/5 寄宿舎~執務室(五月十九日)

 梅雨も近づく暗鬱とした日曜の昼下がり。わたしは寄宿舎の一階西側の廊下――一年生らが暮らす私室前にいた。


 恥ずかしいことに、長雨のせいか朝から頭痛が治まらず、とてもじゃないがベッドから抜け出せなかったために、午前中はほとんど無為に過ごしてしまった。まひろに若干呆れられつつも、例のごとく制服に着替えるのを手伝ってもらい、何とか正午過ぎには食事まで済ませて、ようやっと動けるくらいまでには回復したというわけだ。


 それというのも、土日の間に白瀬花枝から話を聞いておきたかったからだ。しかし幾度かノックを繰り返してみても、一○三号室――白瀬の部屋の扉が開く気配は一向にない。昨晩もこうして部屋に訪れたわけだが、そのとき既に天の岩戸もかくやといった様子だった。


(部屋にいないわけじゃないんだろうが)


 白瀬がで負った怪我は大したものではないと聞いているが、どうやら彼女は黒川が落ちた翌日――五月十七日から寝込んでいるらしい。ルームメイトも気を遣ってか、一時的に別室で寝起きしているようだし、そうなると当人が開けてくれないことには如何ともし難いのだが。


(風邪を拗らせたってわけじゃないよな)


 彼女が閉じこもっている理由がに関わるのだとしたら、余計想像ができない。、同じ立場にあるはずの黒川はあれを救いとしていたはずだ。彼女と白瀬で、何かが異なるのだろうか。ただでさえ金澤のが分かっていないというのに、ここに来て別の問題が出てくるとは。


「貴家、そこで何をしている」


 ハスキーな声に振り向くと、黒い修道服を身に包んだ長身の若い外国人女性――ズザンネ・シェーファーが少し離れた位置に立っていた。


「――毎度のことですが、何で見えてないのに誰だか分かるんですか?」


「気配で分かるさ。聴剄ちよう けいくらいお前も知っているだろう」


「太極拳を修めているとは思いませんでしたよ」


「何、老師に比べれば誇るほどの芸じゃない。めしいの戯れだ。私のような半端者に武の道が極まるものか」


 シェーファーは癖のない綺麗な発音アクセントで、何故だが吐き捨てるように言った。


 ――聴勁などただの軽口だと思ったのだが、どうやら本当に武術を学んだ経験があるらしい。聞くところによると十代の頃は一時河南にいたこともあるようだし、夜な夜な四把捶しはすいあたりで功夫コンフーを積んでいてももはや驚きはすまい――いや驚くけど。あれ回族の武術だし。この人一応修道女だし。


 そんな妄想に耽る間にも、シェーファーは無造作に距離を詰めてくる。白杖こそ手にしているが、そんなもの必要ないのではないかと思うくらいに、足運びにはわずかな乱れもなく、盲人どころか達人の気風さえ漂わせていた。背筋もピンと張って、白人らしい彫りの深い顔立ちとメリハリのある体つきも相まって、どこかの博物館から彫像が動き出したと言われても信じかねない。


「それより聞いているぞ。お前また余計なことに首を突っ込んでいるらしいな」


 わたしの目の前で立ち止まったシェーファーは、まるで見下ろすかのようにその美貌をわたしに向けた。肩口まで伸びた見事なアッシュブロンドの髪が揺れる。そういえば、今日のシェーファーは頭巾ウィンプルを被っていない。


。でも説教なら、まひろか神代じんだい会長様にしてやってくださいよ。わたしはしがない使い走りです」


 渾身の洒落――もとい責任転嫁をシェーファーは鼻先一つで笑い飛ばした。そしてまるでわたしをめつけるかのように、狼のごとき灰色の眼を細める。


「あの二人は小賢く立ち回るからな。しかし連中も、お前というさえなければ出しゃばらずに温順おとなしくしているだろうよ。つまりお前から押さえた方が早いということだ」


「大袈裟ですって。捕物じゃないんだから」


 どうもこの教諭はわたしたち生徒を過大評価している節がある。


 わたしが往生際悪く弁解すると、シェーファーは大きく溜息を吐き、わざとらしく髪をかき上げて見せた。


「良いか貴家。はこちらに任せろ。どうせ今日もその件を探りに来たんだろうが、無関係の生徒が口を挟むことじゃない。

 お前はまだ、自分の治療ことにだけ集中していて良いんだ。ほかのことに気を煩わせることなんてない」


 わずかに険の取れた言葉は、彼女なりの気遣いなのだろう。ズザンネ・シェーファーという御仁は、見た目こそ近づきがたく、また口調こそ荒々しいものの、その為人ひととなりは慈愛に満ちていた。どこかの聖人面とは違って、真実信頼できる人格者だ。


