/10 寄宿舎(六月十日)

 卓上ランプの火が、ゆらゆらと小さく波打っている。


 寄宿舎の談話室で過ごすのは、随分久しぶりだった。談話室は二階に上がってすぐのところにあるから、一階へ降りる際は必ず部屋の前を通りかかる。しかしいつもは談笑する生徒らで賑わっていて、席もほとんど埋まっているものだから、とても入る気になれなかった。


(まひろはよく出入りしているみたいだけど)


 彼女の付き合いの良さを考えればそれも納得だ。たとえ彼女でなくとも、この学院では数少ない娯楽スペースなのだから、繁盛するのも分かる。


 教室ほどの広さがある談話室は、寄せ木張りの床に敷かれた絨毯の赤と、木壁の重い色を基調としていた。色の調和が取れているおためか、雰囲気こそ落ち着いてはいるものの、学院の中でも一際華美な部屋で、天井からシェード付きの古めかしいシャンデリアが下がっていたり、やたらと大きな鏡が手前の壁にかかっていたり、窓を覆うカーテンにフリンジがやたらとついていたりした。


 内装や調度類は好みもあるだろうが、それでも多くの生徒にとって、この場所を魅力的な空間たらしめているのが、左右の壁を覆い尽くす巨大な書架だ。学術書や専門書や多い図書室と違って、ここの蔵書の大半は大衆小説となっている。流石に漫画は置いていないようだが、本だけではなく、ボードゲームの類も多く並んでいる。


 当然、部屋の中央には大人数用の円卓と丸椅子が用意されており、さらにあちこちに二人用の小さな卓と、座り心地の良いベルベット張りの座椅子が置かれている。今わたしが腰掛けているのもそのうちのひとつだ。


 これで飲食物の持ち込みまで許されているのだから、格好の溜まり場だ。利用時間は確か二十一時までだから、まだ一時間ほど余裕があった。


 ――それなのに、今晩はわたし以外誰の姿もなかった。


 硝子製のオイルランプで手元を照らしながら、わたしは膝の上の分厚いファンタジー小説を読み進めていく。特別な杖を手に入れた異世界の少年と、現実世界に住む体の不自由な少年が、夢の中で繋がる物語。子どもの頃に読んだきりだったが、改めて読むと随分とキリスト教色が強いことに気づく。成程この学院らしい蔵書だ。先日体調を崩した際に読み始めて、いつの間にか最終巻である三巻まで手をつけていた。


 しばらくひとりで本を読んでいて、じきに入り口の扉が開く音が聞こえた。少し顔だけ上げると、部屋着姿の神代祭が軽く手を上げて、こちらへ近寄って来た。


「悪い、待たせたね。風呂に入っていたんだ」


 人払いまでしたくせ遅れてきた女が、卓を挟んで向かいの席に腰掛けた。シャンプーの匂いだろうか。普段はシニヨンで纏められている彼女の長い髪から、柑橘系の爽やかな香りが漂ってきた。


「別に良い。

 お前と話すよりは、ひとりでいる方がずっと気楽だ」


 わたしが本に視線を戻して言うと、神代のおどけた声が聞こえた。


「君らしいなぁ。こちらとしては有り難いがね。

 さて、姉妹の件はカタがついた、ってことで良かったかな?」


「まあな。

 そのまま話して聞かせられるようなことは、正直ほとんどないが」


「構わないさ、いつものことだ。元よりぼくへ報告する義務があるわけでもない。

 拙はただ君に面倒ごとを押し付けているだけだし、君は君の事情で少女Sの噂を追いかけているだけだろう?

 呼び出したのも興味本位さ。だから勿論、答えなくて良いんだが――結局あのふたりは、どうしてあんなことになったんだい?」

 

 まったく益体のない問いだった。どのような答えが返って来ても構わないのだろう。本当は興味があるのかすら疑わしい。


 思わず溜息を漏らしたわたしは、読みかけの本を閉じ、泣き黒子の女を見た。


「ただのすれ違いだよ。

 妹は姉を傷つけることで自分も傷つきたかった。姉は自分は傷ついても、妹だけは守りたかった。

 ――それだけの話だったんだ。天使の――聖霊の物語を騙ったのは、ここがミッションスクールで、ちょうど聖霊降臨祭ペンテコステ前だったから、都合が良かったんだろう。

 それに、先輩たちは少女Sを恐れていた。だからこそ、言い訳にだってしたくなかったんだと思う」


 思いついたことを端から並べていく。自己満足と、最低限の義理立てで喋っているだけで、神代にすべてを理解させるつもりははなからなかった。聖堂の一件でさえ何も視えなかった女に詳しく説明したところで、分かってもらえるとも思えない。


