ヘルパーMISAO

悠木 柚

降臨

 2023年、白い巨塔は完全に崩壊し、命のやり取りをする医療はあるべき姿を見失った。本来、厳格な教育を受けた看護師に任されていた喀痰吸引や浣腸は介護士へと役割をスライドされ、医療現場での専門性はその価値が激減している。


 そんな中、どこの福祉医療施設にも属さないフリーランス、すなわち一匹狼のヘルパーが現れた。


 都内某所、聖アマテラス病院の準備室。ひとりの女性が医師の指示書に目を通していた。白衣から覗く素足に黒のピンヒールを履き、盛り上がった胸元のV字ゾーンからは何も身につけていないかの如く白い素肌が露見している。日本人らしくない翡翠色の瞳は勝ち気な性格を連想させ、赤いルージュの引かれた魅惑的な唇と相まり、悪魔か、または美の女神を彷彿とさせた。彼女の名は照井ミサオ、年齢不詳、出生地不詳、彼氏いない歴不詳の介護福祉士である。


 " 指示期間2020年12月1日~2020年12月31日

 対象者 川田真司 69歳

 要介護区分5 障害支援区分4

 実行行為種別  喀痰吸引及び経鼻経管栄養


 指示内容

【喀痰吸引】吸引圧20Kpa 吸引時間15秒

【経鼻経管栄養昼】13:00 経鼻カテーテルは55cm固定 栄養剤200mlを2時間で注入 注入後、白湯30ml注入


 留意事項 注入時のむせ込みに注意 "


「どの餌にしようかしら」


 清潔を保つための手洗いをし、必要物品を揃えて回るミサオ。清浄綿、洗浄液、計量カップ。ワニ革張りの装飾を施された専用ワゴンに、次々と、的確に各種物品が乗せられて行く。最後に吸引器の動作確認を行い、それが正常に作動することを認識した彼女の口角は人知れず上がっていた。


 時刻は12時58分。準備室から出たミサオはワゴンを押しながら患者の待つ病室へと向かった。先程まで晴天を誇っていた大気は急激に崩れ始め、どこからともなく立ち込めて来た雷雲が聖アマテラス病院の上空を覆う。コツン、コツンと、廊下に響き渡るハイヒールの音だけがその場で唯一のリアルだった。


 患者 川田真司は従来型個室に入院している。勢いよくその扉を開け放ったミサオは川田の存在を確認し、開口一番こう言った。


「豚臭いわね」


 射るような強い視線と反論を許さぬ揺るぎない口調で話す女性を目視するにあたり、川田は背筋に電流が走るのを感じた。同時にかつては盛況を誇っていたにもかかわらず、ここ数年はめっきり閑古鳥の鳴いていた川田の川田がピクリと反応を示す。彼の中に期待が産まれ、死んだ鯖のようであった両眼に光が灯る。川田真司69歳、全身麻痺となって3年。人生を絶望していた彼は、ここに来て雪解けの到来を予感せずにはいられなかった。


「貴方が川田真司さんね。ゴロゴロと、まるで獣のような呻き声。餌の前に痰吸引をしたほうが良さそうね」


 言いながら素早く川田の口腔及び鼻腔内を観察し、腹の張り具合も確かめる。ミサオの指が寝間着越しに触れる度、川田は名状しがたい快感に襲われた。


「ゲフッ」

「嘔吐かしら」


 そうではない。3年間ジャ◯子のような看護師としか接触のなかった彼のパトスはそれだけで限界を迎え、溜まりに溜まった欲望はシナジーを構成して体内という名の小宇宙から無限の外宇宙へと射出されたのだ。


 刹那、それを理解したミサオは小悪魔の笑みを浮かべ、しかしわざと無視して川田の姿勢を整える。経鼻経管栄養点滴チューブが届くのを確認してから滅菌手袋をはめ、まずは吸引カテーテルを吸引器に装着。非利き手親指で吸引カテーテルの根元を塞ぎ、吸引圧が指示書通りになるよう調整して行く。吸引カテーテルの外側を清浄綿で拭き、カテーテル内部を洗浄。そして先端に残った雫を素早く振り切りる。そこまでしてからミサオは川田の両眼を見つめ、ゆっくりとその情熱的な唇を動かした。


「今から喀痰吸引を始めるわ。言い換えれば餌の前に豚小屋をお掃除してあげるってこと」


 喀痰吸引の際には開口の必要があり、そうなれば自ずと彼女の指先が自分の唇に触れる。そう考えただけで先程3年間の煩悩を放出して賢者になっていた川田の精神は、欲望にまみれたバーサーカーのそれへと堕ちて行った。


 適切な深さまで吸引カテーテルを沈め、ズルズルと貯留物を吸い取るミサオ。その動作は洗練されており、喩えれば効率よく男性の精力を吸うことに長けたサキュバスを彷彿とさせた。口腔内の場所を変えて丁寧に吸引する度、その豊満な双丘が川田の頬に接触する。


「……! ……!」

「フフッ、分かるかしら。わざと当ててるのよ」


 バイタルは急激な上昇値を示し、このままでは喀痰吸引中の死亡という不名誉な末路が川田の頭を過る。連続したパトスの放出は老化した身体に大きな負担となるだろう。しかし幸いだったのは彼の回復力が低いことであった。若い頃より一旦賢者になった川田の川田は、次回のマックスバーストまでの所要時間が極端に長くなるのだ。しかしそれでも、かつてない速度で回復傾向へと歩を進め、充填率は80%に達していた。


