ラブレター

桜枝 巧

ラブレター

 ぼくが「ぼく」という一人称を使うのは、ただ一人、彼女の前でだけだった。

 何故かはわからなかった。普段別の友達と話す時、あるいは彼女が隣に居たとしても他の子がいる時、ぼくの口からは普通に「私」という単語がでてきた。

 自分の性別が女子だということも十分理解しているつもりであるし、それを否定することもない。

 ただ、彼女のためのぼくはぼく以外ありえなかった、たったそれだけの話だ。


 

「……やあ」

「うん」


 前半分だけ蛍光灯の灯る家庭科室二で、ぼくらは簡単な挨拶を交わした。

 教室とは別の棟にある家庭科室、その中でも主に裁縫系を目的とする二番教室はがらんとしている。


 大きな横長の机が二列、三つずつ並んでいて、その内の一つがぼくらのお気に入りの席だった。

 校庭からはいくらか甲高い声が聞こえてくるが、それもあまり気にならない。

 ぼくらの言葉は瞬く間に静寂へと吸い込まれた。


 若干病的なまでに白い肌。黒をほんの少しだけ明るくしたような髪は、肩のところできっちりと切りそろえられている。長い睫毛は彼女が目を細めるたび、小さく揺れ動いた。

「今日も続き?」

 ぼくの問いに、微かに頷く。

 彼女はそのまま大量の布や糸が押し込まれた戸棚の奥から、隠してあった桜色の便箋を取り出した。

 机の上には持参した可愛らしい鞄型の筆箱が置かれている。


「きみは今日何を持ってきたの?」

 彼女の言葉に、ぼくは「ハインライン。『夏の扉』」と簡単に答える。

「季節外れじゃない」

「まあね。なんとなく、読みたかっただけ」


 彼女とぼくが顔を合わせるのは偶然、それも昼休みの僅かな時間だけだった。

 中学に上がってから二年間、一度も同じクラスになったことはないし、同じ小学校出身でもない。

 加えて彼女は所謂ふわふわとした、女の子らしい女の子だった。控えめで、友達思いで、静かに周囲の話を聞いて時たま小さく笑うような、そんな彼女は、男女から平等に愛されていた。


 別世界の住人だった。


 ぼくもそれなりに友人はいたけれど、授業の合間にどうでもいいような会話をひとつふたつするような仲でしかなかった。

 いつか教室の窓から見えた少女の隣には、ぼくの知らない「友人」たちがいて、酷くきらめいていたのを覚えている。


 ぼくは表紙を開きながら、木製の古びた椅子に座り直す。

 図書室が煩くてこちらに逃げてくる様になったのだけれど、若干お尻が痛くなるのは盲点だった。


 何となく小説の世界に入りづらくて口を開く。

「今は、誰だっけ、カズタニ……」

「和谷優斗。生物学者で、今はコツノアリについて研究しているの」

 ぼくの台詞を若干遮りながら、彼女は言った。

 ささやくような、女の子特有の丸い声。

 その視線は、便箋とそれに綴られていく文字に向けられている。


「コツノアリ?」

「日本で一番小さな蟻。働き蟻の体長は約一ミリしかないと言われている。触覚は九節、複眼は二、三個の個眼からなる……」


 お互いに深く干渉しすぎないことは暗黙の了解としてあったが、ひとつふたつ言葉を交わす内にその限度は広がりつつあった。


「彼は毎日毎日顕微鏡をのぞいているわ。動き回る小さな小さな蟻たちを観察し、記録する。まだ何の成果も得られていない、若い研究者なの。三十八歳、私と出会ったのは公園、彼は一人でブランコを漕いでいて―――」

