/3A 夢(九月七日)

 車輪の廻る、音がする。


 それが映写機の音だと思い出してから、ようやく私は、自分が座ったまま眠っていたことに気がついた。


 いつからこうしていたのか。眠りに落ちる前は何をしていたのか。そんな簡単なことさえ、まるで思い出せそうにない。


 それでも、自分が今どこにいるかだけは、改めて確かめるまでもなかった。


 古い木と、錆びた金の匂い。パイプ椅子の軋む音。慣れ親しんだこの空気は、学院の視聴覚室のものに違いない。


 そして、ここが視聴覚室なら、自分が何をしていたのかも想像がつく。


 ――だから私は、つい隣に手を伸ばしてしまった。


 伸ばした指先に、微かな感触。その温かさにほっとして、それから手繰り寄せるみたいに強く、強く掴んだ。

 

 見えなくたってわかる。大好きな先生が、すぐ傍らに座っている。


 わたしはきっと、いつもと同じように、先生と映画を見ていたんだ。


 目頭が熱くなる。鼻の奥がツンと痺れる。何故だかわからないけれど、涙が溢れそうだった。こんなのは当たり前のことなのに、何度も何度も繰り返したことなのに、それが酷く嬉しくて、悲しかった。


「先生、好きです」


 先生の服の袖を、さっきよりももっとずっと、固く握り締める。


 想いを伝えるなら今しかなかった。そんな気がしてならなかった。


 先生は、何も答えてくれなかった。


 当たり前だった。私たちは教師と生徒でしかない。それに私たちは女同士で、ともに信仰に生きていた。かつての迫害の歴史に比べれば、私のような――同性愛者の立場も、随分と良くなったと聞いている。


 それでも、私という人間が、私たちの宗教と根本的に相容れないことも、また事実だった。


 ――だから私は、先生が受け容れてくれるのなら、信仰さえ捨て去ってしまっても良いと。


 はまだ、本気でそんな風に思っていた。

 

 しばらく経っても、先生は何も言わなかった。


 はじめは驚いているのかと思った。きっと戸惑っているんだと思った。


 違うと気づいたのは、一体どれくらい過ぎてからだっただろう。


 先生は黙ったまま、ただただ私を見ていた。ねばついた視線が、どこか居心地が悪かった。


 違和感が爪を立てて、ゆっくりと背中をよじのぼってくる。


 、先生は私に、画面で今何が起きているのか、丁寧に説明してくれる。


 はじめのうちは先生も、義務感とか、同情のつもりだったのかもしれない。学院になかなか馴染めない私に、映画を薦めてくれたのは、ほかでもない先生だったから。


 それでも、先生は目の見えない私にも伝わるように、一生懸命伝えようとしてくれた。おかしな場面では楽しそうに笑って、悲しい場面では涙を堪えながら、熱心に私に話し続けた。


 先生がいなければ、私はきっと映画を好きになれなかった。けれど映画よりもずっとずっと、先生のことが大好きになった。


 今の私があるのは、全部先生のおかげ。私の心はきっと、先生が与えてくれた。


 ――その先生が、今は無言で私を見つめている。


 いつの間にか私は、先生の腕から手を離していた。


「――先、生?」 


 先生は、やっぱり何も答えない。


 探り合うような沈黙の中、ジリジリと、映写機の回る音だけが部屋に響いている。


(あ――――)


 何で、気づかなかったんだろう。


 


 先生と過ごした視聴覚室には、




 ――なら、あの映写機はどこで。




 浮かんだ疑問に答えるみたいに、部屋の入り口から、鍵のかかる音がした。

 

 立ち上がり、振り返ろうとしたそのとき、肩を強く押され、バランスを崩して転倒する。

 

 打ちつけた背中が、痛い。リノリウムの冷たさが、ここが視聴覚室ではないことを確信させた。あの場所の、どこか温かみのある寄せ木貼りの床とは、感触がまったく違う。


 その代わりに、見知らぬ誰かの生温い息遣いだけは、すぐ鼻先に感じられた。


 


 ――厭な子だなぁ、お嬢ちゃんは。


 聞き覚えのない、しやがれた声が響く。


 何を言われているのか分からなかった。恐ろしくて声も出せなかった。


 これから何をされるのかなんて、考えたくもなかった。


 誰かの顔が、ゆっくりと迫ってくるのが分かった。吐瀉物を拭き取った雑巾みたいな、腐った土みたいな臭いに、胃液がせり上がってくる。


 顔を背けたのが気に入らなかったのか。強い力で、頭を鷲掴みにされて、無理矢理上を向かされた。押し返そうと両手で抵抗すると、次は乱暴に髪を引っ張られた。


 不意に、強い痛みが右の頬を灼いた。じわり、と口の中に錆の味が広がる。それですぐにまた、今度は左頬が弾けた。


 よく分からない言葉で罵られながら、


 生臭い唾を吐きかけられながら、


 何度も、何度も、分厚くて筋張った掌で、たれた。


 たったそれだけのことなのに、私はすっかり抵抗の意志をがれてしまった。


「――さい、――めんなさい、ごめん、なさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」


 自分でも聞こえないくらい小さな声で、謝罪の言葉を絞り出す。鼻血が喉に絡んでむせる。痛くて、辛くて、怖くて、もうどうしようもなかった。それでも、何度も何度も何度も何度も何度も、自分が何に対して謝っているのかも分からないまま、ごめんなさいと繰り返した。


