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【考証・想像】乙巳の変と皇位継承の虚実

中大兄と鎌足が入鹿を殺害した事件は、歴史上でその年の干支を取って「乙巳の変」と呼ばれる。

この事件の記述は《日本書紀・皇極天皇紀》や《藤氏家伝・大織冠伝》に詳しく、その描写は生彩に富んでいるが、かえって生き生きとしすぎで、かなりの誇張や潤色があるものと思われる。昔の宮廷には俳優なども仕えていたから、おそらく実話をもとにした芝居の台本でもあって、それを下書きに使ったのだろう。こういった材料の取り方があったろうことは、《書紀》など日本の古代史料全体を読み解く上でも重要である。

この政変に前後する時期の皇位継承には、不審な点が多いことにも注意しなければならない。《書紀》では舒明天皇の後に宝(皇極天皇)が立ち、政変の後に軽(孝徳天皇)に譲位、その崩後に皇極が復位(斉明天皇)し、その崩後に中大兄が皇太子のまま執政し、年を経て即位(天智天皇)したことになっている。

主な問題点は、
・蘇我大臣父子が殺されたからといって皇極が退位しなければならない理由はないのに、突然譲位を思い立ったのは何故か。
・孝徳崩御によって皇極復位という異例のことになり、すでに皇太子になっていたことになっている中大兄が即位しなかったのは何故か。
・斉明崩御によっても中大兄がすぐに即位せず、およそ六年間も皇太子のままで執政したのは何故か。

このような不自然さがあることは、《書紀》編纂の方針として、天皇号が太古の昔から存在したかのように記されたことと関係があるようである。つまりそれによって古代天皇制が成立する過程に関する記事が伏せられることになり、事件と事件の間にあるべき因果関係の記述が削除される結果になったのだろう。

逆に言えば記述の欠如を追っていけば、古代天皇制の成立過程について外堀を埋めていくことができるわけである。この点、歴史学者によって未だ蓋然性の高い立論がなされていないのではないかと思うので、歴史小説として現実的な描写をするには独自に見通しを立てなければならないのだ。

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