はえあるはる

月岡雨音

はえあるはるは きっとくる

 しとしとと降りしきる、冬の始めの細い雨が窓を濡らす、誰もいない放課後の図書室。

 そこで借りた数冊の本を窮屈な学生鞄にぎゅうぎゅうと押し詰めて、及川葵おいかわあおいはセーラーの衿をひらりと舞わせ、階段を降りていく。

 整然と並ぶ下駄箱には白い上履きと黒い革靴が行儀悪く納められ、まるで出鱈目なオセロみたいだといつも思う。

 朝は黒が勝ち、夜になれば必ず白が勝つ、なんの面白味もないボードゲーム。けれど放課後のこの時間だけは、いつだって接戦だ。


ひるがえる、黒の足跡塗り替えて」

──白を置き去り、今日もさよなら


 胸の内で下の句を詠み、薄く口角を上げ傘を手にした葵は、コートの襟を寄せて白い息を吐きながら、満足気に校門を出る。

 下らなくつまらない日々の些事さじを三十一文字(時に字余り)に落とし込む癖は中学に上がる前からずっと続いていて、今ではもうほぼ無意識に三十一文字が組み上がってしまう。

 もう六年以上も、葵はそんなことを続けていた。

 きっかけは単純に、小学校の授業で習った百人一首。

 千年の時を経ても尚残る言葉の美しさ、たった三十一文字に籠められた幾多の想い。

 それら全てが、葵を魅了してやまない。



「あ、『中目』さんだ」


 夕食後、自室でスマホを操作する葵の目に見慣れたハンドルネームが飛び込んでくる。

 『中目』と名乗るその人物は、数ヵ月前から始めた短歌を詠むスマホのアプリで見つけた、葵の唯一の相互お気に入り歌人だ。

 呟きに返信を返せるようなSNSではなく、「いとをかし」という、いいねに似た応援を送り合うことしか出来ないそのアプリは、葵にとっては掛け替えのない、そして既に生活の一部になっているものだった。

 そこで葵はいつも、心に浮かんだ短歌をノート代わりに書き留めていたのだが、先月あたりからこの『中目』という人物が、葵の全ての歌に「いとをかし」を付けてくれるようになった。


