まだらなファジー・パープル

小谷杏子

まだらなファジー・パープル

 穂坂ほさか小路こみちは、阿呆あほだ。

 シンプルに阿呆。カタカナよりも漢字のほうが似合う。

「あーあ、ヒマですねぇ」

 屋上の手すりに体をあずけて、腕をぶらさげる小路。白い太陽に当たるショッキングピンクのボブヘアが一層まばゆい。

 ほら、髪の毛がピンクって時点で阿呆だ。

 小ぶりな鼻とアイプチでごまかした目も、髪色に似合ってなくて、ちぐはぐ。不釣合いで不気味。

「ねー、あおさん。しりとりしましょ、しりとり」

「なんで」

「で……でんしんばしら!」

「らいおん」

「ん……ん? あれ? 終わった!? なんで!?」

 無視しよう。うざい。

 私はカーディガンのポケットに手を突っ込み、小路の隣に立った。すると、風が大きく吹き荒れ、私の髪の毛をさらうようにかき上げる。

「ぶへっ! ちょ、蒼さん! 髪が顔に当たる!」

 どうも攻撃を受けたらしい。暴れる私の髪を、小路は優しく掴んだ。

「蒼さんの髪サラサラ。シャンプー、何使ってるんですか」

「リンスインシャンプー」

「ほえー、リンスインシャンプー……聞いたことないメーカー」

「だろうね」

 適当な返しなのに、受け入れてしまうんだから。

 だから、小路は阿呆なんだ。そして、そんな彼女を拒めない私は馬鹿なんだろう。

 後悔してる。

 というのも、彼女はあれから私にずっとつきまとってくるから。


 ***


 ただ、まどろっこしいな、と思った。

 だから、ショッキングピンクの頭にスポーツ飲料水をぶちまけてやった。

「ねぇ、そんなにこの子が嫌いならさ、これくらいのことしないと分かんないんじゃないの?」

 そう言ってみると、中庭でたむろう金髪集団は呆気にとられて私を見つめた。

 髪に沿って、とろとろと落ちる水滴が甘くて、つんと酸っぱい。それを眺めていると、彼女らは「ぶはっ」とふきだして笑った。

「待って待って、ちょーおかしいんだけど」

南風みなかぜさん、あんた大人しい顔して怖いわぁ」

「そういうキャラだっけ?」

「まじウケるー」

 いや、ウケたくてやったわけじゃないし。

 笑いがうずまく中、当人は驚いた顔で私を見上げていた。まさか保健室の窓から、甘じょっぱい水が落ちてくるとは思わなかったんだろう。まぁ、そうだろうね。

「あーあ、こみち、ずぶ濡れじゃん。くせーし。洗ってこいよ」

「着替えたほうがいいね。あ、でも、体操服なくしたんだっけ」

「うん。そーなの。ちよちゃん、貸してくれるー?」

「え、やだし。平川が貸したらいいじゃん」

「うちもやだー」

「こみちに貸したら失くされそうだしねぇ」

「そっかー」

 置いてけぼりで進んでいく話。私の言葉がなかったことにされていく。それはなんだかシャクだな。

 盛り上がってる連中に向けて軽く舌打ち。すると、平川がようやく私に矛先を変えた。

「つーか、なんなん、あんた。急にうちらの中に入ってきて」

「保健室前のここであんだけ騒いでたら、さすがにうるせーなって思うよね。聞いてりゃ、なんかめんどいことしてるっぽいし。だったら、手伝ってやろーかなって」

 偽って取り繕うほどの相手ではないから、素直に言う。

 この発言には、彼女らの顔色と空気を変える力があった。平川をはじめ、金髪女たちが私を睨みつける。でも、ショッキングピンクの小路だけは違う目で見ていた。

「南風ー、お前、調子のんなよ」

「黙れ、ブス。こそこそやってないでさぁ、堂々といじめたらいいじゃん。見てるこっちがまどろっこしくてイライラする」

 そう。イライラする。

 小路のことが嫌いなら、徹底的にハブればいい。