「お終いよ」


 示指された吸引時間が経過し、口腔内から吸引カテーテルが遠ざかる。それは彼にとっての、この上ない幸福な時間に終止符が打たれることを意味するものだ。吸引カテーテルの先端から糸を引く川田の唾液は、まるで彼自身の寂寥を表しているかのようであった。


 使用した吸引カテーテルを滅菌手袋で包み、汚物を見るのと同等の視線を走らせながらゴミ箱へと投げ入れるミサオ。すぐさま指定量の栄養剤をイリゲーターに落とし込んで行き、おもむろに新しい滅菌手袋の包装を破る。滅菌手袋のシリコンを掌全体に感じた彼女は、必要以上に時間をかけてその感触を楽しんだ。


「餌の時間よ。さてここで貴方に選択権をあげる。毎分数滴の残飯で2時間かけて生を繋ぐのと、私にパット交換をしてもらうのとどちらが良いかしら。始めに断っておくとパット交換を選んだ場合、餌の摂取は無いと思いなさい」


 それは川田にとって考えるまでもない選択だった。

『パットだ、パット交換をして下さい!』

 全身麻痺で満足に口も動かせない彼は、唯一自由になる瞼を何度も何度も瞬かせ、目の前の女性に懇願した。

『食事なんていらない、味も歯ごたえも感じられない物を流し込まれる生活なんて、もう御免だ。それよりもパトスがバーストしたままのパットを交換して下さい。その白魚のような指で、どうか、どうかっ――』

 彼は必死だった。69年間の人生で彼が最も頑張ったのは、今この瞬間かも知れなかった。目力を強め、世界中の虫や植物から少しづつ元気を集めている的な、一世一代の大技に挑む雰囲気を醸し出した。


「ふっ、そんなにパット交換をしてほしいのね」


 届いたっ! 川田は心の中で歓喜した。何を訴えても解らなかったジャ◯子に似た看護師とは違い、目の前の女神は僕の感情を理解してくれる。反射で瞼の瞬きが3倍速になった。それは3年間、誰ともコミュニケーションが取れなかった男の嫣然に他ならない。


「では最終確認よ。医師に指示されていない行為を受けたいなら特別加算が発生するわ。貴方の要介護度で国から支払われる単位は1ヶ月で36065。これは従来型個室で正規の介護を受けるのに充分な単位数ね」


 川田に医療事務的な知識は無かったが、それでもその単位が相当高いであろうことは予想できた。


「私はフリーランスの認定介護福祉士、私の単位は私が決める。私の手を煩わせたいのなら、それ相応の金額を覚悟しなさい」


 何だそんなことかと川田は思った。世の中は金で回っている。贅沢も命も心さえ金で買える時代なのだ。かく言う彼も現役時代は群馬の豪商と呼ばれた辣腕経営者だった。今現在、会長職にある年商2500億にまで育てた会社がなによりその証であると言えよう。しかし障害を負ってからの生活は彼の心を闇色で塗りつぶし、金ではどうにもならない事態が存在すると知らされた。動かない身体では金を積むことはおろか、交渉することさえ出来ない。しかし目の前の女性は金で現状を解決してくれようとしている。金はあるんだ、金しかないんだ。何なら好きなだけ口座から下ろしてもらって構わない。


「初回ミサオ加算で5000単位、加えて初期ミサオ加算が一回につき500単位。ミサオ配置加算が一回1000単位と医療型ミサオ緊急時管理加算が8000単位。最後に指名サービス加算が2000単位よ。更にここは5級地だけど私が降臨していることで1級地として計算され、介護給付費単位数の地域単価は11.40で固定されるわ。貴方が保有する区分支給限度基準額の実に半分をこの一回で消費することになるけど、良いのね?」


 望むところだ、どんと来い! 何なら個人出費で支払っても全く問題はない。パットの中で今にも爆発しそうになっているバーバパパをどうか早く外気に当てて下さいっ。川田は想いよ届けとばかりに瞼の瞬きを早め、その結果、瞼がこむら返りを起こすという稀な症状に陥った。しかし悔いはない、きっと目の前の女性には伝わったはずだ。


「仕方ないわね。豚の汚物を見るのは嫌なのだけれど、特別に清拭してあげる」


 翌日、聖アマテラス病院内には朗報が飛び交っていた。要介護度5の全身麻痺で入院していた川田真司さんに復活の兆しが現れたからである。


「先生、見て下さい。川田さんが自力で腰を動かしています!」

「奇跡だ、信じられないが奇跡が起きている。まさかあの症状から容態が改善するなんて聞いたことがない。どうしてこんなことが起こったのだろう」

「そう言えば昨日、フリーランスの介護士が川田さんにつきましたが……」

「フリーランスの? ふん、バイト風情が何をしようと症状は変わらんよ。それより原因を究明して論文にまとめなければ……」

「先生、噂を聞きつけた新聞社の方がお見えですが、どうしましょう」

「参ったな、もう耳に入ったのか。応接室で待ってもらっておくように。粗茶など出すなよ、最高級のボトリングティーでもてなすんだ」


 2023年、白い巨塔は完全に崩壊し、命のやり取りをする医療はあるべき姿を見失った。医師は名声を欲し、看護師はリスクを嫌い、本来なされるべき患者へのケアは地に落ちた。


 そんな中、どこの福祉医療施設にも属さないフリーランス、すなわち一匹狼のヘルパーが現れた。


 例えばこの女。群れを嫌い、権威を嫌い、現金を好み、専門職のライセンスと叩き上げのスキルだけが彼女の武器だ。


 認定介護福祉士 照井ミサオ、またの名を「ヘルパーM」


 



 おわり

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