「また返歌へんか来てるかな」


 少し浮き足たつ気持ちでスマホの画面をするりと撫で上げると、数時間前に載せた歌への返歌がその目に留まった。

 共通のフォロー歌人のいない二人だからこそ、恐らく葵と『中目』にしか分からないそのやりとりは、もう二週間程続いている。


「……ふふ」


 葵の載せた下校時の歌についさっき届いた『中目』からの返歌は、いつも通りの変化球だ。


──しろくろを ひっくりかえして またあした ひるまのつきは よるはおやすみ


 ひらがなだけの、いつもの風合い。ちょっと捻って、優しく返してくれる。

 どんな人なんだろう。女の人かな、男の人かな。歳は? 上かな、下かな。同級生だったりして。

 『中目』って、中目黒かな? 本当は、どこに住んでるのかな──……


「逢いたいな」


 ぽつりと零れたその言葉は、けれど三十一文字にはとても届かず、その日もやっぱり電子の海を泳ぐことは叶わなかった。




✿*・゚✿*・゚✿*・゚




 それから一年が過ぎ、受験シーズン真っ只中の葵は、今後の人生を自分の意思で決める始めの一歩を踏み出すことを余儀なくされていた。

 希望する大学は都内の看護科のある大学で、国文学部と散々迷ってようやくこちらに決めてからは、日々猛勉強に明け暮れている。

 そんな中での葵の癒しは、やはりあのアプリ、というよりも『中目』の存在だったのは言うまでもない。


──きみのため はえあるはるが きっとくる いまはがんばれ おうえんするよ


「……うん、頑張るよ『中目』さん」


 勉強の合間、詠う頻度は下がったけれど、それでも細々と、しかし脈々とやりとりは続いていた。


──君がため 春待ち焦がれ 枯れ落ちる 裸桜の 心許なさ


 そんな風に不安と恋慕を織り込んだ葵の短歌に、相変わらずひらがなだけの『中目』からの返歌は優しくて、縋り付きそうになってしまう。

 けれどここでは、個人のやりとりは一切出来ないのだ。

 『中目』という名前を色んなSNSで探したけれど、どうやっても見つけることが出来なかった葵には、このアプリだけが心の支えになっていた。


「いつか逢えるかなぁ……」


 きっとくる。がんばれ。

 そんな風に自分を励ましながら、葵は再び参考書と向き合うのだった。




✿*・゚✿*・゚✿*・゚




 夏。じりじりと照りつける太陽よりもずっとずっと激しく、葵の心は焦燥で満たされていた。

 いつもの返歌が、『中目』からの優しい言葉が、急にぱったりと届かなくなってしまったのだ。


「どうしよう……」


 嫌われちゃったのかな。……飽きちゃった? 鬱陶しくなった?

 ううん。スマホを落としたのかもしれない。機種変したらアプリが対応してなかったとか、パスワードを忘れちゃったとか。

 ……それともやっぱり、迷惑だったのかな。

 私があんなこと、書いちゃったから……


「『中目』さん……『中目』さん……っ」


 応えのないスマホの画面にぽつりと一滴、雫がにじむ。

 焦がれる想いは溢れてしまい、遂に葵は告げてしまったのだ。

 ……あなたに逢いたいと。


──面影を 探し求める 手が止まず 君が恋しい 君に逢いたい


 葵にしては珍しく直球の三十一文字を、とうとう耐えきれずに放ってしまったのが、今から五日前の夜。

 しかしそれからぱったりと、『中目』からの返歌が途絶えてしまったのだ。

 想像というものは悪い方向にばかりよく働くもので、葵の心は、煌めく夏の太陽とは裏腹に、はち切れんばかりの不安で埋め尽くされていた。



✿*・゚✿*・゚✿*・゚



 それからいくつもの季節を乗り越えて、葵は卒業を控えて論文作成の追い込みにかかっていた。

 季節は秋。あの人……『中目』と出会った季節だ。


「元気かな、『中目』さん」


 未練がましくゆかりのありそうな土地にある大学を選んだものの、やはり探し出すことも逢うことも叶わず、しかしきちんと勉学には励み、日々図書館や書店にも通いつめた。

 そしてある日の帰る道すがら、偶然見掛けた古書店にふと足が止まり、吸い寄せられるようにその店に歩み寄ってしまった。


「いい匂い……」


 カラリ。木製の硝子戸を開けると、そこは古書店独特の香りで満ちた少し薄暗い空間で、葵の心は少しだけ羽ばたいた。

 古き言の葉を愛した葵は、古書店もまた好きだった。

 何年、何十年、時には百年千年を越えるいにしえの言霊たちが集う場所。

 その古書が放つ、なんとも言えない紙と埃とかびの匂い。それが、葵は好きだった。


「あ、この本」


 つつつと背表紙を辿っていた指が止まった日に焼けた文庫本。それはかつて大切だった、あの『中目』が愛した本だった。


──ほんはいい とくにたいせつ みやざわの ぎんがてつどう よんでごらんよ


 互いの好きな本について詠みあった時に、『中目』から勧められた本。

 そういえば実家に置いてきてしまった。まだあの頃は、毎日のようにやりとりを交わしていたっけ。


「ふふ、もしかしてこの本に呼ばれたのかな」


 なんてね、と自嘲気味に微笑みながら、ぱらぱらとページをめくる。

 懐かしいと、そう思ってしまっている自分に、涙が出そうになった。

 まだこんなにも逢いたい、まだまだ全然忘れられないのに、なのに懐かしいだなんて──……


「あっ」


 はらりと一枚、手に持った文庫本から栞が舞った。

 元の持ち主が挟んだまま売られてしまったのだろう。それは個人の古書店では良くあることだった。

 スピンがあるのに栞も使うんだ、と思いつつそれを拾い上げようとしゃがんだ葵は、栞まであと数センチの距離で、その指先をぴくりと止める。


「…………うそ、」


 その栞には、とても見覚えのある、しかし見覚えのない筆跡で、とある短歌が記されていた。

 何度も何度も読み返し、後悔し、涙した、……あの詠が。


────面影を 探し求める 手が止まず 君が恋しい 君に逢いたい



 ぶわり、せり上がる何かを感じ、葵は慌ててその本を買い求め店を飛び出した。

 この本はあの人の物だ……! 中目さん、中目さん、中目さん──……!!


