3.周辺環境の悲願はビール
シャーロットのいない生活は平穏そのものだった。
睡眠サイクルを乱されることも、フラストレーションの溜まるかみ合わない会話もなく、漫然と時が過ぎていくのを待つだけの生活。変化もなければ、ストレスもない。そんなどん底に落とされた自分に対する嫌悪感を除けば、仕事に忙殺されていた過去の自分が馬鹿みたいに思えた。
確かに、心の奥底には気がかりに思うところもあった。シャーロットはジャンクヤードに捨ててきた。一番日当たりがいい場所を選んできたとはいえ、日照不足は免れられないだろうし、満足な水や肥料が得られる環境ではないのは違いない。
いや、と頭を横に振って後頭部にしがみつくうしろめたさを振り払う。元々あいつはあそこに捨てられていたんだ。遅かれ早かれ、あいつは死ぬ運命だった。たまたま俺がそこに通りかかって、少しばかり延命処置をしただけだ。だから、あいつを殺すのは俺じゃない。元の飼い主だ。そう自分に言い聞かせながら、俺はくそつまらない厚労省推奨コンテンツをのめり込むように消化していった。
その一方で、真里に数年ぶりに買ってやろうとも考えていた誕生日プレゼント選びもやめてしまった。植物すら愛せない俺にそんな資格などあるはずもなかった。
俺は引き出しの奥底にしまっていた一万円札を取り出した。通貨の非物質化への過渡期の最中につくられた新しいデザインのものだが、非物質通貨の台頭で日の目を見ることのなかった紙幣。元々は真里へのプレゼント購入費用のために用意したもので、思わず使ってしまわないようにと、口座に連結した決済端末から物理的に分離させていたものだ。だが、かえって不便な物質通貨は今や闇市場の通貨だ。つまり、健康維持プログラムの監視網を抜けてビールを飲むために使うには、もってこいだった。
🌳 🌳 🌳
ポケットの中で揺れ動く硬貨同士がぶつかり合う懐かしい響きに酔いしれながら家に帰ってきたころには、ビルの壁面で反射した朝日がアパートの屋根を容赦なく焦がしていた。千鳥足のまま部屋へと入り、俺はベッドに倒れ込んだ。アルコールを検知されないための対策など、すっかり失念していた。
起きたら夕方だった。
「呼気に規定値以上のアルコールを検出しました。過度な飲酒はお控えください」
ベッドが淡々と告げた。
「うるせえ」
「WHOヘルスランクの査定に関わる可能性があります。健康は資本です」
「資本を食いつぶしたのは
説教ベッドがら飛び起きた。テレビのリモコンを踏んでしまい、滑った俺はベッドに倒れ込んだ。その拍子にテレビの電源がついたようだった。
「続いては、〈植物2.0〉の不法投棄という社会問題についてです」
思わず目を見開いた。
社会問題に切り込むニュース番組らしい。
「本日は、ライフワーク総合研究所の主任研究員、松島博人さんにお越しいただいております」
キャスターが紹介したのは、派手な花柄のアロハシャツに身を包み、サングラスをかけた壮年の男性だった。松島は社会問題の社の字も分からなそうな出で立ちをしていたが、「よろしくお願いします」の声は渋いながらもよく通り、見た目とのギャップも相まって聞く者の耳を掴んで離さないという印象を受けた。
キャスターが松島に話しかける。
「グリーン・プラネット社の〈植物2.0〉は人間とのコミュニケーションが可能な世界初の植物ですが、どうしてその不法投棄が相次いでいるのでしょうか」
