/2 書庫〜寄宿舎(六月三日)

「それで、そのあとはどうなったの?」


 わたしの視る亡霊げんかく――心臓痕しん ぞう こん硝子がらすは、書架の上で足をぶらつかせながら言った。


「どうってことはないさ。とりあえず妹が事情を説明しに来るから、まずは話を聞いてみろだとよ」


 神代から聞けたのは、いつも通りざっくりとした概要だけだった。


 奴はあくまで窓口だ。客観的かつ確定的な情報以外寄越さないのは、気を回してるつもりだろうか。


(――いや、単なる保身だな)


 せめて上級生の妊娠が少女Sとどう関係しているのかだけは聞いておきたかったのだが、今回はそれすら話せないというから、正直なところ不信感があった。


 少女Sに纏わる謎を知らせる代わり、わたしはそれを解決する――わたしと神代の取引は対等であったはずだ。相談者に丸投げして、説明責任すら果たさないというのは、どうにも労力の釣り合いが取れていない。


 ――そして週が明けた今日、月曜の放課後。例のごとく書庫にやってきたわたしは、こうして、雨音を聞きながら時間を潰していた。


(聞き損で終わらなければ良いけど)


 音もなく、硝子が書架から軽やかに舞い降りる。長い黒髪が、一瞬翼のように大きく広がり、しかし硝子が立ち上がると、すぐにまた一糸乱れぬ艷やかな流れを取り戻した。


「そっちじゃなくて、曽我部さんの方よ。ちゃんと謝ったの?」 


「当たり前だろ」


 否応なく朝晩顔を合わせる相手だ。お互いに、いつまでも気まずいままではいられない。あの日は夕食も入浴も別々に済ませたものの、床に就く頃には無事仲直りできた。


「ふぅん」


「――何だよ」


 長机の向かいの椅子に腰掛けて、硝子が意味ありげに微笑んだ。その顔は不気味なほどに美しくて、既に生気すら感じさせなかった。


「別に? ただ貴女がどういう風に彼女のご機嫌取りをしたのか気になってね」


「普通に頭下げたに決まってるだろ。下衆の勘繰りはやめろ」


 神代といい、どうにもわたしとまひろの関係を深読みしている。


 ――わたしの気持ちなんて、硝子が一番よく知っているくせに。

 

 それすらも筒抜けなのか、からかい混じりに硝子が笑う。


「だって、貴女優しいじゃない。

 私以外は皆嫌いなのに――いや、だからこそか。自分の嫌悪を後ろめたく思っているのでしょう?

 貴女が何より許せないのは、きっと理由なく他人を嫌ってしまう自分自身なのね」


 その意地の悪い笑みさえ眩しくて、つい見惚れてしまう。


 わたしは所詮、彼女の虜だ。いくら強がったところで、結局のところあの美貌には――あの深い色を湛えた瞳には、決して抗えはしない。


 鋸を引く音で我に帰る。いや、あれは蝶番の軋む音だ。


 書庫の扉が開かれた。わたしは即座に、またごく自然に居住まいを正す。


「――こんにちは、貴家さん。

 面と向かっては、確か初めてでしたね」


 最高学年の証である、胸元の赤いリボン。書架の向こうから、怪異の妹――碓氷うすい末奈ま なが姿を見せた。



   *



「本当に私物化しているんですね。学業に不要なものばかりじゃない。

 どうして先生たちは何も言わないのかしら?」


 向かいに座る上級生――碓氷末奈は、部屋を見回しながらそう言った。

 

 思えば彼女は初めから不躾だった。ノックすらせずに入室してきたことも、紅茶は苦手だからアイスコーヒーを出せと要求してきたこともそうだ。


 来訪者というより闖入者と呼ぶのが相応しかろう彼女を、わたしはようやくじっくりとあらためめた。灰にほど近い浅い色の長髪は、丁寧に額で編み込まれている。小さい鼻の上に載ったわざとらしい丸眼鏡の向こうには、穏やかな垂れ目が見えているのに、神経質な印象が強いのは、眉間に寄った皺のせいだろう。


 優等生じみた容姿に反して、末奈の態度は慇懃さすら感じさせない無礼そのものだ。それとも優等生だからこそ、学院の鼻つまみ者などは軽蔑の対象なのだろうか。


「私物化どうこうはさておき、そのあたりのガラクタは、大体がはなからここにあったものですよ。

 わたし個人の荷物は、せいぜい三分の一が良いところです」


 給湯器も小型冷蔵庫も、この部屋で掘り当てたものだ。いつからあったかは知らないが、誰も使ってないから拝借したまでだし、今のところ誰からお咎めも受けていない。むしろゴミ山同然だった書庫を、物置と呼べるくらいに整頓したのはわたしなのだから、当然の権利と言えよう。

