episode?.そして忘れない日々

?.誰も知らない

 ネットカフェ「ダーキニー」の二階にあるオープンスペースは、いつもと比べると閑散としていた。三階から上が数週間前の「事故」により封鎖していた間はそれなりに混雑していたが、昨日から全階営業を再開したためかもしれなかった。

 窓際の木製のテーブルで自前のノート型パソコンを操作していた少年は、ふと手元に置かれたホットココアに気が付くと顔を上げた。長い銀髪に陽光を浴びた女が微笑んでいるのを見て、同じような表情を返す。


「元気そうね。退院祝いしようとしたら、とっくにいなくなっていて驚いたわ」


「パーティー帽子を被って、クラッカーを打ち鳴らせって? 真っ平御免だね」


 イオリは向かいの椅子を薦め、キーボードから手を離した。まだすぐには飲めない熱さを保ったココアを手元に引き寄せ、湯気を息で吹き飛ばす。


「それで、何か用?」


「いいえ、外から貴方が見えたから」


 エストレは穏やかな声で言ったが、イオリはそれを混ぜ返すかのように笑い声を立てた。少し離れた場所にいた客が迷惑そうな視線を向けたものの、特に何か言うでもなく顔を反らす。


「オセロットのことで責任を感じてるの?」


「貴方達には酷なことをしてしまったわ。私の読みが甘かったから」


「いいんだ。あれは僕の不注意でもあったしね」


 ココアに口を付けたイオリは、熱さに顔を顰めてカップを離した。


「あんたがくれた小型サーバだけど、絢爛から吸い上げたデータがメタレベルで保存出来ていたよ。量が多すぎて、また殆ど解析出来てないけど。ウィッチのローカルデータが半分以上失われたのは痛かったね。まぁ「狼藉者」の後始末で大忙しのエンデ・バルター社としてはよくやったよ」


 エンデ・バルター社はアーネストとエディが仕組んだ一連の事件を「外部からのハッキングによる情報操作」として隠蔽した。

 イオリがわざと残したダミーのハッキングルートを証拠として提示し、絢爛の破棄とウィッチの自主回収を宣言した。そのニュースを見た人々の間で「ウィッチは個人情報を吸い上げる」という噂が広まり、競うようにしてウィッチを破壊した。噂話によって広まったものが、噂話によって消えるという、一種の寓話めいた顛末。イオリはその時に思わず笑ったことを覚えていた。


「でもあの中に、きっとオセロットのデータもあるわ。アーネストがレーヴァンのプログラムを噂話から再構築出来たように」


「女の子を待たせるのは男の子失格らしいから、精々足掻いてみるよ」


「必要なら手伝うけど……無粋ってものかしら?」


 エストレの言葉にイオリは頷いた。再度カップに口をつけ、少々我慢しながら一口分を飲み込む。


「あんたのバーコードは貰ったし、それで十分だよ。……あぁ、あとね。変にデータを改竄した箇所もあった」


「殺し屋カラスについてのデータ?」


 エストレの言葉にイオリは感心したような表情を浮かべた。


「凄いね。どうしてわかったの?」


「勘よ。……多分、ヴァルチャーの仕業ね」


「自分の手元に戻すためにでしょ」


「いいえ、恐らくはシズマを守るため」


 エストレは自分の分のカップに添えられていたスティックシュガーを持ち上げると、それをカップの上で半分に折った。破れ目から真っ白な砂糖が流れ落ちて、その下に揺蕩う珈琲の中に溶け込んでいく。


「ACUAを調べていたヴァルチャーは、私の噂話がある日を境に消えてしまったことに気が付いた。私は元からエストレ・ディスティニーという存在だったから噂話が消えた程度では何の影響もないけど、「カラス」は別。噂話によって作られて、それに依存する形で生きている」


「じゃあカラスの噂話が消えたら、オジサンも消えるってこと?」


「人格の維持が出来なくなる可能性はあるわね。だからそれが起きないようにデータを弄ろうとしたのかも。本人が死んでいる以上、確認は出来ないけど」


 ふぅん、とイオリは曖昧な相槌を打った。エディの歪んだ愛情を理解するには、イオリもエストレも少々若すぎた。だが、エディがシズマを二年間も自由にさせていたことを考えれば、その仮説には十分な説得力がある。


「でもデータの改竄が出来なかったってことは、オジサンにはその危険性は残ってるってことだよね」


「心配ないわ。ヴァルチャーが想像している以上に、シズマはしぶといもの」


「あの二人はどうしてるの?」


「どちらもそれなりに見かけるわ。でもシズマは「俺の金を犬猫に渡しやがって」って怒ってて、口を利いてくれないのよ」


「贅沢言わないで欲しいよね」


 二人揃って押し殺した声で笑い合う。互いに、数日前のことは後悔していなかった。完全に元通りにはならなかった日常で、またこれからも生きていくことだけが彼らに与えられた報酬だった。


「……あ、そうだ」


 話を切り替えたイオリは、テーブルに肘をついてエストレの方に身を乗り出した。ココアのカップが揺れて、中身が縁から少し零れる。


「セントラルバンクのアクセスログも見たよ。あんた、一発で口座にログインしてたね。暗証コードを忘れたなんて嘘だったんじゃないの?」


「どうして私がそんなことをしなきゃいけないのかしら」


「ヴァルチャーに一矢報いるため。いや、違うかな。そうすればオジサンに会う口実が出来るから。そうでしょ?」


 問い詰めるイオリに対して、エストレは片目を瞑ってウインクしてから珈琲を口に運ぶ。

 その数秒後に放たれるのが肯定なのか否定なのかは、まだ誰も知らなかった。


『忘却のフリージア』End

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忘却のフリージア 淡島かりす @karisu_A

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