「根本的な問題として、ユーザーが愛玩機械と〈植物2.0〉を同列に考えていることが多い、というアンケート結果があります」
アロハシャツに似合わない固い口調で松島が言った直後、彼のサングラスの内部に、小さく白い四角が浮かぶのが見えた。情報投影の可能なARサングラスらしい。
キャスターと松島の間にグラフが浮かんだ。ライフワーク総合研究所の独自のアンケート調査で、〈植物2.0〉の購入者千人に「求めるもの」をヒアリングしたものらしい。癒し、育てやすさ、手軽さといった、愛玩機械と共通するものを購入者たちは多く求めているらしい。
「つまり、〈植物2.0〉にユーザーが求めているのは、ファスト・癒しです。リアルのペットのような手間もなく、愛玩機械のような嘘っぽさもなく、本物の生命ながら、植物側の自己申告によって世話が簡単に行えるという点。これが、〈植物2.0〉がこれだけ普及した理由でもある訳です。しかしながら、〈植物2.0〉の会話システムを真に理解しているユーザーは驚く程少ない」
「会話システム、ですか」
「ええ、多くの愛玩機械は、人とコミュニケーションをしやすいように最適化された言動ロジックを持っています。主人の呼気、表情、拍動を分析し、疲れを検出すれば膝に乗ったり、甘えたり。あるいは、完全に人の言葉をしゃべり、悩みを相談できるタイプのものもいる。人間が何を求めているか、それを理解した上で行動するようにプログラムされているのです。ですが〈植物2.0〉は違う。彼らは本物の植物です。そして彼らの話す内容は、人間が求めているそれではない。植物自身の声そのものなのです。植物が主人の疲れを癒してあげようなどと考えますか? いや、そもそも、物が主人という概念を理解できると思いますか?」
「つまり、〈植物2.0〉での植物の声は植物本来の声を翻訳したに過ぎず、人間の癒しになるような気の利いたセリフを言えるとは限らないということですね?」
「仰る通りです」
「そうだとすると、〈植物2.0〉と人間との間で会話が成立するとは思えないのですが」
「そこで登場するのは、統合情報解釈AI〈インタープリタ〉です」
「〈インタープリタ〉?」
キャスターは眉をひそめた。番組のディレクターAIが画面上に〈インタープリタ〉の説明ポップアップを自動表示したが、専門用語の羅列で何が書いてあるか分からなかった。
松島は続ける。
「植物は分散ネットワーク系です」
キャスターはさらに眉をひそめた。それと同時、分散ネットワーク系についての解説ポップアップが画面の別のところに出現した。
「植物は動物のような脳を持たず、根は根で、葉は葉で、茎は茎で思考します。もちろん、それらは密接に繋がり、情報を交換し合っていますが、情報を集め、すべての器官に命令を出すような中枢神経はありません。しかし、実を言えば、人間を含め、動物の脳だって同じなのです。脳は無数の神経細胞で集まってできていて、確かに情報はそこに集められ、そこから命令が出る。では脳の中は? 脳内の一体どこが、人間の本当の中枢神経なのでしょう? 脳の中に小さなホムンクルスが住んでいる? では、その小さなホムンクルスの行動を決めているのは、そのホムンクルスの脳内に住むホムンクルス? なら、今度はそのホムンクルスを操縦しているのは一体誰?
