Episode16: 水とダイヤのパラドクス

 翌日のクロノスは荒れていた。


「如月ぃ! さっさと報告書あげろ」

「はいっ」


 いつになく――いや、普段通りピリピリしている部長に急かされて、古い機械パソコンのキーをひたすら叩く。

 まったく、人使いの荒い職場だ。


 昨日、中層のレストランでの一件。

 実はアレ以外にもしょっ引かれた輩が多数いたらしく、外に出払っている警備部に代わって俺が書類を纏めることになってしまった。


「なんで週初めからコレなんだ……」


 つくづくツキがない。

 それより、部屋の端でふんぞり返っている部長こそ、手伝ってくれてもいいじゃないか。


 こんな部長だが、俺がここで働き始めた当初はかなりの厚待遇だったのだから驚きだ。

 義父が幹部ポストに居た頃――四年ほど前までは、少なくとも俺をアゴで使うようなことはしなかった。

 ――もっとも、目をつけられたら昇進の面でひとたまりも無いと思っていたというだけの話なのだろうが。



 どうにか報告書を作り終え、遅めの昼食を取る。


 建物内の売店で適当に調達した握り飯を頬張っていると、急にサイレンが鳴り出した。訓練でたまに聞くような火災警報ではなかった。


「これは……フロント全域の緊急警報か!?」


 ほかに思い当たるものは無い。


 建物内が騒がしくなる。つられるようにして、慌てて執務室に戻った。



 執務室では、部長もほかの同僚たちも、身支度をしていた。


「何があったんですか」

「直ぐに帰宅しろ。詳細はあとから放送がある」



 釈然としないものを感じながら帰宅する。


「玲二様! どうされたのですか。まだお仕事の時間のはずですが」

「さっきサイレンが鳴っただろう?」

「ええ」

「俺も詳しいことはわからないが、直ぐに帰るように言われたんだ。後から放送があるらしい」



 数分がたち、にわかなホワイトノイズの後、放送が始まる。

 その内容は、驚くべきものだった。


『第十三区地中都市、ブルートの全住民へのお知らせです』

『本日午後一時頃、地下水位引き下げの為のポンプが異常により停止致しました』

『つきましては、中層民は上層第四層区画、下層民は中層第十二層区画までの緊急避難措置を行います』



「嘘……だろ?」


 ポンプが停止した――それは、このフロントの寿命が来たということでもある。

 機械工業の廃れたブルートここでは、ポンプの修理が絶望的なのだ。


「にいさん……、どうなるんですか」

「…………」


 俺には答えようが無い。

 幸い、すぐに全域が水没することはあるまい。

 しかし、このフロントにおいて民は所詮生かされているに過ぎない・・・・・・・・・・・・ことを――、そして、いずれは来るであろう終焉おわりの時を。

 きっと俺だけじゃない――上層・下層を問わず誰もが感じた瞬間となったに相違ない。




 近代経済学の父、アダム・スミスは、かつてこんな言葉を残した。


 ――水ほど役に立つものは無い。だが、水では何も買うことはできない。

 ――しかし、ダイヤモンドはどうだろう。何の役にも立たないダイヤモンドは、”交換”することによって相当のものを手に入れられるではないか。


 ようは、使用価値と交換価値の矛盾理論である。

 水とダイアモンドのパラドクスとして知られるこの言葉だが、そもそも交換対象の限られるこのフロントではどうなるだろう。


 たしかに、富裕層においてカネやそれに準ずる希少物――ダイヤだったり、或いは金銀だったりする希少価値の高いものの所有は、ある種のステータスである。


 しかしこのご時勢、交換価値しかないもの――換言すれば、”使用価値の無いもの”に、どれほどの絶対的価値が認められようか。

 そしてまさしく今、矛盾は解消される。


 いくらカネがあろうと。

 いくらダイヤがあろうと。

 ポンプ一つ直せないではないか。


 そして、死に際になって気づくのだ。

 ダイヤなんて、結局見かけ以上の価値は無いんだと。


 驕った上層の人間までもが、水におびえている。

 その何と皮肉なことか――。

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