/7 書庫(六月十日)

 聖堂での事件から一夜明けて、月曜の昼過ぎ。食事を終えたわたしは、さしたる理由もなく書庫で時間を無為にしていた。


 何も自主休講をかましたわけではない。そうしても良かったが、主日礼拝の行事振替で、元より週明けの講義は午前のみと決まっていた。


 実際昨日の影響なのか、講義への出席者は平時より少なかったが、そもそも環境が環境だ。出席が減免されている生徒は何もわたしだけではない。クラス全員が揃うことなど滅多にないのだから、今更休みが一人二人増えたところで、賑わいに大した差はなかった。


 そんな中、律儀に出席したわたしだったが、昼食後も何故だか部屋に帰る気は起きず、わざわざ学舎に戻り、こうして書庫の長机の上に寝っ転がっているわけだ。


「――暑い」


 昨日とは打って変わって外は晴れ晴れとしているのに、無性に虚しかった。窓を開ければ少し風が入ってくるかもしれないが、それすらも億劫だ。自分にできることは何もないような気さえしてくる。


「流石にだらけ過ぎじゃない?」


 ――あるいはこの幻覚を待ちわびて、ここにやって来たのか。


 寝転んだまま、首だけそちらを向く。開け放たれたままになっていた窓の棧に腰掛けて、亡霊が美貌を歪ませ嗤っていた。


「昨日は大変だったみたいね」


他人事ひとごとみたいに」


他人事ひとごとだもの」


 毒づくわたしへ、硝子はいけしゃあしゃあと言ってのける。だが彼女の瞳の奥に満ちる深海のごとき暗闇は、否応なしにあの胎児を連想させた。


 ――あれが、彼女と無関係であるはずはない。


「それで、調子はどうなの?」


「大丈夫に見えるか?」


「貴女の心配なんてしてないわ。曽我部さんのことよ」


 そう切って捨て、硝子が睨みを利かせた。珍しくこちらを気遣うようなことを言うから、何か変なものでも食べたのかと思った。


「あいつなら心配無用だよ。

 講義は休んだけど、昼ご飯はもりもり食べてたから」


 何ならわたしより食べてた。「寝すぎてお腹空いた」などと寝言を抜かしていたが、よくもまあ起き抜けにあれだけ食べられるものだ。わたしと大して背も変わらないのに。確かに無駄に栄養を蓄えていそうな身体をしているが。

 

 硝子は「そう」とだけ短く返して、暑さなど感じないだろうに、首元にかかっていた毛束を鬱陶しそうに払う。黒髪が別の生き物みたいにうねりながら、窓から零れた光を細かく弾いて煌めいた。


「じゃあ、あなたは一体ここで何をしているの?」


「見れば分かるだろ。をしているのさ」


 軽口は余計に胸の内を虚しくさせた。それすらも見抜かれたのか、硝子が眉間を少しだけ緩めた。


「碓氷未奈のこと、ショックだった?」


「――多少な。でも予想はしていたから。

 むしろ問題はそのあとだ。ミナ先輩が何故あんなことをしたのか、あれにどんな意味があったのか、正直理解できない」


 古い木の天井を見上げる。今の学院は、姉妹のふたりの話題でもちきりだ。多くの生徒はまだミナの病態を知らないらしい。それが余計に怪談じみた流言に拍車をかけていた。あのときのミナの言葉を鵜呑みにして、彼女が何か得体の知れないものを宿しているのではないかと、誰もが噂していた。


 ――もし貴家さんがを教えてくれたなら、代わりに一つ、良いことを教えてあげる――


 ――私の身体がどうしてこうなってしまったのか――私とあのを納得させられるだけのを――


 ――少女Sの真実に決まってるでしょう――


 ミナの挑戦と、その対価を思い返す。双子の部屋で胎児を幻視したとき、わたしはミナが妊娠していないことに気づいてしまった。ミナ自身もそれを予感していたのだろう。現実として男性経験がない以上、何かしらの病を疑うのは当然だ。