 なのに、彼女らは嫌いな空気を漂わせつつも小路に優しい。優しくパシリにして、優しくハブって、優しく暴言を吐く。ぬるくて気持ち悪い。どっちかにしろ。

「頭おかしーんじゃねーの、お前。もう行こ」

 平川が言えば、ほかの金髪たちも従う。正確に言えば金髪じゃないけど、みんな色抜いてるからそれでいい。

 機嫌を損ねて、お開きにしてしまうなんて、私には何も残らなくて寂しい。保健室前から撃退したという成果が残っただけ。

 どうなるんだろうなぁ、私。

 彼女らとの間に溝ができてしまった。風当たりが強くなったりするのかな。

 でも、あいつらは学校のお荷物だ。敵に回しても、大人しい良い子の私には教師おとながいるし。どっちを信じるかは目に見えている。つくづく、見た目って大事だな。

「あの、南風さん」

 ショッキングピンクだけはまだそこに突っ立っていた。濡れた髪は、まだらに紫色。毒キノコみたい。

「あんたもさっさと行きなよ。悪かったね、楽しいところを邪魔して」

 あ、違うな。水かけたやつの言葉じゃない。

「ごめんね、穂坂さん。あんたに悪意はないけど、ムカついたから水かけただけで」

「いや、あの……さ、」

 なんだろう。誠意が足りなかっただろうか。

「ジャージか体操服、貸してください」

 小路はへらりと笑って言った。これには、重たい瞼もぱっちり開いてしまう。

「え、阿呆なの、あんた」

 私の言葉もかなり悪いし、ひねくれている、と思う。


 戻るのが面倒だったので、私のバッグから勝手にどうぞ、と言えば小路は明るい笑顔で教室に帰った。

 よく分からない子だ。不気味。得体の知れない感じが、まさに髪色と同じで毒キノコ。もとより、キノコが大嫌いだから、私はもう関わりたくないなと瞬時に思った。

 彼女は、自分が嫌われてることを知っていたのか。助かったって思ったのか。それとも、私に気を使っているのか。いろんな可能性を保健室のベッドの上で並べてみる。

 ……うーん、頭が痛い。やめよう。

 布団をかぶるようにもぐると、痛む頭に冷たいシーツが心地よく、気温もちょうど良いので、私はすぐに寝入った。

 そうして昼休みと五限を保健室で過ごし、六限で教室に帰れば、平川たちがまず目に入った。休憩時間だから、教室の後ろで集まっている。

 平川は厳しい視線を私に向けた。でも、特に何も言わずにいて、仲間と談笑を再開する。

 その時、

「あ、南風さん! ジャージ、ありがとうございましたぁ」

 小路が私の元へ駆け寄り、ジャージ姿で笑う。

「え、なに。こみち、こいつに借りたの?」

 平川の声が刺さる。小路は「そうそう。南風さん、やさしーから」なんて間抜けな言葉を返した。

 途端、平川の顔に悪意が張り詰めた。空気を読みたくない私でもすぐに感じ取れるし、この場にいた全員も感じているはずで、それなのに小路はヘラヘラと無邪気に楽しげで。

 ぬるま湯みたいに気持ち悪い温度が漂う。小路の髪の毛は未だに紫とピンクのまだらで、毒キノコ。じわじわとにじむ曖昧な色合い。

「へー……そう」

 やがて平川は、顔をしかめて笑った。


 ジャージは洗って返せ。とは言わず。

 むしろ関わりたくないし、話す機会が増えても困るので、返してもらったジャージを黙って畳んでから教室を出た。

 放課後。まだ夕方と呼ぶには早く、秋晴れの空はからっと冷たい。

 日陰に行けば特に寒かった。その冷たさに身震いしながら、私は何故か小路の顔を思い出す。

 保健室でたむろう連中がうざかった、というのはこじつけで、本当はテレビやネットなんかでやってる「いじめ」ってやつをやってみたかった。水をかけたり、とか。精神をいためつけるような暴力ってやつを。