 見境なくただ走った。脇目も降らず、足の向くままにただただ『中目』を求めて走った。

 しかし辿り着ける筈もなく、葵は息を切らして見知らぬ公園へと迷いこんだ。

 ここがどこかなんて、今は考えられなかった。


「中目さん……っ、私も、私もあいたい……っ」


 遂に涙が溢れた葵の手には先程の栞がしっかりと、しかし潰してしまわないように握られている。

 裏にしたためられた三十一文字のひらがなが、葵の胸をいっぱいに埋め尽くす。


──ありがとう ぼくもとっても あいたいよ だけどごめんね きっとあえない



「……っ、どおしてぇぇ……っ!」


 うわぁんと、まるで子供のように声をあげて泣く葵に、遠巻きに通行人がちらちらと好奇の目を向ける。

 けれど今の葵には、そんなものはどうでも良かった。


 なぜ、どうして、あいたい、あいたい……


 けれど返歌は送れない。あのアプリからも、既に『中目』は消えていたのだから。




✿*・゚✿*・゚✿*・゚




「三浦さーん、おはようございます、検温ですよ」

「おはよう葵ちゃん」


 あれから更に二年。葵は看護師として、この春から都内の病院に勤めていた。

 願掛けのように伸ばしていた髪も短く肩で揃え引っ詰めて縛り、毎日笑顔を絶やさない。


「葵ちゃんはいつも元気だねぇ、羨ましいよ」

「なに言ってるんですか三浦さん! 明後日退院でしょう?」

「そうだねぇ。でもきっとまた来るよ」

「えー、それは複雑だなぁ」

「うふふ」


 患者さん達とのこんなやりとりも、少しずつ板についてきている。

 先輩方に付いて回って、葵は必死で毎日を送っていた。

 でなければ、あの人に逢えたとき、胸を張っていられないから。


 葵は諦めていなかった。

 いつかきっと、そう願ってひたすらに毎日を過ごした。




「先輩、今日転院されてくる患者さんって、午後いちでしたよね?」

「そうだよ。でもまだ先生と話してるみたい。今日は私と及川さんが担当だから、よろしく頼むね」

「はい、わかりました」


 よその病院から、病状の変化や本人の希望で移ってくる患者さんは割といる。

 今日はたまたま葵もその患者を担当することになっており、先輩と二人で手早く準備を整えた。


「すみません、本日転院で入院の谷中ですが」

「はい、伺います」


 そうこうしているうちにスタッフステーションに現れたくだんの患者さんは、とても痩せ細った三十代半ばの男性だった。

 案内したのは一人用の個室で、慣れているのか母親と見受けられる年配の女性がてきぱきと着替えや小物などを配置していき、手続きを済ませると深くお辞儀をして帰っていった。