 だが、ミナが想像妊娠を自覚していたのなら、なおさらあのようなパフォーマンスに出る意味が分からない。いや、そもそも想像妊娠は事実なのだろうか。何を以ってそれを事実とするかにもよるが――


 つい額を抑えたくなる。蒸し暑さのせいだろうか。頭の中の付箋が上手く整理できない。


 耳障りな笑い声が聞こえて、今度はわたしが窓際を睨む。


「人が頭を抱えてる様ってのは、見ていてそんなに面白いのか?」


「ええ。だっておかしいんだもの。

 碓氷ミナが何故あんなことをしたかなんて、分かり切った話じゃない」


「何だと?」


 すぐに身体を起こしたが、既に彼女の姿は亡かった。その代わり、今度は後ろから声が聞こえてくる。


「思い出しなさい。

 碓氷未奈は前にも嘘を吐いていたでしょう。昨日の言動もそれと同じよ」


 机にお尻をつけたまま、声のした方に向き直る。背の高い書架に腰掛け、亡霊が双眸を輝かせている。


 ――碓氷ミナの、嘘?


「自分の生理不順を、売春の噂や少女Sの呪いと結びつけないために、あんな真似をしたって言うのか? その噂が妹に飛び火しないように?」


 通院していたのはミナだけではない。妹の末奈も定期的に通院していた。詳細は分からないが、確かに姉が売春していたと噂になれば、妹まで白眼視される恐れはある。


 実際、ミナはそれを案じていた。だからこそ天使の目撃を偽ったのだと、彼女も認めていたが――

 

「碓氷未奈の症状は、じきにほかの生徒にも伝わるでしょう。皆が彼女の症状を理解できなかったとして、恐らく少女Sわたしの呪いとは――少なくともサマリア会、売春の噂とは結びつけないはず。

 彼女は、あの場で聖霊の働きを騙っていたからね。あのとき皆が視ていたのも、胎児であって私ではないわ」


 あの場で起きたことをすべて見ていたかのように、硝子が明言した。


 あの胎児を見たとき、わたしは真っ先に硝子の瞳を想起した。何故あんな姿形であるかは分からないが、あれは紛れもなく硝子に連なる幻影だ。


 だがあの場にいた大多数は、常日頃から少女Sかのじよを視ているわけではない。一年生は心臓痕硝子の顔すら知らないのだ。あの胎児を視えていたとして、多くの者は、そもそも自分が何を視ているのかすら、すぐには分からなかったはずだ。


 たとえそうであっても、後になって胎児と硝子の瞳が結びつけられたかもしれない。しかし、碓氷ミナはあれを聖霊の働きだと言った。この学院において、それが意味するところは強烈だ。宿――良くない想像を巡らせた者は、決して少なくないだろう。一度火が着けば、ミナが妊娠していないと知れたところで同じことだ。


 硝子の瞳やサマリア会という幻想を、より強い幻想で駆逐する――それこそが、あの狂騒を引き起こした意図だったというのか。


「だけど、そこまでする必要があったのか?

 あんな真似に出なくとも、ミナ先輩が正直に症状を打ち明けていれば、今ほど大きな噂話にもならずに済んだかもしれない」


「今更そんなことを言うの? そうかもしれないけれど、それもあくまでも可能性の話よ。碓氷未奈は、自らが周囲に及ぼす影響をコントロールしようと考えたからこそ、あんな無茶なやり方に出たのでしょう。

 それに、姉が妊娠していないという報せに、妹が納得しているとは限らない。碓氷末奈は天使を信じていなかったし、頑なに姉の売春を主張していたからね。

 もし未奈が温順おとなしく検査を受けて、運良く彼女の不在と症状が噂にならなかったとして。それでも想像妊娠という結論を聞けば、あの妹が騒ぎ立てたかも分からないわ。

 そうでなくても、姉妹の関係性は結局悪化していたでしょうね」

 