 いつだってそうだ。非力な私が最後にできるのは、相手に媚びへつらって、こいねがうことだけ。


 私の薄っぺらな謝罪が、一応は届いたのだろうか。誰かは私を叩くのをめると、それから少しの間、私に跨ったまま、上がった息を整えていた。


 ――けれど、それで相手が満足するはずはなかった。


 しばらくして急に、頭上から冷たい感触が降りかかる。鼻が利かなくなっているせいで、何をかけられたのかは分からなかった。濡れ鼠にされた私は、思わず身震いしそうになったけれど、それすらも誰かの怒りを買う気がして、身体を強張らせるのが精々だった。


 甲高いかねの音が部屋に響く。液体を入れていた容器が投げ捨てられたのか。それから布同士が擦れ合う音や、留め具を外す固い音が聞こえた。


 そこで、またしても誰かは動きを止めた。


 長い、いつ終わるかもしれない静けさが訪れる。


 気の遠くなるような静寂のあと、聞こえてきたのは、誰かの喉が鳴る音。つまりは息を呑む音で、多分、生唾を飲み込む音だった。


 うなじのあたりがざわざわする。下の方から、何か気味の悪いものが、ゆっくりゆっくり、近づいてくるのが分かった。


 ――そしてとうとう、


「■■■■■■■■■■■■」


 悲鳴は、声にならなかった。


 違う。これは違う。


 これはそう――


 毛深くて、まるまると太った気味の悪い鼠が、糞尿を垂れ流しながら、私の肌の上を這い摺り回っている。


 突拍子のない想像だって分かってる。でもそうじゃなきゃ、そう思わなきゃとても堪えられそうになかった。意志のないけだものが、たまたま私の身体の上を通り過ぎようとしているんだって、必死に思い込もうとした。


 早くどこかに行けばいいのに、その大きな鼠は、私の体を上から下まで行ったり来たりしていた。肌に爪を立てられるのがこそばゆくて、それがとにかく気持ち悪くて、笑うこともできなかった。


 それなのに、すぐそばでキシキシと嘲笑う声が聞こえた。きっと鼠の手先を擦り合わせる音が、鼻を鳴らす音が、人の声に聞こえただけ。


 嘘だった。本当はその感覚を知っていた。今よりずっと小さい頃、目の見えない私には、何をされているのか、させられているのかまでは分からなかったけど、ただただ怖かったことだけは、今でもまだ覚えていた。


 だから今日も――ああ、やっぱり駄目だった。 


 だってその太った鼠は、いつのまにか私の股下までのぼってきていて、


 それからまるで――、器用にスカートの端を、持ち上げようと、




「――――いや、だ」




 ――嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、




 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだこれは鼠だこれは鼠だこれは鼠これは鼠鼠鼠鼠鼠鼠これは✕✕じゃないこれは✕✕じゃないこれは✕✕の✕✕なんかじゃない私は✕✕✕されてない私は✕✕じゃない私は✕✕✕なんてされてない私は✕✕なんか知らない私は✕✕なんか✕✕じゃない私は✕✕なんか✕✕たくない私は✕✕なんか✕✕たくない私は✕✕なんか✕✕したくない私は✕✕なんかに✕✕✕たくない私は✕✕なんか✕✕たくない私は✕✕なんか✕たくない私は✕✕なんか✕✕たくない誰も私を✕✕けてくれない誰も私を✕✕してくれない誰も私を✕ていないここにいるのは✕✕じゃないこの人が✕✕のはずがない誰もこの人を✕✕てくれない誰もこの人を✕してくれないこの人をこの人をこの人をこの人をこの人をこの人をこの人をこの人をこの人をこの人をこの人をこの人はこの人はこの人はこの人はこの人はこの人はこの人はこの人はこの人はこの人は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か




 ――――誰か。




 カチリ、と、


 指先に、硬い質感があった。


 逃れようと藻掻いて、がむしゃらに伸ばした指先が、床に落ちていた何かに触れた。


 手繰り寄せる。強く握る。十分な長さと、確かな重さがある。


 掴み取ったものが何だったのか、確かめている余裕はなくて、


 私は渾身の力で、手に持ったそれを、頭上へと振り抜いた。




 ――骨を砕く感触が、手に伝わってくるよりも早く、


 私は、今度こそ本当に覚醒した。




   ◇




「ッ――」


 意識を取り戻した私は、周囲を伺いながら、ゆっくりと上体を起こした。


 ――ここは学院の寄宿舎にある、私の部屋だ。


 時刻はまだ未明だろう。枕元の目覚ましの音も、外の喧騒も聞こえない。

 

 あれは、いつもの夢だ。分かっている。映写機のあったあの部屋は――あの建物はっくに取り壊され、なくなってしまったはずだ。


 それでも無意識に、私は私自身を強くいだいてしまう。今までずっとベッドの中にいたはずなのに、身体はすっかり冷え切っていた。


 脂汗を寝間着の袖で拭う。あれは――あの出来事は、勿論現実に起きたことではない。けれど、何もかもが幻というわけではなかった。


 すべてが夢のうちであったなら、どんなに良かったことか。過去の記憶は、罪の意識は、きっとこの先も、未来永劫に渡り、私を苛み続けるだろう。


 。彼女は――いやは、苦悶する私を一晩中、傍らからこうして眺めていたのだ。


「何を見ている。

 早く――早く、消えろ」


 手で追い払う真似をすると、誰かの瞳は黙したまま、静かな夜に溶けて消えた。


 大きく、息を吐く。


 情けない話だ。強くあるために、確固とした自分を作り上げるために、私は只管ひたすらに学び、鍛え続けてきた。


 それなのに、かつての記憶わたしから逃れようとすればするほど、その記憶わたしからの眼差しもまた、厳しさを増して行った。


 ――私は一生、私から逃げられない。


 あの日から十四年。先生が亡くなってから、もう三年も経つというのに。


 後悔だけが、今も泥のようにこびりついていた。

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