大化二年の「改新の詔」に代表される諸改革を歴史上で「大化の改新」と称する。このことは非常によく知られているが、その実態に関しては色々と議論がある。
《日本書紀・孝徳天皇紀》の大化年間の記述を見ると、多くが改革を発令する詔書を引用した形の記事で占められていて、地の文がほとんど無いほどである。つまり青写真だけが載せてあって、その施行の状況はうかがい知ることができない。伏せておかなければならないような事情があったのではないかと疑われる所だ。
続く白雉年間になると、こうした詔書の引用はとたんに無くなる。これは改革が一段落ついたからだと言えば言えないこともないだろうが、むしろ改革を進めあぐねて停滞した状態とも見える。この時期の政治がのちの「壬申の乱」につながる状況を作ったとみるべきではないだろうか。