 案の定、神代は非現実的な話と理解を諦めたのか、小馬鹿にしたように肩を竦めてみせた。


「つまりは姉妹愛か。そいつは麗しいね」


「『はみすぼらしい普段着や私生活上のありふれた事柄の中にある。形の崩れたスリッパ、着古した衣類、古い冗談やねぼけた老犬の振る尻尾が台所の床を打つ音、ミシンの音、庭の芝生に置き去りにされたお化け人形などのうちにある』」


「知ってるぞ。ルイス・キャロルだな?」


「C・S・ルイスだ」


 ルイスしか合ってない。そもそもキャロルはキリスト教研究者ではない。彼はキリスト教家庭に育ちながら、生涯に渡り宗教的確執を抱えていたはずだ。


『ナルニア国物語』でも有名なC・S・ルイス曰く、最もありふれた愛のひとつである愛着ストルゲーは、その対象を選ばないという。才気溢れる若者が年老いた乳母を愛するように、愛着は馴染みのものに対してか、あるいはそのものとの間に生まれる感情とされる。そして強靭な愛着は、お互いをお互いのために誂えた特別な存在とまで錯覚させる。


 しかしそれは、決して穏やかで麗しいだけの感情ではない。


 愛着はその性質ゆえに、極めて理不尽な形に変化し発露するともされる。自分の粗暴な振る舞いを棚に上げながら、なお馴染みの相手からは無条件に愛されるべきと思い込む。それまですべての体験を共有してきた兄弟の片方が、突如としてし始めれば、残された半身は嫉妬を募らせる。


 ――愛着とは、つまるところ依存であり、執着にほかならない。


 あのふたりの間にあったものが、姉妹愛と言えるのかは分からない。だがふたりはその愛を肯定することで、心臓痕硝子への恐怖――少女Sの呪いを断ち切った。


 愛着によって境界を踏み超えたふたりは、へと至ったのだ。


「――恐れていた、ね。

 結局ふたりは、呪いの実在を信じていたのかな。前から訊いてみたかったんだが、そのあたり貴家はどうなんだ?

 君は本当に、少女Sなんてものがいると思っているのかい?」


 無神経に訊いた女を睨みつける。神代は言いわけするかのように、自分の両手を盾に見立てて、わたしの視線を遮った。


 この女はいつもそうだ。軽薄な笑みを浮かべたまま、他人ひとの柔らかい内側に触れようとする。


 そんな奴に、馬鹿正直に付き合ってやる必要はない。


「『人間は死後、火炎地獄で苦しめられるのではなく、暗い墓の中に横たわるはずです』」


「エンデだっけ?」


「イーザウだよ。知っててやってるだろ」


 手にした本の著者名を見せつけると、神代は馬鹿みたいにけらけらと笑った。この女、意外にも児童文学に通じているらしい。


「だから、幽霊なんかいるわけないって?」


「――硝子は、今はもう墓の中だ」


 棺で眠る彼女を夢想する。


 わたしは硝子の最期の言葉を知っているけれど、彼女の死に顔は知らなかった。この学院でそれを見ることができたのは、鈴白たち一部の教職員だけだろう。葬儀も縁者のみでごくささやかに行われたと聞いている。


 日本では大抵の自治体で土葬が禁じられているから、カトリックであった硝子も、実際は遺体を焼かれたのだろうか。それを思うと少し忍びなかったが、そもそもカトリックにおいて自殺は忌避されている。


