パドリエス国物語 ~孤高の戦士ギルモアによせて~
間柴隆之
プロローグ
険しい山道を、裸足で駆け抜ける人影があった。
華奢な爪先からは血を滲ませ、胸に赤子を抱きしめた年若い女は、背中に不似合いな太刀を背負い、白い息を吐いて時折振り返りつつ、気丈にも一人でその山を越えようとしていた。
その背後に、血の匂いを嗅ぎつけた山狼の群れが足音もなく忍び寄ってくる。
「・・・この子だけは助けて・・・。あなた・・・お願いよ・・・」
背中越しに飛び掛ってくる気配に女は一瞬赤子を抱きしめて目を閉じたが、次の瞬間足を滑らせ数匹の山狼を道連れにして、悲鳴と共に谷底へとその姿を消した。
それは、その地方に初霜が降った夜のことである。
******
「そうそう、エアリア様、先日の怖いお話ご存知かしら?」
中年のいかにも話し好きそうなご婦人が、別の話の途中で、今思い出した最新の噂話を、その屋敷の美貌の女主人に教えてさしあげようと、わくわくしながら切り出した。
「あら、何かしら?」
にっこりと微笑を返しながら、香りのよい紅茶のカップに口をつけたその屋敷の主・エアリアは、内心また始まったとばかりに明後日の方を向いた。
近所に住むこのご婦人を嫌いなわけではないけれど、三日に一度は訪ねてきて町中の噂話を事細かに何時間も話し続けて行かれるのには、さすがに閉口していたのである。
「先日、そうそう初霜が降りた晩のことですの」
その日の夜半、何人もの街の人が不思議な光景を目にしたという。
何やら遺体のような物を乗せ、白い布を被せた四角い戸板を、四人の男が担いで街の中を彷徨っていたというのだ。
「それが、担ぎ手が実は人ではなかったらしいんですのよ」
耳元で囁かれて、女主人ははっと目を見開いた。
「人ではなかったというのは?」
「・・・足も手も毛むくじゃらで、まるで二本足で立つ獣のようだったそうですわ。それはしばらく街中を彷徨った挙句、この近所でどこかのお屋敷に吸い込まれるようにいなくなってしまって、後には何故か、生まれたばかりの赤ちゃんの鳴き声が・・・」
途端に近くで赤子の鳴き声がして、婦人は驚きのあまりカップをかちゃんと鳴らしてしまった。
「あらあら、わたくしったら」
婦人は慌ててこぼれた紅茶を、握り締めていたハンカチで拭おうとする。
「いえ、よろしくてよマダム」
エアリアは召使を呼んでテーブルの上を片付けさせた。
「そうだわ、そろそろ日光浴の時間じゃないかしら。あの子を連れてきて頂戴」
程なくかごに入れて連れてこられた生後2、3ヶ月の赤子をエアリアが愛しそうに抱き上げる。
黒い髪、黒い瞳の赤子は、指し伸ばされた彼女の指を掴んで口に持っていこうとしていた。
「あの・・・その子は?」
ご婦人は恐る恐る尋ねた。
「可愛いでしょう?今度養子に迎えた子供ですの。初霜の降りた晩にうちに来ましたのよ」
エアリアは真っ青になるご婦人を横目でみながら赤子に頬をすり寄せた。
「まぁ、可愛い赤ちゃんですこと。・・・ごめんなさいね、わたくしそろそろおいとま致しますわ」
帽子を手に取ると、被るのももどかしいようにご婦人は立ちあがった。
「御機嫌よう。マダム。またいらしてね」
「ええ。エアリア様」
大急ぎで屋敷から離れようとするご婦人の背中をエアリアは見つめる。
「母上」
いつの間にか背後には、彼女の五歳になる息子・シフォーが立っていた。
「噂になっているのですね。それにしても『怖い話』になっているとは」
大人びた口調で言うと、シフォーは召使から差し出されたクッキーに手を伸ばす。
「怖くもなんともないわ。だって、本当のことだもの。・・・ねぇ、ディオ」
赤子はあやされて声をあげて笑う。
その様子を、エアリアもシフォーもうっとりとながめている。
「あなたは私の大切な人達の忘れ形見。大事に守ってあげますからね。そして、あなたが目覚めた時には、どうか、みんなの支えになってあげて頂戴」
お日様の下、緑に囲まれた中庭。優しい家族と香りのよい紅茶。優しい時は静かに流れる。
運命のその日まで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます