マリー・アントワネットの手を取って

篠崎琴子

マリー・アントワネットの手を取って

 たとえば。シャルロットとかテレーズとかとか、エリザベートとかだとか。もしもそんな名前だったら、なんて考えちゃう時もある。

 たまに、たまにはよ。だってあたしはあたしの名前を気に入ってるし、違う名前ならってちょっとでも考えはするけど、もしあたしの名前がいまさらくるっとちがうものになったら冗談じゃないって思ったりするし、だけどあたしはあたしの名前じゃない名前にうんざりするほど憧れたしって頭をぐるぐるさせながら、ママンのコートとドレスと下着とガウンがしこたま吊り下げられたせまくてくらいクローゼットの、かったい背板にくらくらよりそう。

 あたしはあたしの名前が好きできらいで、べつの名前だったらとか思ったりして、だけどママンにふわふわした声でアンって呼ばれるのが、ささやかれるのが、ほんとのほんとはやなわけじゃないわけ。

 橋のいくつもかかった歓楽街はじっこの、アパルトマンの二階の寝室すみっこにそびえるクローゼットの内側で、扉の隙間からもれる酒飲みの声やヒールに反射するちっさなシャンデリアの光にうんざりうとうと刺されながら朝まで寝ちゃうあたしには、ちょっとそういうメランコリーは都合が悪いってだけ。だけだったのよついさっき、真夜中のはじめくらいまでは。

 だから!

 ねえ、ねえねえわかるでしょ、わかってね。だからちょっと黙ってよ。あたしはどうしたってママンのアンなんだから。

 そうやってあたしが袖をひいても、男は静かに「黙るのはおまえだよ」って、「フロイライン」って、あたしの名前じゃない名前であたしを呼んだ。月も曇った熱帯夜だった。

 あたしべつによかったの。ママンのトクベツにシンミツなオトモダチがゴキゲンナナメなのってことで、クローゼットからひっぱりだされて外の運河に窓から放り投げられたって、それこそ打ちどころとかが悪くったって、あとは溺れてしまうかもとしたって、それでもいつでもそうなのよ。だからべつによかったのこれくらい。

「でも、おまえまだちっさい女の子だろ。ななつかやっつか、それかむっつか、だいたいたぶんそれっくらいの」

 ホーテイでコーギするみたいに、ママンのお気に入りの口調でつらつら語ってみせたって、そいつは夜空の星までおっこちてきそうな水の上をいく小舟を、ぎしぎし進める手をとめなかった。

 ちっさい女の子ってなに。だからなんだってわけ。バカじゃないの、バカなんだわ。

 こういう手合にははっきりしないとどうにもなんないから、あたしは何度も男のシャツの裾を引く。びしょびしょの顔と、ずぶ濡れの髪と、こいつに水の中から引き上げられて着せかけられた乾ききらない上着と、あとはそのしたの寝間着から伸びているちょこんな手足を夜風にさらして、だけどやっぱり寒くてブザマで、なんでもかんでも泣きたい気分。

 でも、あたしだれにもいわないから。アナタが運河を夜中に渡ってる事も、さっき言ってた門を越えるって話も、全部忘れるし言わないからさ、あたしをあたしじゃない呼び名で、そういう名前で、呼ばないでよ。

「おまえはフロイラインで似合ってるよ」

 だけど案外若そうねって事しかわかんない男は、あたしの声なんて全部さえぎっちゃって、舟を進めて、とうとうあたしをおろさないまま街の境界までついちゃった。あたしはママンのとこに帰らなきゃって焦って男の腕にすがりついたけど、奴はおかまいなしにゆうゆう街から出ていった。あたしのちいちゃな手の指の、いまもまだちょっとひりひりする火傷のあとを隠すみたいに、案外痩せて骨ばった指とてのひらで覆って、力加減なんてしらないでつなぎ留めたまま。

 でもそーね。そうなのよね。

 そいつの髪の色は褐色と金がくるくるまざってて、そいつの目の色なんてあたしとちょっとお揃いの青い目、してて、わりと猫背だったりするのに背は高くって手足は長くて指は綺麗にまっすぐすらりで、あたしはなんだかよくわかんないうちにそいつのよくわかんない旅に一緒にくっついてく事になった。