 最後の方は独り言と化しつつある彼女の声をBGMにしながら、ぼくは安心して本へ視線を下ろした。



 彼女は、ここでラブレターを書いている。

 恋文。

 好意を持った相手に対して送る手紙。

 自分はあなたのことが好きなのだと感情を、間接的に押し付けるための手段。


 彼女は昼休み、家庭科室二へラブレターを書きに来る。

 ただ、明確なひとりに送るわけではないらしく、虚構の、彼女の脳内にしか存在しない人物に向かって、手紙を書く。

 毎日、というわけでもない。普段はぼくがひとりでここを使っている。

 特に何の法則もなく、精神状態がどうだとか、そんなものは関係なく、彼女はふらりと現れる。


 そして、老若男女問わず、様々な誰かに向かって愛を叫ぶ。書き終えた手紙は戸棚の隙間に押し込められ、そのままになっているようだった。

 当然、手紙を読ませてもらったことはない。


 お互いに静かな場所を共有し、たまにおしゃべりをする。ぼくらがやっているのは、それくらいだ。


「彼はね、とても細い指をしているの」

 ペンを持たない左手でスカートの位置を調整しながら、彼女はそんなことを言った。


 春休みも間近、三学期最後の昼休み。

 ようやく寒さも和らいできた頃だ。真っ黒なセーラー服の袖から見える指は、わずかに桃色に染まっている。


「小さな蟻を研究するのだから、当たり前よね。もちろん、その前――高校生の頃なんかは、男らしいがっしりとした手をしていたわ。でも、大学生になって、急に蟻の研究がしたい、と言いだした。それもただの蟻じゃなくって、コツノアリ」


 専門の大学に入り、院に行って、そのまま研究者になって、彼の指は細く、小さいものになっていったのだ、と彼女は楽しそうに笑った。

 当然彼女の言う「彼」はこの世に存在しない。

 所謂中学生にありがちな妄想癖、と言ってしまえば簡単なのだろうけれど、口にできる程ぼくは子どもでもなかった。


 ただし一度だけ「本当に好きな人はいるのか」といった質問をしたことはある。

 彼女は少しだけ戸惑った表情を浮かべてから、「うん」と小さく頷いた。

 普段から仲が良いらしく(恐らくは以前教室で彼女を囲っていた数人の内の誰かなのだろう)「このままの関係で十分だから」と寂しそうに微笑んだ。友人の多い彼女ならではの、優しい答えだった。


 実在する人物に向けて手紙を書いているところは見たことがない。

 言わば練習というやつなのだろう、なんて勝手に想像しているが、実際どうなのかはわからなかった。


 しばらく静かに手紙を書いていた彼女が、ふと顔を上げた。

「そう言えばさ、嫌なら嫌で良いんだけど」

「なに?」

 訊き返したぼくに、彼女は一瞬躊躇するそぶりを見せた。それでもなんてことはないような顔で、口を開く。


「きみは手紙とか、書かないの?」


 不意打ちだった。

 今まで別々のことをやってきた、そしてそれを互いに肯定していたはずだ。裏切られた、まではいかないが、驚いた表情は隠せなかった。


 慌てて「ご、ごめん、変なこと聞いたよね」と手を合わせる彼女に、ぼくは「あー、いや、うん、別に」と返す。


 向こうが失言と気づいたのもあって、責め辛い。恐らくよくありがちな、時間と作業の共有をふいに求めてしまったんだろう。女子らしいが、それはぼくらには不要のはずだ。


「そうだね、ぼくは別にいいかなあ。書きたい相手がいる、ってわけでもないし」

 取り繕うように笑ったぼくに、彼女は「そ、そっか、ごめんね」と返す。

 それから一言二言どうでもいいような会話をして、ぼくらはそれぞれ元のペースに戻った。


 昼休みを終えるチャイムが鳴り響く。

 できた、とビー玉の転がるような声が聞こえた。




 新学期が始まり、中学三年生になってもぼくらは別々のクラスだった。

 彼女のいない教室の隅で机に頬杖を突きながら、まあこんなものだろう、とひとりごちる。

 どうせ家庭科室二に通っていれば、二日三日もしない内に会えるのだ。むしろこれくらい離れていた方がお互いやりやすいだろう。


 彼女が同じクラスの××と付き合い始めたらしい、という噂が流れてきたのは、その時だった。





 当然その日の昼休み、彼女は来なかった。

 その次の日も、そのまた次の日も、彼女が家庭科室を訪れることはなかった。

 前半分だけ電灯をつけ、いつも座っている椅子に腰かける。こんな時に限って図書館は閉館日だった。


 春休みに直接告白されたらしいだとか、相手は幼馴染らしいとか、お似合いの二人だとか、そんな噂をいくつも聞いた。

 中学校という場所は広いようで狭い。加えてそこそこ人気のある彼女のことだ、すぐにそれはぼくの耳まで届いた。


 ちらり、と背後の棚を見る。

 戸棚の二段目には大きな木籠がふたつ並んでおり、右側にはエプロンだのコースターだの、実習で生徒が作ってきたものの端切れが大量に積んである。左側はボビンの山がどうにか崩れずに形を成していた。