 確かに、それではミナの目的は果たされないままだ。彼女は妹をすべての苦しみから救いたいと言った。妹が少女S――心臓痕硝子に囚われているとも。


「――ミナ先輩は、何よりもまず末奈先輩をさせたかったのか」


 ミナとの取引を思い返す。


 彼女の求める理由が、末奈を苦しみから救うことに繋がるのだろうか。それで末奈は、少女Sから解放されるのだろうか。


 だとすれば――末奈の姉に対する頑なさも、少女Sの呪いと関係しているのかもしれない。しかし、末奈は少女Sの呪いを否定していたはずだ。

 

(いや――だからこそ、か?)


「理解したようね。

 貴女はようやく始まりに至ったのよ」


 いつのまに隣に来ていたのか。元凶たる悪霊が、傍らで囁いた。


 幻影のその言葉が、かえってわたしの思考を明瞭クリアにする。


「お前がいないと、わたしは考えひとつ纏められない」


 自嘲すると、硝子わたしも美しく嘲笑った。


「それも今更ね。手がかかるのはいつものことじゃない。

 じゃあ、次に考えるべきは――」


「そもそも何が問題なのか、だな」


 硝子は一度頷いたあと長机から降りて、いつもの窓際の席に着いた。


 我に返って周囲を見渡してみれば、机上は惨憺たる有様だった。元々乱雑に積み上げられていたガラクタを、また無理矢理に押しやってスペースを作ったから、本やらティッシュやら誰が持ち込んだか分からないぬいぐるみやらがバラバラと床に零れ落ちている。


 わたしも机から降りて、床に落ちたガラクタを拾って適当に机に戻した。割れ物が落ちなくて良かった。最後に床に揃えてあった靴を履いて、硝子の隣の定位置にかけ直した。


「そうね。まず事実から始めましょうか。

 碓氷姉が妊娠していなかったこと、にも関わらず妊娠に似た症状が出ていたこと、このふたつは確定ね。

 なら現状から導き出した結論――想像妊娠についてはどう?」


「――正直、そんなことが起こるとは思えない。

 ミナ先輩は男性に執着していなかった。彼女は――妹のことしか考えていなかった」


 仮説を否定したのは、男女という生物学的理由からのみではない。碓氷ミナは、自分たち以外の存在を必要もしていなかった。仮に――もし、彼女が妹との子どもを欲しがっていたのなら、まだ理解が及ぶのだが。


「それに先輩自身、経験はないと言っていた。実際問題、生徒の外出は教職員によって管理されているし、外部の男性との接点があっても医者が精々だ。

 だからその、たとえば――ミナ先輩が男性に乱暴されて、その恐怖から想像妊娠が生じたとも考え辛い」


 想像妊娠は妊娠への期待だけではなく、恐怖からも起こり得る。方向性はどうあれ、妊娠を強く意識することが条件となるのだろう。


 しかし、妊娠しておらず、想像妊娠でもないとなると、残る可能性は限られている。


「だから、未奈の症状は想像妊娠ではないと?

 なら医師の判断は誤診になるのかしら? 子宮筋腫などの疾患も確認できなかったはずよね」


 それを言われると弱かった。わたしの言葉は、ただの印象論で素人意見だ。そうであった方が分かりやすいというだけで、医師も当然その可能性を考慮しているはずだ。検査によってほかのあらゆる疾患が否定されたからこそ、想像妊娠と結論づけられたのだろう。


 そうなれば当然、初めの疑問に戻ってくる。


「碓氷ミナは何故想像妊娠を患ったか――それ自体を解釈しろってことか」


「納得いかない?」

 