 いろんな馬車に揺られてね、川辺も山ぞいも渡って渡って国じゅうをあっちらこっちらぐるぐるぐるって。ゆくあてもよくわかんないし、なにかんがえてるのかも意味わかんない。でもねあのね、ほんとはよ。あたしねきっとねはじめてだったの。旅をするのには必要だからって、かわいくてふわってした袖の、それで糊のきいてぱりっとしててかわいいエリのねお洋服をね、あつらえてもらえたの、ちょっと嬉しかったから。それに、上等なシルクなのかなんなのか、わかんないけどすべすべつやつやな布地の手袋だって、不格好だけど不器用だけどやさしくやさしく、あたしの火傷でちょっとひきつれたあとののこってる手にはめてくれたから。

「おとぎ話のお姫様たちの可憐な裾を、狼の爪で綺麗にちぎって、そうして仕上げた魔法の品なんだ。貸してあげる。身につけた人を、手袋の持ち主の望む、どんな姿にもしてくれる」

 手袋はぶかぶかだったけどあたし、そういうおとぎ話ははじめてだったけどちょっと好きだったのだから。好きだなって思ったちょっとだけはつきあってあげる事にしたの。そうなの。

 いつかの夜会のあいまにふらっと帰ってきてくれたママンがね、あたしのほうに放りなげて、きまぐれにすこーし試させてくれた、ちょっとお酒で汚れててもねきれいでつやつやなのだった、レースの手袋には届かないけど。でもだって。もしかして、もしかしてそういうきらきらな魔法ならよ? あたしがあたしの名前のまんま、今のあたしみたいなあたしじゃない素敵なあたしになれるかもなのだわって思っちゃう。

 それにあたしがたまにはねって、ママンにだっこされてあちこち街中あるいたりするのとはちがってよ、つまり二本の足でてくてく歩いてみるって事は? しかもいろんな土地を次々ふらふらって、そういう事ならよ? ママンのところに帰り着く機会も、そのうちやがては? ってあたしはお利口なので考えるわけなのだわ。

 ユーカイされて連れ回されても、それならなんだっていうわけかしら。べつに移動中にぱくってするサンドイッチはまずくもきらいってわけでもないし。なんにも悪くはなかったのだわ。

 けどもあたしはサンドイッチの中身についてくらいは考えなさいよね、だとかはユーカイハンに対して思ったりするのだ。だってちっさな女の子っていう存在には、まだまだビネガーたっぷりの、しゃくしゃくのピクルスはきっついの。

 とかなんとか、ゆるふわくるんってした前髪の間からあたしを眺める若い男に訴えると、奴は「ごめんよ」とかにこにこ笑って、あたしが交換させたピクルスたっぷりのチキンサンドをきれいに頬張ってみせた。手元のカフェを口に運ぶ前に即座にむせる。バカだった。

 夏だった季節が二度目の秋に変わっちゃった一年と三ヶ月くらいの間、あたしと彼は、つまりママンのクローゼットから真夏の夜の逃避行に連れ出されたあたしと、なんていうかもう現実に足ついてないアマデウスだとか名乗る男は、やっぱりあちこち移動してばっかり。そいつはゆくさきそれぞれで、アマデウスだとかだけじゃなく、ヴォルフガングとかほかにもほかにも、いろんな名前で呼ばれてたから、あたしはちょっとうらやましかった。だって名前がたくさんあれば、みっつもよっつもいっぱいならね、好きな名前を選べるんじゃないって思うのよ。

 トキドキどこかの邸宅で、アマデウスはピアノを弾いて、いろんな人に手を叩かれてた。サスガ栄えある一族の。大作曲家のセンリツが。かの神童の面影も。なんだかよくわかんないけど、そうやってそいつを褒めちぎってる人たちの前で、ピアノを弾いてるそいつの横に座ってね、楽譜をめくっていくコトを引き受けてりなんかもしたんだわ。