 だって、ほら、そういうのを生きがいにしてる人もいるし。そういう人の心理ってやつを知りたかった。

 でも、残ったのは虚しさと気持ち悪さだけで、無意味なもので。とにかく、つまらないもので。

 それに、平川もノリが悪い。徹底的にやればいいのに、あんなナリをしていても将来に不安を感じているんだろう。健気だね。

 そう思えば、彼女らもかわいい生き物に見えてきた。

 嫌いだけど表立っていじめることはせず、仲がいいフリをして裏では悪口を言って、それを餌に仲間を従える。それは、きっと平川たちだけじゃない。

 馴染めないなぁ、ほんと。

 私は極端な生き物だから、もっとはっきりしてほしい。境界を曖昧にせず、線引してほしい。水滴でぼかして滲んだ、あの紫みたいな毒々しい色が気持ち悪い。

 秋風が髪の毛をさらい、かき上げていく。長い髪がうわっと広がり、目をつぶる。その冷たさの隙間から、私を呼ぶ声が潜り込んできた。

「南風さん」

 呼んだのは、平川だった。


 あぁ、そうか。彼女らは「そういう対象」がいないと楽しくないんだろう。おもちゃってやつだ。それを取り上げるようなことをした私は確かに悪者で、部外者で。

 それにしても、四人対一人というのは卑怯じゃないか。取り囲んで、まるで私を護送するみたいで、逃げ場がない。

 ここからいじめが始まるんだな。大人数で大掛かりにやってしまおう、的な。血肉だけでなく精神まで貪り食う、的な。そういうパーティが始まるというわけだ。それ、私は開催する側が良かったのに。

 連れてこられたのは学校から離れた公園で、そこは子どもの影なんか欠片もない寂れた場所だった。遊具がないから遊びようがないもんね。

「南風さん、お金ある?」

 不躾に言われた。私は「はぁ」と気の抜けた声で返す。

「とりあえず一万くらいほしいなー。財布ん中、見してみ」

 カツアゲだ。これ、カツアゲってやつだ。テレビで見たことある。

 そんなテンプレみたいなシチュエーションで、金髪四人に睨まれてもなお、私は頭痛でぼうっとしているので危機感がない。脳みそがゆるい。

 でも、素直に言うこと聞いてカバンを差し出したりもしなかった。動かないでいる。

「あれ? 昼間はあんな威勢が良かったくせに、えらく黙ってんじゃん」

 いやいや、喋る労力がもったいないもので。

「ビビってんじゃね?」

 そんなわけあるか。

 ちよ、という女が馬鹿みたいに大口あけて笑う。カバみたい。他二人はニヤニヤと舌なめずりをする。まるでハイエナ。

 あれ? そういえば、小路がいない。

 四人のパシリで、頭がピンクで、阿呆の穂坂小路。

 彼女はどこに行ったんだろう。そう訝っていると、ちよが言った。

「ねー、平川ぁ。やっぱり、こみちハブるのやめない? あいつ、結構使えたのに、もったいないよ」

「だってもういらないし」

 平川は冷たく言った。

 いらない、って言った。そして、言葉は続く。

「あいつ、馬鹿だからムカつくし。わざと南風にジャージ借りたんだろ、あれ。当てつけじゃん。ムカつく」

「小路は馬鹿じゃないよ」

 こみちは、馬鹿じゃない。

 財布よりも先に言葉が出ていた。

 私の声に、全員がきょとんと目を丸める。

「あの子は馬鹿じゃなくて、阿呆だよ」

「どっちでもいいよ、そんなん」

 よくない。

 馬鹿は救いようがないけれど、阿呆のほうがどうしようもなくてかわいいんだ。その辺の線引が分からないなんて、馬鹿な連中なんだな。

 そんなことをぼんやり考えていると、唐突に、ショッキングピンクが公園に飛び込んできた。

「リョーコちゃん! お金! お金なら私が持ってるよ! ほら!」

 平川の名前を呼び、彼女はバタバタと私たちめがけて走ってくる。

 髪とおんなじピンク色の財布を出して、お札を一枚、ぺらりと軽い音を立てて見せびらかす。一万円札が悲しそうな顔をしていた。

「ね、だから南風さんはいいでしょ? ねぇ、お願いだから、私、なんでもするから」

 笑っているのに、泣きそうな顔をして訴える。その勢いに平川は圧された。さらに小路は強引に金を押し付け、必死にせがむ。許しを乞う子どもみたいに。

「ちょっと待って。私を置いて盛り上がらないで」

 堪らず口を挟むと、小路は今度は私に向きを変える。

「ね、南風さん。南風さんは友達じゃないから、そういうことしなくていいんだよ?」

「は?」

「あ、いや、ちがくて。友達ってゆーか、仲がいい子じゃないってゆーか、グループ的なやつじゃないから」

 友達じゃないのはごもっともなんだけれど、違う、そうじゃない。

「ほら、南風さんは頭いーし、真面目だし、いい子なんだから」

「………」

 あぁ……言わんとしてることが分かった。言語能力が悪すぎて意味わかんないけれど、まぁ、その理由は意味不明なままだけれど、小路は私がいじめられていると思っているんだろう。だから、助けようとしているんだろう。

