2.ジャンクフードに警告
幾重にも重なるハイウェイのジャングル。その隙間を縫ってこぼれ落ちた一筋の光の中に、築七十三年の非スマートアパートがある。その三〇三号室が俺の部屋だった。ベランダに鉢植えを置いてやると、すぐに「光よ」のコールは止んだものの、今度は「根がきつい」と連呼するようになった。
「ちょっと待ってろシャーロット。大きな鉢植えを探してきてやる」
「鉢植え? それは大地のことですの?」
「あ、そうだ、間違えた。今もっと広い大地に移してやるからな」
「それは嬉しいわ。周辺環境さん、どうか、あなたにも恵みある大地のあらんことを」
しかし、入手できる宛がなかった。満額支給されたベーシックインカムのお陰で生活に困らないだけの補助金はもらえているが、贅沢品を買う余裕はないし、今年こそは娘に誕生日プレゼントの一つでも買おうと今は貯蓄に回したかった。
俺は再びジャンクヤードに出向いた。金も社会的ステータスも貫禄もないが、時間だけは無限にある。
しかし、そこでは大きな鉢植えかそれに代わるものは見当たらなかった。今度はジャンクヤードを出て、ハイウェイの高架に空を閉ざされたシャッター通りに向かった。透水性も自動再生機能もないアスファルトの路面には無数のひびが走っているが、シャッターはさび付いているだけで、昔よく見た落書きの類は全くなかった。都心の郊外には、こういった廃墟ストリートは多く存在するが、犯罪者や不良ごと人はいなくなってしまったし、警察の放ったハト型自動パトロールドローンの巡回路でもあるから、治安の心配はいらなかった。
ここに来たのも、人気の全くないその通りの一角に花屋の跡地があったのを思い出したからだった。記憶を頼りに道を進むと、傾いた看板が見えた。周囲を見渡し、「ハト」の姿がないことを確認する。
シャッターはさび付いて開きそうになかったが、裏口の鍵は壊れていて簡単に開いた。薄暗い店内を携帯端末のライトで照らすと、鉢植えや枯れた植物が散乱していた。大き目の鉢植えはすぐに見つかった。ついでに、残っていた土を少し拝借して、鉢植えに入れて持って帰った。
部屋に戻った俺はシャーロットを丁寧に鉢から抜いてやった。すると、シャーロットの根はとぐろを巻いた蛇が何匹も絡まりあったようになっていた。すべて小さな鉢に収まっていたとはとても信じられなかった。
光の当たるベランダで、ゆったりとした大きな
「私、今、とても気持ちいいわ」
スピーカーからシャーロットの声が聞こえる。
「そうかい、それなら良かった」
「あなたにも光と、大地と、水のあらんことを」
「どうも」
話は通じづらいが、悪い奴じゃないと思った。それだけに、俺はどうして前の飼い主があんなところに捨てたのか気がかりだった。
朝顔を枯らしたくらいしか植物の世話の思い出はなかったが、シャーロットはそれからも適切なタイミングで欲しいものを要求してきた。だからそれに応じるだけで、しおれて弱っていたシャーロットはみるみるうちに元気になっていった。巻いていた葉ものびのびと張りを取り戻し、しおれた茎もまっすぐと天を向くようになった。肥料を要求されたときは困ったが、シャッター通りの花屋跡に行くと、それらしきものはすぐに見つかった。シャーロットとの共同生活は至極順調に思えた。
しかし、このしゃべる植物と暮らすことの難しさを見誤っていたことを、俺は思い知ることになる。
🌳 🌳 🌳
自然循環建築でない築五十年のアパート生活に冷房が必要な季節になったある日の朝、俺は喚き声で起こされた。このアパートの住人もめっきり減って、睡眠を妨害される事態になったのは、隣室がまだ埋まっていた時代、隣人が異性を連れ込んでは盛っていた時以来だった。
俺みたいな輩がいつの間に越してきたのだろう――まどみの中でぼんやりと考えていると、再び喚き声が聞こえた。今度は明瞭に脳に響いた。
「お葉が! お葉が焼けちゃうわ! 助けて!」
音源はベランダだった。睡眠時データの取得機能付きスマートベッド改め監視ベッドをもぞもぞと抜け出して、ガラガラと窓を明けると、シャーロットが叫び通していた。
「どうしたんだよ、朝から一体。いっぱい日光浴びられて気持ちよくねえのか」
朝方、このベランダには自然光だけではなく、ハイウェイより上に突き出したビル壁面からの反射光が差し込んでくる。日照権の問題から、建築基準法で摩天楼には低層建築物に反射光を送るような構造設計が義務付けられているためだ。その当てつけのように、朝方にはどぎつい反射光ビームがこのアパートには降り注ぐ。
「光が強すぎるの! 私のお葉が焼けちゃうわ!」
なるほど、女子だけに美白ならぬ美緑は大事らしい。とんだお嬢様だ。