 あたしはアマデウスの事情なんて知らないし、ママンのとこに戻れる日々を狙いすましてって感じだけど、なんでかこいつに付きあって、それからもずっと国中めぐりめぐっていった。たまにそういう邸宅以外であたしたちに声をかけてくる有象無象には、歳の離れた兄妹だよってアマデウスがころころわらう。そういう間抜けな人畜無害さにまわりが騙されてか、今のとこ制服姿のいかついオジサマとかとかに、怖いことも言われたりしてない。

 ねえだから。

 今日はカレーの海峡を見て。来月にはもしかしてオルレアン。ずっと前にはリヨンだったかボルドーだったか、それからいつかにはセーヌ川だってさかのぼったり?

 そうやってあたしとアマデウスは来る日も来る日も、フランスのあちこちをぐるぐるぐるぐる。

 あたしはその間、アマデウスにイタリア語やラテン語の筆記や、もちろんフランス語の上品だったり下品だったりなお喋りを片言からひとつずつ仕込まれたり、音楽や数学の話やお裁縫やお料理のやり方や、世間の高名なお歴々の血筋や領地や政治の話やそういういろいろをおぼえこまされたり、それかお姫様みたいなテーブルマナーから適当な酒場で必要な給仕の作法、ペンの持ち方、ピアノのヴァイオリンの奏で方、手紙の書き方百通りやらのオベンキョウで、そしてもちろんうつくしくって優雅で大胆な楽譜のめくり方の練習で大忙しなのだったの。

 おまけに夜中に見知らぬお友達を訪ねて酒場に行くにも、どこぞの広場まで閲兵式を見に行くのにも、何十人いるんだかな姪と甥とかオジとかオバとか遠縁だとかのイトコとかとか、親戚だか旧友だかムカシナジミだかなんだかを尋ねて各地の修道院を渡り歩いたり、葡萄畑をえんえん歩いたり街の高級店にちょっと入って奥の個室でお喋りだけして出てきたり、やっぱり貴族や商人のサロンに呼ばれてピアノの演奏してお金をたくさん手に入れたり、大学の誰か偉い先生に会いにパンテオン・ソルボンヌにふらふら迷い込んだりするのにも、いつだってアマデウスとあたしは右手と左手を繋いでたんだもの。だんだん薄くなった火傷のあとを覆う、おとぎ話の素敵な手袋越しに、あたし、アナタのことなんだって知ってるって信じてた。

 アマデウスのお守りもお供も忙しくって、アマデウスの教えてくる知恵の数々はどっさりすぎて、やっぱりママンのところにはなかなか帰れそうもなくって、タメイキつく日もちらちら減って。もしかしたらあたしこのままアマデウスとずっと一緒なのかしら? そう思う時もある。

 だって、出かける用事も、翌朝早くからの移動も必要ない夜、あたしの手指の火傷のあとに、アマデウスはべたべた触れる。そのときどきでころころ変わる宿のベッドに腰掛けて、アマデウスのお喋りを聞いてあげながら、あたしたちほんとに、ずっとずっとなのかも、なんて。もしかしてね、なんて思うのだもの。

 あたしがとくべつ大好きなのは、アマデウスの生まれた場所の話。それから旅から旅への暮らしのなかで、彼が育った十数年の話。あとはお姉さんのお父さんのステキなピアノの音の粒の話。そして、なによりとっておきの、きらきらしたパーティーで出会った、彼の初恋の女の子の話! そのほかだってなんでもかんでも!

