十
千秋楽の日は冷たい雨が降った。しかし、暖房なんてつけなくても、古い小劇場は雨の日の満員電車みたいに蒸し暑かった。ほぼ密室の狭隘な空間で、熱と呼気が行き場を失くして充満していた。手先はかじかむのに、顔だけがほてって汗を吹いた。
○逗子の鮮魚店・スオウさんの自室
スオウさん「これを見てくれ」
と、冷蔵庫から銀の盆に載った西瓜を取り出す。
囁かれる西瓜の名産地。
スオウさん「これは死んだ妹の首だ。愛する妹を父親から奪うために、俺は両親と妹を殺し、こうして今、俺たちは一緒に暮らしている」
妹、西瓜を一切れ左手に持って登場。
沈黙のまま立ち尽くすクラタ。
スオウさん「妹には西瓜を口移しで与えてやるんだ。それも尾花沢の一級品だけだ。見ろ。ここに妹のためだけに用意した西瓜がある」
と、もう一つ西瓜を取り出す。
囁かれる西瓜の名産地。目を指し、指で三を作り、地を指す。
スオウさん「こうして、接吻して食べさせるんだ」
と、言葉とは裏腹に、銀の盆に載った西瓜を二つ目の西瓜と取り換え、古い西瓜は捨ててしまう。
クラタ、慌てて妹の手にある西瓜を一口かじり、妹に口移しで与える。
無音。
落窪さんは愛子ちゃんに接吻する。愛子ちゃんは、その瞳を閉じない。
*
○逗子の鮮魚店・スオウさんの自室
スオウさん「形見っていうのは、故人本人みたいなものなのさ。だから、みんな死んでしまっても、俺は少しも寂しくなんかないんだ」
クラタ「でも、そんなに砂だらけにしてしまって大丈夫なの?」
相手が右手を差し伸べる。ダンスが始まる。
スオウさん「なに、美しければいいんだ。このヴァイオリンは、この姿こそ美しい」
僕は手を取り、ステップを踏む。相手が右足を出したら、左足を下げる。左足を外に出したら、右足を合わせて横移動する。
クラタ「これは、もう弾けないね」
僕ならどう言うか。落窪さんなら何と言うか。
スオウさん「なぜ、おまえが残念そうな顔をする?」
相手が踊り疲れるまで、踊り続ける。
クラタ「いや、別に」
相手がドレスを翻してターンする。ドレスの裾が、白い椿のようにふわりと裾を広げる。たとえ、目の前にいる落窪さんが、黒いカッターシャツと褪せたダメージジーンズを身にまとっていたとしても、僕にはそう見える。
スオウさん「愚かだな。物は用途に縛られるものではないのだ」
相手がくるりと一周したところで、僕は腰に手を当てて受け止めてやる。そこにあるのは、落窪さんから抽象された概念。僕が踊り、戦うべき概念。
クラタ、沈黙。
ダンスはここまでだ。
スオウさん「……夕食の支度がそろそろだな。手伝ってくる」
と、クラタに背を向け、部屋を出る。
クラタ「僕も行くよ」
*
〇尾花沢の古い空き家・ダイニングキッチン
クラタ、冷蔵庫から二つの西瓜を取り出す。
クラタ「(うつむいたまましっかりとした声で)これは僕の妹と、血のつながらない母親の首だ」
囁かれる西瓜の名産地。目を指し、指で三を作り、地を指す。
クラタ「(自信に満ちた様子で)僕の実の母親は十五年ほど前に死んだ。そして、僕が十八になったとき、父は僕と五歳しか違わない美しい韓国人の後妻を取った。新しい母は僕にとって憧れの存在だった。そんななかで、父親は死んだ母に似た妹にいたずらを繰り返すようになった。それをずっと見ていた継母は、一昨年、嫉妬と同情に駆られてついに妹を殺した。愛する妹を失った僕は、復讐のため、継母を殺した。そして、美しい二人の首をサロメのように銀の皿に載せて、自分だけのものにしたんだ」
スオウさん、少しの間沈黙。やがて、笑いをこらえて肩を震わせる。
スオウさん「(絞り出すような声で)俺に勝ったつもりか?」
クラタ「えっ」
囁かれる、西瓜の名産地。
スオウさん「首が二つあれば、俺に勝てるとでも思ったか」
何も言い返せないクラタ。
スオウさん、突然大声で笑い出す。
スオウさん「こう言いたいんだろう。『僕は、もう二年近くも遠く離れた実家に通い続けて、継母と妹という二人の首に西瓜を与え続けている。一方のお前は、ほんの半年足らず、同じ部屋にいる妹ひとりを愛でているにすぎない』。そうだろう」
