魔法使いの夢捨て場

朝乃日和

箱庭の夢はどこへ往く

 俺が魔法使いと出会ったのは、アパート前のゴミ捨て場でのことだった。

 夜空みたいに黒いローブに、宝石みたいな青い瞳。小柄な少女はくるりとこちらに背を向けて、路地の奥へとぴょこぴょこ歩いて去っていく。このままでは、魔法使いを見失う。だから俺はギターケースを背負ったまま、慌てて夕暮れの路地へと飛び込んだ。


 なんで魔法使いを追いかけたのかと聞かれたら、そういうものだと答えるしかない。なんで少女が魔法使いだとわかったのかと聞かれても、そういうものだと答えるしかない。たぶんきっと、俺は最初から魔法にかけられていたんだろう。


「ようこそ、夢の世界の入り口へ」


 魔法使いに追いついたとき、路地裏の影は色とりどりのパステルカラーに染まっていた。魔法使いは歩き続ける。俺の足も、止まらない。このままどこへ行くんだろうか。こうしていていいんだろうか。まどろみの中にいるように、現実感が欠けていく。思考がふわふわ漂ったまま、魔法使いについていく。


「いいんですよ、このままで。私があなたを呼んだんですから。案内しますよ、最後まで」


 魔法使いが指を鳴らす。一冊の本がどこからともなくパタパタヒラヒラ飛んで来て、魔法使いの手に収まる。羽ばたく本を撫でながら、魔法使いは口を開く。


「えーと。はじめまして、ギタリストさん。私は魔法使いです」


 歩く、歩く。ページをペラペラめくりながら、魔法使いは話し続ける。


「ずっと探していたんですよ。よかったです、日が落ちる前に見つかって」


 路地はどこまでも続く。魔法使いの後を追う。水色、黄色、ピンクに黄緑。色とりどりの影を踏む。角を曲がる。まっすぐ進む。錆びた配管。落書きだらけのコンクリート。カラスはいない。ネズミはどこかにいるんだろうか。なんだろう、霧がうっすらかかってきた。

 魔法使いは本をごくんと呑みこんで、顎に手を当てうんうん唸る。


「なるほどなるほど。片桐アキラ、二十七歳フリーター。元々は……えーとなんて読むんですかこのバンド名? こんな英語知らな…………ん? これラテン語? ……コホン、まあとにかくなんか凄そうなプロいロックバンドのギタリスト。バンド内では影は薄いが実力は確かな縁の下のなんとやら。ですが五年前にバンドを脱退。現在はバイトを掛け持ちしながら、路上での弾き語りをする毎日。そしていずれシンガーソングライターとして再デビューして日本中に名を轟かせることを目指してる、というわけですか」


 まったく、我ながらひどい絵空事だ。身の程知らずの中学生ならいざ知らず、三十路手前で語っていい夢じゃない。それにしても、なんで魔法使いはそんなことまでわかるのだろう。水たまりを踏んだけれど、なぜだか足は濡れなかった。


「うんうん、いい夢だと思いますよ。応援します、叶えましょうよ」


 社交辞令ならけっこうだ、なんて返そうとしたけれど、うまく声が出てこない。感覚が遠い。水たまりは青い。サイレンの音は聞こえない。


「いえいえ、ぜんぶ本音ですよ。魔法使いは、本気の夢を笑ったりはしませんから」


 俺の心を当たり前のように読み取って、魔法使いは呟いた。ゴミ箱の上に猫はいない。玄関の鍵はかけたっけ。左右に並ぶビルたちが、輪郭すらもぼやけていく。


「まったく、今どきのギタリストは日曜朝の女児向けアニメも見ないんですか? ……あ、見ないですよねすいません。でもとにかく、小学生でも知ってますよ。魔法は夢を守ったり、夢を届けるチカラだって。つまり、えーと、魔法使いはあらゆる『夢』のスペシャリストなんですよ」


 魔法使いが手を叩く。ビルの隙間の夕暮れが、くるりと月夜に塗り変わる。ふと来た道を振り返ると、ただの行き止まりだった。整合性が欠落していく路地裏を、吸い込まれるように進んでいく。

 ああ、それにしてもこの魔法使いは、いったい何をしたいんだっけ。いや、それより、俺は何でここにいるんだっけ。空の色はよく見えない。


「だからこれも私のお仕事なんですよ。捨てられた夢を拾ったり、夢の中古売買をしたりとか」


 魔法使いは胸を張る。だけど夢の中古売買なんて、言われたところでわからない。夢。夢とは何だろう。空の色はよく見えない。夢は売るものだったっけ。


「あーそれはですね、本人が叶えきれないと悟った夢を才能ごと買い取って、それを他人に売るんですよ。そんな中古売買が、私の本業なわけでして。多いんですよ、夢と素質はあっても時間や環境に恵まれない人って」