 それでも――関係があると知れれば、引き下がるわけにはいかなかった。


「ここでその話を聞かせるということは、白瀬が出てこないのもと関係あるんでしょう? なおさらおいそれとは引けませんよ。

 わたしは所詮丁稚ですが、これはわたしにとって何より優先すべき目的のひとつです」


が少女Sの呪いと噂されているからか?」


 核心に踏み込むシェーファーに、わたしは無言で応じた。灰の瞳に微かな憐れみが滲む。


「なあ貴家。いつまであの子に囚われているんだ。

 死者を――生徒をこんな風に言うのは恥知らずと分かっているが、目の見えない私にだって、あれが拙いものだったと分かっていたさ。

 お前は一刻も早くあの子のことを忘れるべきだ」


 シェーファーは杖を持っていない方の手をわたしの肩に添えると、わざわざ身を屈めて、向き合うように顔の高さを合わせた。たとえその瞳には何も映っていなくても、彼女は真摯にもわたし自身を見つめようとしてくれている。


 その誠実さが眩くて、思わず俯いてしまう。シェーファーは鈴白同様、わたしの持病を知らされている数少ない人間だ。そのシェーファーですら、わたしが硝子の亡霊を幻視していることは知らない。このことを、わたしはまだ誰にも打ち明けていなかった。


 そもそも、わたしはこの学院には半ば静養を目的に放り込まれたのだ。しかし硝子の死によって、多くの人間が学院を去り、わたしも一度は実家に戻るよう声をかけられた。強引に居残ったが、病状を悪化させたと知れれば、今度こそ連れ戻されるだろう。


 それだけは絶対にあってはならない。硝子との約束は、この学院にいなければ果たせないのだから。


「お前はあんなことがあっても学院に残ってくれた。その信頼に私たち教師も応えたい。

 だから貴家、お前はそれ以上――」


 そこでシェーファーは唐突に言葉を切り、わたしから手を離すと、上体を起こしてこちらに背を向けた。


 板張りを踵が叩く音が聞こえる。廊下の向こう側から、張り付いた笑みの男がやって来た。


「ああ、シェーファー先生。やはりここにおりましたか」


「――鈴白先生」


 鈴白の声で、シェーファーがより一層姿勢を正した。鈴白はわたしを一瞥したが、すぐにシェーファーへと視線を戻す。


「聖歌隊の皆さんが心配していましたよ。練習時間になっても先生がお見えにならないとね。白瀬君の様子を見に来たのですね?」


「わざわざすみません。つい話し込んでしまって。白瀬に声をかけたらすぐ向かいます。

 ――しかし鈴白先生。いくら司祭と言えど、殿方が特別な理由もなしに女子の部屋の前まで踏み入るのは、いささか不躾ではありませんか?」


 シェーファーの鋭い声が今度は鈴白へと向かう。彼女の言う通り、共有スペースである広間や食堂ならまだしも、生徒たちが暮らす私室前まで男性教諭が上がり込むのは問題だろう。


 鈴白は苦笑しながら、わたしたちの顔を交互に見比べ、誤魔化すように自らの首に軽く触れた。


「申し訳ない。確かに配慮が足りていませんでした。

 今後は気をつけますので、どうかこのことはご内密に」


「ほかならぬ神父様の頼みですもの。当然ですわ。善意から来る行いをこれ以上叱咤などいたしません。

 貴家も言い触らしたりするんじゃないぞ」


「勿論ですシスター」


 何故そこでわたしに矛先が向くのか、などと鉄の女に言い返しはすまい。


「では先生、わざわざ本当にありがとうございました」 


 ようやく小言に満足したのか、シェーファーは白瀬の部屋の扉の正面に立ち、しかし目配せでもするかのごとく、ちらりとこちらに顔を向けた。早く立ち去れと言いたいらしい。確かに部屋の前でこれだけたむろしていれば、白瀬が出たくても出て来れないだろう。