と、目をむき、真っ赤な口を大きく開けてますます激しく笑う。
スオウさん「お前の家族は死んじゃいない。仙台に越したんだ。お前が逗子に来たとき、そう、つい先週、その口で俺に言っていたからな」
クラタ「そのときは……」
スオウさん「そのときは言うのがはばかられたとでも言いたいのか? 何なら、これから役場に行って、一緒にお前ら一家の戸籍を見てやってもいい。そんな面倒なことをしなくても、馬鹿なお前が、去年の正月に実家から送ってきた年賀状の住所を訪ねていくだけでもいいんだぜ」
クラタ、もどかしそうに黙っている。
スオウさん「ご丁寧に空き家や冷蔵庫まで準備しやがって。さぞ骨の折れたことだろうな」
と、西瓜の一つを両手で持ち上げる。
スオウさん「愚かな奴め。これが頭に見えるか?」
無音。
僕は次に起こるべき出来事を知っている。スオウさんが次に起こすべき行動を知っている。だが、スオウさんは西瓜を床には叩きつけない。僕は、西瓜を床には叩きつけない。
クラタは黙っている。落窪さんは、黙っている。
「答えられないのか」
僕は憐んだように笑う。
これは、僕が落窪さんに挑む最初で最後の勝負だ。稽古を始めてから今まで、読み合わせでも、立ち稽古でも、ゲネプロでも、そして昨日までの公演でも、僕のほうからアドリブを仕掛けたことは一度もなかった。だが、僕は自分の胸に誓ったのだ。この舞台で、僕は落窪さんに勝つ。そして、そのためには、相手に先手を取られてばかりではいられない。僕が、ここに戦場を作り出す。
「割れよ」
僕は落窪さんに西瓜を差し出した。
「お前が割ってみろ。打ち砕いて真っ赤な血しぶきを上げてみろ」
落窪さんは歯を食いしばる。
「なんだ、怖いのか?」
だが、その両足に力はない。落窪さんはがくんと膝を折った。落窪さんは今、どんな顔をしているだろう。僕は今、どんな顔をしているだろう。
僕はもう一度、西瓜を頭上に掲げ、ついに勢いよく床に西瓜を投げつけた。鈍い音がして暗緑色の塊が砕け散る。西瓜の血しぶきが上がる。
「ほら、よく冷えてうまいぞ。食ってみろ」
僕はばらばらになった西瓜から果肉をすくい出し、落窪さんに差し出す。落窪さんは一瞬ためらい、そして果肉ごと僕の手をはねのけた。
さあ、どう踊るつもりだ? どう剣を振るう?
僕は足元で肩を落とす落窪さんを文字どおり見下しながら、来たるべき明日へ思いを馳せていた。そうだ、明日から僕は自由だ。演劇とは遠く離れた世界で、演劇のことなんてすべて忘れて、初めての職を求めて奔走する。卒業論文の構想も練ろう。そこに落窪さんはいない。メビウスの輪も入れ子細工も、合わせ鏡もない。誰とも鏡合わせでいがみ合うことのない世界で、僕は独りで生きていくのだ。
やがて、落窪さんはしっかりと口をつぐんだまま、果汁が流れ出すこぶし大の砕片から、自ら鮮紅の果肉をえぐり取った。だが、それを自分の口には運ばない。
僕と落窪さんの目が合った。その目は、いかにも勝ち誇ったような色をしていた。
次の瞬間、落窪さんはすくと立ち上がり、手の中の果肉を僕の口へ力任せに押し込んできた。一瞬、目の前が真っ暗になる。僕は激しくむせ返る。もはや立っていることもできず、今度は僕が膝を屈し、そして両手をついた。果汁の入り込んだ気管が波打つ。酸素を取り込もうとするたび、青臭い香気にむせ返る。涙が目じりから絞り出される。嗚咽のような咳が止まらない。僕はまるで、土下座しながらむせび泣いているような格好になった。
睨みつけるように、あるいは助けを乞うように天井を仰ぐと、もう一度、落窪さんと目が合った。落窪さんは恍惚とした表情で僕を見やると、骨のように白い指で再び西瓜をすくい取り、それを静かに自分の口に運んだ。
西瓜の名産地 鯉実ちと紗 @koimi-chitosa
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