一丈の堀を超える努力の価値

 道宇は三度、アルノーアの前に、しかも強制的に移動させられた。

 寄りもよって、素っ裸の姿。


 今日一日の疲れを、庫裏と呼ばれる住まいの風呂場の浴槽で、気持ちよくお湯に浸かっていた。

 周りの景色が歪んだのである。

 景色が戻ると、アルノーアの前。魔法陣の上。


「あ……」


 道宇のその姿を見て、アルノーアの最初の一言がこれである。

 人前に出る姿ではない。

 おそらくアルノーアの作った世界でもそうなのだろう。

 でなければ彼女がうろたえることはないはずである。


「も、申し訳ありません! ごめんなさいごめんなさい!」


 これまでの、何となく感じていた上から目線の態度はどこにもない。

 が、道宇にはそんなことを感じる余裕もない。

 この世界とは無関係の道宇が、人に見られたくない姿で、その姿のままいるのにふさわしいとは全く思えない場所に無理やり連れてこられたその心中はいかに。

 大激怒、という言葉では生ぬるい。


 アルノーアは、空間の歪みをゲートと呼んでいた。

 そのゲートは、今までは設置した場所に道宇が踏み込んでいた。

 しかし今回はわけが違う。

 彼のいる場所にゲートが出現したのだ。回避しようにもできない状態。

 呼び出すなと再三注意した相手がまたやらかした。

 これでも怒りの感情が出なければ、それこそその人物は神か仏と呼ばれる存在だろう。


「とととととにかく、こ、これをっ!」


 アルノーアはそばにあったタオルを道宇に差し出した。

 未使用とは言え、汗を拭くためのタオル。

 急所を隠すくらいにしか役に立たない。


「お前は女神と言ったな? お前を殺しても、人じゃないから殺人罪には当てはまらないよなぁ?!」


 道宇は何も悪いことはしてないし、やるべきことはやっている。

 確かに学生時代の成績は悪い方だった。しかし目の前にいる人物はそれとは無関係のはずであるし、それでも何もできないとバカにするような物言いをしてきた相手である。

 しかも来てほしい人材を明確にしたうえで当てが外れたのは、呼び出された者に非はない。

 呼び出した者に原因がある。

 道宇の怒りはもっとも。その感情に任せて言い放つ理屈もあながち間違いではない。


「アルノーア様! 何かありました……あ……。貴様ッッ! アルノーア様に何をしている!」


 いきなり部屋の扉が開いて慌てて飛び込んできた一人の女性。

 彼女の見たものは、素っ裸も同然で激怒している男。その相手はよりにもよって、平身低頭のまま動かない自分の主。

 その主が泣きそうな顔でこちらを見る。

 男は怒りの顔をこちらに向ける。

 彼女にしてみれば、抵抗手段がなく、泣きながらこちらに助けを求める図である。


「狼藉者があああぁぁ!」


 道宇に向かって突き出した拳。

 その拳が光り、その光った物が一瞬にして道宇の体に接触。

 道宇は意識を失った。


 ※※※※※ ※※※※※ ※※※※※


 大学へは、寺を継ぐため、僧侶の死角を得るための修行もそのカリキュラムの中にあるところを志望し、現役で入試で合格した。

 寺を継ぐ理由は、自分の生まれた場所にこのあともずっと住むため。

 受験勉強は楽じゃなかった。

 しかし大学での勉強は楽だった。

 小学校五年生から始めた、祖父と父の手伝い。

 その時に初めて、お盆という仏教の行事の名前は盂蘭盆会というのが正確な名前であることを知った。

 読経の途中で、何度かその名前が出てくる。

 何度も繰り返して唱えただけで、檀家の家の仏壇の前で唱える経文は覚えた。

 その頃から、毎朝父の日常勤行に付き添わされ、それらもほとんど暗記した。

 高校までのテストで、五教科ではなく経文のテストが出たら間違いなく学年トップの成績だったろう。

 代わりに勉強が苦手だった道宇は、学年が一つ上の姉と比べて成績は悪かった。

 全教科赤点で追試ということも度々あった。

 国立大学、あるいは一般企業に就職という進路は、高校までの彼にとっては至難の道。