 彼女が何度も目の前で取り出していたのだ。

 手紙がどのあたりにあるかはわかっている。


 耳を澄ませる。聞こえるのは校庭の遠い歓声だけで、そこに足音はない。

 ぼくはそっと籠の合間に手を差し入れた。彼女の腕と違ってある程度太さのある自分のそれは、いくらかつっかえた後に最奥に届く。


 心臓が鳴っている。

 指先でかさり、と音がした。形を崩さないよう、慎重に取り出す。かなり量があるようで、その内の一束だけを取り出した。


 出てきたのは、数枚の折り重なった便箋だった。新しいそれではなく、きちんと中に文字が書かれているのがわかる。

 封筒にも入れられることなく、ただ暗闇の中で静かに息をしていたそれは、ぼくの手の中でかさかさと泣いた。


「……ねえ、お前たちは、一体何のためにそこにいるんだろうね」


 呟いてみる。特に返事はない。


「ぼくにはわからない。彼女がわからないんだ。でも、きっと彼女も、ぼくのことなんてちっともわからなかっただろう。ぼくがどうして『ぼく』だなんて一人称を使っているのか。……ぼくにだって、わからないんだよ」

 

 結局、ぼくは手紙を読まなかった。

 彼女が捨てた、何らかの言葉たちにもう一つだけ言葉を吐き出してから、やっぱり慎重に、何事もなかったかのように戸棚の奥に仕舞い直した。

 ぼくは持ってきた本を開いた。チェーホフの『桜の園』だった。



 徐々に近づいてくる足音に気が付いたのは、昼休みも終わろうという時だった。


 聞き慣れたリズムだった。


 思わず本を閉じる。薄い文庫本のそれは、思ったより軽い音を立てた。

 自分の息が若干乱れているのがわかる。

 いや、違うだろう、ただ通り過ぎるだけだ。

 だって彼女は目的を果たした、もうここに来る理由がないのだ。

 ああ、でもひょっとしたら手紙を取りに来たのかもしれない。

 他の人に見られてはいけないし――。


 ガラリ、と音を立てて扉がスライドする。

 そこに居たのは、やはり彼女だった。


「……やあ」


 乾いた喉から、声を捻りだす。


「うん」


 彼女も、いつも通りに応える。


 こちらまで近寄ってきたその手には、可愛らしい鞄型の筆箱が下げられていた。

 春休み前と同じ椅子に、同じように腰かけた彼女は、ひとつ、深く息を吐きだした。

 それから、やっぱりなんてことないような表情をして、それでもどこか疲れた顔で、口を開く。


「あのさ、わたし、書いてもいいよね」

 ラブレター。


 ぽつり、と、彼女は言った。

「まだ、いいよね」

 机に頬をつけて、軽く唸る。それきり、彼女は黙り込んでしまった。本当に彼女のクラスメイトと付き合い始めたのかも、それが「本当に好きな人」なのかも言わないまま、静かに目を閉じた。


「いいんじゃないかな」

 必要ないと知りながらもぼくは答えた。不思議と、最初からこうなる予定だったのだと思えた。脳の奥の方でじんわり染み込んでいったそれは、何かの薬のようにぼくを満たしていった。


「そっか」

 頬をつけたまま笑う彼女に、何だか気恥ずかしくなる。ぼくは背を向けた。

 家庭科室二の後ろ側は薄暗くて、ぼくらだけにスポットライトが当たっているようだった。


 とん、と軽い衝撃が後ろにくる。彼女が背中合わせに体を預けているらしい。

「変なひと。私にはわかんないや」

「ぼくだってわからないよ」

 くすくす笑う声の間で、昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴り響いた。

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