「当たり前だろ。これじゃいつまで経っても堂々巡りだ。

 ミナ先輩も言っていたじゃないか。子どもなんか欲しくないって。そんなこと考えもしなかったって。

 彼女は子どもにも、いや男にだって興味はない。彼女が愛してやまないのは自分の妹だけだ。

 だけど――ふたりは姉妹で、女同士だろうが」


 幾度となく繰り返した言葉を、確かめるように吐き出していく。誤りなどひとつもない。わたしは至極当たり前のことを言っているはずだ。だが――


「勘違いをしているようね。

 納得がいかない、じゃないの。貴女が彼女らを納得させるのよ。碓氷未奈にもそう頼まれたのでしょう。

 堂々巡りに思えるのは、貴女の考えが足りていないせいよ」


 昏い色を閃かせて、硝子の瞳がわたしを見る。


 当たり前の思考、誤りのない論理。それこそが過ちであると亡霊が諭す。


「貴女は自分を探偵ではないと言ったわね。だとすれば、この騒動もまた本格推理小説パズラーミステリなんかじゃない。

 誰がやったかフーダニット? どうやったかハウダニット? そんなものが分からなくても、何故やったかワイダニットさえ分かればいい。

 それだけあれば、あとの理屈は自ずとついてくる」


 酩酊するような錯覚。視界と思考が融け合って、空間が歪んでいく。隣に座る彼女の声が頭上から、背後から聞こえてくる。


「幸か不幸か、結論は先に出ているわ。貴女に求められているのは、常識的な判断や物の見方じゃない。いつもと同じよ。たとえ非常識に思えても、

 想像妊娠という大げさな言葉に囚われるから視野が狭くなるのよ。あれは所詮心身症で、

 

 硝子の瞳。生命球。完結した世界。完全なる完全。


 歪み滲んだ世界の中、あのふたつの煌めきだけは確かだった。 


「分かっているでしょう。碓氷未奈が妊娠を望んでいないのなら、彼女の想像妊娠それは恐れから来るものにほかならない。

 たとえそれが無意識下であっても、直接妊娠に結びつく出来事でなくても、自分の身体を作り変えてしまうほどに、強い恐れを抱くきっかけがあったはずよ」


 ――


 そうだ。碓氷ミナは常に怯えていた。だから人を試すような真似をして、誰が自分たちを救えるのか、見極めようとしていた。


 頭の中の付箋を手繰る。ミナはただ妹を救おうとしていたわけではない。自分自身も、その恐怖から逃れようとしていたのではないか。ミナにそのつもりはなかったかもしれないが――だからこそ、彼女にも自身の症状のが分からなかった。彼女は今なお恐怖から目を背けているからだ。


 碓氷ミナは恐怖から逃れるために、自ら身体を変態させたのだ。


 ――私の目的はね。あのをすべての苦しみから救うことだけ――


 ――それでも、私はマナちゃんをこれ以上苦しめたくない――


 違う。違う。これも違う。


 ミナの言葉が、泡のように目の前に浮かんでは、弾けて消えていく。次第に泡の数と勢いが増していき、渦を巻いてわたしを呑み込んだ。


 ――そうだね。きっと死ねると思う――


 予感があった。手がかりは既に揃っている。辿り着くべき答えも見えている。あとはその空白に正しい言葉を宛てがってやれば良い。


 言葉の渦の中心に、セーラー服の少女が――心臓痕硝子が立っていた。渦中か ちゆうにあっても、彼女は長い髪を微かに揺らすだけで、押し寄せる濁流をまったく寄せつけない。

 

 ――艷やかにくうを滑る黒髪。危うさすら感じさせるほどか細い肢体。作為的に精妙な面貌めん ぼう。見る者すべてを囚え続ける硝子の瞳。


 溺れ藻掻くわたしせいじやと違って、彼女ししやはあまりに完全で、まるで美そのものを体現していた。


 彼女に触れようと、水の中から手を伸ばす。流れの向こうで、深い闇色が一層強く光った。


「碓氷未奈が、最も恐れていたことは何?