 

 しかし、まだわたしの態度がどこかお気に召さないらしく、末奈は大袈裟に溜息を吐いた。


「それだけ持ち込めば十分でしょう。

 噂通りというか――シェーファー先生のお気に入りともなれば、やっぱり大したものね」


「驚いたな。先輩は初対面の相手にわざわざ嫌味を言いに来たわけですか?」


 末奈が口をつけたグラスの中身も、その私物化されている冷蔵庫にたまたま入っていたものなのだか。

 

「話したことがないだけで、厳密には初対面じゃないでしょう。

 それともあなた――自分がどれだけ有名なのか、ひょっとして知らないのかしら?」


 そう言って末奈は眉尻を上げる。驚き半分、皮肉半分といった様子だ。


 気づけば隣で亡霊がケタケタ笑っていたので、脇腹のあたりを肘で小突く真似だけしておく。

 

「とにかく、お姉さんの件で相談に来たんでしょう? 神代からは大したことを聞いてないんで、ご自分で説明していただけないですかね?

 というか、雑談がしたいんなら他所よそを当たってくださいよ」


 それもそうですね、と末奈がつまらなそうに言った。


 要するに、わたしは信用されていないのだろう。神代の紹介だから仕方なく来てやったという本音が、口にせずとも伝わって来る。


「知っての通りです。

 私の姉――碓氷未奈うすい み なは、恐らく妊娠しています」


「恐らくということは、確定ではないんですね?」


 未だ疑いの段階であることは、神代からも聞いていた。


 碓氷未奈は体調不良からしばらく部屋に籠もっており、あまり講義にも出られていないという。元々臥せりがちで、似たようなことも過去にはあったようだが、どうも様子がおかしい――妹の末奈は、そう感じているらしい。


「だから、それをあなたに確かめて欲しいの。

 ――あと、その『お姉さん』という呼び方ですが」


 末奈が眼鏡の橋の部分を、中指で弾くように押し上げた。


「変ですかね」


「ええ。できればめてもらえる?」


 何が「できれば」だ。明らかに有無を言わせぬ口調じゃないか。


「なら、一体何とお呼びすれば?」


「――あなたの好きにして。本人もいないのだし、呼び捨てでも何でも構いません」


 一転して、末奈は何か躊躇うように言葉尻を濁す。その様子が可笑しかったのか、疾う疾う硝子が堪え切れずに吹き出した。


(まったく、どいつもこいつも)


 事情は知れないが、どうやらここが末奈の逆鱗らしい。


「――何ですか、その顔は」


「わたしはいつもこういう顔ですよ。

 ではについてですが――その前に、わたしは事件と聞けばすぐに首を突っ込む探偵気取りでもなければ、怪談奇談何でもござれのオカルトマニアでもありません。

 神代からも言われたでしょう? わたしが知りたいのは――正直なところその一点だけなんですよ」


「――少女Sのことね。勿論、それも分かっています。

 正直、馬鹿馬鹿しいと思っているのだけど」


 奇妙な符合はあると、末奈は肩に垂らした自分の髪をくるくると弄びながら言った。


「姉の体調不良は、三ヶ月ほど前からだと思います。季節の変わり目でしたし、元々姉は体が弱いので、初めはよくあることだと思っていました。

 けれど――」


 末奈はそこで一度言葉を切った。とはいえここまでくれば、彼女が何を言い淀んでいるのか、おおよそ察しがつく。

 

 末奈もそれが分かっているからか、一度グラスを煽って喉を湿したものの、またすぐに口を開いた。


「――姉も、私も重い方なので、逆に気づくのが遅れたのですが――その、どうやらしばらくみたいなの」

 

 碓氷姉妹は同室で生活していると聞く。互いに重いというなら、厳密ではなくても、大体のタイミングは把握しているのだろう。


「妊娠については本人も認めていないわけですよね? 単に生理不順という線は?」


「だとしても、三月み つき続けば異常でしょう? まだ講義にはそれなりに出ているけれど、ただの体調不良と言い張るには、そろそろ限界が来ています。

 それに、当人がどうしてもお医者様に罹りたくないと言うんです。どころか余計な心配をかけたくないから先生方にも言わないで欲しいと」


「――それはそれは」


 確かに異常だ。彼女でなくとも誰かに相談したくなる状況だろう。


 真っ先に相談した相手がよりにもよって神代あのおんなであることには閉口するが、結果わたしまで話が回ってきたのだから、どうこう言える筋合いでもない。


「でも、先輩には何か心当たりがあるわけですよね?」


 そもそも、この学院には男子禁制という物理的な制限がある。唯一の例外であるのは司祭である鈴白要あのおとこだ。あの倫理観の塊のような男が、まかり間違っても生徒に手を出すとは考えられない。