「では貴家君、僕たちは行きましょうか」


 鈴白に促されるまま、二人揃って寄宿舎の広間へと戻る。そのまま建物から出ていこうとする鈴白を、勢いわたしは呼び止めた。


「すみません先生。今お時間って大丈夫ですか?」


 向き直った鈴白は、いつもの聖人じみた微笑みを浮かべていた。


「菜園の様子を見に行きますが、そのあとなら問題ないですよ。聖歌隊の練習はありますが、歌唱指導は彼女に一任しておりますから。何かご用でしょうか?」


 そういえば、寄宿舎の裏手にささやかな菜園があったが、この男が管理していたのか。こちらに寄ったのもそのついでだったのだろう。


「はい。昨日の話の続きがしたいと思いまして」


「――貴家君。そのことについてお話しできることはもうありません。


 金澤君や白瀬君についてもそうです。君が関わるべき問題ではない。シェーファー先生にも言われたのでしょう。弁えなさい」


 わたしの言葉を聞いて、鈴白は困ったように眉根を下げながら言った。


「いえ、の話じゃありません。

 お話ししたいのは、少女S――心臓痕さんに関してです」


 逡巡するような間があった。


 今すぐ白瀬に話を聞くことができない以上、先にほかを当たった方が効率的だ。何せ時間は限られているのだから。それに、どちらにせよこの男とは改めて話をする必要があった。


「良いでしょう。先に僕の執務室で待っていてください。場所は分かりますか?」


 鈴白の笑みにはまだ困惑の色が残っていたものの、再び断ることはしなかった。男の言葉に頷き返す。執務室は聖堂の隣の司祭棟にあったはずだ。念のため制服にしておいて良かった。祝日であろうと、寄宿舎以外では制服着用が義務付けられている。鈴白相手では融通も利かないだろうし。


「よろしい。それではのちほど」


 寄宿舎の玄関で鈴白と別れる。黒い傘が菜園の方に消えて行くのを見送ったあと、わたしも傘を開き、ビニールの向こうの雨垂れを見ながら神の家へと急いだ。



   *



 執務室には迷うことなく到着した。


 一応ノックをしてから入室するが、当然中には誰もいない。部屋の規模や雰囲気は書庫と似ていたが、書庫よりかなり――いや神経質なまでに整理されていた。壁全面を覆う本棚は、聖書学、典礼学、説教学、歴史神学、哲学的神学などのキリスト教に関するもの以外にも、宗教心理学、比較宗教学、民俗学、言語学などさまざまな分野の書籍が収められている。うち半分程度は外国語書籍のようだ。


 部屋中央にある応接用の低いテーブルとソファの間を通って、奥に見える書斎机に近づいていく。木製のデスクは年季こそ感じさせるが見事な色艶であり、丁寧に扱われてきたであろうことが察せられた。机上はこれまた整頓されており、いくらかの本が並べられているのと、ノートパソコンと卓上カレンダー、意外なところで写真立てが置いてあるくらいだった。写っているのは鈴白と――これは、母親だろうか。車椅子の老女と並んでいる。鈴白の方は現在とあまり見た目が変わらないから、さして前の写真ではないのだろうが。あとはどこか屋内で撮影されたということ以外に読み取れることはなかった。


 ふと雨音が気になって、背後の出窓から外を見ようと振り返ると、庭園の風景より先に、窓台に置かれた透明の球体が目に入った。


 思わず手に取る。手のひら大のは、底面がわずかに平たくなっており、そこに滑り止めが施されているものの、一方で空気を取り込む穴は見当たらなかった。玉の中は八割方が水で満たされていて、水草が蠢くように揺蕩っている。目を凝らすと、赤い点がいくつか水中を動いているのが分かる。恐らくエビか何かだろう。