 一体何故、彼女は自らを作り変えたの?」



 ――だって、私とあのは同じ人間だったから――



 不意に、その言葉を思い出して。


 刹那、すべての論理が裏返った。


「――あ、ああ――――!」


 


 だがこれで――


 わたしを取り巻いていた渦がほどけていく。疑念のほとんどは解消された。これ以上の答えは望むべくもない。


 それでも、これでは彼女たちが、あまりにも――


 突然、鉄のが響いて、硝子の姿が掻き消える。


 我に返り、音がした方を見ると、戸口にいた背の高い泣きぼくろの女が、脳天気に笑った。


「やぁ! わざわざ会いに来てやったよ!」


「――ノックくらいしろよ」


「おいおい、ここは君の部屋じゃないだろう」


「あの妙な渾名をつけたのはお前だろうが」


 それもそうか、と神代は手を打つと、それから気取った猫みたいな歩き方で寄って来て、勝手に対面の席に陣取った。


 ――書庫の主とは、硝子の死後この場所に籠りがちになったわたしを揶揄した彼女の言葉だ。それが独り歩きして、今や黒川のような見知らぬ一年からも呼ばれるようになってしまったが。


「で、今日は一体何の用だ?」


「つれないなぁ。用がなければ来てはいけないのかい?」


 机上の小ぶりな地球儀を手に取って投げようと構えると、すぐに神代も仰け反って手で顔をガードした。

 

「待て待て、冗談の分からないやつだな」


「冗談も何も、わたしは本気だからな」


「しかもせっかちと来た。

 分かった、降参だ降参。そろそろ答え合わせも済んだ頃と思ってね。君にこれを渡しに来たのさ」


 わたしが地球儀を下ろすと、神代も姿勢を戻して、スカートのポケットから何かを取り出した。彼女の手に握られていたのは、長方形の黒い板切れだ。久しくお目にかかっていなかったその文明の利器は――


「――何?」


「何って携帯だよ。

 あ、もしやいたみ氏、ひょっとしてスマホ見たことない人? 聞いてはいたけど、箱入りって噂は本当だったのか!」


 何てことだ! とわざとらしく口を抑えて驚く神代。再び地球儀を手に取りかけたが、それでは余計に話が進まない。


「そうじゃねぇよ馬鹿。

 何で携帯がここにあるんだよ。生徒は持ち込み禁止のはずだろ」


「やだなぁ。学則なんて、皆が皆守ってるはずないじゃないか」


 神代が呵々と笑う。わたしの記憶違いでなければ、こいつは生徒会長だったはずだが。


「結局何がしたいんだお前。

 生徒会長が学則を破って、この上先生の言いつけまで破るつもりか?」


 我々はシェーファーから姉妹との接触を禁じられている。


「まさか。そこまで罪深くはないさ。

 君の言う通り、拙たちから姉先輩に連絡を取ることはできない。

 しかし――そら」


 見計らったかのように神代のスマホが震え出し、彼女が画面をこちらに向けた。どうやら公衆電話からかかってきているようだ。


「な?」


 呆れてものも言えない。どうやら予め申し合わせていたらしい。


 あの鉄の修道女が知れば、こんな詭弁を弄したところで見逃してくれるとは思えない。それでも制止するには惜しい。わたしにとってもまたとない機会だった。


「もしもし、あなたの神代祭です。

 ああ、やはり先輩でしたか。――いえいえ、さっきの文句は口説いてみただけです。

 体調は? ええ――ええ。なら良かった。

 ところで昨日はやってくれましたね。次からは先に言っておいてくださいよ、式次第に書き足してもらいますから。

 ――はい。今丁度目の前にいます。代わりますね」


 神代が、ほい、とスマホを机に滑らせてこちらに寄越す。これを取れば目出度く共犯となるわけだが、それも今更だ。躊躇することなどない。しかし――


 神代の表情を覗き見る。彼女はすぐにこちらの視線に気づき――だがそこに込めた真意には気づいていないのか、早く電話を取るよう手で促した。


「――神代、お前ちょっと外に出てろ」


「そりゃまたどうしてさ。

 今更隠しごとってのもないだろう?」


巫山戯ふ ざ けろ。

 