 教えに背いた彼女にとっては、自分が死んだあとに焼かれようが埋められようが、どちらでも良かったのかもしれない。


 物思いに耽り出したわたしに呆れたのか、今度は神代が溜息を吐いた。


「これも君らしいというか、また随分迂遠な言い回しだ。

 ヘブル書でも引いて、人は死後裁きにあうゆえ幽霊など現れようがないと言えば、よっぽど早いだろうに」


「わたしはキリスト教徒じゃない。裁きだって信じてねぇよ」


 拙もさ、と神代が嘯いた。そんな女が何故聖餐式で侍者を務めているのか、尋ねたところできっとまともな答えは帰って来ないだろう。


「だがしかし、今回ばかりは事件の方が君以上にまだるっこしかったな。

 天使に少女Sにサマリア会。雑音ノイズだらけで、調べるのも大変だったろう」


 他人事ひ と ごと同然に言って神代が立ち上がる。それからそばまでやって来ると、わたしの肩を軽く叩いて労った。


 訊きたいことは訊き終えたのか。彼女をそのまま踵を返し、立ち去ろうとする。


 ――だが、それを黙って見逃してやるほど、わたしは寛容ではなかった。


「そうだな。サマリア会は眉唾だった。

 だからお前も良いように使ったんだ」


 神代が、歩みを止める。


 長い髪を靡かせ振り返った彼女は、大仰にも左手を水平に差し出すと、右手でお腹を支えながら軽く腰を折った。嫌味ったらしい紳士の礼ボウアンドスクレイプだ。


「何の話かな、名探偵?」


「言ったはずだ。詳しく訊かせてもらうと。

 ――首は、洗ってきたばかりだろう?」


 鋭い舌打ちのあと、神代は体を起こして向き直った。


「忘れてくれちゃあいなかったか。

 仕方ないな。何でも訊いてくれ給えよ――と言いたいところだが、はてさて。

 良いように、とはどういうことだい?」


「惚けるな。

 お前が末奈先輩にサマリア会の話を吹き込んだことだ」


 わたしの言葉を、神代は鼻で笑った。

 

「おいおい、吹き込んだなんて人聞きの悪い。

 前にも言ったろう。訊かれたから答えただけさ。深い意味はないし、大したことだって話しちゃいないよ」


「嘘だ。末奈先輩は、お前にミナ先輩のことを相談しに来るよう

 そしてお前は、末奈先輩の現実逃避につけ込んで、ミナ先輩が売春をしていたと思い込ませた」


 そもそも、末奈が神代に姉の相談をしたこと自体違和感があった。姉妹と神代は以前から交流があったようだが、単に神代の調査能力や人脈に期待していたのなら、より適当な人材がいたはずだ。


 姉妹の同級生にして、前生徒会長。姉妹と神代が知り合うきっかけだったという生徒――学院一の才女である鹿毛綾香か げ あや かに。


 末奈は自分から神代に話を持ちかけたと記憶していたが、彼女でなければならない理由については特に語らなかった。神代祭が姉の異常に気づいていて、探りを入れたからこそ、末奈も口を滑らせたのではないか。


「君こそ随分な思い込みだな、名探偵。

 そういう与太は、一体どうしたら思いつくんだい?」


「お前がボロを出すからだよ、道化師。

 確か――聖堂の鍵は、つい開けておいたんだったか?」


 売春の噂と聖堂での狂騒。そのいずれもが、碓氷ミナの症状と少女Sの呪いの関連を否定するものだ。


 神代は何も答えず、しかしまだあの不愉快な薄ら笑いを浮かべていた。


「そんな下らないミスを、お前が立て続けに犯すとは思えない。

 ――道化とは、本来演じるものだ。

 お前には意図があったんだ。周囲を欺きながら、偶然を装いながら、


 仮にもし、ミナの症状が違う経緯で露見していたら、多くの者はサマリア会の――売春の噂を信じただろうか。それとも今と同じように、ミナの主張通り聖霊の働きと思っただろうか。


 かつて存在していた『きサマリア人の会』という奉仕団体が、今も密かに生き残っていて、陰で生徒たちの売春を斡旋している。そういった噂が流れているのは確からしい。また聖霊の働きも、上手く火が付きさえすれば、この学院においてはそれなりに支持されていただろう。


 だがわたしとミナは、胎児の影が少女Sの呪いへ転じることを何よりも懸念した。少女Sこそが学院で最も強力な物語であり、実際末奈はあの胎児を少女Sと重ねていた。曖昧な噂話に尾ひれが付けば、気づかぬうちに少女Sの呪いとして書き換えられてしまうかもしれなかった。


 だからこそ、ミナはあの胎児を聖堂で投影した。確かにあの胎児は少女Sの呪いから出来ていたが、それ故に少女Sではなかった。あれはふたりによって損なわれていたから、ではなかったから。


 わたしがあれを胎児と認識したのが何よりの証だ。僅かでも欠けていた時点で、心臓痕硝子とは。わたしや姉妹以外――それまで少女Sを視たことがない者、生前の硝子を知らない者からすれば、胎児以外の何者にも視えなかったはずだ。そのことをはっきり示してやれば、新たな少女Sの物語が生まれることもないと、碓氷ミナは考えたのだ。


 神代がそのことを理解していたとは思わない。この女には。だが、碓氷姉妹が何かを視ていたことだけは知っていた。彼女にとってはどちらでも良かったのだろう。ただ碓氷ミナの症状が、少女Sの呪いとして広まらなければ良かった。より強固な幻想で上書きできるならそれで構わなかった。だからミナの提案を受け入れ、聖堂の鍵を開け放したのだろう。


 わたしの勝手な想像に、神代が一層口角を上げる。


「誤解だ。買い被りだよ。偶然さ。君の言うことには、何ひとつ裏付けがないじゃないか。

 それにさ名探偵。仮に君の言う通り偶然でなかったとして、一体何が問題なんだ?

