いつか晴れ姿を

戸松秋茄子

本編

 発見されたときには死後二日が経過していたという。血の海の侵食を逃れた遺書には「望む通りには生きられません」と書かれていた。


   ※※※ ※※※


 マンションの郵便受けから振袖のダイレクトメールを回収したとき、わたしはそれをちり紙代わりに使うことを検討した。


 とにかく寒い一日だった。事件の取材で駆け回っている間、何度も鼻をかみ、自宅に戻る頃にはすっかりポケットティッシュを使い切っていた。マンションのエントランスでまた鼻が詰まるのを感じたとき、郵便受けから回収したばかりのハガキ大の紙切れが救いの手のように見えたのだ。


 かじかんだ手の中で、和装で着飾ったモデルがにっこりと微笑んでいる。なるほど。娘がこんな顔をするなら十万や二十万でも破格にちがいない。モデルの顔に来年成人式を迎える娘の顔を重ねた瞬間、わたしはそのイメージが崩れるのを恐れるようにして、ダイレクトメールをそっとポケットに突っ込んだ。ちり紙代わりに使うなんてもってのほかだ。


 やや天を仰ぐ格好になりながら、部屋まで上がり、居間の照明をつけると時計の針が午前零時を回っていた。


 わたしはいつもそうしているように、振袖のダイレクトメールをテーブルの上に置いた。娘が食事をとるときにでも目に触れるようにという配慮だ。無精なあいつも少しはこういうことに興味を持った方がいい。片親が、一人娘に対してそう思ったところで誰も咎められはすまい。


 ファンヒーターをつけ、年代物のソファに身を沈める。シャワーを浴びるのも億劫なら、寝室まで戻るのも億劫で、そのままソファで横になりたかった。きっと、わたしが写真週刊誌の記者などではなく、完全週休二日制の恩恵にあずかれる身ならば、迷わずそうしただろう。しかし、わたしは紛れもなく事件記者の端くれで、また天の采配に口出しして事件がいつ起こるかを操れる立場でもなかった。


 記者たる者、事件とあらばいつでも飛び出せるように休めるときにしっかり休んでおかなければならない。それができなければ、いざと言うときに身動きがとれず、ネタを横からかっさらわれるはめになる。ネタを取れない事件記者など、しけたマッチほどの役にも立たない。編集部から放り出され、ハローワークに通いつめる自分の後姿を想像しながら、わたしは重い足を引きずって寝室に向かった。



「民家の床下から娘の死体が出てきた事件だが……」


 翌朝、編集部からの電話で叩き起こされたときは、昨晩の自分をほめてやりたくなった。よくベッドまでたどり着いたものだ、と。


「ええ。前の住人の娘ですよね」


「ああ。被害者のな、父親が自殺したらしい。手首を切るとはまた女みたいな死に方をしたもんだよ。アパートに踏み込んだ警察が、血の海に倒れてるのを発見したって話だ」


「自殺」


 記者の頭を一発で目覚めさせる方法があるとすれば、それはコーヒーやエナジードリンクなどではなく、事件の進展にちがいない。


「ああ、娘を殺したと自白する遺書が残ってたよ。介護疲れが動機だそうだ。まったくやりきれんな。いまから雑感取って来れるか」


「もちろん」



 わたしは取材に出る前に、知り合いの記者に電話をかけまくり情報を集めた。


 事件が発覚したのは、昨日の午後のことだった。床下から異臭がする。鼠でも死んでいるかのかもしれないということで大家が息子に頼んで畳を上げさせたところ、死後一ヶ月は経過した若い娘の腐乱死体が発見された。一ヶ月前までその家に住んでいた父子家庭の娘だった。


 警察はすぐに、父親の現住所を突き止めた。同じ市内のアパートに住む五〇代の男。しかし、チャイムを鳴らしても返事がなく、令状を持って再度乗り込んだときに、部屋の主が血の海に倒れているのを発見したというわけだ。


 男の娘は知的障碍を持っていた。十五を過ぎても、言葉も出なかったというから重度の障害なのだろう。娘は中学を出た後養護学校に進学したものの、毎日の送り迎えが母親の負担となり、すぐに登校しないようになった。それが四年前の話で、妻が逃げ出したのは今年の春のことだった。それ以来、父親はヘルパーの手を借りながら有給の続く限り娘の世話を見ていた。だが、どうやら父親にはその先を思い描くだけのゆとりはなかったらしい。遺書には、子供を生んだことと死なせたこと、その両方への後悔が書き綴られていたという。


 介護疲れの果ての殺人。


 分かりやすい見出しがつきそうだ。それはつまり、記事として需要がある事件ということを意味する。


 それにしても、一つわからないことがある。それは、男が「畳にじかに糞をひった娘に殺意が沸き、どうにでもなれと首を絞めて息の根を止めた」後のことだ。よく言われるように、犯罪者というのはしばしば思慮の足りなさや、あるいは自分の成した行為へのショックから驚くほど愚かな行動を取るものだが、それにしたってこの男の行動は不可解に思える。


 中途半端なのだ。


 逃げたいのか、捕まりたいのか、まるで判別がつかない。


 死体を隠すならなぜ山の中に埋めなかった。畳の下に隠すなら、なぜ引っ越した。引っ越すなら、なぜ遠くに逃げなかった。


 あまり快い想像ではないが、もしわたしが男の立場だった場合、やはり耐え切れなくなって自殺するか、さもなければ警察に出頭するだろう。そのいずれでもなかった場合、死体を山にでも埋めて、なるたけ遠くに引っ越す。そして、ばれやしないかとびくびくしながら新しい生活をはじめたはずだ。


