S.Fujino 2044 / 2042
私は実に三日間に渡り、VRカプセルに閉じ込められていたらしい。安全性が未確認の最新型時間感覚アクセラレータで時間感覚を数百倍に引き伸ばし、場面同士を仮想記憶で糊付けして不連続観を帳消しにするコネクタで数年に及ぶ物語を生成し、自分自身が死んだはずのジュリアの未来の姿になったことに違和感を覚えないよう前頭前野の働きをパルス発生器で抑制して、夢見の心地にさせていたようだ。だから、〈プロテウスの祝福〉の開発を誰よりも熱狂的に行っていたはずの私が、VRに懐疑的な視点を持っていたことに、疑問すら抱かなかった。
あの後、私はあっさり家に帰された。彼らの作ったVR〈自由意志の砦〉はプログラムを完遂することなく強制終了されたが、もう既に、その効果が出る段階は過ぎたという。目が覚めると、ジュリアもグレーテもいない、がらんどうの渋谷の自宅マンションに私は寝かされていた。柔らかい羽毛に包まれているのを私の触覚は捉え、私の温覚はその温もりを感じていた。
まずはVR社に連絡を入れようとした。そこで、私自身のアカウントから社内チャットシステムを通して五日間の有給申請がなされ、それが受理されたとの返信があったのに気付いた。彼らの仕業だ。
彼らが侵入したとされる窓ガラスに穴はなかった。窓ガラスをなぞる私の指の触覚は、そこに傷も埃も微塵もないことを教えてくれる。新品に取り換えたようだ。それが分かると、不思議と通報する気概すら失せていた。
ジュリアが殺されて、すれ違ったグレーテが出ていって、この家に住むのは私一人になった。彼女たちの残り香は窓から入る風たちがさらって行って、私の聴覚に刻まれた談笑も、私の視覚に焼き付いたグレーテがジュリアの黄金色の髪を梳く幻も、すべて時に流されていった。そのはずなのに、この三日間見させられていた「現実」が、消えたはずの幻影を再び私に思い起こさせた。
壁にかけられた一歳のジュリアの足型を見れば、当時の私が覚えた父親としての自覚と温かい幸せとが、記憶の蓋を突き破って心の中を満たしていくのを、私の名前のない何かの覚が感じる。革の禿げつつあるソファを見れば、四歳のおてんばのジュリアたちがダイブする幻が幾重にも重なって、視覚を乱す。ダイニングテーブルの角のへこみを見れば、六歳のやんちゃなジュリアが頭をぶつけて発した世紀末の叫びが再び聴覚を震わせて、その夜に覚えた、黒くて重たい岩に押しつぶされるような圧迫感を触覚が思い出す。冷蔵庫を開けて、その冷気を掻き切ってグレープフルーツを取り出すと、ジュリアの喜びそうな匂いに嗅覚が、ジュリアが興奮しそうな味に味覚が、大きな歓声を上げる。何を見ても、何を聞いても、何に触れても、その度に、モノクロの世界に色の奔流が花咲くような気がした。
そして、その仏壇を見れば、八歳の誕生日を迎えた翌日、無言で帰宅したジュリアの頬の冷たさに心が穿たれた痛みが、またも私の心臓の古傷を抉った。
温かい記憶と、冷たい記憶と。温覚の失われた五感VRでは認知することのなかった正弦波が、私の頭を大きく揺さぶっていた。二年前度々私を襲ったそれに、私は徐々に鈍感になることで、心の平穏を保つようになった。私がジュリアの仏壇に線香をあげるのは、ジュリアの死を悼み、安らかな眠りを願ってではない。ルーティーンだ。私を揺さぶる余弦波が日常になれば、やがて私はそれを感情の起伏とはみなさなくなる。それが私の適応だった。
摩耗して鈍感になったはずの私なのに、遺影の中で笑う八歳のジュリアを見たとき、堰き止めていた何かがすべて決壊する音を私の聴覚は捉えた。
――反VRを抑制する奇策?