自然光だけが優しく当たる場所へと鉢植えをずらしてやった。
「気持ちいいお日様ね。周辺環境さん、あなたにも光のあらんことを」
今の今まで日光に焼かれていたとは思えない程に爽やかな口調だった。
俺は大きなあくびをした。
「あら、二酸化炭素濃度が上がったみたい。嬉しいわ」
呑気な奴だ、まったく。
また別の豪雨の日、真里への誕生日プレゼントをネットで物色していると、コンクリートに打ち付けられる雨音に紛れて外から喚き声が聞こえてきた。
「お根が! 私のお根が溶けちゃうわ! 助けて!」
窓を開けて、葉をびっしょりと濡らしたシャーロットに問う。
「お前、酸性雨ダメなのか?」
「周辺環境さん、早く助けて!」
俺はすぐに鉢植えごとシャーロットを部屋にいれてやった。その日はそのまま収まったが、しばらくは雨が続き、その三日後、深夜に俺は叩き起こされた。
「光よ! 私に光のあらんことを!」
現実へと引きずり戻された俺は暗闇の中、うっすらと淵の光るスピーカー目掛けて怒鳴った。
「今何時だと思ってるんだ! 真夜中に太陽なんて出るかよ!」
「私に光のあらんことを!」
俺は無視を決め込み、布団に頭から潜った。私に光のあらんことを! 俺は目蓋を閉じて、耳蓋のない自分を呪う。私に光のあらんことを! 私に光のあらんことを!
耐えかねた俺はスピーカーの電源を落とした。
人気のないさびれた街区の、空室だらけのアパートの中には微かに雨音だけが響いていた。
🌳 🌳 🌳
高架のジャングルが形成する林冠の上、東京の摩天楼林は光で満ち溢れている。燦燦と降りしきる陽光に煌めく中で、無数のホロ広告が鮮やかな色彩の奔流を振りまきながら宙を舞う。
俺もかつてはその眩しい世界にいた。
それなりの大学を卒業し、某電機メーカーの子会社に営業職として就職した俺は、給料こそそこそこだったが、安定した生活を送っていた。二十九で結婚し、三十一で真里が生まれた。
一昔前なら、それは理想的な一家の姿に違いなかっただろう。親会社の名前を知らない日本人はほとんどいなかったし、相手の親も結婚に賛同してくれた。けれども、時代は変わった。AI搭載機器の開発競争で後発の中国系企業に後れを取った親会社は、あっという間にシェアを踏み荒らされ、そして併合された。子会社の社内でも、上司が台湾人になり、職場では英語と中国語が飛び交うようになった。若い社員は翻訳AI〈コンジャック〉を使いこなすことで対応できたものの、既に四十近かった俺はついていけなかった。今の若い世代にとって、仕事のお供はビールではなくAIらしい。〈コンジャック〉は英語も中国語もヒンディー語も完璧に話すが、ビールの味は分からないというのに。
そして三十八のとき、俺はリストラされた。社内のグローバル化についていけない点もあったが、それ以上に、管理職としての仕事が高性能の秘書AI〈セクレタリア〉に奪われたことが一番の理由だった。要するに、俺は不要になった訳だ。
AIがこれからの仕事の要になることは、俺が生まれたときから言われていたことだった。しかし、プログラミングも数学も苦手な俺には情報工学系の道に進む能力などあるはずもなく、たまたま受かった都内の私大法学部で最低限度の勉強をして、酒の味だけ覚えて学位を習得した。そんな人間だった。AIを開発できるか、あるいは使いこなせるか――この二つが今の時代のエリートに必要なスキルと言われながらも、父が酒を武器に上場企業でそれなりの地位まで上り詰めたことを知っていただけに、俺はそのどちらも身に付けなかった。ビールに塗れたコミュニケーションで何とかなるという旧時代的価値観の巣窟で育ち、そこから巣立つことなくここまで来てしまった。そのつけだった。
それでも、俺には心の支えがいた。娘の真里だった。まだ小学校に入学したばっかりの彼女には、俺の置かれた状況がよく分かっていなかったのだろう。ただ、パパの休みが増えたとばかりに喜び、ハンバーガーを食べに行こうと毎日のようにせがまれた。無神経だと腹を立たせることもあったが、妻との関係も難しくなっていた俺にとって、その無邪気さが唯一の救いだった。
けれども、ファストフードに課された不健康税は失業直後の家計を直撃し、断り文句を考えるために憎きAIの一柱〈キラーワード〉に頼らなければならない始末だった。精神的にも参っていたために、真里の遊び相手もあんまりしてやれなかった。おまけに国営の仕事斡旋所のリモート面談を受けては応対したAIコミュニケーターに怒鳴り散らす父の姿は無邪気な真里の笑顔に徐々に影を差すきっかけを作ってしまった。