 つくづく阿呆だ。

 私はおもむろにカバンから財布を出し、一万円札をつまんだ。三日分の食費がこれで消える。別にいい。食欲ないし。

「やる」

 平川に押し付けた。

「で、これっきりにして。私とあんた、友達じゃないらしいから」

 ペラペラな金が平川の手に握られたら、私はもう、小路の腕を掴んだまま走っていた。


 ***


 ……なんであんなことをしたんだろう。

 本当に後悔。冷たい風が頬を切るように吹き、小路はその度に悲鳴を上げる。

 そもそも、私が屋上にいるからついてきただけで、何をするわけでもない。話は小路が勝手にするから適当に相槌打つだけ。息をするのとおんなじように。

「蒼さん、蒼さん」

 やたら懐っこく、馴れ馴れしく、かといって下手に出るような呼び方。下の名前で呼ぶけれど、さん付けってどうなの。

「その蒼さんっての、何」

 ショッキングピンクがふわりと揺れた。首を傾げる。

「何って、そっちのほうが蒼さんっぽいから」

「私は『こみち』って呼ばされてるのに?」

「呼ばされてるなんて、そんなおこがましい」

「意味分かって言ってないな、それ」

「たはは」

 阿呆な小路は楽しげに笑った。

 そして、恥ずかしそうに言う。青春マンガのそれっぽく。

「いやー、だって。蒼さんはさ、私のヒーローなんですよ」

「……ひーろー?」

 私にまったく似合わないワードが飛び出してきた。嫌いなキノコを見るように、顔をしかめてみせる。小路は笑ったままでいる。

「あの時、蒼さんが水ぶっかけてくれなかったら、あのままズルズル友達やってたんだろうし、てか、捨てられるの目に見えてたし」

「捨てられるって。あんた、友達って、そういう感覚でやってるもんなの?」

「そうですよー」

 軽々しい返事。思わず聞き逃しそうなくらい、軽くて重い言葉。

 すると小路は眉を寄せて、難しい顔をしてみせた。ピンクの頭に、その表情はアンバランスで滑稽だ。

「友達ってのはねー、お金で買えるんですよ。強い人って常にどこにもいるから、それなら最初からガキ大将の後ろにいれば安全、みたいな」

「……いや、ガキ大将に嫌われちゃ、元も子もないじゃん」

「そうなんですよねー。だから、あ、私そろそろ捨てられるんだなーって。いやいや、短い友達でしたよね」

「………」

 阿呆のくせに、なかなかえぐいことを言う。

 阿呆のくせに、私の胸にずしんと重たいものを落としていく。

 私は、助けたつもりなんてなかった。むしろ、小路を利用して私の欲求を満たそうとしていた。いじめてみたかっただけ、が、まさか人を救う正義のヒーローになるなんて。そんなこと思いもよらず、ただただ馬鹿みたいに口を開いて何も言えない。

 そうか、結果的にあれは人助けになってしまったのか。

 いや、そうだろう。

 だって、でなきゃ、三日分の食費を平川に押し付けて、挙げ句に小路を連れて逃げるなんて、しない。もっと言えば、こそこそと金をせびって小路の悪口言ってるのを聞いたから乱入なんて、しない。小路に対して回りくどい「近づくなオーラ」を放つあいつらにイライラなんて、しない。はずだ。

 私は小路を不本意ながら助けてしまっていたのか。

 恥ずかしい。

 そして、じわりと浮かぶ罪悪感。最低な下心が招いた結果がこれか。

「うわぁ……ダサいわぁ、私」

 思わず顔を手のひらに埋めた。横では小路が「そんなことない!」ってわめいてるけど無視する。

 いじめるつもりが助けてしまうなんて、ダサい以外になんだという。そしてそれを、この阿呆に気付かされるのもダサい。死にたくなるじゃないか。慣れないことはするもんじゃない。

