《日本書紀・皇極天皇紀》三年六月条に挙げられている三種の歌、原文は
・波魯々々儞渠騰曾枳擧喩屡之麻能野父播羅(ハロハロニ コトソキコユル シマノヤブハラ)
・烏智可拕能阿娑努能枳々始騰余謀佐儒倭例播禰始柯騰比騰曾騰余謀須(ヲチカタノ アサノノキギシ トヨモサズ ワレハネシカド ヒトソトヨモス)
・烏麼野始儞倭例烏比岐例底制始比騰能於謀提母始羅孺伊弊母始羅孺母(ヲバヤシニ ワレヲヒキレテセシヒトノ ヲモテモシラズ イヘモシラズモ)
拙作ではこれを適当に組み替えて、恋の贈答歌らしく仕立てた。おそらく昔の人もこんなふうに、聞き知った歌の句を場合に応じて入れ替えたりして、無限の派生を為していたのではないか。歌が生活の中に生きた命を持っていた時代はそうだっただろう。
しかしこうした歌が組織的に記録されて《万葉集》のような書物にまとめられていく時期は、もはや歌の死にゆく頃合いだった。千変万化することに命を持っていた一つの文化が衰え、記録されることで一層硬直を起こす。おびただしい万葉歌を以てしても、生きた歌の全容を知ることは出来ないのだ。