「アナタその女の子と結婚できなかったんでしょ?  だってそうでなきゃ、今頃かわいい初恋の花嫁さんと、楽しく踊ってくらしてるはずだわ?」

 そんな風にあたしが聞くと、そのとおりってアマデウスはいつでもささやいたんだわ。

「その娘さんは求められてこの国にやってきたけど、最後にはこの国に捨てられちまった。俺と結婚してたら毎日歌ってくらせたのにな! でなきゃおまえの言う通り、何年も何十年も手を取り合って、踊ってたってよかったな。泣きたいくらい残念だ」

 あたしは何度も何度も、女帝の御前ですてんと転んで泣きそうだった少年と、そんなアマデウスの手を取って助け起こしてくれたのだっていう、誰より心優しい皇女様の初恋と、実らなかった求婚の話を聞いたけど……一度だって、こう返すことはなかったの。

「誰より優しい女の子がいなくったって、今はあたしがいるじゃない」

 そんな言葉、吐かなくって本当によかった。いつだっていつまでもそう思う。

 だって結局、あたしはアマデウスとさよならをする事になったんだもん。ううん。たぶん捨てられたんだわ。あの、十年前の真夏の夜に、いつもみたいにお酒に溺れてて、あたしを助けようともしてくれなかったママンにだけじゃなく、手袋をはめた手と手を繋いだアマデウスにも。

「さよならしよっか。もうおまえは必要ない」

 皇帝ナポレオンの名の下に戦争も途切れないパリの都で、あたしはやっぱりよくわかんない放蕩が激しくなってきたアマデウスに、ある朝突然そう言われた。

 あの夏の真夜中から十年たった今となっては、アマデウスのやっぱりほわほわ優しい顔も少しは年をとって、十年前には整った母国語もおぼつかなかったあたしは、もうそんなこともない十七歳になっていた。

 あたしはたくさんのなんで? と、バカなの? をぶつけたかったけど、アマデウスは口論を許さず、さっさと宿を出て行った。その頃、あたしたちが兄妹だなんて嘘はだんだん人に信じられなくなってきてて、前の夜に食堂では、駆け落ちもんかってからかわれたりした、ところで。

 あたしは泣きもせず、その日のうちに残された荷物を抱えて宿を引き払った。

 アマデウスと繋がなくなった手からは、もう年月を経て薄汚れてしまった、あのおとぎ話の手袋も抜きとってしまった。

 いつかママンの言いつけ通りにして、火かき棒を握って傷ついた手指には、もう目立つ傷跡なんてない。夜の宿のランプのたもとで語られた、他愛なくも懐かしい昔話。そんなものに耳を傾けながら彼に塗ってもらった軟膏のおかげで、実のところとうに手袋なんて必要じゃなかったのだ。

 一週間のうちに住み込みのお針子の仕事を見つけて、一ヶ月して仕事にも慣れて、三ヶ後にはお得意様にも仕事を気に入られて、それに名前も憶えてもらった。

 その頃だんだん冷静になってきたあたしは、そしてやっと、世間の声に耳を傾けた。かくしてゆるやかに知ったのは、次々漂う戦争の気配。情報を流したとか、国に不利益をなしたとかで検挙されていく裏切りものたちの噂。いまや栄えある陛下の軍隊が、国内外の政治家や貴族や聖職者の手で国中のあちこちに仕込まれた諜報網を、次々排除しようと躍起になってるって話。

 今ならわかるよ。アマデウス。

 ちょっと誰もが耳慣れてて、でも珍しい音楽家の名前をきっと偽名に名乗ったアナタも、随分いろんな活動を、この国でしていたんだろうなって。

 国中の教会や修道院への道を辿ったのも、いつだってあのお姫様の故国の言葉を会話に忍ばせがちだったのも、なにもかも、家族や故郷や初恋への、懐かしさだとかじゃなかったんでしょう。小さな妹の存在は少しはましな隠れ蓑だったし、物事を教え込めば多少の助けにも、たまにはなってたのかもしれない。

 アナタの行方も正体も、今もまだあちこちで暗躍してるのか、それとも潜伏でもしたのか、検挙されたのか逃れたのかも、生死もなんにもわかんないけど。けどね、それでも、今なら、わかるよ。

 それでもあたしはたぶん、そういう嘘まみれの十年に怒らないだろうなって思いながら今日も針を黙々と動かす。蓄えを築く。ひとまずは戦争、検挙、それから身寄りのない孤独と、頼る先のない不安定さ。そういう嵐が過ぎ去るのを待つ。

