中国古代に端を発する朝貢という交渉の形式は、基本的には正月や盆に親戚に挨拶をするのと同じようなものである。古くは殷や周を中心とし、黄河・長江流域の国々との間で行われた。漢王朝による天下統一が成ると、国郡制による直接統治下にある地域及び、その外の諸地域との間にも朝貢形式による交渉が行われた。
朝貢は本家と分家のような関係を結ぶ形式であり、いわゆる対等の関係ではない。現代的に言えばフランチャイズ型の関係であると言っても良い。しかし漢代には中国の文明の発達は突出したものであったので、おおむね受け入れられやすい形式であったと言える。また国際秩序の原理となりうる思想が他に無かったということでもある。
この形式がその後も長い間、東アジアの国際秩序を形成する下地として継承された。理想的には春と秋の年二回の参上が求められ、土産品を持参して天子に献上し、天子からは回賜(返礼)として過大な物品を受け取る。経済的に言えばこれ自体は中国からの富の流出となる。距離が遠ければ年一回、あるいは数年おきの朝貢も認められる。
魏晋南北朝時代の例によると、倭国からの朝貢は四年に一度を標準として行われたらしい。行程は夏場に出発し、翌年正月の祝賀に出席して、また夏場に帰国するというのがふつうだったようである。
炊屋姫尊(推古天皇)の治世以降、七世紀の遣使は不定期になるが、やはり夏から秋にかけての時季に出発し、留学組は別としておよそ一年後に戻るというのがふつうだったようである。
白雉年間の遣唐使は、《日本書紀》による限り、四年夏五月に吉士長丹らを発遣するという記事と、五年春二月に高向史玄理らの記事による二例を知ることができる。
このうち前者はその時に「出発した」という記事だが、後者は出発から玄理が客死するまでをまとめて書いている。また注して「或る本に云う、夏五月に大唐に遣わす」云々という別伝を載せている。出発は五月の方が妥当だと考えられるから、ここに二月というのは玄理の命日にかけて記事を載せたものとみられる。
すると「或る本に云う」の夏五月は、前年の夏五月であり、長丹らが旅立ったのと同じ月だったことになり、同時に二つの別々の遣唐使が発遣されていたことになるという謎が生じる。なお《新唐書》には白雉の遣唐使の記事は一件のみで、年月は明示されていない。
拙作ではこの時期は飛鳥と難波の両王権が対立していたと考えたので、二重の遣唐使はそれぞれが別々に企てたものということにした。書記では皇室の中に対立があったと書くことを憚って、ぼかした書き方にしたのだろう。