やがて真里との関係もうまくいかなくなると、俺の救いはビールだけになっていた。もちろん、ビールにも不健康税が課されている。娘が食べたがっているファストフードをケチり、自分だけビールに溺れる――妻に見つかって喧嘩になるのは時間の問題だった。真里は仲裁に入ってくれたが、酔っ払っていた俺は真里に暴言を吐いてしまった。
――真里もそうやって俺を馬鹿にするんだろ!
酔いから覚めると、妻と真里は消えていた。実家に帰ろうとも思ったが、父も会社が傾くとアルコール中毒になり、ガンで亡くなって久しかった。家も家族を失って、俺はハイウェイの林冠下にある旧時代アパートメントの一室に居を移していた。当然ながら、振動を感知する自動通報システムも傷を自動修復する有機壁面も空調いらずの自然循環建築でもない。世紀初頭の人がイメージするものに近い、かつて典型的だった非スマートのアパートだった。
とはいえ、すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するのだから、それは無職の俺であっても例外ではない。そしてそれが何より、俺には悩みの種だった。
日本国の十八番たる統計の杜撰さは無職人の健康管理には発揮されなかったらしい。驚いたことに、貧乏な人程健康が脅かされていると国は把握していたのだ! その結果、生活保護と失業保険の満額支給のために、役人と生命保険会社と数多のAIとが共同で開発した「健康維持プログラム」への参加が義務付けられるようになった。健康はすべての資本だか何だか知らないが、毎週の身体測定はもちろん、吐息のリズムから咀嚼音に至るまで、すべてが配布されたスマート家具を通して傍受されるようになった。ご丁寧に廃棄した生ごみの中身をカラス型ドローンが分析し、申告漏れがないかを見張ってすらいるらしいともの噂もある。
かつてのビールの多飲でWHOヘルスランクで低い方から三番目のDを取ってしまった俺が「健康」な生活を送り、満額の支給を受けるためには、厚労省認定特定健康食材以外の摂取を控えなければならなかった。そしてそこには、ビールとファストフードも含まれていた。要するに、「野菜の女神」とは名ばかりの遺伝子キメラ人工野菜ヒュギエイア漬けの生活がそこから始まった訳だ。ただ、ヒュギエイアの青臭い葉を少しでもおいしく食べるために料理スキルだけは格段に向上した。
その禁欲生活は、リストラと離婚のストレスを発散させるものを俺から完全に奪い去った。かといって、臆病な俺にはそれに甘んじることしかできなかった。トランス脂肪酸を聖水と崇めるジャンクフード狂信団体に加盟する訳でも、闇市場に流れるビールで沐浴する勇気を振り絞る訳でもなく、ただただ言われた通りにヒュギエイア塗れの健康な食生活を送り、嗜好品はアルコールも糖質もオフのビールもどきだけ。フライドポテトの油臭さも、ばさつくパンに挟まれたジャンキーなパテの風味もとうに忘れてしまっていた。
それから一年、仕事を全くしていないにもかかわらず、俺は生活できるだけのベーシックインカムを支給され、それによって「健康」で「最低限度」の生活は送れていた。もう、国営仕事斡旋所に行くこともなくなっていた。
こうして暇を持て余した俺は、「文化的」な生活を送るために必要な、無料配信の推奨コンテンツを利用する他に数少ない趣味として、ジャンクヤードに入り浸っていたのである。
🌳 🌳 🌳
それからの数日間、俺は無言のシャーロットをベランダに放置したままにしていた。
腹筋トレーニング機能つきの微細パルス椅子に行儀よく座り、溜まっていたくそつまらない推奨コンテンツを流しっぱなはしにしていた。もちろん、お供はポテトチップスでもビールでもなく厚労省認定特定健康食品ヒュギエイアの根チップス。AI嫌いの昔気質の刑事のタッグとアンドロイドがタッグを組み、凶悪犯を捕まえては神経治療病棟に送り込む中で信頼関係を築いていくサスペンスもの。主を失い、家事アンドロイドだけが遺された廃屋敷に捨てられた人間の娘が、そのアンドロイドと真の親子になるまでを描いた親子愛の物語。AIプログラマに職を奪われたSEがAIと人間との新たな協働モデルを作り上げるサクセスストーリー。ああ文化的、素晴らしきかなAI。な訳あるか、くそったれ。テレビをぶち壊してAIメンタルクリニック送りになるという事態にならぬよう律した自分を褒めたいくらいだ。
シャーロットの
勇気を振り絞るまで更に二日かかった。
心配は杞憂だった。シャーロットは枯れることなく、ベランダで葉を伸ばしていた。ただ、よく日が当たる箇所がところどころ茶色くなっている。
――お葉が! お葉が焼けちゃうわ! 助けて!