 ミナの態度は不自然に思えるが、それだけで妊娠と断定するのも早計だろう。


 だからこそ、末奈の言う少女Sとの符合とは、一体何を指しているのかが気にかかった。


「つい最近、本人から聞いたのだけど――未奈は使と言っていたの」


 予想外の言葉で、一瞬思考に空白ノイズが生じた。


「天使というのは、その――神の御使いのことですか?」


「ええ。どうやら未奈はそう思い込んでいるみたい」


 我ながら間抜けな問いだったが、一方で末奈も苦々しい表情を浮かべていた。


 つい傍らを見遣ると、わたしの顔をじつと見ていたらしい硝子と、ばっちり目が合ってしまう。硝子はニコリと笑うと、両手を肩の近くでパタパタと振って見せる。翼のつもりなのだろう。あまりの下らなさに呆れてものも言えない。わたしは末奈へ視線を戻した。


 目に見えぬ何者かとの遭遇という点では、確かに少女Sの目撃談と共通しているかもしれない。けれども、ミナの体験は明らかに別の文脈に則っていた。


「つまり、ミナ先輩の症状はによると?」


 ――受胎告知。


 福音書に曰く、聖母が聖霊によって御子を身籠ったとき、天使がそれを報せに現れたとされる。


 少女Sの幻影が囁かれているとはいえ、今の話からまず連想されるのはそちらだろう。


 しかし、末奈はそれを肯定せずに笑い飛ばした。


「そんなわけがないでしょう。私も姉もクリスチャンではありません。天使だなんて、信じられるはずがない。

 ましてや少女Sですって? ああ、本当に下らない」


 末奈はそう吐き捨てて、苛立たしげに己の髪を弄っていた。


 彼女からすれば、少女Sだろうが、天使だろうが、等しく戯言にしか思えないようだ。


「少女Sの噂はともかくとして、天使についてはミナ先輩自身も訴えたことでしょう? 信じてあげないで良いんですか?」

 

 それに、天使の目撃談なんてものは入学からこっち聞いた覚えがない。末奈は今回の件が少女Sの幻視と符合するという理由で相談に来たようだが、果たして両者を安易に関連づけて良いものだろうか。


「だから、それは妊娠を誤魔化そうとしているのか、でなければきっと何かの気の迷いです。

 未奈は嘘を好む娘じゃない。もしかしたら、妊娠の影響で心が弱っているのかも知れません」


「随分はっきり言い切るんですね」


 どうも末奈はミナあねの妊娠を確信しているらしい。やはり彼女にとっては、天使も少女Sも、わたしを動かすための口実に過ぎないのではないか。


(そこまで言い切るなら自分で調べれば良いだろうに)


「――サマリア会の噂を知っていますか?」


 伺うように、末奈がそう切り出した。聞き覚えのない言葉だ。無意味に硝子に目配せしてみるが、当然彼女も初耳らしい。


 素直に首を横に振ると、末奈はまた馬鹿にしたように鼻息を荒くした。


「呆れた。事情通みたいな顔をして、あなたって本当は何も知らないんですね」


「それは心得違いですよ。

 言ったでしょう。わたしは事情通でも、オカルトマニアでも、安楽椅子探偵アームチエアデイテクテイブでもない、一介の女子高生に過ぎません。先輩より一つ年下のね」


 わたしの嫌味は、思いの外効果的な反撃だったらしい。末奈は一瞬何か言い返そうとしていたが、自らを諌めるようにふうと息を吐いた。


「――そうね。ほかならぬ神代さんの推薦ですもの。多少無知でも目を瞑りましょう」

 

「そいつはどうも。

 では恐縮ですが、そのサマリア会というのは一体何なんです?」


 眼鏡の奥の瞳が、不愉快そうにわたしを睨む。矛を納めたのは、あくまで言葉の上だけらしい。


「サマリア会――『善きサマリアびとの会』は、元は学院生徒たちによる奉仕団体だったと聞いています。引率の先生と一緒に定期的に街に下りては、募金や清掃、孤児院や老人員への訪問などの活動を行っていたようです」


「聞き覚えがないとは思いましたが、その団体はもう解散しているんですね?」


「ええ。今から十五年程前に。

 それで、問題はその解散の理由なのですが――会員が外部の人間とを持ったせいだと言われています」


「――ですって?」


 またしても寝耳に水だった。面食らっていたわたしに、末奈は神妙な面持ちで肯いた。


「あくまで噂です。

 しかし十五年前、確かに顧問を務めていた教員の退職とともに、サマリア会が無期限の活動停止に追い込まれたことは確かのようです。三十年も続いた歴史ある団体の最期にしては、不自然と思わない?」