「蒼さんはかっこいいです」

「黙れ、ブス。しゃべんな」

「ブスはひどいですよぅ」

「あんたの鼻、こんな上に向いてるだろ、ブスじゃん」

「だったら、蒼さんの……お手入れしてない眉毛はどうなんですかぁ」

 ちょっと考えたな、こいつ。

「友達を金で買うやつに言われたくないし」

「それとこれとは関係ないですぅ」

 語尾を伸ばしてだらしなく言う。

 その挑発にまんまと乗って、私はショッキングピンクをはたいた。


 ***


 小路は、平川たちに追放された哀れな女の子である。捨てられてしまった子犬である。貢いだのに裏切られた、よくあるフィクションの不幸者よろしく可愛そうなキャラクターである。

 だからか、彼女は新しい味方をつけようとした。ヒーローを。それが、私。

 適当にあしらえば、特に害はない子だったので放置することにした。気が向けば喋るし、一緒に帰ることもある。

 そういうの、小学校卒業以来なかったなぁとしみじみ思った。いつの間に、私は世界を見下す達観した子どもになってしまったんだろう。

 ママと反りが合わなくなってからか。兄に蔑まれるようになってからか。どうだったか。折り合いが悪いのは昔からなのに、家族としての役割を辞めることはなかった。

 でも、今は全員バラバラで、ママは私の生活費だけを工面する機械になっているし、兄は遠いところへ行ってしまった。

 そうして人が遠ざかって、さらに人を遠ざけると友達なんてできるはずもなく。

 でも、一人になるとどうも人間は生きるための最低限の活力を持つらしく、私は無気力にもきちんと生きていた。過度な期待はせず、底に薄く張った水にわずかな楽しみと壮大なねじれを溶いたものを飲んで、そつなく生きる。楽を苦で挟んだサンドイッチをぺろりと、何食わぬ顔で食べる。

