それでもこの冷えた手が

宇部 松清

お願い、お兄ちゃん

「もうっ! 何でお兄ちゃんが泣くのよ!」

「う、うるさいな。そりゃ泣くだろ」


 6月のある大安の日。

 純白のドレスに身を包んだ妹は、何だかとても大人の女性に見えた。いや、年齢的に、もう充分大人の女性になっていないとおかしいんだけど。


 だけれど、彼女はやっぱり妹なのだ。

 瞳を閉じれば、スーパーのビニール袋で作ったドレスでキャッキャとはしゃいでいたあの頃の妹の姿が浮かぶ。


『にいに! さーちゃんおひめさまなの!』


 妹は――紗礼さあやは、ガサガサと音を立てながらくるくると回り、ついでに目も回ってしまったのか、よたよたと左右にふらついている。そんなシーンまで、鮮明に。


『さーちゃん、かわいいね』


 そんなおべっかを言えば、紗礼はうんと気を良くして、


『それじゃあ、にいにをおうじさまにしてあげる!』


 なんてことも言ってくれたっけ。


 いつもとことこと俺の後ろをついて歩き、あれをしてこれをしてと指図をする。

 要求が通れば満足そうに笑みを浮かべ、通らなければ真っ赤な顔でわんわんと泣く。


 わがまま放題に育った、天真爛漫な我が妹。


 その妹が、結婚する。

 お相手は、同じ職場の先輩らしい。俺の2つ下で、紗礼よりは1つ上である。


 こんなにわがままな妹と添い遂げようってんだからな、めちゃくちゃ忍耐強いか、それとも底抜けのドМか、だ。


 でも、どんなヤツだと聞いた時、紗礼は「お兄ちゃんに似てる人!」と即答したのである。ということは、ええと、うん、めちゃくちゃ忍耐強いってことだな、そうかそうか。


「でも、何で俺なんだよ」


 込み上げてくる涙を拭ってそう言うと、紗礼はきれいに塗ってもらった桜色の唇をつんと尖らせた。


「何がよ」

「普通、花嫁のエスコートっていったら、父親がやるもんだろ?」

「そうだけど」

「父さんだってそれを期待してたんじゃないのか?」

「いや? ぜーんぜん。結構ガチで断られたよ。恥ずかしいって」


 と、ブーケに視線を落とす。

 ウチは花屋だ。

 だからもちろん、この式の花は全部ウチでやった。特にこいつブーケは父さんの渾身の作品だ。


「まぁ、父さんらしいっちゃあらしいけど」

「でしょ。これだけで充分だって。夢だったみたいだよ? 娘が自分のブーケ持ってお嫁に行くの」

「でもそれ投げるんだろ?」

「投げるわけないじゃん。父さんのブーケだよ? そのためにプリザーブドフラワーにしてもらったんだから」

「お前なぁ……。ブーケトスを楽しみにしてる人もいるんじゃないのか?」

「へっへぇん、ちゃんと投げる用のも用意してますぅ~、だ」


 わざとらしく白目を剥き、べろべろと舌を出す。


「くっそ、小憎たらしい顔しやがって……」


 ぎろりと睨みつけてやると、紗礼はそんな俺を見てけらけらと笑った。


「昔っからこの顔だもぉん」


 なんて言って。


「ふん」


 まったくこの妹は。

 大人になっても、嫁に行くって段階になっても、ちっともしおらしくなりゃしない。

 いつも俺を振り回して。いつも俺ばかり頼って。いつもいつもいつもいつもお兄ちゃんお兄ちゃんって。


「お兄ちゃん」

「……何だよ」

「いつもありがとう」

「……おう」

「私、お嫁に行くね」

「……それは父さんと母さんに言えよ」

「言うけど。でも、私は一番お兄ちゃんが好きだから」

「……そうか」


 止めろよ。

 急にそんなこと言うなよ。

 せっかく涙が引っ込んだところだったのに。


「私、お兄ちゃんの妹で良かった」

「……旦那と喧嘩したらいつでも帰って来い」

「わかった」


 背筋を伸ばし、紗礼はまっすぐ前を見ている。

 俺と紗礼の目の前には大きな扉があって、その向こうには新郎が待っている。

 合図があったら、この扉が開いて、それで、紗礼は俺の腕を掴んで歩くんだ。

 本当はお父様にしていただくのが一般的なんですけど――なんて、担当さんも言ってたけど、紗礼が頑として譲らなかったのだ。絶対お兄ちゃんが良いのって。ほら、我が家では紗礼のわがままはほぼ100%通るようになってるからさ。