 

 わたしの言葉に、僅かだが神代が硬直した。


 やはり今回の件について、彼女も何か偽っているらしい。

 

「――分かったよ。

 前にいるから、終わったら声をかけてくれ」


 似合わない舌打ちなどしたと思えば、またすぐに道化のように笑いながら、神代は席を立った。


 彼女が扉の向こうに消えたのを見届けてから、わたしはスマホを手に取った。


「――貴家です」


「昨日はごめんね、貴家さん」


 電話の相手は予想通りだった。声を聞く限り、体調は昨日より幾分ましになったらしい。


「わたしに謝られても困ります。

 先輩は、まだ病院ですか?」


「うん。夕方にはそっちに帰る予定。

 ――学院の皆はどうしてる?」

 

 たどたどしい口調でミナが尋ねた。実際、申し訳なく思っているのだろう。あのときのミナの態度は佯狂よう きように近い。芝居で周囲の不安を煽り、胎児の幻を共有しようとしたのだから。


 だが、たとえ真似事であろうと、後ろめたく思っていようと、故意にあの事態を引き起こしたのだから、白々しい物言いにも聞こえた。それに、彼女は本心から他人の心配などしていない。自分たち以外の存在は不要だと言ったくらいだ。彼女が心配するとしたら、それはひとりしかあり得ない。


「さあ、どうでしょう。

 貴女の思惑通り、結構な人数がようですが――貴女のように、街に下ろされたという話は聞いていません。講義も普通にありましたし、大事に至った生徒はいないんじゃないですかね」


 皮肉を言うつもりはなかったが、少し意地の悪い言い方だったかもしれない。


 それでも、ミナが踏み止まることはなかった。


「マナちゃんは――」


 彼女は結局、これだけが訊きたかったのだろう。彼女にとって、ほかはすべて些末ごとだ。


 溜め息が漏れる。わたしはミナに同情しているのか。それとも怒っているのか。

 

「末奈先輩のことは知りません。先生にも会うなと言われていたので。

 けれど、ミナ先輩が知りたがっていたは分かりました」

 

 電話の向こうで、ミナが息を呑む音が聞こえた。


 ここに至って、わたしはまだ迷っていた。今この場ですべてを話しておくべきか、分からなかったからだ。


 だから彼女が問い返すより先に、ひとつだけ、訊きたかったことを口にした。


「その前に聞かせてください。

 あの胎児を視たのは、ミナ先輩――貴女ですか?」


 ミナの沈黙が、答えだった。


 考えてみれば当然だ。自分の視ている幻を他人にも視せようだなんて、普通の発想じゃない。思いつかないだろう。


 あの胎児は、誰かが彼女の肚に投影していたのだ。


 鈴白のときと同じだ。わたしはから、双子の部屋を訪れたとき、直前までほかの人間が視ていた幻を拾ってしまったのだろう。


 ――それこそが、の恐れ。


 不思議に思っていた。何故彼女はすべてを知っていながら、あそこまで頑なだったのか。そんなことがあるはずはないのに、彼女は初めからそう思いこんでいた。いや、自分自身に言い聞かせていたのか。


「やっぱり、あなたには全部分かっちゃうんだね」


 ミナが自分を卑下するように言った。けれど、ミナも初めからそのことに気づいていたはずだ。だからこそ、ミナは彼女を呪われていると言ったのだ。


 ミナの言葉で、ようやく決心がついた。わたしが今から話すことは、恐らくミナをさらに追い詰めるだろう。それを知った彼女がどうするのか、それがふたりにとって救いになるかどうか、わたしには分からない。


