第23話 黄龍が昇る空の下で

 

 西暦1853年 皇紀2513年 明応7年4月5日 午前9時頃 

 大中華国だいちゅうかこく 〈燕の都〉北京ペキン 紫禁城しきんじょう 太和殿たいわでん


 旗が、翻っている。西方から吹く、砂混じりの風を受けて。

 幾体もの黄色き大龍が、天を目指して駆け上がっている。

 ―――青藍の空の下で一糸乱れず整列するは、黄土おうど色で統一された軍勢。

 その内の一人の士官が一旒いちりゅう黄龍旗ファンロンを見上げた。

 彼は清々しく、また誇らしい気持ちになった。

 黄土色の軍服と軍帽を被り、雷管式パーカッションロック鳥銃マスケットを担ぐ彼は満洲人まんしゅうじんである。

 かといって、彼のにいる者全員が満洲の民というわけではなかった。

 むしろ割合からすれば、太古より中原を支配してきた漢人かんじんの兵士が圧倒的多数を占めていた。そんな彼らに比べれば、生まれも育ちも……。

 この戦列に加わった境遇すらも、何もかも違う男だった。

 けれど今は、民族や元の身分の差異など関係が無かった。ただ同じ〈大中華だいちゅうか〉の為に戦う兵として。同じ軍服を纏い、同じ戦列に加わっている。

 彼は左右に立ち並ぶ漢人の兵士たちや、ずっと向こうで騎乗する蒙古モンゴル兵の姿を一瞥した。皆、誰しもが希望に満ち溢れたような表情をしているではないか。

 それは自分も同じ。……まるで9年前とは大違いだ、と彼は思った。




 西暦1844年の春先のこと。彼は杭州にいた。清朝における支配階級である満洲旗人きじんの一人として、浙江駐防ちゅうぼうの任に就いていたのである。

 駐防というのは、各地の反清運動を鎮圧する為に派遣された八旗のことであり、帝都である北京に居住地を与えられる大多数の旗人に比べれば、左遷の意味合いが強い役職であった。しかし、時代は清朝末期。

 その役目は何百年も前から世襲されており、彼は民族本来の故郷であるはずの中国東北部・満洲の地すら見たことがなかった。左遷という感覚など無いに等しかった。

 また、満洲人たちは既に母語を失い、民族文化をも失い、名前も漢語となっていた。4億を超える総人口の圧倒的多数を占める漢人と、同化していたのである。

 長く続いた平和は、主に満洲人たちで構成される八旗をも堕落させていた。

 旗人の人口増加に伴う支給地の窮乏は、彼ら自身を経済的に苦しめる要因となっていたのだ。旗人たちは農工商業などの副業を禁じられていたからである。

 更に白蓮教徒の乱を始めとする叛乱は国庫を欠乏させ、軍事教練の機会は失われつつあった。それはますます軍隊の弱体化を招き、彼らは凋落の一途を辿っていた。

 そんな中で起きたのが乙巳いっし革命である。杭州と揚州で勃発したその叛乱を収めるべく、彼も自らが属する下五旗の一つ・正紅旗せいこうきを掲げて、戦に赴いた。

 いくら漢族と同化したとしても、堕ちゆく国の貧弱なつわものだとしても。

 満洲人としての誇りを以て、柳葉刀りゅうようとうを携えて陣を立てたのだ。

 だが。現実は消えゆく者たちにあまりにも非情で、酷薄としていた。



 杭州銭塘県せんとうけんの近郊。火縄銃を担いだ青色の戦列が其処にはあった。

 その隊列の後方に、彼はいた。左腰に刀を差し、青を基調とする兵服を身に纏う。

 万全の迎撃体制を整えている自軍の様子に、彼は勝利の期待を寄せた。

 しかし前方一帯には砂嵐が止めどなく舞っていて、叛乱軍を待ち構えていた彼らにとっては想定外の戦場であった。しばらくすると遠方から、多くの人々の走る音が近付いてくるのを聞いた。敵だ、と確信して彼は気を引き締めた。

