ見る。階段室の二階入り口。先ほどまで、わたしと鈴白が対峙していた場所。


 そこに立つは、わたしたちをた張本人。


 己の行為にこそ驚愕し、自失したままの赤木るいが、沈む日を背に立ち竦んでいた。

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