 しかし、男はそのいずれも選ばなかった。大家に契約の解除を告げ、その目と鼻の先にアパートを借り、逃げもせず同じ職場に勤めていた。


 なぜなんだ。


 わたしの胸のうちを疑問符が埋め尽くす。



 男のアパートの周囲で写真を撮り、聞き込みをして回った後、その足で娘の死体が発見された現場近辺に向かった。


 そこは引き戸の家屋が並ぶ狭い通りだった。誰かが戸を開け閉めするたびにガラガラという音が通り中に響く。尤も、いまはどこの家も各メディアの記者が張り付いているから、戸を閉める暇もない。入れ替わり立ち代り新しい記者がやって来ては、同じ証言を求められるのだから住人としてはたまったものではないだろう。取材をしているときは意識して考えまいと努めていることだが、この現場のように住人の対応が好意的だとかえって申し訳なく感じてしまう。


「それはひどかったですねえ」


 一軒目の住人は、一線を退いて久しいであろう老人だった。チャイムを鳴らした後「はいはい」という老人の声と「もう出なくていいのに」という女の声が続けて聞こえてきた。家族の中でも、事件の受け止め方に温度差があるのだろう。老人はすでに何社もの取材を受けているはずだが、迷惑した様子もなくかつての隣人のことを語ってくれた。


「真夜中ですよ、あんた。金切り声で泣き叫び始めて、たぶんひっかくなりなんなりするんでしょうな。奥さんが痛い痛いってこれまた悲鳴を上げて。夫婦であの子を抑えにかかる。何度かは、暴れまわった挙句玄関が開く音が聞こえて、家のすぐ前で大奮闘ですよ。連れ戻すのも大変だったろうなあ。あの夫婦も若くなかったのに。ああいう事例を見ると、年をとってから子供を持つのも考えものだなと思ってしまいますよ」


 娘の泣き声はよっぽどの大音声だったらしい。そのほか何軒か聞き込みを続けたが、似たような証言が集まった。証言が一様に父親に同情的だったのも頷ける。


 わたしはメモを取りながら、頭の中で雑感の文面をこねくり回していた。男の人物像、背景は十分にイメージさせられるだろう。ただ、わたしの「なぜ」への回答だけは見つからなかった。


 わたしは男と娘が住んでいた家を前に立ち、もう一度写真を撮った。両隣と軒を接した二階建ての一軒屋。三人で住むにはちょうどいいかもしれないが、二人となると広すぎるだろう。ましてや一人となれば……


 男はその寂寥感に耐えかねて、引っ越したのだろうか。それではまだ弱い。理由になりえたとしても、それはごく一部に過ぎないだろう。


 バイクのエンジン音が通りに響き渡ったかと思うと、やや肥満気味の青年が赤いバイクにまたがって通りに侵入してきた。郵便配達の時間だ。青年は数メートル進んではすぐにバイクを止め、二、三軒に郵便物を投函してから、またバイクにまたがる。それだけなら何の変哲もない光景だ。しかし、おかしなことに青年が現場となった家の郵便受けにもハガキを投函していた。父親が郵便局に住所変更の届出をしていないらしい。


 そのとき、わたしには「なぜ」に対する答えが見えた。


 

「なるほど。振袖のダイレクトメールか」


「ええ、それが娘のありえたかもしれない未来を連想させて耐えられなかったんじゃないでしょうか。娘が十九ともなると、ああいうのはほぼ毎日のように届きますから」 


 わたしは想像する。娘の事情など何も知らない業者から毎日のように届くメール。笑顔を振りまくモデルたちと床に便を垂れ流す自分の娘。その隔たりの大きさに男は何を思っただろう。


「ありえたかもしれない未来、か。そんなもの考えてもどうしようもないのにな」


「そうですね」


 電話を切って、タバコに火をつけた。この一本を吸い終わるまでに、結論を出す。そう言い訳しながら、五本吸い、箱を空にしたところでようやく重い腰を上げた。


 娘の部屋のドアプレートは、わたしが慣れない日曜大工で作ったものだった。上部が湾曲したデザインを切り出すのに、いったい何枚の木材を無駄にしたことだろう。あのときは娘も喜んでくれた。あれは何年前のことだったろう。妻が健在のときだったから、少なくとも十年は前のはずだ。そのプレートがいまも変わらず同じ場所にぶら下がっている。大事に使われているというよりも、ドアプレートの不恰好さに頓着しない娘の無精さをあらわしているようで、胸が少し痛む。ノックをしようと拳を振り上げたとき、わたしは一度深く息を吸い込み、覚悟を固めなければならなかった。また鼻が詰まるのを感じながら、いったん鼻をかんで出直して来ようかという臆病な気持ちが頭をもたげた。


 娘はいま部屋で何をしているだろう。まだ寝ているか、それともテレビを見ている? ひきこもりの娘がどのように一日を過ごしているのか、わたしはまるで知らない。知ろうともしてこなかった。シュレディンガーの猫ではないが、ドアを開けるまでは不確定だ。一度、二度とノックの音を響かせながら、無限にありえる娘の状態に思いを馳せた。


「話があるんだ」


 ありえた未来について考えるのはもうやめようと思った。ダイレクトメールは捨てよう。自分の身勝手な願望を娘に押し付けるのはやめにしよう。それよりも、ありえる未来について話をしようと思った。娘と二人で、未来を探そうと思った。それはきっと、ドアの向こうに広がる光景と同様に無限の可能性があるはずだ。


「いいんだぞ、真由美。お父さん、もう何も押し付けたりはしないからな。だからこれからのことを話そう。な」


 何度かノックをするが、返事はない。寝ているのだろうか。そう思って、ドアノブを握るとするっと回った。


「入るぞ」


 わたしはドアを開いた。そして、部屋に漂う血の匂いにむせ返りそうになりながら、もう娘にはどんな未来も存在しないことを知った。

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