 君の推理では、どうやら拙は呪いを押しとどめようとしていたらしいじゃないか。であれば呪いを解体し消し去ろうという君とは、目的と手段に違いこそあれど、決して反目し合う関係ではないはずだ。

 実際、拙は今まで君にずっと協力してきた」


「協力? 笑わせるなよ。利用の間違いだろう。目的のために、事実まで捻じ曲げようとするお前と一緒にするな。

 それに、お前は呪いを押し止めようとしているんじゃない。呪いすらも利用しようとしているんだ。だから、お前は筋書きから外れかけた呪いの流れを制御しようとした。

 わたしに手を貸すフリをしながら欺いていたのも、本当に隠したいものが、少女Sの呪いと、サマリア会の噂の向こう側にあったからだ。

 ――わたしの言葉には裏付けがないと言ったな。だが、お前はこれを知っていたはずだ」


 ワンピースのポケットからメモを取り出し、卓上に伏せて顎で示す。神代はわたしの顔と紙切れとを見比べていたが、結局こちらまで戻って来て、それを手に取った。


 軽く目を通したあと、神代はわたしの顔を見て、わざとらしく吹き出した。


「おいおいおい! ひょっとして拙を馬鹿にしているのかい?

 こんなもの、! これはうちの生徒の名前だ。瀧澤と百城に至ってはクラスメイトじゃないか。

 まさか君は、そんなことすら忘れてしまったと?」


 神代はメモを放り捨て、大袈裟に額を抑えた。彼女の言うことは何も間違ってはいない。


 葦原仁花あし ばら ひと か


 黒姫円くろ ひめ まどか


 見城澪み しろ れい


 瀧澤繊たき ざわ せん


 百城乃絵もも しろ の え


 メモには五人の生徒の名が記されている。だが、わたしが指摘しているのはそんな当たり前のことでは断じてない。


「道化ぶるのも大概にしろ。クラスメイトだろうが。

 これは退学者の名前だ。去年の九月から今年の三月までにかけてのな。お前がそれを知らないはずがない」


 葦原、黒姫、見城の三人は当時の二年、つまりこの情報を齎した碓氷ミナと同級だ。それ以上はまだ遡れていないが、当時の三年を調べれば、もう何人かメモに名前が加わるだろう。


「勿論、知っているとも。

 しかし何度も言うようだが、これがどうしたと言うんだい? ただの退学じゃないか」


「――この調子じゃ、当時の三年も二、三人は辞めているんだろう。

 学院生徒のおよそ十分の一が半年でいなくなっても不自然ではないと?」


 神代は右手の人差し指を振って、チッチッと細かく舌を鳴らした。


「この学院じゃなければ、不自然だったかも知れないね。

 ここでは異常が日常さ。心に問題を抱えた子女を広く受け容れながら、挙げ句自殺者を出した学院だぞ? 君だって、そうした問題児のひとりだろうに。

 それに――これも君が一番よく分かっているだろう?

 死んだのは、心臓痕硝子だ。

 むしろ、今まで後追いのひとりも出さずに済んでいることは奇跡と言っても良い」


 神代の言うことは尤もらしく聞こえた。


 だがそれは、本当に誰も後を追っていなければの話だ。退学した生徒たちがどこで何をしているかなんて、簡単に調べがつくはずがない。


 そしてこの学院には、未だ少女Sの呪いが残留している。結果的に後を追わずに済んだとしても、少女Sの呪い――少女Sへの恐れによって過ちを冒した者を、わたしは今まで何人も見てきた。


「――お前は今、退学した生徒たちが少女Sに呪われていたと、確かにそう言ったな」


 目の前のこの女も、そうしたうちのひとりではないのか。

 

「言葉尻を捉えるのはよせよ。時期的にそういう噂があるだけさ。彼女たちは少女Sへの恐れから心身の均衡を欠いてしまったとね。これを後を追ったと表現したいのなら好きにし給え。

 いずれにせよ、拙はただの噂好きの野次馬だよ。退学の本当の理由なんて知ったことじゃないさ」


「そうか。だが彼女たちはこうも言われているはずだ。サマリア会と関係していたから――売春が露見したから退させられたと。

 さて、どこで聞いた話だったかな?」


「さぁ、知らないね」

 