 他者の介入を必要としない、閉じられた世界。それ一つだけで完結した存在を、わたしは既に見知っていた。


「――生命球だ」


 パチリ。小さな音が鳴り、頭上の照明が灯る。慌ててガラス玉を置いて振り返ると、鈴白要がいつもの笑みを張り付けたまま、部屋の入口に立っていた。


「それは頂き物です。ビーチワールドというらしいですね。

 光さえ当たっていれば、水草が酸素を作り出し、水中のバクテリアが繁殖するので、エビはそれを食べて生きていくことができるそうです。

 勿論、長くて数ヶ月しか保たないと聞いています」


「こう言うと身も蓋もないですが、少し悪趣味じゃないですか?」


 普通の水槽で飼われた方が、エビにとっても幾分かマシではないだろうか。いや、所詮は人間の感傷に過ぎないのか。


 わたしの言葉を聞くと、鈴白はどこか憂いを帯びた微笑みを浮かべる。


「実を言うと、僕もそう思います。

 流行ったのは随分前のことですから、今となっては珍しいものですし、いただけるのならと喜びはしたのですが、改めて、自分で購入しようとはとても思わないでしょうね。

 壊してでも開こうかと考えたのですが、結局それもめにしました。海水エビはデリケートらしいですしね。これで調和が取れているというのなら、せめてこのまま長生きしてくれることを願うばかりです。

 ――さあ、どうぞお掛けになってください」


 傍までやって来た鈴白に促されるまま、ソファに腰掛ける――が、思ったよりお尻が沈み込み、バランスを崩して前のめりに倒れ込みそうになった。何とか持ち直して姿勢を正したものの、その瞬間鈴白とばっちり目が合ってしまう。


 わたしの醜態には触れることなく、一拍のちに、鈴白はわざとらしく手を打った。


「ああ、そうだ。貴家君は珈琲で大丈夫ですか? 砂糖とミルクもありますよ」


「――ありがとうございます、いただきます。砂糖は二つで、ミルクもお願いします」


 承知しました、と言うが早いか、鈴白が部屋の奥にある扉の向こうへ消えた。給湯室にでも繋がっているのだろうか。ほとんど逃げるようなその動きは、かえってわたしに屈辱を感じさせた。あの男が教師でさえなければ、一発お見舞いしてくれたものを。


 羞恥に一人身悶えしているうちに、盆を持った鈴白が戻って来た。


「どうぞ。インスタントで心苦しいですが。

 ――それで、何が訊きたいのでしょうか?」


 鈴白は音一つない洗練された所作で配膳を済ませ、向かいのソファに腰を下ろすと、わたしにそう尋ねた。


「いえ、質問をしに来たわけではありません。わたしはご報告に来たんです」


 できるだけ平静を装いつつ答える。何を、と問い返されることはなかった。


(どうしたものかな)


 わたしの言葉は無論建前だ。鈴白は、金澤のについて何か知っている。男もわたしの疑心に気づいているはずだ。にも関わらず、こうして膝を突き合わせているというのは、恐らく男にもそれなりの準備と自信があるからこそだろう。勢いで声をかけてみたものの、鈴白の真意が分からない以上、今の段階で核心に踏み込む度胸はなかった。