「神代に記録でも当たらせたんですか?」


「ええ。最初に相談を持ちかけた際に。

 でも生徒会の記録には、活動停止の理由や顧問の退職理由も書いていませんでした。ただの退職なのか、引責辞任なのか、それとも懲戒処分なのかも、実際のところは分からないそうです。

 当時を知る教職員の方も、どうやらほとんど残っていないみたいですから」


 神代の言い分も尤もだった。それに、誰かが詳しい事情を知っていたとしても、軽くあしらわれて仕舞いだろう。真偽に関わらず、学院の風聞を著しく貶める内容なのだから。


「結局、そのサマリア会とやらは、今回の話にどう関係してくるんです?

 まさか、サマリア会が売春を後押ししていた、なんて言うつもりじゃないでしょうね」


 軽口のつもりだったその言葉は、いやに長い間、部屋の中に反響していた。他に聞こえて来るのは、ざあざあという雨音だけ。


 末奈は沈黙を以て、わたしの問いに答えたのだ。


「――眉唾だとは思うわ。でも実際にそのような噂が流れています。

 サマリア会の実態は、学院生徒の売春斡旋組織で――今でも密かに生徒を外部と行き来させていると」


 乾いた笑いは自身のものか、あるいはいつもの幻聴か。

 

 ――荒唐無稽にもほどがある。

 

 事実なら、学院の存続を揺るがすスキャンダルだ。そんなことが組織的に行われている疑いがかかれば、必ず警察は動くだろうし、政財界とも繋がりのある名門校といえど、揉み消せるはずがない。十年以上に渡って続いている組織的売春に比べれば、昨秋の自殺騒動など可愛いものだ。


(神代め、知ってて言わなかったな)


 気障女に張り手の一つでもくれてやりたくなる。


 さらに頭が痛いのは、目の前にいる先輩このおんなが抱えている不安が、多少なりともこの噂話に起因しているであろうことだ。

 

「それで碓氷先輩は、ミナ先輩が売春していたと考えているんですか?」


 直截的な問いに、さしもの末奈も大きく首を横に振った。どうやらその仕草は、完全否定を意味するわけではないようだが。


「勿論、姉が自分の意志でそんなことをするとは思っていません。

 でも、未奈も私も半年以上家に帰っていないんです。

 学院には鈴白先生を除いて男性はいませんし――だとすれば、誰か外部の人間の仕業としか思えない。

 天使の話も、その誰かを庇うための作り話なのかも」


 末奈の訴えが熱を帯びる一方で、わたしの思考はすっかり冷え切っていた。


(これはまたね)


 背後で囁く声がした。


 何故だか分からないが、末奈は姉が妊娠したものだとすっかり思い込んでいる。碓氷ミナの体調不良と不自然な態度、それに件の噂話を耳にしたタイミングがたまたま重なったのか――いずれにせよ、今すぐこの場で切開できる度合の誤謬きずあとではないようだ。


「――まずは姉の妊娠の真偽を、それが真実なら詳細を確かめること。万が一、姉の名誉も考えて、できれば先生方にも、生徒にもしられることのないように。

 これが、私からあなたへの依頼内容です」


 の懸念にはまるで気づいていないらしい。末奈は拙速かつ切実にそう纏めた。


 味の薄い安物の茶に口をつけながら、次手を思案する。


 サマリア会のことは気になるが、このまま末奈の話を聞くよりは、神代かまひろあたりに尋ねた方が客観的な情報が手に入りそうだ。鈴白に訊いてみるのも良いかもしれない。質問の仕方さえ気を払えば、少なくともあの男の話に嘘はない。


「――天使についてですが、ミナ先輩はいつ、どこで視たと言っているんですか?」


 結局わたしは、杓子定規な質問を続けることにした。思いがけず妹の病巣を垣間見たが、肝心の姉について、ほとんど何も分かっていない。信用できるかはさておき、できる限り情報を引き出しておくべきだろう。


 一通り捲し立てて、末奈も少し落ち着いたのか、特に訝しむことなく問いに応じた。


「細かい日付は聞いていませんが、三月の末頃と聞いています。場所は温室だったと」

 

(そういえば、今は六月だったな)


 幻視が三月末の出来事なら、に起きたのだろう。万が一、妊娠が事実だとすれば、その少し前にがあったとして――約三ヶ月か。早ければ初期症状が出ている頃だ。


「さっき半年は帰ってないと言ってましたね。春休みは実家に帰らなかったんですか?」


「ええ。三月の初めは、むしろ私の体調が優れなくて。病院に行くほどではなかったけどね。ミナも一人で帰れば良かったのに、変に気を回して学院に残っていたの。

 でも私の生活リズムも崩れていたから、気づいていなかっただけで、姉がいない夜もあったかもしれない」


 つまり彼女は、春休みに入る前か、入ってすぐの頃に、姉が外出したと疑っているらしい。


「これが最後です。

 少女S――心臓痕硝子についてですが、お二人は彼女と付き合いがありましたか?