 人と助け合って生きなさい、は個人の自由なのかもしれない。それも多様性ってやつだろう。

 つまり、私は友達というものを忘れてしまっている。どうやって接したらいいのか分からなくなっている。

 一緒に笑ったほうがいいのか、とか。

 共感したらいいのか、とか。

 どうして、小路は私を気に入ったんだろう、とか。あ、いや、それは私がヒーローだからか。うーん。

 そういえば「蒼さん」って呼ばれることに、不快を感じなくなってきたのは、ここ最近。あれから一ヶ月が経過した。

「蒼さんって呼び方やめて」って言うも、小路はやめてくれなかった。理由は「だって、かわいいじゃないですか」。

「それに、ケーショーってやつです。敬意を表して、どこまでもついていきます!」

「やめろ。私はあんたの親分になったつもりはない」

 そして、保健室で寝ているときに漫才はしたくない。顔を歪めると、小路の笑顔が引っ込んだ。

「頭、痛い? 大丈夫?」

 心配そうに顔を覗き込んでくる。

「うん、大丈夫。いつもの頭痛だし。あれだよ、青春病ってやつ」

「なんですか、それ。そんなのあるんですか」

「阿呆か。冗談だよ」

「なぁんだ」

 小路は笑う。いつでも無邪気にころころ笑う。髪色と同じくまばゆくて、目が眩みそう。

 この子、不幸なくせにどうして笑っていられるんだろうな。そこも理解不能だ。小路七不思議ができそう。

 私は痛む額に腕を押し付けた。冷えた肌が心地いい。でも、すぐに熱を吸ってぬるくなる。痛みが戻ってくる。

「……あのね、私は自分の名前が嫌いなんだよ」

 ふと、口走った。

「え?」

 小路の戸惑った声が降ってくる。

「名前、蒼っての。嫌いなんだよね」

「どうしてですか? かわいいのに。私なんか、小路ですよ。コロとかショウジとかコウジとか。そんなあだ名つけられてるんですよ」

 それは確かに難儀だな。

 いや、でも、私は自分の名前が嫌いなんだ。嫌いになってしまった。

「……昔、からかわれたんだよ。いやみったらしく言われて」

「なんて?」

「お前はにごり色の蒼だから、かわいくないって」

「誰に?」

 だれに。

 言いたくないけれど、痛みが勝手に口を開かせる。

「お兄ちゃんに」

 小学生のとき、自分の名前の由来を調べなきゃいけなくて、ママに聞きたかったけれど仕事で忙しいから聞けなくて、兄に聞いてみたらそんなことを言われた。

 あいつは厭味ったらしく、嫌な嗤いを顔にべったり貼り付けて吐いた。

 濁り色、つまり、汚い色。だから、かわいくない。

 ママが私ばかり怒るのも、兄ばかりかわいがるのも、私が濁り色だから。だったら、お望みどおり濁ってやると誓った。

 懐かしい。こんなことを思い出すのは随分と久しぶりのことだ。そして、誰かに言うのは初めてだろう。

 私は自分でも気づかないうちに、悩んでいたんだ。それを吐き出す場所がないから、記憶の底に閉じ込めている。

 それを小路は呆気なく、こじ開けてしまう。阿呆のくせに。

「蒼さん」

「んー?」

「蒼さんの名前はかわいいので、気にしなくていいんですよ。私のお墨付きです」

「小路のお墨付きもらってもなぁ……足りなすぎて弱いわ」

「なんでー!」

「うるさい、頭に響く。黙れ」

 ショッキングピンクをはたく気力はないので、口の暴力で黙らせる。だけど、小路は愉快そうにくすくすと忍び笑う。楽しそうで何よりだ。

 多分、こうして、ゆっくりと友達ってやつになっていくのかもしれない。小路はお金で友達を買う女だから教えてあげたくなる。無償の友達システムを。

 でも、タイミング悪くチャイムが鳴ったので、小路は「それじゃあ、またね」とベッドから降りていってしまった。ピンクの髪が消えていく。

 友達、になっているのだろうか。無償で無二の友達、みたいな。そういうものになっているのだろうか。

 柄にもなく、期待を膨らませた。


 ***


 放課後。

 教室に戻ると、小路はいなかった。もう帰ったんだろう。

 期待してすぐこれだから、諦めが二倍になって負荷となる。

 そういえば、今まで友達だと意識しなかったから気にしていなかったけれど、小路はたまに早く帰ることがあった。週に一回か、二回か。多分、そのくらいの頻度で。

 教室にはまばらに人がいたけれど、半数は帰ってしまっている。

 私は帰り支度をしながら窓の外をぼんやり見た。貧相で濁った蒼が薄色でそこに居て、奥にはっきりとした人々の輪郭が窺える。

 黒、茶色、黒、茶色、金……

「あれ?」

 見間違いじゃないだろう。

 金髪たちの中にショッキングピンクがいた。

 どうして。

 追いかけたら間に合うか。どうだろう。いや、そこまでして、どうなるの。何になる。

 気になる、けれど、そこまでして繋ぎ止めたいのか。どうなんだ、私。わかんない。

 でも、今、私は小路のことで頭がいっぱいだ。


 足は少し早まっていた。教室を出て廊下を歩いて階段を降りて昇降口に出るまで立ち止まることはなくて。彼女らは校門を出て左に歩いていったから、大通りを行くんなら今からでも尾行はできる。

 風を受けながら進む私の体は忙しい。

 校門を出て、左に曲がって、歩いて歩いて歩いて歩いて、走って、止まる。同時に、息も止まった。それは一瞬のことだったけれど、思考がスローモーションになっていて、動かすのが億劫だ。

 彼女らは、あの公園にいた。どうもそこは連中のアジトのような場所らしい。ベンチにふんぞり返る平川の前で、小路がゴマを擦るような笑顔でお金を献上している。

 小路は追放されたはずだ。それなのに、どうしてまだそんなことをしているんだろう。無二の友達なんて高尚なものを望んだ今の私に、その光景は理解不能で。難解な数式や、外国語を目の当たりにしたような感覚で。

 呆然って言葉が頭に浮かぶ。

 やがて、小路は公園を出ていった。私がいる場所ではなく、別の出口からいなくなる。ショッキングピンクは緑に隠れてしまった。

 平川たちはその場から動かない。

「ねぇ」

 もう声をかけた。すると、お札に群がる金髪たちが一斉にこっちを見る。

「それ、小路のでしょ。なにたかってんの、あの子に」

「たかってねーし」

 平川の言葉はそっけない。

「こみちが勝手に渡してくんの。なんか、手切れ金だとかなんとか」

「は? 意味わかんない」

「あー、あれじゃね。あんたの代わり」

 受け取っておきながら、平川もよく分かっていないようだ。

 いや、待て。

 私の代わりって何?