 ……胸が少しだけ、ざわめいた。何故だろうか。ただただ、嫌な予感がする。

 砂煙の向こうから迫る音が大きくなればなるほど、そのゆえ知らぬ焦燥は肥大化していくのである。―――ほどなくして、彼は見た。


 農民叛乱と高を括っていた駐防兵たちの幻想を打ち砕くが如き、無数の弾丸を。

 黄砂の中から飛び出してきた叛乱兵たちの、喊声かんせいと共に放たれる鉄弾を。


『進めぇ……ッ! 天命てんめいあらためるのだ!』

『うォォォォォッッ!』


 彼は目を大きく見開いた。まさか叛乱兵たちが火器など持っているはずが無いと、勝手に決めつけていたからだ。そしてその油断は、最悪の状況を招く。


『う……うぁぁぁぁっ! 逃げろぉッ!』

『きっ、貴様ら! 逃げるなぁ! 戦うのd……ぐぁぁっ!』


 最前列の兵は瞬く間に、弾丸の束によって薙ぎ払われる。

 飛沫が至る所から上がり、清朝軍は一挙に混乱の渦に引きずり込まれる。

 元より士気の低い周囲の一部の兵は脱走。既に軍列は倒壊の様相を見せ始めた。

 そして。土煙が晴れない内は、敵の数さえはっきりと確認できず。ただ暗雲を引き裂くかのような鉛の弾幕は、彼らの恐怖を否が応にも駆り立てる。

 その相乗効果によって、2000はいたはずの味方が次々に敗走していく。

 吹きすさぶ砂塵、砂塵、砂塵。彼の心臓のざわめきは最高潮に達した。

 終いには左右から、ドドドッと無数の蹄音が響き渡り。逃亡兵の苦悶に満ちた声が聞こえては消える。更にその騒音を、恐怖に怯えた旗人兵の叫び声が上塗りする。

 両翼から迫る黄一色の旗を翻す騎兵隊が、陣形の横っ腹を突き破ったのだ。

 当然ながら友軍ではない。叛乱軍の蹄鉄の音が、戦場を支配した。

 その上、指揮官さえも彼を始めとする一般兵を置いて逃げ去る有様である。


「馬鹿な……。こんなはずでは……ッ」

 

 彼は恐怖心からの逃亡をかろうじて抑えながらも、声を震わせて言った。

 ……自分たちが弱いことぐらいは分かっていた。白蓮教徒共が叛乱を起こした時も、英夷共が卑怯な戦を仕掛けてきた時も、我らは勝てなかったではないか。

 戦に負け、香港島を奪われたにもかかわらず〈英夷共に与えてやったのだ〉と高らかに鼻を鳴らして、現実から目を背け続けた。それは旗人の彼も同じだった。

 時代は変わりつつある。自分たちは変わろうとしなかった。だから……。

 しかし。惨い現実が目の前にあって、それを信じることができなかった。

 我々八旗は、我らが護るべき〈しん〉という帝国は、こんなにも脆いのかと。


『敵は一体、どれほどいるのだ! 砂煙で見当が付かん!』

『少なくとも我々以上……3000は下らんはずd―――ぐはぁッ!』


 味方の中にも、己を鼓舞して剣を構え戦う者もいた。

 しかし、もはや三方から包囲されている我々にとっては、何をしたとしても敗北への蛇足にしかならず。次々と、凶弾に倒れていく。まさに地獄の戦場。

 そんな絶望的な状況の中、遂に一人の味方が声を上げた。


「こ、降伏すべきではないのか……、我々は!」


 その感情の発露は、結局のところ彼ら清軍の総意であった。 

 戦闘序盤ならまだしも、正面と両翼からほぼ包囲された状態である現在では、敗走するにしても退路は無く。降伏しなくば、全滅は免れない状況なのだ。

 けれど彼は、彼らは、易々とは受け入れられなかった。自らの弱さを。

 だから次々と、その兵を糾弾するような怒声があちこちから聞こえてきた。


『ふざけるなァッ! 数が多いだけのたかが農民に、何故我らが膝を屈さなくてはならぬのだ! ―――皆の者、私に続け! 中央を突破するっ!

 身の程を知らぬ漢人共に、誉れ高き満洲八旗の威光を知らしめてくれるわッ!』

『その通りだ! そもそも降伏したとて、叛乱軍が我らをただで生かすわけが無かろう! 恥辱の限りを晒すのならば、誇り高く死ぬべきなのだ!』


 そうやって自分らを鼓舞する、一部の上官は部隊を百人単位で密集させていく。

 彼も一筋の希望と大半の諦念を抱きながら、隊列も関係なく部隊と合流する。

 訓練不足の清軍にしてはかなり迅速で規律の取れた行動であったが、それは結局のところ絶望的な状況であることをようやく悟った、死に物狂いで自棄やけを起こした者達の死への行進。その始まりに過ぎなかった。

