三月になり、稽古は大詰めを迎えていた。メンバーの顔には、焦りや高揚感と、それとは裏腹の実感のなさが代わる代わる浮き上がっていた。

 クラタとスオウさんのやり取りは、通し稽古でも相変わらず二転三転していた。だが、僕についていえば、あえて落窪さんのホームグラウンドで全力勝負をすること、そしてできれば勝ちに行くのだということを決めてからは、それにも動じなくなった。落窪さんが演じるクラタの台詞を予想するときには、“自分なら”この場面に出くわしたときにどう言うかを考えればいいし、逆に僕はスオウさんとして、落窪さんなら何と返すかを想像して台詞にすればいい。その探り合いが阿吽の呼吸になれば、それは戦いどころか、二人で手を取って踊っているようにすら感じられることもあった。それは武闘であると同時に、舞踏だった。そんなときに後輩たちをふと見やると、彼/彼女らも目の前で繰り広げられるアドリブ合戦を冷静に見守っていて、もはや感覚が麻痺してしまっているように思われた。


 月の二回目の土曜日、公演を一週間後に控えた僕たちはいよいよ小屋入りし、仕込みに入った。会場は中央線沿いにあるキャパシティ五十人程度の小劇場だった。大掛かりなセットはほとんどないが、クライマックスで西瓜を地面に打ち付けるときに会場を汚さないよう、養生にメンバーはみなあくせくしていた。

 その日は場当たりをして夕方には劇場を出たが、日付が変わるころになってから、僕は落窪さんに電話で駅前の居酒屋に呼び出された。部屋で寝床に付こうしていた僕は、パジャマ代わりのジャージにダウンジャケットを羽織っただけの姿で、居酒屋チェーンの自動ドアを開けた。平日の安居酒屋は、無防備な赤い顔か、あるいは生気を失った青い顔をした三次会の学生がぽつんぽつんと座るだけで、物静かな様相を呈していた。僕は落窪さんの待つボックス席に座り、ハイボールと漬物の盛り合わせを頼んだ。落窪さんは搾りかすになったレモンの皮をもてあそびながら、サワーをまずそうにすすっていた。飲み物が運ばれると、僕たちは形式的にグラスを打ち合わせた。

 しばらく僕たちは、ほとんどしゃべることなく黙々と酒を飲み続けた。時折、どちらともなく口火を切っても、会話が長続きすることはなかったし、その会話の内容もあまりに取り留めがなくて、次の会話が始まったころにはひとつとして記憶に残っていなかった。すべての言葉が、落窪さんのくゆらせる煙草の煙にかき消されていくようだった。何も話すことがないのなら、なぜ落窪さんはこんな夜中に僕を呼び出してきたのだろう。時間ばかりが過ぎていく中、僕はだんだんと苛々し始めていた。

 二杯目のグラスを空け、次に頼む飲み物に困った僕が、半ば惰性のように生ビールを注文し終えたときだった。

「問いは問いを生み、疑いは疑いを生み、迷路はどんどん複雑になって、結局、当初のゴールを遠ざけていくんだよ」

 落窪さんはふと、熱燗のお猪口を傾けながらつぶやいた。

「え?」

 空耳かとも思ったが、落窪さんは不敵な笑みを浮かべながら、今度は確かな調子で繰り返した。

「問いは問いを生み、疑いは疑いを生み、迷路はどんどん複雑になって、結局、当初のゴールを遠ざけていくって、そんな顔してるぞ、お前」

 何だよ、それ、どんな顔だよ。僕は鼻で笑いながら、運ばれてきたばかりのビールを喉に流し込んだ。なんだかいつもより少し辛い。

 問いは問いを生み、疑いは疑いを生み、迷路はどんどん複雑になって、結局、当初のゴールを遠ざけていく。

 僕は頭の中で反芻した。

「なあ、お前、『自分だって同じ顔してるじゃないか』って、俺に思ったことはないか」

 僕ははっと我に返った。落窪さんがその瞬間、どんな顔をしていたのかを見逃してしまった。

 メビウスの輪、入れ子構造、合わせ鏡の舞台。誰が誰を演じているのか。そもそも演じているのか演じてすらいないのか。

 確かに僕は、問いに問いを重ね、ゴールのない迷宮に迷い込んでしまった。そして、ゴールを目指すのではなく、リタイヤすることで、あるいはその迷宮を壊してしまうことで、その問いを“解決する”という選択をした。だが、落窪さんはどうなのだろう。合わせ鏡の迷宮の中にいるのは落窪さんも同じはずだ。夢に表れた自らの欲望を自らの脚本によりコントロールすることはできたとしても、僕という他者との関係性までを支配することは、果たしてできるのだろうか。僕が独りでノート上の議論を始めたときは、僕自身も落窪さんにコントロールされてしまうのではないかと恐れていた。だが、今はそうは思わない。そう、もはや落窪さん自身も、この芝居をコントロールしきれていないに違いないのだ。そして、そんな落窪さんは、きっと今、僕と同じ顔をしている。

 システムは一度立ち上がると、本来の目的を離れて暴走する。人間の手に負えなくなってしまった科学技術や資本主義のように、自己目的的に、システムはシステムそのもののためだけに、車輪を回して走り出す。「西瓜の名産地」が生み出されたとき、それはシステムではなかった。落窪さんが僕を出し抜くために作りだした、尊大で矮小な卒業制作に過ぎなかった。だが、それはほかでもない落窪さんと僕による武闘と舞踏の中で、取り返しのつかないほど狂暴なシステムに成長した。「西瓜の名産地」というシステムに突き動かされる僕たちは驚くほど頼りなく、ちっぽけな存在だった。

 僕たちはまた黙り込んでしまった。有線放送から流れてくる気だるいスイングジャズが、しつこく耳に入ってくるだけだった。電球色の照明はまぶしく、頭上のハンガーにかけたダウンジャケットが暖房の熱を吸収して暑苦しかった。皿に残ったまま干からびていく色とりどりの漬物の盛り合わせに、目の奥がちりちりした。三分の一ほど残ったビールのジョッキを何度も持ち上げようとするが、どうしても右手に力が入らなかった。

 しばらくすると、落窪さんは突如、まったく調子を変えてあらゆることをまくしたて始めた。最近熱中している映画のこと、戯曲のこと、思想や理論のこと。それはいつもの落窪さんだった。キューブリック、タランティーノ、唐十郎、別役実、デリダ、ルーマン。立て板に水のごとく、そしてその水を得た魚のごとく、落窪さんは滔々と喋り続けた。なんだか先ほどまでの会話がすべて夢だったかのようにも感じられた。

「そういえば、俺、大学院行くのやめたわ」

 なんだって? 話題の急転換についていけず、僕はまた聞き返した。今日の落窪さんは、少し様子がおかしい。

「親戚の店を手伝うことになった」

 まあ、食いっぱぐれることはないから問題ないだろう、と落窪さんは六本目の煙草に火をつける。

「母方の叔父の家なんだが」

僕の胸はざわついた。

「親戚のうち、大変なんだ?」

 僕は動揺を悟られないよう、アルミの灰皿に山を作る五つの吸い殻を観察しながら言った。

「いろいろな。一つひとつはちょっとしたことなんだが」

 得体の知れない闇が、蛇のように忍び込んでくるのを感じた。すべての始まりとなった夢。唯一確かに握っていた、もつれた毛糸の片端。その聖域が、今侵されようとしている。壁に描かれた富士山ではない本物の巨人、ほかでもない僕たちが生み出した巨人が、冷たい毒を持つ使い魔を送り込んできている。瞼のない蛇の黒い目が、獲物の隙を狙っている。

 僕は喉を絞るようにして尋ねた。

「親戚の店って、何をしているの?」

 僕はある回答をのみ危惧していた。

「果物屋だよ」

 だが幸い、それは杞憂に終わった。

「贈答用だな、高い果物ばっかり売ってる店だ」

 僕は胸を撫で下ろしたが、説明できない不快感は胃のあたりに残っていた。果物屋。夏には西瓜も売るだろう。店頭には、僕たちの生まれた千葉県のものから山形県尾花沢市の一級品までずらりと並び、その丸い背を黒く輝かせるだろう。なかにはそれを毎月のように買い求め、銀の盆に載せて愛でる男もいるかもしれない。そして、わざわざその西瓜を二個も買い揃えて、彼を待つ別の男もいるかもしれない。落窪さんの親戚の家がどこにあるのかを聞く勇気を、そのときの僕は到底持ち合わせていなかった。

「お前も早く仕事決めろよ。好景気だのなんだのって言われてるが、弱いもんにはますます冷たいご時世なんだぜ」

 落窪さんは僕のほうを見ずに、灰皿の端に吸い殻を押し付けながら言った。吸い殻は山の上には重ねられず、こと切れた老人のようにその体を横たえていた。

「四月から四年生だろう。四年生は就職活動だの論文だの単位の消化だの、なんだかんだ年明けくらいまでは忙しいだろうな。来年の二月くらいになったら、さすがに多少は落ち着くんじゃないか。上旬の連休ぐらいだな。うちに遊びに来いよ、うまいもんでも食わせてやる」

 店内の客はほとんど姿を消していた。もう店に入ってだいぶ経つのに足先が冷たい。春先のビールは、ときに体を芯から冷やす。

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