「うちらが、あんたにたかるのを避けるため、みたいな。馬鹿じゃん、あいつ」

 そして、もう南風に興味ないし、と平川は笑う。取り巻きも。

 私は平川の手を掴んだ。

「返せ、それ」

「やだよ。うちのだし」

「じゃあ、これに替えて」

 かばんをひっくり返し、中身を地面にぶちまける。財布を取って、三日分の食費を見せる。やっぱり一万円札は悲しげだ。

 平川も取り巻きも、ぽかんと間抜けな顔をした。

 手に取らないからお札は地面に落ちていく。私は平川の手から小路のお金をもぎ取り、かばんの中身をかき集めて走った。


 こういうとき、ショッキングピンクは目立っていい。こういうときしか役に立たないけれど。

「小路!」

 私は息を切らして、彼女の手首を掴んだ。

「へ? 蒼さん? なんで?」

 駅前のロータリーで、私の行動は派手だった。でも構うものか。

 握っていたお札を小路の胸に押し付ける。

「これ、平川に渡したよね。なんで?」

「え、あ、見ちゃったの? マジかー……あーあ」

「いいから答えろ、小路」

 残念そうな猿芝居はいらない。

 小路の口から正解がほしい。平川の解はハズレのはずだから。あいつは馬鹿だから。でも、小路は阿呆だし、私の友達だから。

「あー……」

 小路は唇をもごもごさせた。そして、上目遣いに私を窺う。言いにくそうに、答えを吐く。

「蒼さんは私の友達だから、お金払わないとなんで」

「違う」

「違わないです。蒼さんは友達だから、そのために」

「黙れ。違う、違うでしょ、そんなの……」

 ハズレだ。答えじゃない。私の解答は間違っていた。

「や、でも、気にしないでください。私の家、金持ちなんで。まー、小遣い切れたらバイトでどうにかできるし、だから、」

「バイトってなんだよ、体でも売ってんのかよ、顔面ゼロ円のくせに」

「その冗談はキツイですねー、たはは」

「冗談なわけないだろ」

 嫌だ。ぬるい。空気がぬるくて気持ち悪い。他人の生あたたかい唾がかかったようにゾッとする。

 小路のすべてが気持ち悪くて仕方ない。

 私も、小路に買われていたんだ。それに気づくと、この一ヶ月間が音を立てて崩れていく。あぁ、やっぱり慣れないことはするもんじゃない。

「私は一万円か。一万の価値か」

「勘弁してくださいよー、さすがに二万とか三万はキツイです。バイト代もいつもマチマチなんで」

「あんた、私のこと、ヒーローとか言ってたくせに信じてなかったんだ」

 急に視界が潤んでぼやけた。口にすると、余計に熱が回る。

 ようやく小路は、私が怒っていることに気がついた。小さな目を瞬かせる。そして、うつむいた。

「……だって、強い人の近くにいないと、私、生きる価値ないから」

 ぽつりと呟かれる言葉。それは、弱者のセリフだった。不幸者らしいセリフだった。嫌われ小路の、初めて発する弱音だ。

 多分、ここで私は心を落ち着けないといけないんだろう。涙目の小路を慰めないといけないんだろう。諭さないといけないんだろう。青春マンガのそれっぽく。

 でも、私は受け入れない。私は私で精一杯だから。自分を高い高い棚に上げて、冷めた目で小路を軽蔑する。

「あんたは友達っていう体裁が大事なんだろ。そういう無駄使いしかできないんだ」

 お金で買った友達も、身につけている服や小物と同じ感覚なんだ。その馬鹿みたいなショッキングピンクと同じ。飾りだ。

 まだらな紫を思い出す。やっぱり気持ち悪い毒キノコだった。

「あー、もういいや。やめよ」

 黙る小路に、私の口は止まらない。唇を歪めて笑ってやる。

「私はね、あんたをいじめるつもりだったんだよ、小路。馬鹿だね、あんた。私のこと、ヒーローとか言っちゃって、馬鹿すぎる」

「え……」

「誰があんたみたいなブス、相手にするか。だからさー、もう、つきまとわないで」

 二度と視界に入るな。私の世界に入ってくるな。

 そうして自衛しないと、この負荷に耐えられないから。

 私はくるりと踵を返した。戸惑いと呼び止める声が、ざわめきに紛れていく。

 穂坂小路は、馬鹿だ。

 そして、そんな馬鹿を信じた私は、優しくない。

 濁って汚い色。

 それと曖昧にぼけた毒色を混ぜて、道端に捨てた。

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