「何かありましたらいつでも声をかけてください」

「はい。お世話になります」


 柔らかく微笑んだその谷中という男性の、どこか諦めたような薄い笑顔が印象に残った。

 それはそうだろう。彼は数年前に侵されたという癌が再発し、広く身体中に転移してしまい、地元であるここの病院に、癌センターから戻ってきたのだから。


「谷中さん、下のお名前珍しい漢字ですよね」

「そうですね、よく何て読むのかって聞かれます」

「めぐる、ですよね」

「はい。旋風の旋でめぐる、です」


 年下の葵にも丁寧な言葉で接してくれる谷中とは、すぐに打ち解けた。

 あまり患者に深入りはするなとは嫌というほど聞かされているが、彼の穏やかな気性に、どこか『彼』を重ねてしまっていた。



 そしてある日の夜。

 夜勤のシフトで見回りの際、葵は見つけてしまう。

 彼の、谷中のベッドの下に落ちていた、一枚の栞を。


──あかねさん どうかゆるして ぼくのこと こんなすがたは とてもじゃないが



「……っ、え」


 あかね、それは葵があのアプリで使っていた歌人名だった。

 嘘でしょう? 本当にあなたが? 本当に……本当ならば。


 あぁ、神様はなんて残酷で、そしてとても慈悲深いのでしょう。




 もしかしてとは思っていた。

 優しい言葉、柔らかい言葉、そして「や『なかめ』ぐる」という名前から、想像はしていたけれど。

 深く沈みそうになる思考を振り払い、葵はその日の仕事をなんとか終えることができた。



 そして数日後、葵は色褪せた一冊の本をポケットに忍ばせて、彼の個室へと向かう。

 昼の検温と、車椅子での散歩のためだ。


「谷中さーん、検温ですよ。終わったら今日は天気もいいし、中庭行きましょうか」

「いいの? 嬉しいなぁ」


 彼の白く細い腕に絶望し、けれど今、ここにいてくれることに感謝する。

 あなたの最期を、私はきっと。


「あの、谷中さんて、たくさん本を読まれるんですよね」

「あぁそうですね。入院が続くとどうしても」


 谷中の膝の上には、先程まで読まれていたであろうハードカバーの夢物語が。その夢の途中には、先日見掛けた栞が丁寧に挟まれている。

 愛おしそうに表紙を撫でるその指先を見つめながら、葵は持ち込んだ本を取り出す。


「私以前、古本屋でこんな本を見付けたんです。良かったら読みますか?」

「いいんです、か……」


 谷中は目を見張り、その本をじいっと見つめた。

 見覚えがあるはずの、あの日教えてもらって、あの日葵が偶然手にした、古ぼけた文庫本。


「この本……」

「ご存知でしょう? 『中目』さん」

「……えっ」


 葵はえくぼをぴくぴくと引きつらせながら、精一杯の笑顔を見せた。

 泣くな。泣かないで、がんばれ。わたし。


「……これ、挟まってました」

「まさか、え、あ…………あかね、さん?」

「そうです。あかね、です。中目さん……ずっと、ずっと逢いたかっ……」


 ぼろりと大きな涙粒がひとつ、引きつる頬にこぼれ落ち、我も我もと追随されて、とうとう顎を伝って栞を濡らしてしまった。

 あかねと中目の想いがそれぞれ表裏に認められた、中目手製の栞が、時を経て元の持ち主の手に渡る。

 逢いたかったの。逢いたかったの。やっと逢えたの。

 どうしようもない運命だけれど、最初で最期の想い出が、あなたが選んだ『逝く場所』が、私のいるところで良かっただなんて。


「私の、『はえあるはる』は、きっと今なんです」

「あかねさん……」

「中目さんが、『きっとくる』って、言ってくれたから、わたし……っ」

「僕も、僕も逢いたかった」


 けれど、病に伏し、弱り逝く姿などどうして見せられようか。

 そう言って谷中もまた涙を見せた。


「大丈夫です。看護師を舐めないでください。あなたは私が看取ります。最期まで、お付き合いします」

「……っ、はは、敵わないなぁ」


 泣き笑顔で見つめあい、そっと指先だけを重ねた。

 それが最初で、この先もきっと、もっと。


「願わくば?」

「……きみのじかんを」

「欲しいだけ」

「いいきったねぇ」

「当然でしょう」


 絡めた指を引き寄せて、触れるだけのくちづけを交わす。

 仕事中なのに。だけど今だけ。


「中目さんをあなたに見付けて、とっくに谷中さんにも参っていたんですから」

「そうかぁ……僕は君の強さと笑顔に惚れたんだよねぇ」


 言うつもりなんてなかったけれど。そう言って谷中は、しかしとても幸せそうに微笑んだ。


「……本当にいいのかい?」

「勿論です。何年待ったと思ってるんですか」

「うれしいなぁ」


 あぁやっと、やっと逢えたんだ。そんな実感がふわふわと降り注いでくる。あたたかくて柔らかい、あなたの言葉で。

 諦めないで、頑張ってきて、本当に良かった。

 あの夜に栞を見つけた日から、覚悟はとっくに出来ているんですから。



──あなたには 全て捧げて構わない はえあるはるが 果てる刻まで



 膝から落ちてしまった、ハードカバーの夢物語。

 そこに挟まれた栞の裏に、後でしっかり書いておかなきゃ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はえあるはる 月岡雨音 @amane_tkok

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