 いや、一方的なものでも構いません。日頃から彼女のことを特別意識していましたか? 彼女に対して、何か思うところはありましたか?」


 わたしの問いを、末奈がまたしてもせせら笑う。だが今度の冷笑は、どこか自嘲めいた響きを孕んでいた。


「貴家さん、それは愚問というものでしょう。この学院にいる限り、彼女を無視できる筈がない。

 ――私も姉も、心臓痕さんと特別親しくはありませんでしたが――多分、憧れていたのだと思います」


 末奈の視線が、一瞬どこか遠くを見るように彷徨った。


 当然それはわたしの硝子と交わることはなく、そして彼女ははっとした表情を見せたあと、何かを誤魔化すように、忙しなく胸の辺りの髪を触っていた。

 

 当事者の妹がこう言うのだ。天使と少女Sとの関わりは不明だが、このまま放置して、いずれ露見してしまえば、天使の目撃談が少女Sの噂に――呪いに転じるかもしれない。


「事情は分かりました。良いでしょう。ひとまずこちらでも調べてみます」


「ええ、お願いします。

 何か分かったら、神代さん経由で良いのですぐに報せてください。

 時間もないし、なるだけ早く――露見するより先に目処をつけてもらえる?」


 土台無理を言いながら、末奈がグラスを置いて離席した。中に入っていた氷がガラスにぶつかり、小気味良い音を立てる。


 だが生憎、こちらにはまだ用件が残っていた。


「待った。もう一つだけ良いですか?

 これは質問じゃなくてお願いなんですが――ミナ先輩と話をさせてもらえませんか? できれば二人きりで」


 去ろうとする背中に呼びかける。末奈はその場で立ち止まり、しかし振り返らないままに声だけで応じた。


「――それは、一体何故?」


「先輩は、ミナ先輩から詳しい話を訊き出せていないでしょう? きっと姉妹だからこそ、話し辛いことだってあるんですよ。

 それに、たとえ取り留めがなかろうと、まずはとにかく情報が欲しいんです」

 

 尤もらしく嘯くわたしに、末奈はまた沈黙していたが、一応は納得したのか、少しして溜め息を一つ寄越した。


「知ったような口を利くのね。かえって混乱するだけだと思うけど――良いでしょう。

 今日は姉も幾分落ち着いていたようだったから――そうですね。早速だけど、九時頃はどう?」


「問題ないです。

 あとはそうですね。先輩の差し金と知れると良くないですから、ミナ先輩には事前に何も伝えない方が良いと思います。あくまで生徒会の使いとして話を聞くので。

 先輩は、とりあえず怪しまれないように外していてください」


「承知しました。在室確認の時間には戻って来るから、それまでに上手くやってくださいな」

 

 よろしく、と言って、末奈は今度こそ退室した。


 部屋に残されたのは騒々しい雨音と、あとは人間わたし人外がらすだけだ。


「――お前に羽根があっただなんて、知らなかったよ」


「私もよ。生憎と、自分の背中は見えないからね」


 そう言って、硝子は軽く跳躍すると、そのままふわふわと宙に浮かんで見せた。成程、確かに彼女は死という翼を既に持ち合わせていた。


「それで、実際どう思う?」


「あら、どうこうもないでしょう? いたみ自身、少しも信じていないじゃない」


「まあな。碓氷末奈はあの有様だから、嘘を吐いていようがいまいがアテにはできない。

 ただ――」


「都合が良過ぎるって?」


 先回りする硝子に、わたしは肩を竦めて見せる。流石はわたし自身しんぞうこんがらす、わたしの思考など最初からお見通しというわけだ。

 

 ――まずは、碓氷ミナが目撃したという天使についてだ。妊娠を疑う妹に、それを否定したはずの姉が、そんな話をする意味が分からない。受胎告知の説話など、学院の者なら誰だって知っている。これでは自分が妊娠していると仄めかすようなものだ。


 末奈の言うように、追求を躱し切れず、誰かを庇うために嘘を吐いたという線はなくもないだろうが――それでも集団売春は誇大妄想めいている。


 そして、やはり最大の問題はサマリア会だろう。神代が裏を取った以上、実在した団体だろうが、この噂がいつ頃から広まったのかが気になる。少なくともわたしはまひろから聞いたことがなかったし――それに、あまりにお誂え向き過ぎる。