 わたしは形だけカップに口をつけ、すぐにそれを卓上に戻すと、できるだけ当たり障りのなさそうな部分から話を切り出した。


「やはり先生の仰っていた通りでした。

 彼女たち――少なくとも金澤さん以外は、少女Sなんて視てはいなかった。最初から彼女たちには見えなかったんでしょう。だから降霊術なんて軽はずみなことだってできた」


「黒川君にでも訊きましたか」


 鈴白は痛みを堪えるように微笑みながらそう呟いた。どうやらわたしを咎める気はないらしい。身構えていたわたしとしては、少し拍子抜けだった。


 それどころか、続く男の言葉は意外なものだった。


「貴家君。昨日僕が言ったことはどうか忘れてください。

 ――いや、それこそ傲慢ですね。ともかくあれは不実な言葉でした」


「不実、ですか?」


 十字を切る鈴白を見ながら、わたしは鸚鵡のように訊き返した。男が何を恥じているのか、わたしには分からなかった。


「信仰に、いやもとります。たとえ心の内で思っていたとしても、決して口にしてはならなかった。

 それに――おかしいのは彼女ではなく、むしろ我々だったのです」


「それは、一体どういう意味でしょうか?」


 鈴白の口許は自虐的に笑んでいたが、その眼差しからは深い悲しみが伺えた。理解できずに困惑するわたしに、鈴白が微笑みかける。


「言葉通りです。心臓痕君はただの少女でした。

 彼女の死後、周囲の人間が、まるで彼女が異常であったかのように思い込んでしまっただけなのです」


 カチャリ。無意識に身じろぎをしていたらしい。膝先が軽く卓に当たり、卓上のカップが揺れて小さな音を立てた。


 わたしにとって、男の言葉はにわかに信じがたいものだった。


「待ってください。おかしいでしょう。

 わたしたちは、生前の彼女と遭っているじゃないですか」


 だからこそ、わたしは今も彼女を視ている。鈴白も、あの瞳の魔力を認識していたはずだ。いや、彼女と実際に出遭った人間がを無視することなどできるはずもない。


「ですからは錯覚なのです。彼女の存在は、恐らく彼女自身の死によって歪められてしまった。

 貴家君は、彼女が亡くなったときのことを覚えていますか?」


 愚にもつかない質問だった。わたしの胸に、あの秋の夕暮れが去来する。


 ――あの日、わたしたちは最初で最後となる会話を交わした。


 勿論そのことは、ほかの誰も知らない。あのときのことは、わたしたち二人だけの秘密だ。今までも。そして多分、この先もずっと。


 わたしの沈黙を肯定と受け取ったのか、鈴白は一度大きく頷いて、再び語り出した。


「僕は覚えています。血に染まった彼女の姿を。その躰から熱が失われていく感触を。今でも、まるでつい先ほどの出来事かのように、瞭然と思い返すことができます。

 ――あれほど鮮烈な体験は、あとにも先にもないでしょう」


 聞いたことがあった。鈴白要は、心臓痕硝子の遺体を最初に発見した人間であると。どうやら、あの噂は真実であったらしい。


「彼女の死の衝撃は、当然現場に居合わせた者だけに留まりませんでした。このとざされた学院で死の恐怖は猛毒です。そしてそれは、残された我々にある罪悪感を植え付けた。

 心臓痕君が生前、孤立していたことは紛れもない事実です。しかしそのことを、彼女が自ら死を決意するほどに思い詰めていたとは、誰一人として考えてはいませんでした。

 だからこそ、我々は彼女の存在を遡及して歪曲してしまったのです。心臓痕硝子は出遭ったとき既に異常な存在であった、と」


「本気で言っているんですか?」


 彼女を前にしたときに顕れ出たあの感情は――あの記憶は偽物であると、男はそう言ったのだ。それは決して、個々人の体験でもないというのに。それに彼女が孤立を嘆いていたなどとは、わたしにはとても信じられなかった。


 鈴白はカップを手に取ると、しかし口をつけぬまま、その黒々とした水面に視線を注ぎ、言った。


「貴家君の言いたいことは分かります。しかし、その体験を客観的に証明することはできません。事実、写真などの記録から彼女の容姿を確認した一年生たちは、彼女の瞳については一切語らなかった。それが異常であるとすら思わなかったのです。

 彼女は多少なりとも人目を惹く容姿をしていたのでしょう。しかし、我々はその特徴を無意識に誇張して、あるいは記憶を改竄してしまったのではないでしょうか。彼女は生来異常だったために、我々に理解できない理由をもってして死を選んでもおかしくはない――などという、都合の良い後付けのために」


 鈴白がおもてを上げる。男は結局、一度も口をつけないまま、持っていたカップを卓に戻し、また自嘲するかのごとく笑った。


 ――少女Sという異常を説明づけるために、周囲の人間は元となった硝子の存在を歪めてしまった。成程、筋は通っているのかもしれない。


 わたしは、生前の硝子とほとんど言葉を交わすことができなかった。その反動かは分からないけれど、彼女が生きていた頃より、亡くなってからの方が、彼女に対する想いがずっとずっと強くなっていることも自覚していた。それはまるで膿み爛れていくように、大きく、大きく、わたしの中で膨らみ続けている。それは確かに、硝子という人間に対する想いではないのかもしれない。


 けれど、硝子の瞳は本物だ。わたしは知っている。わたしだけが知っている。硝子があの瞳を持って生まれたからこそ、わたしは硝子に特別な感情を抱き――それゆえに、硝子は死ななければならなかったのだから。