シャーロットの喚き声を思い出した。まさかと思い試しにスピーカーの電源をオンにしてみると、シャーロットは今思い浮かべたのと同じセリフを叫んだ。
またスピーカーをオフにし、シャーロットを鉢ごと室内に移してやる。視界の端にシャーロットの姿が入るのは嫌だったが、忌々しいインテリアの一つと思えば気にならなかった。
数日経つと、段々とシャーロットの葉が丸みを帯び始めた。水をやった。翌日には葉はぴんと伸びていたが、また翌週には葉が丸まり始めた。水をやった。今度は葉の丸まりは戻らなかった。水はまだ足りないかと追加であげたが、元気になる兆しは見えない。
仕方なくスピーカーをオンにする。
「根が腐るわ! 私に光のあらんことを!」
どうやら、求めていたのは光だったらしい。ベランダに出してやろうとも思ったが、葉焼けのことを考えると億劫だった。やはり、スピーカーをオンにし、すべて必要なものを要求させた方が楽だろう。
日照不足、水分過多、肥料不足。その日、俺はシャーロットの仰せのままに作業をした。しかし一ヶ月ぶりにスピーカーをオンにしたその晩、俺は尚も日照不足のシャーロットの叫び声に起こされた。
「光よ! 私に光のあらんことを!」
布団を剥ぎ、暗闇の中フローリングに立つ。
「レム睡眠中の突発的な起床を確認しました。ただちに布団にお戻りください」
監視ベッドがけたたましく注意勧告をする。ベランダでは尚もシャーロットは叫び続けている。
「光よ!」
「ただちに睡眠を再開してください」
「私に光のあらんことを!」
「WHOヘルスランクスコアが3下がります」
「私に光のあらんことを!」
「私に光のあらんことを!」
「私に光のあらんことを!」
その日、俺は悟った。
何故、前の飼い主がシャーロットを捨てたのか。捨てるとしても、何故あの場所を選んだのか。
動くこともなく、ただ喚くだけ。愛玩機械にすらなれない、人の善意に寄生して生きていくだけの存在。
俺は一体、こいつの何に惹かれて持ち帰るなんて選択をしたのだろう。強制的に健康的で、安っぽいくそみたいな文化的さで、最低限度ながら最低な生活を送っている間に、頭でもやられてしまったのだろう。
けれども、ようやく目は覚めた。
俺は暗闇の中、手探りでシャーロットの鉢を持ち上げた。
「地震? 地震ですの?」
「シャーロット、俺は今からお前を捨てる」
「捨てる? 捨てるとは何ですの? まさか酸性ではないでしょうね?」
思わず乾いた笑みがこぼれ落ちた。その滑稽な呑気さは、ジャンクフードの脂のように胃にどっしりとのしかかってきた。くそったれ。
鉢を抱えたまま、俺は家を出た。
「さようならだ、シャーロット」
俺は、シャーロットに喚いて欲しかった。捨てないで、と泣き叫んで欲しかった。けれども、シャーロットの返答は呑気なものだった。
「さようなら? さようならとは何ですの? 日の出のことでして?」
俺は答えなかった。そして鉢を抱えたまま、夜の廃墟ストリートへと足を向けた。
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