 これではまるで――碓氷ミナが春をひさいでいたことを証明するかのようだ。


「――本の匂いがするわ」


 亡霊がひそめく。当然、周囲の古びた本の山を言ったわけではない。


 彼女のこの世ならざる美しい瞳は、歓喜に揺らいでいた。


「ロマンスを履き違えた、黴臭い脚本ほんの匂い。

 書いたのは、きっと三流劇作家ね」


 頭上の硝子はニタニタと、チェシャ猫のように厭らしく嗤った。


 そうだ。誰かが背後にいることなど、うに分かりきっていた。わたしはあの机を――心臓痕硝子を装った何者かの遺書を、この目で確かめているのだ。


 遺書を偽造した誰かが、サマリア会の噂を広めたとは限らないが――


「何にせよ、下手糞は早いところ引きずり降ろさないと」


 虚空を睨む。


 硝子の遺志を騙ることを、誰一人として許しておくつもりはない。



   *



「いらっしゃい。そろそろ誰か来る頃だと思っていたけど――あなたが来たんだね」


 ノックの返事を待ってから入室すると、部屋の中央にある小さな円卓から、座したままの碓氷ミナがこちらを見ていた。


 まるで待ちかねていたかのように微笑む彼女にしばし面食らっていると、向こうもわたしの困惑を悟ったのだろう。ミナは一つ咳払いをしたあと、自らの対面に置かれた椅子へわたしを誘った。


「さあ、そんなところに立ってないで、中へどうぞ。

 生憎と、何の用意もないけど」


「――失礼します」


 案内された先に腰を下ろし、ミナと向き合う。


 おかしな話だ。押しかけたわたしの方が、目の前の女を警戒している。

 

(こうして見ると、瓜二つだ)


 浅い色の長髪に控えめな印象の垂れ目。薄い眉や小さな鼻もそっくりだ。


 妹と違って髪のアレンジに凝っているわけでもなく、あの気障な眼鏡もかけていない。表情も姉の方が随分と穏やかに見えるが、そうした後付けの特徴など些細なことだろう。


 二人はそう、この部屋と同じだ。装いが違えど、生徒の私室はすべて同じ間取りなのだから、どうしたって似てしまう。碓氷ミナと碓氷末奈は、その存在があまりに共通していた。


 だからこそ、僅かな差異にも強い違和感を覚え、つい肩に力が入る。


 ――何故だろう。同じ双子と相対しているというのに、わたしに対する敵意に満ちていたマナよりも、目の前の儚げなミナの方が、余程得体が知れなかった。


 わたしの緊張もやはり見透かしたのか、ミナは大袈裟に両手を合わせて「そうだ」と切り出した。


「確か、貴家さんは紅茶党だよね? 良い茶葉があるからご馳走するよ」


「魅力的なお誘いですが、遠慮しておきます。

 もう遅いですし、この通り寝支度も調えたので」


 ミナもわたしも、学院から支給されるワンピースタイプのルー厶ウェアを着ていた。わたしは入浴も歯磨きも済ませたあとだが、そういえばミナはミナで、服に乱れはないし、髪もきちんと調えられているように見えた。今日は体調が落ち着いているとは聞いていたが、実際一日中寝ていたということはなさそうだ。まさか誰かが訪ねて来ることを、本当に予見していたのだろうか。


 一方で、わたしがお茶の誘いを断るとは思っていなかったのか、ミナは一度目を丸くしたものの、おもむろに頬杖を突くと、また顔を綻ばせる。


「へえ。結構真面目なんだ。まひろちゃんたちに聞いてた印象と違うかも。

 ねえ、たみちゃんって呼んでも良い?」


「――すみません。

 自分の名前、好きじゃなくて」


「そうなの?」


 可愛いのに、とミナ。どうやらわたしの嗜みを言い触らしていた下手人が知れたらしい。紅茶党というよりは、珈琲の苦味があまり得意ではないだけなのだが。ここには見えない当人を睨みつけてやる気分で、自然と向こうの小窓へと視線が行く。タンタンタン、と小さな雨音が、夜を急ぐようにガラスをたたいていた。


 ――確かにわたしの愛称は、多少の親しみやすさがあるのかも知れないが、それが似合ってるとは思わないし、本名は本名で、名付け親の常識を疑いたくなる。わたしにこの名を与えた祖父は、物心つく頃には亡くなっていたから、所以ゆえんを問い質すこともできはしないのだが。


