郵便トロイカの歌
凍てつく
「エイ、ウーニェム、エイ、ウーニェム」
馭者の男、ユーリー・ユージンは、横目に大河の流れを感じながら、歌を口ずさむ。
「ああヴォルガ、母なる河よ、広くて深い……」
だがその唄い方は、本来ヴォルガの船曳き人夫が謡うのとは違って、弱々しく切れ切れであった。
このロシアの農業地帯で郵便車夫を務めるというのは、とほうもない仕事であった。平原はどこまでも平らで、いつまで進んでもろくに進んだ気がせず、雪が積もればただの白い画布の中を走っているようである。風が吹いて雪が舞い上がるときなどは最悪で、青いはずの空までが白くなってしまう。白樺並木も同じ顔をして果てしなく続いていればうんざりするものだ。
ヴォルガよ、ええヴォルガよ、とユーリーは嘆いた。今ヴォルガには氷が張っていて、このトロイカを乗り入れても、そのままするすると行けそうだ。しかしどこかで氷が割れて、冷たい水に呑まれてしまうだろう。
(そしたらおれはそのまま沈んでしまおう)
と想像すると、鞭を打つ手にも力が入らず、三頭の馬も足を緩めて、ぱたりとどこかに止まってしまった。
そこはたまたま、小さい農家の前であった。
「どうしたんだね、こんなところに」
どのくらい時間がたったのか、ユーリーは馬車に座ったままうつむいて眠ってしまい、肩を揺られて気分悪く目を醒ました。夕陽が差して雪を朱に染めている。その人は痩せた老夫で、髭だけが逞しく伸びている。
「パンと塩があるよ」
と老夫はうれしそうに言って、もう暗くなるから泊まっていきなさい、とユーリーを家の中に案内し、わたしはワーニャだよ、と付け加えた。家は小さくてみすぼらしく、一人暮らしのようである。
わずかなパンと塩と、
ユーリーは短く礼を言って、パンに塩を付けて噛みしめ、ヴォトカを喉に流し込んだ。無愛想に過ぎることだと自分でも思った。
「どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの。何か悩みでもあるのかい」
ワーニャはユーリーにそう尋ねた。その通り、ユーリーには解決不能な悩みがある。悩みに取り憑かれていると言っても良いのである。
「女のことだよ、爺さん」
どうせ旅の恥だと、ユーリーは話し始めた。故郷の村には、幼なじみの女がいる。
「カーチャっていうんだ」
互いに年頃になって、カーチャに想いを懸けるようになった。貧しい旧農奴身分の者どうし、良い夫婦になれるだろう。しかし去年、昔の地主の家のボンボンが、横恋慕をしてきた。カーチャの両親は当然、財産のある旧地主家との結婚を推した。そうすれば良い暮らしができるに違いないからだ。
「そんならそれでまだ諦めもつくのさ」
ユーリーはヴォトカの注ぎ足しを受けて続ける。
そう地主の野郎なんかは、まだしも同じ
ユーリーはその工場の持ち主が村に来たので、生まれて初めて資本家という生き物を見た。その資本家というのは、身がぶくぶくとよく肥えていて、まるで豚が二本足で歩いているよう、立派な上着はもし農奴が羽織れば三人は入れそうなのであった。この
「カーチャがたまたまその資本家さまの目に入ったのさ」
資本家は地主家のボンボンなど意に介さず、カーチャに結婚を申し込んだ。哀れなカーチャは豚の喰い物にされるほかないのだ。それはそれはさぞ豊かな暮らしができるだろう!
そうかいそうかい、それはやるかたないことだ、とワーニャは同情を示す。もうトロイカを走らせるのも厭になって、あそこに止まっていたのさ、とユーリーは話しを締めた。本当にもうこんな仕事も辞めて、馬を一頭だけガメて草原に逃げ、タタール人の中にでも混ざってしまおうか、と付け加える。
「ユーリャ、本当に郵便を辞めるつもりなら」
その前にあの馬車に乗せて、わたしをモスクワへ連れて行ってくれないか、とワーニャは意外なことを言った。モスクワなんかに用は無さそうなのに、どうしてあそこへ行きたいんだい、とユーリーが問い返すと、ワーニャは一枚のビラを取って見せる。
それによると、来たる×月×日、各地の農民や労働者がモスクワに集まって、
「
とワーニャは無邪気に言った。
翌日の朝早く、ユーリーは郵便物の入った袋を、その村の駅に置き去りにして、その代わりワーニャを乗せて、トロイカをモスクワに向けて走り出させた。ただワーニャを失望させたくなかっただけで、こんなことでこの帝国がどうにかなるとは信じられなかった。
思いつき短編録 敲達咖哪 @Kodakana
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