 それよりも楽な進路を選び取ったと言えなくはない。


 そんな頭でも、実践で得た知識はいつまでも覚えているし忘れられない。

 学校の成績が悪いまま満足している学生はいるはずもない。堂宇もそうだった。

 しかしその原因は勉強をしなかった自分にあるし、このままでいい成績を取れるはずもないとも思っていた。

 因果応報。

 仏教の説く原理の一つ。


 しかし、成績がどんなに良くても、どんなに優秀な人材でもつまるところ田舎の寺の住職で一生を終える。

 これから将来の進路を決めるという段階で、その先の仕事に副業を持つところまで考えられるはずもない。

 頑張った分高度な学問を修めることが出来たとしても、それを活かせる環境に身を置くことができるはずもない。

 その発想は、進んだ先の大学でも消え去りはしなかった。

 仮に宗派の人材として優秀であっても、住職や檀家が望む寺の後継を進む道の先に見据えなければ、学費を出してくれた父に何の言い訳もたたない。

 因果応報。堂宇にとっての存在の原因は生まれた寺にあり、その結果はその寺の後継。

 父親からも仏教や宗派の派生のいろんな逸話を聞かされた。

 そのうちの一つである「一丈の堀を越えんと思わん人は、一丈五尺を越えんと励むべし」。

 そのうちに道宇は、二丈の堀を超えるくらいの力を持てた時、一丈分の努力は無駄である。

 そんなこじれた考えを持つようにもなった。

 もっともそれは自分の身の上を納得して受け入れた上でのこと。

 仕方がない。そんな諦めの思いも持つようになった。

 同じ環境に生まれた同じ世代の姉。

 しかし自分と違い頑張った分だけ報われ、家を出て自活し、割と有名な企業に就職できた姉とは人生は違うのだ。


 しかし納得できないことが起きた。

 その原因は自分の身の上にはない。

 けれども災難は自分の身にやってきた。

 災難の大元に、もう関知するなと念を押した。

 相手は了解した。


 そして……


 ※※※※※ ※※※※※ ※※※※※


 道宇は意識を取り戻した。

 どうやらベッドの上に寝かしつけられたらしい。

 寝室にあるものではなく、病院の診察室にあるベッドに近い。

 道宇は初めて見る部屋で、横になっていたベッドもそのような者のために使われていそうにない、急ごしらえの物。

 床の上では数人の女性が道宇に向かって土下座をしている。

 その後ろではしょげているアルノーア。

 道宇が上体を起こすと、一斉に「申し訳ございません!」という謝罪の声が飛んできた。


「……相手に尻を向けて謝罪する奴も珍しいな」


 全員に聞こえる、しかし力のない言葉で道宇は呟いた。


「え?」


 理由があれば手のひら返しの態度も理解できる。

 自分が気を失ったところまでは覚えている。彼女らの一人に何かを食らったせいだ。

 しかも親の仇を取るような顔をこちらに向けていた。


(ふつうはそうだよな。武士が台頭する前の時代でもそんな精神は出来あがりつつあった。だから仇を討つなって言われて迷った挙句鎌倉時代に一宗派が出来上がるってのは……。いや、今はそれどころじゃねぇや。こいつらの態度も気味悪ぃ)


 いつの間にかガウンを着せられていた。

 そのことに気付いた道宇は、彼女達の何らかの心境の変化を感じ取った。


「大変失礼をいたしました。やはり道宇様は、私達が望んだ勇者様のようです」


 今までのさんづけから様をつけられ、しかも勇者呼ばわり。

 これまでの自分に対する風当たりはともかく、自分に接する態度は間違いなく丁重なもてなし。


「最初に道宇様のご職業を聞いた私達が間違っておりました。特別な力を元々お持ちになっていたようです。これまでの御無礼をどうかお許しくださいっ」


 早く帰してくれ。

 何の芝居だお前ら。

 こんな恥ずかしい格好させてどういうつもりだお前ら。

 道宇の頭の中は、アルノーアの言葉は全く受け付けずその三つだけが頭の中で渦を巻いていた。



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