 不意に他所よそを見たわたしを、ミナはまたしても愛でるように笑った。やはりどうにも、彼女の態度は居心地が悪い。彼女の笑みは、妹の小馬鹿にしたそれとも、生徒会長の芝居がかったものとも趣が異なる。どちらかといえば、そう――あの亡霊や司祭に近しい儚さを漂わせていた。


「単刀直入に訊きます。

 先輩は、本当に天使を視たんですか?」


 散逸した思考を正し、相対する女に問うた。今は彼女の抱える問題を――天使の正体を解き明かさねばならない。


 ミナは円卓に顎を載せ、上目遣いでわたしを見た。


「貴家さんは、信じてないんだね」


 言葉は不要だった。わたしがただじつと見返していると、マナは自嘲するように笑った。その顔はやはり、まるで碓氷末奈本人だった。

 

「良いよ。私だって嘘だって思うもの。

 でも、これは本当。私が視たのは間違いなく天使だった」


「では、天使は一体どんな姿をしていましたか?」


 問いのあと、少しの間があった。


「絵画にある姿と似ていたと思う。

 背中に大きな翼のある、背の高い男の人だった。温室の広場にいたら、いつの間にかすぐ傍に立っていたの」


 ミナは顔を上げ、それから思案するように口元に右手を当てながらそう答えた。


 ――大天使ガブリエル。カトリックにおける通信の守護者。受胎告知の図像に見える彼は、しばしば美しい青年の姿で描かれている。ミナが視たという天使も、恐らくは彼のことだろう。


 しかしながら、この学院でについて語ろうとすれば、どうしても避けられない疑問があった。


「――間違いは、ありませんか?」


「ないよ。あれは絶対に、S


 即座に質問の意図を見抜かれる。硝子が寄宿舎に来られなくて良かった。もし彼女がいれば、今の微かな心の揺らめきを嬉々として指摘しただろう。


 その一方で、ミナの声も僅かに走っているように聞こえた。


「少女S――生前の心臓痕さんとは、関わり合いがなかったからね。仲の良い悪い以前に、話したこともなかった。私のことなんて、向こうは存在すら認識してないかもしれない。

 彼女の方も、わざわざそんな相手のところに現れたりはしないんじゃないかな」


 続く言葉は至って平静だった。それが尚更、先程の勢いを不自然に思わせる。


「ミナ先輩は、少女Sの呪いを信じているんですか?」


「信じてはなかったけど――天使を視た、なんて言っている私が否定してみても、説得力ないよね」


 曖昧な笑みは自信のなさからか、それとも取り繕うとしているからか。


 ――ミナの認識は、明らかに誤っていた。


 少女Sは、生前の彼女を知るあらゆる人間の前に現れることができる。たとえ一方的に認識していただけだとしても関係ない。

 

 それに、一度あの美しさを知れば、関わり合いを避けることなど――完全に無視することなどできるはずがない。ミナの逃避ひていは、心臓痕硝子を強く意識している証左にほかならなかった。


「天使とは、言葉を交わしましたか?」


 一旦立ち戻り、使について尋ね直す。その正体が何であれ、またそれを知るためにも、状況を検めねばなるまい。


「何かを囁かれた気がするけど、はっきりは聞き取れなかった――というか、よく思い出せないの。天使も気づいたらいなくなっていたし」


「そもそも先輩は、温室で何をしていたんです?」


「別に用があったわけじゃないよ。

 あそこはあまり人が来ないし、椅子と机もあるじゃない? 読書するのに丁度いいんだよね」


 ミナが照れ臭そうに頭を掻いた。どうやら読書など柄ではないと思っているらしい。言われてみれば、壁際に並んだ勉強机の一つには、図書室から借りてきたであろう分厚い本が何冊も積み重なっている。


 ここまで聞いている分には、白昼夢か何かのようにも思えた。いつの間にか現れ、消えていたという天使。


 だが――


「天使を視たのは、三月二十五日ですか?」


 口内で飴玉を転がすかのごとく、ミナが楽しげに目を細めた。


「よく分かったね。そう――確か、その日だったと思うよ」


「分かるでしょう。それは」


 カトリックにおける祭日――。本当に彼女が何かを視ていたのなら、それがただの白昼夢であるはずがない。偶然にしてはあまりに出来過ぎている。


 そしてミナの態度はあまりにわざとらしく、こちらをからかうかのようでもあった。それがかえって、本心からの言動でないと直感させた。ここで思わせぶりな態度を振る舞うことが、彼女自身のメリットになるとは考え難いからだ。


「サマリア会の件は聞いていますか?」

  