 彼らは、清朝は、最期の時まで変わらなかったのだ。


「集結せよぉぉッ! 敵中突破d――――――――――――」


 ひゅー――――――。と、着弾。

 遠方より、堕ち来るモノあり。一発だけではない。

 彼の視界にも、眼に捉えられぬ速度で迫る黒の塊が映っていた。


『う、うわぁぁぁぁ! どうしてがぁ!?』

『農民共が何故―――ぐぅぁっ!』


 炸裂。炸裂。炸裂。爆炎が昇り、硝煙の霧が嗅覚を支配する。

 けして命中率の高い砲撃ではなかったが、清軍が密集していたことによって一撃でも集団に当たれば大地の土塊つちくれは抉れ、清軍の肉塊にくかいは空気中に飛散する。

 


『も、もう嫌だぁッ! 俺達が何故こんな目に合わなきゃならないんだ!』


 ……弱かったからだ。自分達が何も、変わろうとしなかったからだ。

 彼はようやく、そんな当たり前の現実を直視して。受け入れた。

 それも他の兵も大方同じだったようで。彼らは、彼は決断する。

 両膝を凹凸だらけの地面に着け、銃も刀も置き捨てて一様に大声で叫んだ。



『―――する!』



 黄砂の戦場が一瞬だけ、静まり返る。

 まだ徹底抗戦の姿勢を崩そうとしない上官たちは、呆けた顔で彼らを見て。

 まるで鬼神の如き形相に一瞬で変わり、彼らを睨み付ける。


『き、貴様らぁっ! 何を勝手に―――』



「―――大勢たいせいは決した!」



 指揮官たちの声を掻き消すかのように、彼ら駐防兵の嘆願を聞き入れるかのように。凛とした男の声は、凄惨ながらも静寂を迎えた戦場に遂に終止符を打つ。


「降伏し、武器を捨てよ!

 我ら〈大中華だいちゅうか革命軍かくめいぐん〉は、投降した者を決して殺しはしない!」


 砂塵の吹き荒ぶその奥から、声が聞こえた。

 騎乗した人影が近付いてくる。柳葉刀を揺らしながら。

 声の主は……長身の若者だった。元は満洲族の慣習であり、清朝成立後は漢人も皆強制されていた黒の辮髪べんぱつを下ろし、砂煙でくすんだ黄一色の衣服を身に纏っている。

 

「だ、誰だ貴様は! 叛乱軍の頭領か!」


 突然現れた偉丈夫いじょうふに、近くにいた上官は柳葉刀を構えて叫ぶ。

 彼は威風堂々と応えた。


「私は大中華革命軍大総統だいそうとうりゅう黄明おうめい〉。あざなは〈孔徳こうとく〉。

 悪しき、そして脆弱なる清朝を打倒し、新たなる〈大中華〉を草創する為に立ち上がった―――蜀漢しょくかん昭烈しょうれつてい劉備りゅうび玄徳げんとくの末裔である!」


『―――…………ッ!』


 その気迫に、言葉の重圧に、劉黄明という目の前の一人の男の存在に、彼ら全員の心胆が震え上がる。特別大きな声を張り上げているわけではない。

 だというのに。何なのだ、この男のみなぎる力強さは。

 しかし、ただ恐れおののくだけの清軍兵士ばかりではなかった。


「ハッ……何が大総統だ! 劉備の末裔だ! 清朝を打倒するだ!