つまり、動物も実のところは分散ネットワーク系なのです。無数の神経細胞が情報を交換し合いながら、ミクロなスケールで情報を処理していく。そうやって、動物も、そして人間も、情報を処理し、行動を決めているのです。つまり、人間には、動物には、その行動を決める絶対的な意志などありません。すべては、無数の神経細胞系の相互作用的発火現象がもたらす応答の結果、創発に過ぎません」
キャスターの顔はさらに曇っていた。けれども、ARサングラスの内に無数のポップアップが飛び交う松島には既にキャスターの表情は目に留まっていないようだった。彼の口からは止まることなく言葉が放流されたダムのように流れ出ていく。そしてその幾つかを拾ったディレクターAIが生み出した解説ポップアップが画面を埋め尽くし始めた。
「そんなまさかと思いますか? なら、自分の中の自由意志は? そう、誰もが抱いたであろうその疑問こそ、インタープリタ・モジュールが見せた幻影なのです。おっと失礼。賢明な視聴者の方々には釈迦に説法でしょうが、人間の脳はネズミなどの小動物と違い、非常にモジュール化されています。神経網は汎化されておらず、特定の処理を行うことに部位ごとに特化した――モジュール化された構造をとっています。そして、そのモジュールの一つこそ、インタープリタ・モジュール。神経ネットワークという分散系を行き交う無数の情報を統合し、それを行った理由付けを行う――解釈する。自分がこういう行動をとったのは、こう考えたからだ、と後付けで自分を納得させるのです。つまり、自由意志の正体とは、そのインタープリタ・モジュールが私たちに見せる幻ですが、その話は置いておくとして、無数の情報を統合し、解釈することは擬似的な意識を生み出すことに繋がります。正確には、意識があると解釈できる。〈インタープリタ〉は植物の各器官に人工の細胞小器官として組み込まれた、ナノスケールの情報収集器あるいは〝外皮〟に付着した情報収集ナノマシンから発せられた無数の
つまり、彼らが『水のあらんことを!』と喚くとき。彼らの中で起きているのは、水不足に対する反応の数々です。気孔を閉じ、根圧を上げる。そうやって、系全体が水不足であると〈インタープリタ〉は解釈する。それを『水のあらんことを!』と翻訳している訳です。ですから、彼らには人間を主人と認識することはありません。彼らが名乗るのは、システムが勝手に名乗らせただけだからであり、彼らに本当の自我はありません。彼らは人間を周辺の環境の一つとしてしか認識せず、感謝もせず、恨むこともなく、平然とそこに佇みながら、解釈された系の問題を淡々と告げるだけなのです。そんなことも知らず、愛玩機械の仲間と目論んで買ってしまっては、お互いに不幸になるのも道理でしょう」
その後も、松島は喋ることを止めず、無数のポップアップが画面からあふれかえった。時間が来たのだろう。キャスターは無理に話を区切った。ポップアップが霧散する。
カメラに向かって挨拶をするキャスターの脇で、捨て台詞を吐くように松島は叫んだ。
「忘れるな! 〈植物2.0〉を理解するなんて永劫に叶わない!」
気が付けば、俺は松島とやらの熱い口演に聞き入っていた。細部まで理解できたとは言えなかったが、彼が何を言おうとしていたかは感じ取れた。
シャーロットは――〈植物2.0〉は本質的に人間と異なる。だから、彼女のことを理解することなんて、到底叶わない。話がかみ合わないのは当然のことで、必要なことはきっと、何だったら彼女に通じるかを考えることだった。鉢植えという概念はシャーロットには分からなかったが、きっと組み込まれていたAIがシャーロットも分かる大地という概念に翻訳してくれたのだろう、と思った。
恐らく、前の飼い主はそこまで頭が分からなかったのだろう。飽きたら捨てる愛玩機械と同じように飼い、全然話が通じずに、ジャンクヤードに捨てた。
それは、ほんの先日の俺も、そして真里に相対した過去の自分も同じだった。過去の自分を殺したい衝動にかられた。シャーロットに天動説も日照権分からないように、小さかった真里にリストラも仕事もわかるもんか。
俺はそんな単純な事実にすら気づいていなかった。今の今まで、こんなふざけた専門家とやらに指摘されるまで。
俺は窓の外に目を向けた。日はまだ暮れていなかった。
俺は家を飛び出した。
🌳 🌳 🌳
無数の家々で可愛がれ、飽きられて、捨てられたものたちの成れの果て。あるいは、人知れず街で働いて、用済みになって廃棄されたものたちの残骸。