「ご準備はよろしいですか」


 パンツスーツの女性スタッフが、小さな声で問いかけて来る。


「はい」


 返事をしたのは紗礼だ。

 そりゃそうだ。主役はこっちなんだから。


「お兄様も、よろしいでしょうか」

「――え、あ、はい」


 何だ、俺にも聞かれるのか。


「では、開けます。花嫁さん、お手を」


 と、その女性スタッフが扉に手をかける。紗礼は「はい」と、俺の腕に触れ――、「いや」と言い直して、俺の腕をぐい、と引っ張った。


 その行動に俺も、扉を開けようと準備していた女性も「え?」と声を上げた。扉の向こうに聞こえるほどの音量ではなかったけれども。


「お兄ちゃん、手を繋いでいこうよ」

「はぁ? いや、花嫁のエスコートっていったら普通――」

「良いの。昔みたいに。お願い!」


 こんな時でもいつものようにわがままを言うのかと、「あのなぁ」と多少きつめに窘めようとした時だ。

 まっすぐ扉を見つめていた紗礼が、俺の方を見た。


 目にいっぱい涙を溜めて。


「お願い、お兄ちゃん」

「ちょ、お前……! 泣くなよ! 式これからだぞ?」

「昔みたいに手を繋いで。私のこと、引っ張っていってよぉ……」

「わ、わかったから! 泣くな! 泣くなって!」

「うわぁん、お兄ちゃあん!」

「お、おい!」


 結局俺は、昔のようにめそめそと泣く紗礼の手を引いて、バージンロードってヤツを歩くことになった。ごく少人数の小さな式だから、小さい頃の俺と紗礼を知っている親戚のオバちゃん達は「あらあら」なんて笑っていた。


 さっきまであんなに小憎たらしい顔で生意気なことを言っていた紗礼の手は、緊張のせいか指先まで冷たくなっていて、小さく震えている。


 どこに行くにも、この手を引いて来たんだ。

 はぐれないように、心細くないように。

 けれどこの手はもうじき俺の手を離れていってしまう。

 寂しくないと言ったら嘘になる。

 

 それでも。

 この手を離さなくてはならないのだ。

 俺も、紗礼も。 

 

 大丈夫だ紗礼。

 もうお前はお嫁に行くけど、俺はいつまでもお前の兄ちゃんだし、ほら、お前みたいなわがまま娘をもらってくれる旦那さんもいる。俺に似てるんだろ? だったら安心だ。きっとお前のわがままも全部聞いてくれるんだろ。

 それでももし、泣かされたりしたら、兄ちゃんにいつでも言え。いつだって飛んで行って、あいつのことぶん殴ってやるからな。


 小さな声でそう言うと、紗礼は、うん、うん、と何度も小さく頷いた。


 一歩、また一歩と新郎に近付く。

 俺よりちょっと背の高いそいつは、泣いている紗礼を見て心配そうな顔をして、打ち合わせ通りに手を伸ばしている。その手の上に紗礼の手を乗せると、俺の役目は終了だ。


「妹を頼むぞ」


 その声は震えていたかもしれない。情けないよな、兄貴なのに。

 だけど、


「任せてください」


 そいつの声も震えていた。

 そうだよな、だって俺に似てるんだもんな。


 2人に一礼し、くるりと回れ右をして列席の方々に深く頭を下げる。そうしてから自分の席に戻ると、さっきまで泣いていた紗礼は、ちょっと余所行きのつんと澄ました顔になっていた。


 そうだ。

 小学校の入学式とか、ピアノの発表会とか、ちょっと良い服を着た時に、あいつはいつもあんな顔をするんだ。


 そんなことを思い出して、再び滲んで来た涙を拭った。


 結婚、おめでとう。

 

 

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