 だからわたしは、ここでもう一歩踏み込む必要があった。


 わたしの問いに、ミナは困惑の退屈の入り混じった表情を返した。


「よくは知らない。

 ――ねえ、やっぱり貴家さんも、私が妊娠していると思ってるの?」


「いいえ。

 貴女たち姉妹は、春休みも実家にすら帰っていないんでしょう? 末奈先輩は、自分が寝込んでいる間にミナ先輩が一人で外に出ていたかも知れないと言っていましたが――だとしても、妊娠は流石に荒唐無稽だ」


 わたしとしては順当に言葉を重ねていたつもりだったが、しかし途中で気づいてしまう。


 ――碓氷ミナが、まるで理解し難い言葉を耳にしたかのごとく、驚愕に身を強張らせていることに。


「ああ――」


 ――そういうことにしたのか。

 

 独りでに得心したらしいミナはそう呟くと、切なげに目を伏せた。それでもわたしが問い質すより早く、ミナの表情は、あのコロッとした明るい笑みを取り戻した。

 

「貴家さんの考えている通り、私は妊娠なんてしてないよ。

 私の体調不良は――ただの生理不順だって、マナちゃんにもそう言ってるんだけどね」


「三ヶ月もなければそれはそれで問題でしょう。何故、病院に行かないのです?」


「言ったでしょ? こんなのはよくあることなの。

 だから――」


 ミナが姿勢を正し、わたしを見る。その表情に既に先程までの笑みはなく、瞳に滲んだ憐憫も、きっとわたしに対する感情ではない。


 彼女は妹を――碓氷末奈をただ案じているのだ。


「ねえ、貴家さん。本当は言うつもりはなかったんだけど――私からのお願いも聞いてもらえないかな?

 ――マナちゃんを、助けてあげて欲しいの」

 

 言っている意味が、分からなかった。


「――何から、助けろと言うんですか?」


「分かっているくせに。少女Sからに決まっているじゃない。

 ――マナちゃんは、きっと今でも少女S――心臓痕さんに囚われている」


 。ミナの声からは、微かに焦りの色が感じられた。


「――貴女がそれを言うのか」


 天使を視たなどとのたまい、周囲を煙に巻くミナが、少女Sの存在は――心臓痕硝子に対する妄執は許容しないと言う。


 同時にそれは、今この場にいるわたしをも否定する言葉だった。


 ――無論、ミナがわたしの事情まで知るはずもないのだが。

 

「わたしは、先輩の妊娠の真偽を確かめに来たんです。

 それに、分かっているはずです。わたしは先輩の言葉すべてを信じてはいない」

 

「そうだよね。貴家さん、マナちゃんに頼まれたから来てくれたんだもんね」


 諦観に満ちた言葉が零れ出す。わたしがここに来た本当の理由さえ、ミナにはお見通しだったらしい。


「私がこんなことを言えた義理はないことも分かってる。

 でも――自分のしたことが正しかったのかも、これからどうすれば良いのかも、私にはもう分からない。

 だから、お願い貴家さん。これだけは覚えておいて。

 

 あのはきっと、本当は私のことなんてどうだって良くて――きっと、彼女のことしか考えていないの」


 ミナは、それ以上何も語ろうとはしなかった。己のことも、妹のことも、心臓痕のことも。さらなる変化を恐れ、躊躇うかのように俯いて、ただ円卓の中程を見つめていた。


 ――雨音に紛れ混み、折り目正しい秒針の音が聞こえてくる。


 壁掛け時計を見ると、二十二時前を指し示していた。どうやら長居し過ぎたらしい。在室確認も近い。末奈もじきに戻って来る。今日の調査はここまでが限界だろう。


「ミナ先輩が話したくないのは分かりました。

 わたしも先輩が妊娠しているだなんて思っちゃいないが――やはり貴女たちはどちらも信用できない。

 だけど。今日は切り上げますが、また理屈を拵えたら伺いますよ」


 碓氷末奈が呪われているというのなら、投げ出すわけにもいくまい。妹をあしらうか、姉を問い詰めるかは、他を当たってみて、おおよその話が見えてから考えるとしよう。


 わたしが腰を上げると、ミナもまた顔を上げた。そして彼女は、まるで救いを求めるかのごとく、力なく笑った。


「今日はありがとう。

 まひろちゃんの仲良しと話ができて、楽しかった」


「こちらこそ、遅くに失礼しました。

 ですが――」


 戸口を半ば開きながら、少し考えはしたものの、結局わたしはその先の言葉を口にする。


「たとえわたしが何もしなくとも、いずれ先生方には伝わります。

 ――そのときに、どうぞ後悔のないように」


 閉じ行く扉の向こうで、ミナが泣き顔にも似た笑みで応じるのを見届けながら、わたしは双子の部屋を後にした。

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