「ミナ先輩もそうなる予定だったのか?」


 神代の顔から、ついに笑みが消える。


 彼女は何も答えない。切れ長の双眸が、探るようにわたしを見据えていた。


「ミナ先輩はお前を――を疑っていたぞ。

 サマリア会の噂は、少女Sの呪いを打ち消すためだけじゃない。その先にある、彼女たちの退を覆い隠すために利用されたんだ。

 だからお前たちは、わたしにサマリア会のことも、退学者のことも話さなかった。わたしに問われてすぐに眉唾だと同調した。わたしからを隠すために」


 ――それこそが、碓氷ミナが対価として話したS


 ミナ自身、全貌を知っているわけではなかった。ミナが知っていたのは、のちに退する同級生――見城澪から教わった、とある怪談だけ。


 そしてミナは、あの五人と同じようにに願った。自分の肚に胎児の影が視えたとき、その正体を教えて欲しいと。密かに囁かれていた、異なる怪談の主たるに。


「成程ね。姉先輩の入れ知恵か。

 やられたよ。君より余程切れ者じゃないか」


 わたしを憎々しげに睨んだ神代が、負け惜しみのように吐き捨てた。


 ――ミナが何故未だ退学していないのか。その理由を断言するには尚早だ。だが、ここまでの筋書きを作った者がに隠れている。


 硝子の遺言を装った聖句を机に刻み込み、交霊会の流行を作り上げた者が。


 少女Sの呪いを拡散し、また別の物語で打ち消すことで、呪いの流れを操ろうとした者が。


 硝子の遺志を騙り、その死を冒涜した者が。


 ――こそ、わたしの仇に違いない。


 わたしはようやく、その忌み名を口にする。


「――とは、一体誰だ」



   *




 自室に戻ったが、もぬけの殻だった。

 

 辛うじて靴を脱いだものの、スリッパに履き替えることもせず、電気をつけることさえ忘れて、わたしはひとりきりの部屋の真ん中で、膝をついた。


 部屋にはただ、柔らかな一筋の光が差し込んでいる。見上げると、開け放したまま部屋の窓から、半分の月が覗いていた。


 ――面白い推理だったよ、名探偵――


 ――だが、正しさだけで人を動かせるだなんて幻想は、捨ててしまった方が良い――


 神代は、結局何ひとつ語らなかった。


 碓氷ミナの推測は、ある程度的を得ていたと思う。あるいは神代自身がそのマリアだったのかもしれない。それでも、彼女に口を割らせるには至らなかった。


 ――ああ。だからわたしは、あの娘を問い詰めるしかない――


 わたしがそう口にすると、神代は一瞬だが確かに色を失って、それから憐れむような目でこちらを見た。


 侮っていたのだろう。貴家いたみが親友を疑うはずはないと。疑いはすれど、問い詰めるような真似をするはずがないと。失った恋心より、続いていく友情を尊ぶはずだと、神代祭はそう思い込んでいた。


 彼女には、やはり。恋は盲目。一度でも硝子の瞳に囚われてしまえば、理性など邪魔になるだけだというのに


 ――あの娘は、わたしを真実から遠ざけようとしている。


 あの娘はいつだって、わたしを助けてくれた。ときには神代の依頼を仲介し、ときにはわたしの手足となって情報を集めた。あの娘がいなければ、わたしは今まで何ひとつ事を成せなかった。だからこそ、あの娘が何かを偽っていたとしても、わたしはすぐに気づけない。あの娘がサマリア会について自分から話してくれなかったことも、決して偶然ではないだろう。