 ただの馬に乗った漢人農民ではないか! だが、わざわざ前に出て来たことにだけは感謝する。ここで貴様を討てば、革命軍とやらも瓦解するのだからな!」


 そう吐き捨てて、薄ら笑いを浮かべながら一人の上官が劉黄明の方へ走っていく。

 握り締めた柳葉刀を上段に振り上げ、馬上から引き摺り降ろさんと劉黄明の腹を狙う。けれども彼は、劉黄明は、一切動じることはない。

 それどころか。


「――――他愛も無し」


「な――――」


 そう言い放つが早いか、劉黄明の持つ柳葉刀は上官のくびを捉えたのだ。

 一瞬にして、その五体は不満足となる。血潮と頭顱とうろが空中を乱舞した。

 清軍に立ち込めるとした空気は、更に重みを増した。


「くっ……掛かれ! 奴の首さえ取れば、我々の勝利だ!」

『おぉぉぉぉぉぉッ!』


 その空気を打ち消さんとして、上官たちは最後の希望とばかりに兵士たちを劉黄明に差し向ける。一心不乱に死への行進を開始する清軍。

 けれど、一度たりとも勝利の女神は清軍に微笑むことはないのだった。


『大総統をお守りしろッ! 放てぇ!』

『戦場の華形・騎兵隊よ、今こそ武勇を示す時ぞ!』


 劉黄明の左右背後を担う黄霧を切り裂いて、叛乱兵たちが彼を護る。

 戦場各地で清軍を潰走させた叛乱軍が、劉黄明の下へ馳せ参じたのだ。

 銃弾が、時代遅れなつるぎを携えた清兵を射抜く。

 精強なる騎兵が、怠惰で無力な清兵を轢き潰す。

 次々に清兵はくずおれ、残った兵も剣を捨てていく。


『こんなところで死んでたまるかぁっ! 降伏だッ!』

『こ……降伏する! ぶ、武器を捨てろ! この戦いに勝ち目など無い!』


 そして皮肉にも降伏を軍全体に促したのは、先程まで勇ましい言葉を振りかざして

兵士たちを死地に送り込んだ上官たちであった。

 ――――彼らは全員、両足を地に、両腕を天に示した。

 そうして清軍が全て投降したことを確認すると、劉黄明は口を開いた。


「……繰り返すが、我が軍は投降した者を決して殺さぬ。

 中華を統べる大龍〈黄龍ファンロン〉に誓ってな」


 その時。戦場を覆っていた砂塵が、全て一陣の風と共に消え去った。

 太陽の眩い光が差し込み、清兵は皆その腕で目を覆った。

 そして眼を開いた者から驚嘆の声を上げる。

 何故ならば、眼前に捉えられる叛乱軍の総数は多く積もっても1000を少し超える程度だったからである。すなわち清軍の半数程度であったのだ。

 しかし彼らの中には驚きこそすれ、納得できない者は誰一人としていなかった。


 身分や服装こそ立派なものではないが、高い練度と武装・規律を保つ軍隊。

 圧倒的な指揮能力や戦術眼、そして貴人を思わせる風格を併せ持つ司令官。

  

 その両方を擁した叛乱軍など、今までの中国史上にあっただろうか?

 きっと叛乱軍の数が今回の更に半分であったとしても、我らは負けていただろう。

 そう確信した。そして清兵たちは、劉黄明を取り囲む叛乱兵たちが掲げている数多の黄旗を見上げた。ただ白地の布を黄色で染め上げただけの旗を見て、彼らは畏敬の念を抱いていた。揺れる黄旗の中心に、一体の大龍の姿が見えていたからである。

 ただ掲げられているだけだったのならば、滑稽な旗に映っていたことだろう。

 しかし今此処には、劉黄明と叛乱軍……いや、大中革命軍の姿がある。

 彼らこそ、黄龍なのではないか。地に堕ちた清朝に代わり、中華を再び偉大に。

 空高く昇る太陽を目指して、暗雲をも突き破って飛び続ける大龍だと。

 他の兵と同じく膝を地に着けた彼は、そう思った。

 そして一つの決意を固めた。己の弱さを知った彼だからこそ、できた決断。

 

 大中華革命軍に加わり、清朝を打倒する。新たなる〈大中華〉を創る為に。


 劉黄明は深く息を吸い込んでから瞳を閉じ、暫くしてカッと見開いた。


「今一度、我が命に刻まれし名を告げる。

 私は大中華革命軍大総統〈劉黄明〉。字は孔徳。

 この中華に巣食う邪悪をことごとく廃滅させ、中華を再び赫々かっかくたるものとする為に反旗を翻した―――蜀漢昭烈帝・劉備玄徳の末裔である!」

 



 あれから9年が経った。

 彼は投降した後、一部の清軍の残存兵と共に大中華革命軍に入隊。

 一般歩兵隊の二等兵から功を立てていくこととなった。

 劉黄明率いる革命軍は、杭州での初戦に勝利した後も快進撃を続けた。

 同時に蜂起した魏源ぎげんらの革命軍も、揚州全域を占領。

 経済的先進地域である浙江省・江蘇省を陥落させたことによって、地盤を固めた革命軍は揚州や泉州・厦門アモイを始めとする重要都市に次々と進撃。短期間の間に、全てを攻略せしめたのである。また、広東省においては香港より出兵した英軍を撃破し、香港島を奪還。

 阿片戦争の雪辱を晴らし、革命軍は歓喜に沸いた。その勢いを維持したまま、革命軍は内陸部に浸透すると共に、華北・北京を目指した。

 そうして今、彼らが立っている紫禁城の地を包囲。自分たち満洲人の国家を中原に打ち立てた太祖たいその子孫・愛新覚羅旻寧による帝室を打倒することに成功。

 2000年以上続いた、中華帝政は終わりを告げたのだった。

 数多くの戦場を、彼は懸命に駆け抜けた。革命軍では、支配民族としての満洲人や少数民族としての満洲人などといった差異は意識されなかった。

 戦場では指揮系統画一の為の漢語を使ったが、一方で私的な場面ではなるべく母語を使用するように指導された。満洲語など分からないと上官に告げると、勉強するように満州語で書かれた写本を渡された。一体何の意味があるのかと思ったが、給金を増やすと言われたので、休暇の日には満洲人同士で集まって勉強会を開いたものだ。