 声は、上げない。

 だってたとえば別れ際、こんなにこんなに腹立たしくって、それでも賢明な魔法をアナタはのこしてくれたんだし。

「それじゃあね、マリー。マリー・アントワネットなんて、大仰な、有名な、そしてやっぱりどうしたって、今じゃまだまだ不吉な名前の女の子」

 ――悪ふざけの賭けに負けてそうつけたんだってママンが言ってた、民衆が今日も好いてはいない、前世紀に処刑された王妃の名前。

 あたしはいつだってそんな名前しか持たないのに、あなたはあたしを最初から最後まで、あたしの名前で、そのひとつきりで呼んだのだ。ピアノ弾きの、アマデウスは。

 異国の響きならまだマシよね、なんて言って、あたしをアンって呼び続けたママンの声を、おかしなくらいずっとずっと、大事にしていたあたしのことを。

 ……すべてはきっと、呪縛だと思う。

 けれどひとかけらの祝福でもあると思う。

 なにもかもは魔法だったのだと思う。

 あたしだってあの手袋を、荷物の中に今でも眠らせているのだから、そういうことなのだと、信じている。

 だからこそ、十七歳のあたしにとって、彼と旅した十年間の、なにもかもはもうどうであったとしてもいいのだ。

 そうよ。いくらあたしたちが似通った色彩だったからって。所作もだんだん似ていったのだとしたって。あたしを妹だなんて呼び続けたアナタの言葉は、一度だって疑われやしなかった。けどそれが、おとぎ話の魔法の効能でも、くるくるの髪の手触りが素敵な優しいアナタの人柄のせいでも、そういう人物を演じてたのだろう彼の狡猾さのおかげでも、なんであったとしたっていい。なんだっていい。なんでもいいの。

 だからこそ、後悔しなさい、嘘つきの誘拐犯。

 アナタが何者であったとしたって、アナタはあたしの魔法使いなのだわ。

 名前だけじゃなく、時には血筋すらも騙って、偉大な音楽家の曲を奏でて。その人生すら、初恋すら、自分の過去みたいにあたしに語って。幼いあたしがもてあました名前をそもそも持ってたお姫様を、誰より優しい少女だなんて言って。――何年かすればすぐにバレる言葉の数々で、ころっと騙したバカな男!

 あたしは、あたしはマリー・アントワネット。

 革命に反対してフランスを捨てようとして市民達に嫌われて、それでもかわいくてかわいそうなってアマデウスが語ったお姫様は、最後には処刑台の壇上で、罵られながらさよならを告げた。そんな彼女とお揃いのあたしは、ずっとなんにも知らなかった、今じゃなんでもかんでも知ってるなんて、言えやしない女の子。

 それでもあたしは、ママンのおもちゃで邪魔者なちいさな女の子じゃなくて、彼のフロイランだった妹で、今はパリのお針子であって――そのうえ、いつか女優にも娼婦にも花嫁にも家庭教師にも給仕にもピアノ弾きにも修道女にも! ええそうよ、それこそ気高くて綺麗な貴婦人にも! なんにでも。なんにだってなれる少女になれた! なれたのよ、そういう娘に! 持てたのよ、そういう矜持を! そしてそういうことをきちんと教えてくれたの、まだアナタひとりだけなのよ、嘘つき男。

 アナタがあたしにくれたおとぎ話の品物と、なにものにも代えがたい数々の知恵と、そういう贈り物を培った、魔法みたいで残酷だった、たった十年きりの時間が、善良かなんて本物かなんて正しいかなんてどうでもいい。

 なにせ幼い皇女殿下が、神童だった音楽家の手を取って助け起こしたのは、今はもう昔の話。嘘つきなピアノ弾きが、お嬢様なんて呼んだ女の子の手を取って国中を巡ったのも、今はもう。

 いつだって誰かに都合よく育てられてきたあたしは、神様の寵児アマデウスののこしたすべてを明日も手繰って、お嬢様フロイラインでも最後の王妃マリー・アントワネットでも、なんでもかんでも飼い慣らして、この嵐みたいな時代の先を、なりたいように生きていく。

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