 それでも、わたしはまだどこかであの娘を信じていた。だからわたしが尋ねれば、きっと答えてくれるはずだと、そう願わずにはいられなかった。


「――どこに行ったんだ、こんな時間に」


 呟きに答える者はない。消灯時間も迫っているというのに。


 部屋の静けさと夜風の穏やかさが、わたしから熱を奪い去って行く。


 それから、どのくらいの間座り込んでいたのだろう。


 不意に月光が遮られ、わたしはまた窓の方を視た。


 ――予感はあった。


 胸の高鳴りを抑えながら、わたしは彼女を幻視する。


「やっぱり驚かないのね。

 この場所で会うのは初めてなのに」


 窓枠に腰掛けた晩夏の亡霊が、つまらなそうに口を尖らせる。


 月の光を一身に集めたかのような硝子かのじよの美しさは、まるでこの世のものとは思えなかった。


「――末奈先輩は、ミナ先輩にあの成り損ないを視ていた。宿

 その呪いを引き取ったんだ。当然、こうなると思っていたよ」


 薄暗い笑い声が、自分自身のものと気づくのに、そう時間はかからなかった。


 ――予感していたんじゃない。わたしはきっと、こうなることを期待していたのだ。


 愕然とする。わたしは今なお硝子に近づきたがっている。だからあのとき、羨ましいと感じたのか。


 傷つけ合いながらも引かれ合い、ついにはになってしまった、あの双子に。


 だが、それすらも愚かな考えだと言うように、彼女は首を横に振る。


「思い違いね。貴女があのふたりに向けていた感情それは、決して憧憬なんかじゃない。

 ――教えてあげましょうか? それは郷愁よ。

 何故なら彼女たちの地点を、貴女はうに通り過ぎている。貴女は既に境界を踏み越えているの」


 何を言われているのか、まるで分からなかった。わたし以外の誰にも、彼女の言葉を聞き取れはしないのに。


 窓枠から降り立った彼女が、静かにこちらへ歩いて来る。


「貴女が呪いを集めるのは、私のためなんかじゃない。

 皆の心から私を追い出して、私を独り占めしたいだけ」


 違う、とは言えなかった。既に魅入られていたのか、わたしは瞬きひとつできなかった。


 ――心臓痕硝子の死。不可解な屋上の密室。


 あの日死のうとしたわたしに、彼女は何を告げ、彼女が死んだあと、わたしは何故あの扉を鎖したのか。


 分かっている。わたしはわたし自身の醜さを、誰よりも理解している。


「碓氷姉妹は嘘を吐いていた。

 互いを傷つけ合うための嘘を」


 美しい女を象った影が、足音も立てずに迫り来る。


「神代さんは嘘を吐いていた。

 貴女を真実から遠ざけるための嘘を」


 黒絹のような長い髪が、月の光を弾いている。青白い肢体に見える凹凸のひとつひとつが、酷く情欲を掻き立てる。


 


 その事実を突きつけられてなお、わたしはあの淫らな瞳に釘付けだった。


 ――唐突に、硝子の顔が目の前に現れる。


 心臓が、止まってしまうかと思った。彼女はただ、床に腰を下ろしただけだ。それでも、硝子がこうして目の前に在るだけで、わたしはみっともないくらい取り乱してしまう。


 枝毛ひとつない髪。作為的に整った目鼻立ち。長い睫毛。夜の海を湛えた瞳が揺れている。


 動揺するわたしの顔が可笑しかったのか。それともじろじろと見られたことが気恥ずかしかったのか。硝子は可愛らしく頬を朱に染めて、はにかむように、笑った。

 

 ――その笑顔は、夕暮れの中にいた彼女とそっくりで。


 ――だからわたしは、今ここで死んでしまっても良いと、本気でそう思った。


「嘘、嘘、嘘、嘘、嘘。

 貴女の周りは嘘ばかりで、本当に嫌になる。

 でも大丈夫。私だけは貴女に嘘を吐かないわ。

 ――だって、私たちは


 歌う闇が、健気に身を寄せてくる。大好きな女の顔が、すぐ手の届くところにある。


 それから彼女のたおやかな指が、ゆっくりと近づいて来て、

 

 ――そして疾う疾う、わたしの顔に




「あ――――」


 

 突き刺すような冷たさが、脊髄まで染み込んで来る。



 触れたことがなかった/彼女の肌/


 パキパキと何かが割れていく音が/頭蓋に響く/


 たった一度の体験で/わたしの世界は粉々になる/


 このままでは/戻れなくなる/平衡感覚が狂う/自分がどこにいるのかも/分からなくなる/けれど硝子の瞳から/その奥に満ち満ちた夜の海から/自分の意志で目を逸らすことなんて/とてもできそうにない/彼女がわたしを見て/わたしが彼女を視ている/それ以上に重要なことは/この世界のどこにも/絶対に存在しようがない/硝子の瞳が/その奥の水が/微かに揺れている/夏服に隠れた身体を想像する/生きているときは/触れることすらできなかったその先を/今のわたしなら/好きに引き裂いて/破り捨てて/食べ散らかして/交わい尽くしても/良い/良い/良い良い/良いなら/良いなら/良いなら/良いなら/良いなら/良いなら良いなら良いなら良いなら良いなら良いなら良いなら良いなら良いなら良いなら良いなら良いなら良いなら良いなら良いなら良いなら良いなら良いなら良いなら――――



 ――良い。


 