「一年が少女Sの――心臓痕さんの容姿を写真か何かで確認していたとして、だとしてもそれは彼女自身ではありません。

 写真なんて、所詮はただの紙切れです。生きた人間とは別物だ。

 紙切れ一枚で彼女のすべてを写し取ることができるわけがない。そんなもの、生きていた頃の彼女に及ぶべくもないでしょう」


 しかしそれは、究極的にはわたしの視る幻にも言えることだ。わたしが現実に硝子と出遭っていても、彼女たちが硝子を知らなくても、幻は所詮、幻でしかない。


「それは――あたかものようにですか?」


 返す鈴白の言葉には珍しく棘があった。男が言っているのは寝椅子のイデアのことだろう。プラトンの詩人追放論からの引用だ。


 かの哲学者は、わたしたちが見ている感覚的世界とは異なる真実の世界――イデア界が存在すると考えた。そして感覚的世界において認識される個々の存在は、真実の世界にある真実在イデアの似姿で、影絵に過ぎないとした。例えばこの世に現れた「美しいもの」も、「美しさ」の真実在イデアを写し取ったものに過ぎないという。


 鈴白が引用した寝椅子のたとえも、この考え方を前提とする。職人が作り出した寝椅子は、神の作りし寝椅子の真実在イデアを模倣したものである。しかし画家が描いた寝椅子の絵は、職人が作った寝椅子をさらに写し取っただけのものだ。このとき画家は職人とは異なり、真実在イデアのことなど知るよしもなく、ただ上辺だけを模倣していたに過ぎないとした。


 本来、このたとえ話の主旨は表題の通り芸術家――あるいは詩人を批判することにあり、当然これはアリストテレス以降の哲学者たちから現在に至るまで、さまざまな反駁がなされてきた。先ほどの鈴白も、本来の文脈に則って引用したわけではないだろう。


 つまり男の皮肉は、それとはまた異なる意図に基づいており、恐らくは言外にこう示そうとしていた。硝子の美しさはあくまでに過ぎず、ではない、と。彼女があの生命球のごとくであるはずがない、と。


 刺された釘をまったく無視することはできない。それでも、わたしは責めるような男の視線とまっすぐ向き合うことを選んだ。


「司祭である先生を相手に、哲学についての説教をやってのける自信はありませんよ。わたしはキリスト教徒じゃないが、だからこそそれぐらいは弁えているつもりです。

 ――それでも、先生の言っていることは、きっと間違っています。今の先生は、分からないことに無理やり理屈をつけたがっているようにしか見えない」


 思ったことをそのまま口にする。ここで退くつもりはない。鈴白は、また自らのうちに何かを秘め隠そうとしている。いや、何かを守ろうとしているのか。


 そうしてしばらくの間、わたしたちは睨み合っていた。そして不意に、鈴白の目に寂しげな色が浮かび上がってくるのを認めた。


「確かに、彼女の死について納得できる理由を探しているのは、ほかならぬ僕自身なのかもしれません。

 しかし――ならば貴家君は、我々が一目見たときからを直観していたと、そう主張するつもりですか?

 もしそうであるなら――心臓痕君の死は、我々にとっても、彼女にとっても予定調和であったということになりませんか?」


 男の話し方は平時の淡々としたそれと異なり、わずかに、しかし明らかに語気を強くしていた。


 キリスト教において自殺はご法度だ。司祭である鈴白にとっては、どうあっても許すことのできない行為であるだろう。それでも鈴白は彼女の死を同情して――あるいは罪悪感を抱いていたために、硝子を普通の少女だと言ったではないか。


 だが、もし硝子が本当にで、自身の死後に呪いが顕れることすらも見越していて、周囲の人間を苦しめるためだけに命を絶ったのだとしたら、最早同情することすらできなくなる。どうやら鈴白は、そのことを認め難く思っているようだ。


 ――いや、本当にそれだけだろうか?