 魔法使いがちらりとこちらに振り返る。青い瞳が、俺の顔を覗き込む。ぼやぼや霧散していた思考が、わずかに輪郭を取り戻す。でも、まだ足は止まらない。


「考えたことはありませんか? 自分の技術と溢れる想いを、世界に向けて発信したい。自分のやり方が世界に届くと証明したい。でも、時間が足りない。他にもやるべきことがある。だから諦めるしかない。ならせめて自分が直接できなくても、誰かが代わりに叶えてくれたらなって。誰かに夢を託せたらなって。……そんな想い」

「……でも」


 冷たい空気を吸い込むと、ようやく声が少し出た。空には星が輝いている。


「とはいえ、まあ買う側も楽じゃないですよ。貰い物の夢と才能で、自分を殺して誰かの代わりをするんですから。でも世の中も甘くないので、それでも結果を出さなきゃいけない人もいますし。なのでウィンウィンってやつですね」


 魔法使いは意味ありげに微笑んで、小声で問いかけてくる。


「ギタリストさんは興味ありませんか? 誰かの才能ゆめを買うにせよ、叶わない重荷ゆめを手放すにせよ」


 魔法使いの目を見ながら、少しずつ意識をかき集める。雨上がりのにおいがする。風は少し肌寒い。霧も徐々に晴れてきた。何度か深呼吸をして、何とか言葉を組み立てていく。


「あいにくだけど、俺は何も買う気はないよ。俺は俺の持ってるものだけで、音楽の道を突き進みたい。それと、きっと叶わないとしても、この夢を売る気もないんだ。だからそれが目的なら、家に帰してくれるとうれしいな」 


 確かに、叶わない夢は呪いに似ている。中途半端な才能はかえって未来を狭めてしまう。だけど俺は、幼稚な夢を手放す気もない。だって仕方ないじゃないか。大切な人に、そう誓ってしまったんだから。


「ふふっ。まぶしいですね。やっぱり素晴らしい夢じゃないですか。これだけ想ってもらえるなんて、彼女さんも幸せ者というものです」

「……まいったな。そこまで全部わかっちゃうのか」


 ああ、そうだ。俺が彼女に出会ったのは、十年前のことだった。俺のいたロックバンドが売れる前から、彼女は俺を支えてくれた。そしてバンドがメジャーデビューしたときには、誰よりも喜んでくれたんだっけ。彼女への想いを音に込め、俺はいっそうロックに嵌っていったんだ。


 だけど、ある日突然彼女は倒れた。余命も告げられた。俺はバンドをやめた。残りの時間を彼女と過ごすことにした。自宅療養する彼女の励みになればと思って、弾き語りなんかもやってみた。そのときばかりは、彼女も笑顔になってくれた。俺の音楽は何万人のためじゃなく、彼女に届けるためにあったんだ。……なんて恥ずかしいことも考えた。


 でも、そんな日々も長くは続かなかった。彼女は、俺の前から姿を消した。親戚の家に移ったらしい。弱る自分を見せたくない、自分のことはもう忘れて俺に別の人生を歩んで欲しい、なんてくだらない理由で。

 伝えたい言葉が山ほどあった。君が好きだった音楽を、もう一度届けたかった。だから君が笑ってくれた弾き語りでまた一から有名になって、テレビ越しに君に想いを伝えたかった。


「いまでも毎日夢に見るんだ。彼女の姿を。だから、諦められないんだよ。……ああ」


 自分で言うのもなんだけど、ギターの才能だけはあった。だけどあいにく、俺の歌はお粗末だ。作詞作曲の腕も知れている。バンドをやめたのも、不得手なジャンルでもう一度プロを目指しているのも、我ながら馬鹿らしいとは思う。でも、これだけは譲れない。


「もったいないですね、本当に」

「よく言われるよ。でも、これが俺の音楽だと信じてるから。だから後悔はしてないよ」


 魔法使いの足が止まる。俺の歩みもぴたりと止まる。すっかり夜になったせいでパステルカラーの影たちは消え、路地の景色はいまやすっかりくすんでいた。月明かりに照らされて、魔法使いは口を開く。まだ視界がぶれるせいか、その表情は読み取れない。


「いえ。もったいないと言ったのは、あなたがバンドを捨てたことではありません。あなたが、音楽を捨ててしまったことについてです」

「え」


 まるで意味が分からなかった。魔法使いはいったい何を言っているのか。現に今、俺はこうして夢を抱いている。ギターもちゃんと背負っている。大丈夫、意識はまともに繋がりつつある。