 ――もう、何もかもがどうでも良い。



 少女Sの呪いも。



 まひろの嘘も。



 硝子の遺言も。



 ――だって、が、確かにここに存在しているのだから。



 そうして、意識の切れ端を手放そうとした刹那。



 ――ひらめく銀色の光が、


 ――視界を覆う闇を切り裂いた。



「たみちゃん。遅くなってごめん」


 女の姿が夜に溶け、正体を失くす。そして入れ替わるように、見知った少女が現れた。


 彼女の手に握られているのは、一振りのナイフ。刃に絡みついた穢れを払うように、彼女はもう一度大きくナイフを振るった。


 思考が形を結び、彼女の顔を見上げる。


 わたしと変わらない背丈。ふわふわの栗毛。星の光を孕んだ大きな瞳。


 ――わたしの知る中で、一番女の子らしい女の子。


 しかし今の彼女の雰囲気は、わたしとあの路地裏で初めて出会ったときと同じくらい、鋭く研ぎ澄まされている。


 その少女――曽我部まひろの腕が、わたしの身体を抱え起こした。




   *




「――まひろ。お前、視え、て」


 舌がもつれる。上手く言葉が出てこない。


 わたしの身体を支える彼女は、身に纏った鋭さはそのままに、それでいて優しく微笑んだ。


「うん。

 多分今だけじゃないかな。たみちゃんの不安が、あたしに伝染うつってるんだと思う。

 だけど――視えてさえいれば、どうとでもなる」


 まひろはそう言って白刃と、敵意に満ちた視線を月明かりへ向かわせる。刃の指し示す先で、あのおぞましい人形ひと がたの悪夢がわたしたちを見ていた。


 変性意識の伝播。幻覚の投影。彼女は元より、わたしが幻を視ていると知っていた。加えてつい先日、彼女はそれを聖堂で経験したばかりだ。


 そして今の場において、まひろの目は確かにわたしの視る幻を捉えていた。


「どうやら、騎士ナイトのご到着のようね」


 暗がりが意地悪く笑う。先ほどまでわたしを誘っていたその声が、今はただ恐ろしくて仕方なかった。


 震えるわたしを、まひろは強く抱き寄せなから、きつさきの亡霊をめつける。


「――消え失せろ。

 ここはあたしの部屋で、このはあたしのものだ。

 死人おまえになんか――貴家いたみあたしのものは渡さない」


 獣を思わせるまひろの唸りが、すぐ耳元で響く。


 縋り合うわたしたちを見て、興醒めしたように硝子は目を細めると、小さく嘆息した。


 吹き込んだ一陣の風に、わたしは思わず瞼を閉じる。


 ――そしてまた目を開いたとき、あんなにも恐ろしかった亡霊は、もうどこかへ消えてしまっていた。


 強張っていた身体が、心が、ふっとほぐれていく。緊張の糸が途切れたように、どうやっても力が入らない。


 すぐ隣に、親友の顔があった。彼女の鼓動を感じていると、段々と視界が温かに滲み出す。わたしの意志とは無関係に、ぼろぼろと、言葉が、想いが零れ落ちていく。


「わ、わた、まひろ、わたし――」


「大丈夫。分かってるから」


 分かってない。まひろにわたしのことが分かるはずない。


 わたしはこんなにも、まひろのことが嫌いなのに。今すぐにでも振り払って、逃げ出したいと思っているのに。


 それでも、今のわたしにはそんな力すら残っていなくて、ただまひろの腕にいだかれていた。


「嘘ばかり吐いて、ごめん。

 を破ろうとして、ごめん。

 全部、全部、ごめん――なさい――」


 ――あの日、まひろと交わした旧い約束は何より尊いはずだったのに。


 ――今はもう、硝子との新しい約束しか頭になくて。


 だからわたしは、彼女に謝るほかなかった。

 

「あたしもごめん。

 嘘を吐かせて、ごめん。

 何も言ってあげられなくて、ごめん」


 背中を抱く力が、より一層強くなる。まひろの身体の温かさは、かえって硝子の指先の冷たさを思い出させて、余計に切なかった。


「忘れさせてあげるから。死んだ女のことなんて、二度と思い出さずに済むように」


 ――まひろには、わたしのことは分からない。


 それと同じように、わたしにもまひろのことは分からない。嘘を吐いているのはわたしだけじゃない。まひろだって、わたしに隠しごとをしている。


「たみちゃんは、あたしが守る。

 ほかのすべてを引き換えにしても、絶対に」


 けれど今だけは、彼女の言葉ほんとうを信じたかった。




   ◇



 

 ――夢から醒めて、暗闇が戻って来る。

 

 いつの間にか、眠っていたらしい。背もたれの感触から、自室の椅子に腰掛けていると分かった。


 腕時計のボタンを押して、音声機能で日時を確かめる。六月十日午後十時十一分。十時前までは記憶があるから、居眠りと言ってもほんの十数分だ。


 デスクに開いてあった点字聖書に触れる。ヨハネ福音書第九章。イエスが奇跡によって盲人を癒やす場面だった。


 ――生まれたときから全盲の私は、見るという感覚を知らない。


 だから何故夢をと言うのか、本当のところよく分かっていない。私にとっての夢は、ここにある現実と同じように、ただ音がして、匂いあって、手触りのするものでしかないのだから。


 ――それでも、先程までの暗闇と、今ここにある暗闇は、確かに異なっているように思えた。


 夜闇に紛れた微かな音に、産毛が小さく震える。風のとも、生徒たちのひそひそとした話し声とも違う。誰かが息を殺しながら、この部屋に近づいて来る。


 気配を探ることに専心する。私が聞き、感じ取っているのは、息遣いであり、衣擦れであり、踵が床を叩く音であり、それに洗髪剤と汗の匂い。私にとってはそれこそ他者という存在であり、その違いはきっと、目で見るよりも明らかだ。