 掠めた違和感の正体を、今はまだしかと掴めそうにない。ただ、どこかで話を逸らされたような、そんな気がしてならなかった。


 わたしはカップを手に取って、今度こそ本当に珈琲を口に含んで飲み下す。安っぽい苦味が、とぐろを巻く思考を断ち切った。


(どうやら、攻めどころを間違えたか)


 鈴白は金澤について何か知っている。だがそれを正面切って訊き出すことは、確証のない現段階では難しい。随分な迂回をしてみたものの、彼の真意に至るには、あるいはまだ切り崩し足りないようだ。


 カップを卓に戻す。ソーサーに重なる小さな音が、静寂に漣を立てた。


「――心臓痕さんと言えば、先生は遺書をご覧になりましたか?」


 唐突な話題の転換に、鈴白は露骨に困惑を見せた。当然だ。実際、彼女の遺書なんてもの、今まで見つかってはいないのだから。しかしその雰囲気から刺々しさは失われていたため、駄目元で言葉を続けてみる。


「降霊術に使われた机ですよ。天板に文字が刻まれていたはずです。

 先生が持って行ったと聞いていますが」


 鈴白が「ああ」と声を漏らす。その表情は、いつも通りの柔和でありながら、どこか無機質な笑顔に戻っていた。


「あれはもう処分しました。刻まれていた文言も、遺書などではありませんでしたよ」


 てっきりまともな答えは返ってこないものだと思っていたが。について直接的に尋ねさえしなければ、それなりに許容するということだろうか。


「刻まれていたのは、ヨハネ福音書の十一章でしたよね?」


 わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。

 

 キリスト教徒の葬儀に際して行われる、聖書朗読や説教においても定番の箇所だという。司祭である鈴白がそれを知らぬはずもない。


「正確には、十一章二十五から二十六節ですね。文の改変なども特に見当たらなかったと思います。

 意味深ではありますが、しかしただの悪戯でしょう。彼女が遺したものだとするには、あまりに見つかるのが遅すぎる。去年からあったのなら、もっと早くに誰かが気づいていたはずです」


 ここまではわたしと同意見だった。去年までのあの教室を使っていたのはわたしたちだ。当然そんなものを見た覚えはないし、噂になっていた記憶もない。


「それに彼女があんなものを遺して逝くなんて、僕にはとても思えません。彼女はキリスト教徒ではありませんでしたからね」


「――文面は、それこそ少女Sの出現を予見するようですが」


「彼女の生前に刻まれたものであれば、あるいはそうだったのかもしれませんね。

 しかしそれが考え辛い以上、誰かがそのように粉飾したと考えるべきでしょう」


 鈴白の言葉はもっともだ。この見解について、疑問を挟み込む余地はない。あるいは降霊術のためだけに用意されたものであるのかもしれない。


 それ以上は踏み込まず、わたしは三度み たびカップを掴み、残っていた珈琲を静かに飲み干すと、それを卓上に戻しつつゆっくりと腰を上げた。


「お時間ありがとうございました。お邪魔しました」


「おや、もう良いのですか? 珈琲ならお代わりもありますよ」


「いえ、話も済みましたので。お休みの日に、長々と失礼しました」


 金澤や白瀬について、これ以上は訊き出せそうにない。せめて机の現物を見ておきたかったのだが、処分してしまったというならそれも仕方がない。これ以上の長居は無用だった。


 見送る鈴白に軽く頭を下げ、執務室を退出した。部屋を出てすぐ、わたしは背にした扉に寄りかかり、中にいる彼に聞こえないくらいの声量で、独りごちる。


「キリスト教徒ではない、か」


 思い返してみると、生前硝子が聖堂にいたところを、授業や行事以外で見た記憶はなかった。鈴白も恐らくはそうだったのだろう。


 しかし、赤木を前にしたときの硝子は、まるで祈るような仕草を見せていた。それに、もしかすると昨日聖堂で見た影も――。


 ささやかな食い違いについて、ひとまずは考えないでおくことにする。一人、学舎に取り残された彼女を想う。彼女は今、何をしているのだろう。


 いずれにせよ、まだ材料が足りないらしい。やはり白瀬から話を聞くのが先決だろう。問題は白瀬と接触する方法だが――何故彼女が部屋から出てこないかについては、自力で突き止める必要があるようだ。


 短い廊下を引き返し、司祭棟の玄関へと戻る。壺状の傘置きから自分の傘を引き抜き、屋外に出ると、五月とは思えない肌寒い風が吹きつける。


 遠い空を眺める。降りしきる雨と立ち込める暗雲は、しばらく途切れることはなさそうだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る