「あの、先程は試してしまってすいません。ですがですね、今回こうしてギタリストさんに会ったのは、夢の売買がお目当てではないんです。そっちの『夢を届ける』系じゃなくて、実は『夢を守る』系の事情なんです」


 どこかでカラスが鳴いている。不安がじわりと染み出して、あたりをきょろきょろ見回した。頭の奥でサイレンが鳴る。思わずその場にしゃがみこんだら、背負っていたギターケースがずり落ちた。


 そして俺は見てしまった。気付いてしまった。ボロボロのギターケースには、粗大ごみのシールが貼られていた。


「…………あ、あ」


 路地の霧が晴れていく。体の感覚が、寒気とともに戻ってくる。

 そうだった。魔法使いに出会ったとき、俺は、あのとき、確か、そうだ。

 当たり前すぎることだけど、現実は甘くないものだ。シンガーソングライターとしてデビューなんてできなかった。バイトと路上ライブを繰り返す毎日。気付けばもうすぐ三十歳。このままでいいはずがない。定職に就いてまともに生きたいのなら、もう猶予はない。でも想いを捨てきれない。でも、でも、でも、でも。

 そして今朝、風の噂で知ったんだ。彼女がとうの昔に亡くなっていたって。

 最後の何かがぽっきり折れた。アパート前のゴミ捨て場にギターを捨てた。夢を捨てた。現実に生きることを選んだ。


「そうです。現実のあなたは、今日の夕方、あのときギターを捨てたんです。音楽の道を歩むあなたは、あの瞬間に本人あなた自身から切り捨てられたんです。あなたは、ただの思念です。現実のあなたに捨てられた、夢の残骸なんです」

「あーあ。……そっか」


 なぜだろう、不思議とすんなり受け入れられた。心の奥ではすでにわかっていたんだろう。幼稚な理想は俺自身に見放されて、あのまま消えるはずだった。そこを、魔法使いに拾われたんだ。

 魔法使いに手を引かれ、ゆっくりゆっくり立ち上がる。路地には朝日が差し込んでいた。


「ごめんなさい、思い出させてしまって。でも、必要なことだったんです。あのままじゃ、ギタリストさんは自分が何かもわからないまま、ふわふわほどけて夜闇に溶けちゃうところでした」

「でも、これでよかったのかも、な」


 絞り出した声は、思った以上に弱々しかった。魔法使いはクスリと笑う。


「夢を捨てることを、一概に悪いとは言えません。それも立派な成長ですしね。ですが、もったいないじゃないですか。あなたみたいなまっすぐな夢が、このまま終わってしまうなんて。だから勝手に拾わせていただきました。あなたはまだ終わりませんよ」


 魔法使いに手を引かれ、再び路地を歩き出す。だけど目の前の角を曲がった直後、唐突に路地の迷路は終わりを迎えた。少し拍子抜けしたけれど、出口はすぐそこにあったみたいだ。


「これから、俺はどうなるのかな。買われた夢と同じように、才能として誰かに売られる……とか?」


 路地を抜けた先の交差点で、並んで信号待ちをする。人はいない。車もない。朝日と静寂だけがある。横断歩道の向こうには、霞でできたアーチがあった。その向こうの風景は、かすんでしまってよく見えない。


「ご心配なく。保護した野良夢を売りさばくなんて、そんなデリカシーのないことはしませんよ。言ったじゃないですか、魔法使いは夢を守るのもお仕事だって。あなたには、私の箱庭で暮らしてもらいます」

「箱庭?」

「箱庭の街。現実世界の裏側、つまりは夢の世界にある、小さな小さな街ですよ。私が私のために作った、捨てられた夢の住処です」


 霞のアーチの向こう側から、がやがやと声が聞こえてきた。目を凝らせば、アーチの先には街のようなモノがうっすら見える。


「要するに、捨てられた夢の中で私好みのものを拾って集めてきて、好き勝手にそこで暮らしてもらうんですよ。もっと赤裸々に言えば、『推しが活動やめちゃう! じゃあその夢拾って保護しちゃう! 現実では引退してても箱庭の街ではまだ活動してるから私が幸せ!』ってやつです。まあ、推しだけじゃなくて色々もったいなさそうな夢やキラキラした夢もこうして保護してますけどね」

「…………はあ」


 結局のところ、俺に選択肢はないんだろう。魔法使いの行動は善意と言うより自分勝手でしかないけれど、それを隠そうともしないのだけは好感が持てる。


「本業の夢の売買はいろいろ胃が痛くなりますからねー。引退したはずの推しの供給が無限にある、そんな癒しがないとやってられませんよ本当に! だからこれもお仕事の一部です。そうと言ったらそうなんです」

