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【考証・想像】古代天皇制の隠された成立過程

日本の「天皇」号が成立した時期は、歴史学的には七世紀頃、推古天皇の時か天武・持統天皇の時とする説が有力であるとされるが、明確な証拠はない。それは『日本書紀』が古代天皇制の成立した過程について伏せ、あたかも太古の昔から存在したかのように書いているからだ。

日本の律令では、天皇をどう称するか、場合によっていくつかの呼称が定義されている。そのうちで君主の称号と言えるものは「天皇」「天子」「皇帝」の三つがある。つまり日本天皇制とは、「天子・皇帝」を併用する中国皇帝制に「天皇」を加えたものだと言えるのであって、単に「倭王」(「大王」説もあるが)が「天皇」に置き換えられたというものではなく、成立の過程にも複雑さがあったと考えるべきである。

「天皇」号の起源が推古天皇の時期にあるなら、その政策として仏教政治が行われたことから、仏教用語としての「天王」に由来すると私は考証し、前にもそのように書いた。中国の「皇帝」号の創案も、法家思想の上に立つ君主という、新たな体制の理念を表すためであるように、君主号の変遷には何らかの政治的変化が伴っているはずなのである。

ただし義務的に世襲される称号としての確立は別の問題であり、先述の複雑さからもその間には紆余曲折があったはずで、拙作ではその前提で孝徳天皇や天智天皇が実際には「天皇」を称さなかったことにしている。

なお『日本書紀』や『古事記』、『続日本紀』などでは全般に「天皇」を使うが、一部で「皇帝」も用いている。平安時代半ば頃からは「天子」が広く用いられ、先代以前の天皇は一般に「何々院」のように(「後鳥羽院」など)呼んだ。勝海舟も明治期のインタビューで、明治天皇をしばしば「天子」と呼んでいる。

ヨーロッパ的な立憲君主制を摂取して天皇制を定義した帝国憲法下においても、公文書で昭和初期まで「皇帝」が併用された。天皇が天皇に一本化されるのは、歴史的には最近のことに属する。

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