 そのおかげで、今では満州語を流暢に話すことができるようになった。清朝の治世の中で忘れ去られた民族の証・母語を、取り戻したのである。

 聞けばこのような政策は兵士に限らず民衆にも、満洲人に限らずその他の少数民族にも施され、発案元はやはり劉黄明であった。いわゆる〈異字いじ再興策さいこうさく〉である。

 同じ〈大中華〉を目指す者として一つになりながらも、各々の民族の一員であるという誇りを忘れずに生きる。そんな矛盾したような理想を掲げる劉黄明の思想を信じて戦い続けた彼は、遂に歩兵連隊長にまで成り上がった。

 だから今、此処で戦列に加わっているのである。


『劉大総統がお見えになったぞ!』

『おぉぉ……!』


 しばらくすると、太和殿の奥から大中華国大総統・劉黄明の姿が見えた。

 太和殿前で整列する3000人以上の選ばれた兵士たちは、拍手の嵐を起こす。

 周りや背後には衛兵の他に、礼部尚書・左宗棠や吏部りぶ尚書・耆英キイェンなどの重臣が首を並べている。劉黄明は有能な人材の登用にも心血を注いでいる。

 左宗棠などは重臣としては41歳と若く、9年前の清末時代には全く名が知られていない人物だった。それもそのはず、左宗棠は科挙で高級官僚への道である進士科を三回も落第し、湖南で家塾を営む傍ら歴史・地理研究に没頭していたからである。

 しかしその噂を何処からか聞きつけた劉黄明は、左宗棠の元に直接出向いて会談を行った。自らを〈大中華の諸葛亮しょかつりょう〉と称して周囲の高官を呆れさせたという左宗棠の隠れた才能を、劉黄明は素早く見抜いていたと言われる。

 そこで時代遅れの科挙に代わって新設された、官僚登用試験を左宗棠に推薦したところ……彼は楽々と、それも首位で突破することができたのである。

 そこから彼は軍事・外交面で頭角を現していき、去年には外交を執り行う礼部尚書の任を劉黄明より与えられた。そのことで、左宗棠は劉黄明に対して計り知れない恩を感じており、現在の大中華国における随一の忠臣として名を馳せている。

 〈劉黄明の慧眼に外れ無し〉とは、その通りの言葉である。

 

「これより、劉黄明大総統からの言葉を賜る! 皆、心して聞くように!」


 劉黄明の傍にいた文官が張り上げた声に、太和殿前の戦列の空気が更に静けさに満ちたものになる。そして劉黄明が、一歩前に出る。

 まだ30代後半ほどの若き身でありながら大総統であり、この国の建国者でもある。若いと言ってもその貫禄は、そこらへんの老人や官僚・王族出身者では太刀打ちできないほどのものであり、それは5尺半(約182㎝)を超える体躯や長く伸ばした黒髭が寄与しているところも大きいのであった。


「――――兵達よ、私の言葉を強く心に刻み付けよ」


 しかし、それよりも。


「洪秀全を天王とする太平天国の叛乱軍が、我らが都〈南京ナンキン〉を掠め取ってから、はや2年が経った。……今までずっと、私はえも言われぬ屈辱の中で過ごしてきた。けれど今、私の前には、周りには――――忠勇なる戦士たちがいる。

 私の理想である〈大中華〉を共に目指す、お前たちがいるのだと!」


 人々を強く惹きつけるその言葉こそが、彼の威光を支えているのであった。


「時は満ちた。これより〈南京奪還作戦〉を開始する――――!」




 ――――西暦1853年4月。

 失われたはずの英雄〈関天培かんてんばい〉が兵部尚書として全軍を率い、蒙古人の猛将〈僧格林沁セルゲリンチン〉を副将とした軍勢30万が、北京の地を発った。

 目指す地は〈天京てんけい〉。太平天国軍の本拠であり、大中華国の元来の首都〈南京ナンキン〉が在る地である。賊軍を率いてイエス=キリストの弟と自称した天王・洪秀全を天京まで追い詰めた〈曽国藩そうこくはん〉率いる郷勇〈湘軍しょうぐん〉と合流すべく、軍勢は南路を進んだ。大中華の再統一はすぐそこまで迫っていた。


                       【旧版】黎明へ進め 完




 この旧版を最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

 改稿版は〈【新版】黎明へ進め〉にて、投稿されています。ぜひお読みください。

 この物語の征く先をどうか見守ってくだされば幸いです。

 それでは新版でまたお会い致しましょう。

 

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