「……えーと」


 信号が、青になる。魔法使いはひとっとびで横断歩道を飛び越えて、交差点の向こうからぴょこぴょこ手招きをしてくる。


「では、さっそく箱庭の街へご招待です。あとですね、渡るときは気をつけてくださいね。白線を踏み外しちゃうと、よくわからないどこかに落ちて二度と戻ってこれませんので」


 横断歩道をそろそろと渡る。霞のアーチをくぐり抜けると、とたんに街の景色が広がる。

 路上で大道芸をする人、油絵を描く人、歌う人、楽器を弾く人、着ぐるみを着て踊る人。空を見上げれば気球とハングライダーが飛んで、道を見ればスポーツカーと得体のしれない蒸気機関が走っている。商店街ではシェフや職人が腕を振るい、通りに面した大画面にはアニメーションやドラマや劇が流れていく。立ち並ぶビルやアパートからは笑い声や工具の音、電子音や爆発音が溢れ出し、陽気な喧騒が街全体を包んでいる。


 結局、これは全て虚構でしかないのだろう。ここにあるのは現実から切り捨てられたものばかりで、ここで何を成し遂げようとも現実が変わることもない。夢は夢に過ぎないのだ。

 だけれども、現実では叶わなかった夢たちは、ここで確かに輝きながら生きていた。自己満足で作られた、自己満足のための場所。それが、箱庭の街だった。


「どうですか? いい場所でしょう? じゃあさっそくなんですが――」


 魔法使いに手を引かれ、街の郊外へと向かう。俺がこれから暮らすアパートが、すでに用意されているらしい。

 その道すがら、魔法使いは街の仕組みやここでの暮らしを教えてくれた。だけど俺は、適当に相打ちしながら聞き流す。

 ようやく事態が掴めてきて、かえって疑問が生まれたのだ。ここが夢を叶えるための場所ならば、俺の居場所はどこにもない。足取りは、いつしか重くなっていた。


「――ですが拾った夢もかなり増えましたし、寂しさはないと思いますよー。クリエイターやアーティストさん、アスリートさんや発明家さんが大半で、むしろ面白みしかない場所かと。ついでに全員思念体なので、その気になれば消えちゃうこともできますけど、基本的には老いも病もないですし。自画自賛ですがほぼユートピアですよコレ。そう思いません?」


 確かに、ここは歪んではいるが悪くない。それでも、俺にとって意味はない。この箱庭は、叶わなかった夢を叶えるための場所のはずだ。だけど俺の音楽を伝えるべき相手は、もうどこにもいないのだ。現実だろうと箱庭だろうと、このおれには行くべき先がすでにない。


「伝え忘れていましたが、これから向かう部屋には先客がいまして。要するに相部屋ですね」


 繁華街を抜け、草原を進む。その先にある小高い丘に、古びたアパートが見えてくる。魔法使いが気を利かせてくれたのだろう。ぽつんと佇む二階建てのオンボロは、俺が現実で住んでいたものと寸分違わぬ見た目をしていた。


「ではここでひとつ、私がその方を拾ったときの話をしましょうか」


 魔法使いが指を鳴らすと、ポケットの中からカラスが一羽飛び出した。カラスはひらりと風に乗り、草原の向こうへ羽ばたくと、アパートの二階のチャイムをつつく。部屋の住人らしき影が、ドアから顔を覗かせた。


「その方はある事情から、大切な人と離れる道を選びました。つまり、『大切な人とともに生きる』という夢を捨てたんです」

「…………あ」


 部屋の住人はこちらに気付き、丘の上から慌ててぱたぱた走ってくる。この距離からでも見間違えるはずがない。仕草でわかる。走る姿を最後に見たのは、何年前かも忘れたけれど。


「何度も何度も言いますけれど、魔法使いは夢を守るのがお仕事です」


 ――応援します、叶えましょうよ。

 ――いえいえ、ぜんぶ本音ですよ。魔法使いは、本気の夢を笑ったりはしませんから。

 ああ、そうか。魔法使いは最初から、捨てられたおれたちを救いきる気でいたんだ。


「なのであの子も拾っちゃいました。思わず涙してしまうほど、優しすぎる夢だったので」


 叶えられない願いがある。選ばれなかった未来がある。箱庭の街は、そんな夢たちが集う場所。決して現実とは交わらない、ガラクタだらけの虚構の街。消えずにここで生きていく意味も、そこに価値を見出せるかも、すぐには答えを出せそうにない。だけど俺は魔法使いを追い越して、ギターケースを背負ったまま、ただ全力で駆け出した。

 この夢の行きつく先は、まだ誰にもわからない。

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