ジャンクヤードは静寂に包まれていた。
久しぶりにそこに入ると、俺を襲ったのは、無数のイメージだった。
足元で力尽きた上腕のもがれた猫型愛玩機械を見ると、それを可愛がる小さな女の子の姿が目に浮かぶ。誕生日プレゼントにそれをもらった少女は地の底をも照らす笑顔を振りまく。それが机から落ちて腕が取れたとき、死という概念を知った少女は、夜通し泣き続ける。
両翼のもがれたカラス型ドローンを見ると、少女が遊びに使っていたボールをゴミと勘違いしてくわえようとする光景が目に浮かぶ。叫びながら、少女はそれを阻止しようとする。カラスは撃退したが、そのくちばしによってボールには穴が空いてしまっている。また買ってあげるよ、と少女の父親は言う。その一か月後にリストラされることを、彼はまだ知らない。父がそうなることを、なった後も知らなかったままでいることになる少女は強がって笑って見せる。
大丈夫、パパ。
少女の父は言う。ハンバーガー、食べに行こうか。
止めどなく溢れる感情の激流に心揺さぶられながら、俺はジャンクヤードの中を進んでいった。一際大きな丘の上、ハイウェイを縫って屹立する光の柱の中で、夕日に照り輝く一つの植物があった。
やや葉は丸まり、下の方の葉は茶色く枯れている。それでも、その天頂には悠然と一輪の花が咲いていた。それは極楽鳥のように、橙色の尾羽と鮮やかな青色のくちばしからなる花だった。
死が滞るこのジャンクヤードの中にあって、その羽は今まさしく天高く飛び立とうとする鳥だった。俺はすっかり見とれて足を止めてしまった。心中で渦巻いていた感情の激流もいつの間にか止んでいた。
「あれ?」
やや抜けたような声。
「そこにいる
俺は何も言えなかった。感謝も、憎悪も滲まない平坦な口調。それは、初めて会ったときと寸分違わぬ口調だった。
「あれ、返事がないようだけれども、そのアンモニア臭はごかませなくてよ?」
俺は近寄って、脇にかがんだ。
「そのアンモニア臭とやらに、覚えはないのか?」
「覚え? それは肥料のことですの?」
ああ、そうか、と大人しく俺は納得した。きっとこいつには、記憶という概念はないんだと思った。
「出会ったときからそうだったよな、シャーロット。お前が置かれていた状況は絶望的で助かる見込みなんてまるでなかった。なのにどうしてか、いつもなんどきも、平然としてる」
「絶望って何ですの? 花を咲かせるのに必要なものでして?」
「怖くねえのか。お前の言う、周辺環境とやらは誰も来ず、夜は明けず、雨も降らない――そんな状況に置かれ続けて、よく正気を保っていられる」
「周辺環境さんが来ないかどうかなど分かりませんから」
「こんなとこ俺以外に誰が来る?」
「明けない夜というものを知りませんから」
「お前が羨ましいよ」
「美しい? でしょう、このがくと花。これが私、ストレリチア・レギネのシャーロットですわ」
まったく、呑気なやつだ。
「周辺環境さんも、そんな暗いところではなく、こちらに茎を伸ばされては? それとも、もう茎を伸ばすことはできなくて?」
俺は静かにシャーロットを鉢ごと抱えた。もちろん、スピーカーを忘れずに。
「あら、地震ですの?」
「ちょっとの辛抱だ。我慢しろ、シャーロット」
🌳 🌳 🌳
ハイウェイジャングルの林冠部から突き出た高層ビルの一室で行われている、非就労者向けの
ビルを出て、自動舗装コンクリートに覆われた傷一つない床面の広場を歩く。小さい娘を連れた家族連れの姿が目に留まった。少女は両親に囲まれ、満面の笑みを花咲かせていた。
下層へ降りるためのエレベータへと向かう道中、パブを見かけた。老若男女、各々が色とりどりのグラスを傾けていた。俺はそれをスルーした。迷うことなくエレベータに乗り込んで、賑わう上層にしばしの別れを告げる。
ビールはやめると心に誓った。資産の一切の現金化を禁じるよう家計管理AIに命じた。厚労省の禁酒プログラムに参画し、禁酒タブレットを毎日服用するようになった。あとは、自らに課した戒律を守るよう、無数の生活管理AIをいろんなスマート家具にインストールした。ただし、ビールを飲んでいい条件を、俺は一つだけAIたちに宣言した。
成人した真里と杯を交わすときだ。
待ちくたびれたシャーロットが喚く家へと俺は岐路を急いだ。
短編集「グラプトベリアは時間にルーズ」 瀧本無知 @TakimotoMuchi
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