ジュリアの死から二か月後、温情でいただいた長期休暇から復帰した私はヤング社長にとあるプロジェクトの提案をした。仮想ミーティングルーム一番で、平時より二.三センチ低い身長のアバター〈ヤング〉は顎を撫でる仕草をしてみせた。
――それは本当に可能なのか。
――やってみせます。
私は断言した。
当時、治療用VRも教育用VRもその効果が世に浸透し、VR社の株価はここ五年で二倍になっていた。優秀なVR技術者を数多くヘッドハンティングし、一躍VRコンテンツメーカーの旗手に躍り出ていた。とりわけ、治療用VRは世界全体の犯罪率を二割も減らす活躍ぶりだった。犯罪者には刑罰ではなく、適切な治療を――そのスローガンの下、世界全体で犯罪を起こしうる脳の神経治療の技術開発が進む中、神経学的な治療方法は思わぬ副産物を生み出した。原因不明の躁鬱症候群だ。こうして神経脳科学に基づく〈治療〉はその権威を失い、空いた玉座に滑り込んだのが治療用VRだった。
性的暴行被害者への〈
しかし、順風満帆とは言えない状況だった。根強く残る反VR主義者の影響で、多くの国で、治療法の選択権は加害者側にあった。治療用VRを用いたプログラムを受けて刑期を短くするか、刑期を全うするか。当時の日本では犯罪者の半数がVRプログラムを拒否した。
そして、性犯罪で逮捕されるも、治療用VRを拒否し、刑期を全うして出所したある男がいた。彼は出所した翌日、下校途中だった八歳のジュリアを誘拐し、服を剥ぎ、強姦し、殺した。男は反省する素振りすら見せなかった。再逮捕後も、男は治療用VRを拒否し、刑務所にいる。
――治療用、教育用VRを世に浸透させるためには、蔓延るVR嫌悪を払拭する必要があります。
私はヤング社長に訴え続けた。ジュリアの事件を知っているだけに、彼は曖昧に頷くだけだった。
――そのためには、VR嫌悪を〈治療〉する治療用VRを作る必要があるんです。
そのときのヤング社長の顔を、私はよく覚えていない。けれども、きっとアバター〈ヤング〉は目を見開いて、後退りしたにし違いない。
――VR嫌悪は望ましくないが、病気じゃない。
ああ、そうだ。そのセリフには聞き覚えがあった。私が仮想の十年のどこかで、ジュリアに吐いたセリフだ。吐いたのは私じゃない。吐かれたのが私だったのだ。その後、どうにかして社長を説得した私はプロジェクトリーダーに任命されたのだった。
反VR主義抑制教育用VR〈プロテウスの祝福〉。
その開発を行うプロジェクト・プロテウスこそ、私がジュリアに出来る唯一の手向けであり、ジュリアを死なせずに済む可能性を拒んだこの世界に対する復讐だった。このVRで反VR主義をすべからく抹殺し、その悪しき使途をことごとく啓蒙する。
そして世界に太平が訪れ、藤野ジュリアは最後の殉教者となる。
〈プロテウスの祝福〉の開発は順調に進んだ。多くの治療用、教育用VRコンテンツを開発、販売、管理してきたVR社にはVRがもたらす影響に関する知見が他のどの企業、大学よりも揃っていた。私たちは過去の被験者や現在のVRコンテンツ利用者のデータの中から、VRへの好感度を抽出した。VRコンテンツの利用によって、どれくらいVRに対する好感度が変化したのか調べたのだ。
中でも効果が大きかったのが、心的外傷を負った患者に受けさせる治療用VRだった。元々VRに好意的な人やニュートラルな考え方の人はもちろん、反VR的思考の人にもその効果は強く見られた。
その知見が得られるや否や、チームは〈プロテウスの祝福〉の骨格を決定した。コンテンツそのものを二部のパートに分け、第一部では心的外傷を負わせるパートを、第二部ではその治療によって回復していくパートを。そしてこれを無垢な子供たちに受けさせることで、後の世代は皆が好VR的になり、治療用VRの導入に反対する人は誰一人としていなくなる。第二のジュリアはもう生まれないのだ。
開発にのめり込み、一日平均で十六時間も五感VRカプセルでVR社本社にリモート出勤する私に呆れたグレーテが出ていったことを除けば、進捗はすこぶる快調だった。天国のジュリアが私に授けてくれた奇跡のようだった。
そしてチューニングを終え、〈プロテウスの祝福〉は最後の実証実験へとフェーズを進めた。そしてその最中、私は誘拐され、戻された。
最後の有給日、私は死んだように寝て、十四時を回った頃に起きた。長い長いVR体験で睡眠負債はたまりにたまっていたらしい。起き上がると、頭ががんがん鳴るのが聞こえた。体の重さを重力覚がしきりにアピールする。
私の有給期間中、部下たちが実験を進めてくれていたらしい。彼らに連絡を取ると、まだ有意とは言えないものの、感触のいい結果が得られているそうだ。その報告は、私が何よりも待ち望んでいたはずのものだった。それなのに、私の温覚は感情が沸き立つのを感知せず、冷覚が心中の平穏を告げていた。
食卓に座り、昼間だというのにヴァナ・タリンを並々とグラスに注いだ。五十度の熱が喉の温覚を焼き切って、脳内のニューロンに無数のスパークが走るのを私は見て、聞いて、触れた。平衡感覚はサンバを踊り、重力覚はスケート靴を履いてリンクでステップを刻み始める。
空になったグラスを乱雑に机に置くと、振動のうねりの隙間からジュリアがぷくりと産まれて私の足元をハイハイで進み始めた。泣きじゃくる一歳のジュリアが足型をとられている。思わず反対側に目を向けると、成長して二歳になったジュリアが隣の椅子に一生懸命昇ろうとしている。四歳のジュリアがテレビに映るアイドルの真似をしてダンスを踊っている。七歳のジュリアがグレーテに買ってもらった髪留めをして私にどう、と嬉しそうに見せびらかしてくる。八歳のジュリアは私の対面に座り、私みたいなVRエンジニアになりたいと夢を語る。十一歳のジュリアは〈
――私の育て方を間違えたと思ってる?