 だから、壁を一枚隔てた向こうに潜む誰かの正体など、私に分からないはずがなかった。

 

「入れ」


 私が声をかけると、扉の前にいた彼女は一瞬ピタリを動きを止めたが、結局いつもの調子で入室して来た。


「ノックする前に声をかけるの、やめてくださいよ。心臓に悪いったらありゃしない」


 その生徒――神代祭が、心底嫌そうな声で恨み言を口にした。今日こそ私を驚かそうと、忍び足でやって来たくせに。


「消灯直前にコソコソと訪ねて来る輩の台詞じゃないだろう。

 それで、こんな時間に一体何の用だ」


「やだなぁ、そんなに恐い声出さなくたって。ホウレンソウですよ、報連相ホウ レン ソウ


 神代は媚びた声でそう答えると、部屋の照明をつけて、それから中央に配してある応接用のソファに勢い良く腰掛けた。座るように促した覚えはないのだが、自己中心的な生徒よりも、微かに舞う埃の匂いが気にかかった。あまり来客がないとはいえ、不覚にも掃除が行き届いていなかったらしい。座った当人は、どうやらまったく気にしていないようだが。


「まず一点。姉妹についてですが、貴家が上手くやってくれました。万事が万事、とは行かなかったようですが、こちらとしてはこのままでも構いません。

 あとのことは、先生の判断にお任せします」


「――そうか。それは良かった」


 彼女を関わらせることに納得しているわけではないが、憂いがひとつ減ったことは純粋に喜ばしかった。無論、予後の観察が必要である以上、まだまだ油断はできない。


 だがしかし、続く言葉に私は耳を疑った。


「もう一点。貴家いたみが懺悔室の存在に気づきました。

 とはいえ、まだマリアの名を知ったくらいで、その示すところには気がついていないようですが」


 しばし言葉を失う。そんな重大事を、欠片も悪びれる様子なく、まるでなんてことないように言ってのけた神代が、私には理解し難かった。 

 

「失態だな。

 あの娘を留め置くことがお前の役割だったはずだ」


 僅かな苛立ちを言葉に滲ませておく。私の声や仕草が、しばしば他人からは威圧的に感じられることを、私は経験上知っていた。


 しかし、その生徒は怯えた様子ひとつなく、相も変わらず飄々と私に応じた。


「勿論、分かっていますとも。

 一応約束ですから、ぼくだって努力はしましたがね。とはいえ元々無茶な注文です。

 あなただって、いつかはこうなると分かっていたでしょう?」


「――お前は、一体誰の味方なんだ」


 近頃の彼女の振る舞いは、正直


 聖堂での狂騒は予定になかった。あれは神代の独断だ。確かに効率の良い手段だったかも知れないが、危うく本末転倒になるところだった。彼女とて、そのリスクが分かっていなかったわけではないだろう。


 それでもなお、神代は煽り立てるように、私の問いを鼻で笑った。


「愚問ですね。ご存知のはずです。

 

 ――拙はね、本当は心臓痕のことだって、どうでも良いと思っているんですよ」


 そう言ってすぐ、神代は息を呑んだ。どうやら自分自身の言葉に驚いているらしい。私相手に、少しだって本音で話すつもりはなかったのだろう。彼女は口を滑らせたのだ。


 決まり悪そうに頬を掻く音がして、それからまた来たときと同じように、神代は勢い良く席を立った。

 

「では先生、お休みなさい。

 ――にも、どうぞよろしく」


 年相応に照れ隠しを言って、神代は律儀に照明を切ってから退室した。


 ――真っ暗な部屋には、私とだけが取り残された。


「蝙蝠が。

 視えてもいないくせに、何を言っているのだか」


 溜息を吐きながら、傍らのに語りかける。

 

 ――私は見るという感覚を知らない。


 私が知っているのは、匂いを嗅ぐこと。音を聞くこと。ものに触れること。


 それから、


「――また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように」


 ヘブル書の一節を暗唱する。人は死後、必ず裁きを受ける。だからこんなところに死者が留まっているはずがない。


 しかしは何も答えずに、ただ黙ったまま、机上の一点をじつと見つめていた。


 真逆ま さか、妬いているのだろうか。微笑ましく思いながら、私は彼女の見ているそれを手に取った。


 硬い感触。古びた銀の匂い。あの人から受け継いだロケットの中には、かつてあの人と、幼い私の写真が収められているはずだ。


 私には、それを目で見て確かめることができないけれど。


「――――」


 今は亡き師を想いながら、私――ズザンネ・シェーファーは、形見のロケットに口づけた。




『死が二人を別つから』

第二章「処女懐胎-Storge-」了

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