 ――それでも、ふたりはもう、


「ミナ先輩。貴女の身体は――」


 いつか屋上で見た夕暮れを思い出しながら、わたしは辿り着いた理由じしつを口にした。



   *



「終わったかい?」


 通話が終わってすぐ、神代が部屋に入ってきた。堂々とした態度はわざやっているのか、それとも本気で忘れているのか。


「――おい、呼ぶまで待ってると言ったのは手前だろうが。聞き耳立ててやがったな」


 神代が「あ」と声を上げた。この女は、どうやら自分で言ったことさえ守れないらしい。


「これは失敬。

 だが誓って聞き耳を立ていたわけじゃないぞ。話し声が途切れたのが分かっただけで、話の内容までは聞こえちゃいないよ」


 両手を大袈裟に振って否定する神代。どっちだって良いが、どっちにしろ信用できない。


「ノックすら忘れてるしな」


「相変わらずしつこい女だなぁ。

 そんなことよりもだ、姉先輩は何と?」


 実に面倒臭そうに言って、神代は対面の椅子に再び腰を下ろした。まったく言い足りないが、話を進めたいのはこちらも同じだ。


「夕方には戻るらしい。

 あと末奈先輩へ伝言を頼まれた。ふたりだけで話したいから温室に来てくれとさ」


 ふむ、と神代が顎に手を添え呟いた。あの場所なら邪魔も入るまい。温室は敷地の外れ――寄宿舎よりさらに奥にある。木立に囲まれていて寄宿舎から見えないし、新入生の多くは存在すら知らないだろう。ミナが天使の目撃場所に選んだのも、そのあたりが理由なのかも知れない。


「成程、それは拙の方で何とかしよう。何、直接でなければやり方はいくらでもある」


「まひろは使うなよ」


「勿論だとも。拙もそこまで鬼じゃないさ。

 ところで、君はどうする気だい?」


 神代が探るような目でわたしを見た。その視線はどこか艶やかで、少しどきりとした。


「――ミナ先輩には、来るなと言われたよ。

これは問題だからって。

 一応やめておけとは言ったんだけどね。それも聞いてもらえなかった」


 ここまで巻き込んでおいて、勝手な話だ。


 ――ありがとう、貴家さん――


 ――最後くらいは、自分でやらないと――


 わたしの出した答えが、本当に正しいかは分からない。他人が何を思って事を為したかなど、真実分かるはずもない。かつて司祭から聞いた言葉を思い出す。


 それでも、ミナはわたしの言葉を信じることにしたらしい。自分自身のことすら分かっていなかった彼女は、ようやくすべてと向き合おうとしている。


 ――だって、あの娘は私自身だから――


 ああ、知っている。


 吐き気を催すくらいに尊いその感情おもいは、わたしにはもう届かないけれど。


「だが、君は行くのだろう?」

 

 神代の問いに、迷わず頷き返す。

 

 本当にふたりだけで結論が出せるのならそれが一番良い。けれどもし難しいのなら、彼女たちに――いやに手を貸したいと思った。


 。だからこれは、ただの同情かもしれない。憐憫かもしれない。でもそれが、今のわたしの正直な気持ちだった。


「承知した。

 それじゃああとは任せたよ、名探偵」


 最高の皮肉を言って、神代は立ち上がった。


 出口へ向かうその背中に、どこか違和感を覚えて、つい声をかけてしまう。


「神代。今回の件にカタがついたら、さっきの話――詳しく聞かせてもらうからな」


 扉の前で、神代が足を止める。


 こちらに背を向けたままの彼女の表情を、伺い知ることはできなかった。


「精々、首でも洗って待っているよ」


 道化師はそれだけ言い捨てると、さっさと退室して行った。


「雲が出てきたわね」


 ――いつ戻って来たのだろう。心臓痕硝子が、傍らで美しく微笑していた。


 窓の外を見遣る。澄み切っていたはずの空は、遥か遠く、微かに雲が見え始めていた。

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