その幻影を切り払うように、私はグラスを投げた。ガラスが砕け散る音と共に、無数のジュリアたちは視界から消え失せた。
そんなことあるもんか。
私は消え失せた二十歳のジュリアの残像に向かって叫んだ。たとえどんな人間に育ったとしても、ジュリア、お前は私のたった一人の娘だ。育っていく姿を見られること程嬉しいことはない!
私は体面に座る八歳のジュリアの残像に手を伸ばした。きらきらした目で夢を語るジュリアのその小さな頭を撫でたかった。そのつややかな髪の感触を、暖かな肌の温度を、その吐息の音を、その笑顔の光景を、私の五感で、全感で、もう一度。
どうか。
有給が明けても、私は出勤する気になれなかった。VR社に退職届を出した。ヤング社長からの再三に渡る連絡が鬱陶しくて、心療内科に行った。人間の医師に、十年前に生まれて二年前に死んだ二十歳の娘との確執を訴えたら、ヤング社長を黙らせる沈黙の呪文がいっぱい書かれた診断書をもらえた。
疑問点はあった。VR〈自由意志の砦〉は確かによくできていた。優秀なVRエンジニアの手助けがなければ作れないような出来だった。現実感を増すために使われる数々の最新技術も惜しみなく投入されていたし、現実との乖離の少ないオブジェクトが多く登場した。私の身辺に詳しくて、高いVR技術を持った人間の協力がなければ作れない代物だった。
けれども、VR社の社員の中から犯人捜しをするつもりは毛頭なかった。きっと、〈自由意志の砦〉から大きな見返りを頂いていることだろうが、プロジェクトリーダーという立場や、一人暮らしには多すぎる給料に対する未練も、この「十年」の間にどこかへ置いてきてしまったようだった。
二週間後、ヤングから連絡が来た。〈プロテウスの祝福〉に関するデータのバックアップを取っていないかというものだった。私は面食らった。そんな機密情報を、善良で倫理的なエンジニアだった私がこっそり隠し持っている訳がなかった。ヤングがそんな背信的行為に一縷の望みを託しているような口ぶりだったから、私はすぐに悟った。〈自由意志の砦〉への協力者が内部で何かをやったのだ。
年末、シベリアの雪原で部下数名が遺体となって見つかったとのニュースを見た。恐らく、〈自由意志の砦〉の過激派に口封じのために殺されたか、あるいは――。事件は間もなく迷宮入りした。
年が明けて、ジュリアの十一回目の誕生日がやってきた。仮初の十年では、十一歳の誕生日に私は〈
極圏ではオーロラが前奏を奏で、欧州では光のネットワークが張り巡らされる。ベネズエラでは無数の雷鳴がビートを刻み、そして薄い大気の層の向こうから、新しい一日が顔を出す。
これを体感した十一歳のジュリアは国境とか、人種とかいう概念を毛嫌いするようになった。これを体感せずして死んだ八歳のジュリアは、宇宙から見た地球の大陸には国境が引かれていないことを知らない。これを体感したはずの十八歳のジュリアは、あるいは八歳のジュリアを失った私は、VRへの好感度で世界を二分する国境を引いて、向こうにいる人々をこちら側に引きずりこもうとしていた。
けれども、地球を何周しても、好VR国と反VR国の国境はどこにも見当たらなかった。
ブラックアウト。
ジュリアの十一回目の誕生日の翌日、あるいはジュリアの三回忌、私は一人ジュリアの墓参りに向かうため、五感VRカプセルに入った。
紙の広告が吊るされた、寂れたローカル線の無人駅で降りて、坂を上っていくと、斜面を切り開いて作られた共同墓地に辿り着く。その一角にジュリアの仮想墓はある。墓石の前に喪服のグレーテがいた。グレーテとは今も年に一度、ここでのみ会う。私たちの間に会話はなかった。別々に花を手向け、別々に線香を上げて、別々に坂を下って、同じ電車の別の車両に乗り込む。このまま、この列車がどこか遠い遠い国へと運んで行ってくれたらと思った。
ブラックアウト。
八歳になったばかりのジュリアが楽しそうに笑っていた。
私とグレーテは彼女に知育用VR〈
最初こそ不満げにしていたジュリアだったが、エベレストより高い山脈や、富士山程の落差の滝を創ったと語るジュリアの目はきらきらと光っていた。新しい世界に触れ、まだ見ぬ未来へと羽ばたこうとしている者の目だった。
「明日は何を創るんだ?」
「国をつくるの」
「どんな国?」
「戦争も、格差も、差別も、犯罪もなくてね、みんなが笑って幸せに暮らせる平和な国をつくるの」
「そうか、明日が楽しみだな」
「うん、楽しみ」
小さな頭を撫でた。つややかな髪の感触と、その吐息の音と、その笑顔の光景と。
そのすべてが私を満たした。
ブラックアウト。
プロテウスの祝福 瀧本無知 @TakimotoMuchi
★で称える
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