ジギタリスと愚者

 住宅街の未明であろうとも、眠らない区域というものはある。一呼吸ごとに鼻をつく病院独特の匂いに焦りと苛立ちをつのらせながら、黒瀬啓吾は足繁く人の行き交う病院の廊下にいた。目の前の重々しい扉は、息せき切って病院に駆けつけたときには既に閉ざされていた。祈るような気持ちで、啓吾は手術中と表示されたランプを見つめる。女の泣き声が耳障りだ。隣で泣きじゃくる妻、美春を怒鳴りつけようとして思いとどまる。まだ最悪の事態と決まったわけではない、そう啓吾は己に言い聞かせた。美春の泣き声は止まない。息子の容態が分からない焦りも拍車を掛けて、啓吾の苛立ちは募っていった。

 畜生、どうしてこんなことになってしまったのか。小さく毒づく。美春と共に、啓吾の人生は持ち直したはずだった。高級住宅地に建つマイホームに美春を迎え、待望の男子にも恵まれた。仕事も順調に出世街道を歩んでいる。何もかも、上手くいっていたはずなのに。

 ふと、手術室の扉が開く。薄緑の手術衣に身を包んだ医師が歩み出てきた。啓吾より先に、美春が半ば転がるように席を立つ。

「先生っ、雄吾は、雄吾はどうなったんですか!」

「はい。どうにか、一命は取り留めました」

 良かった、と。キリキリと張り詰めていた胸をなで下ろす。だがそれも、続く医師の言葉に再びこわばった。

「ただ……かなりの確率で、重度の後遺症が残るでしょう」

「そんな……」

 美春が絶句する。一抹の望みを捨てられず、啓吾は医師に食いつくように言葉を浴びせた。

「後遺症と言ったって千差万別だ。歩けるのか? 立てるのか? 雄吾はバドミントン部のエースだったんだ、二度と競技ができないなんてあってたまるか! ええいそれよりも、意識は戻るんだろうな!? 頼む、雄吾に会わせてくれ!」

 後半は、ほとんど医師への怒声だった。沈痛な面持ちを作りながらも、医師は冷静に答える。

「分かりません。まずは意識の回復を待たないと。MRI等の精密検査にかけるとしても、容態が安定してからです。……ああ、ありがとう。こちらの検査結果にあるように、現時点でできることは全て手を尽くしました」

 できることは全て。つまり、もう打つ手はないということ。医師の言葉は宣告めいて、啓吾の頭にこだまする。

 何やら細かい数値の書かれた紙束を持ってきたナースと共に、医師は背を向ける。そのまま廊下の奥へと消えていく背中に向かって思い切り罵倒してやりたい衝動を、ぐっとこらえた。去り際にこちらを振り返ったナースの、憐れむような視線すら腹ただしい。はっきりと断言しない医師にも、憐れんでいるとでも言いたげな目つきのナースにも怒りが湧く。去っていった二人と入れ替わるように、新たに何人かの手術衣の集団が手術室へと入っていく。再び閉ざされた分厚い扉を、啓吾は唇を噛んで見つめた。あの扉の向こうで、雄吾は今どんな処置を受けているのだろう。人通りの途切れた廊下に、妻のくずおれる音が響いた。

 床に突っ伏すようにして美春は泣いている。よくもまあ、何が変わるわけでもないのにそうも泣けるものだ。苛立ち半分、呆れ半分で啓吾は妻の背中を見下ろした。普段なら、愛する妻へ向かって絶対にこんなことは考えない。頭の片隅、冷静さを保つ最後の部分がそう告げる。ここまで自分が取り乱すのは、妻が泣くからだ。俺は悪くないと、まとまらぬ頭で啓吾は己に刷り込むよう繰り返す。

 そもそも啓吾は、反吐が出るほど女の泣き声が嫌いだ。思い出す。泣き崩れた美春に重なるように、自分に抱きついて泣く女の姿が浮かぶ。愚鈍で金にがめつい、それでいて嫌になるほどしつこい女だった。はなから啓吾の財産が目当てだと隠しきれておらず、渋々結婚したのも妊娠を盾に押し切られてのことだった。

 だから、別れた。愛する美春と結婚するために、家を追い出した。それなのに。

(何故、ここであの女がちらつく?)

 美春の泣き声が、離婚を告げたときの女の醜態を思い出させるから、だけではない。喉に引っかかった魚の骨のように、じんじんと啓吾の心のどこかを疼かせるものがある。思い出せ、と自分に活を入れて周囲を見回す。一定間隔を開けて天井に光る蛍光灯。冷たい光をてらりと反射するリノリウムの床。廊下の端の、医療器具を積んだ台車。突き当たりから出てきた、白衣のナース。

 その瞬間、啓吾の脳裏に閃くものがあった。

 まだ新築と言えた頃の我が家。家具の運び出されたリビングと、啓吾の腰に腕を回して泣きながら喚く女。それを見下ろし、怒鳴りつける啓吾。離れたところから、呆然とそれを見つめる小さな影。


 ──医師と共に去ったナースの、右目の泣き黒子。


 二人の消えた方向へ、啓吾は駆け出す。半ば壁にぶつかるようにして、廊下の角を曲がった。

 薄暗い曲がり角のその先。啓吾の見つめる廊下は、しんと静まりかえって。誰も、いなかった。





 始発から数本が過ぎても、早朝のホームにはほとんど人の姿はない。片手に大きなキャリーケースを携えながら、太田と名乗っていた女はひとりホームに佇んでいた。

 相変わらず空は雨雲に覆われている。だが、雨は数十分前に止んでいた。じきに雲も晴れるだろう。ふう、と息を吐く。冷えきった大気に晒された吐息は白く燻り、溶けるように消えた。

(あの男は、最後まで気づきはしなかった)

 足下から立ち上る冷気にぞくりと身を震わせる。この街の病院には、あの数時間が最後の勤務だった。職を辞す旨の手続きは数日前に済ませている。

 雄吾を人気ひとけの無い高台から突き落とし、その足で病院に向かいながら、匿名で人が落ちたと通報する。やや遅れてシフトに入り、白衣に着替えてしばらく待った。

 血眼で病院にやってきた父は、捨てた娘に気づきもしなかった。

 首を巡らし、女は高台の方向を見やる。徐々に明るくなる空に浮かぶ丘とあの家への道。この街に戻ってきたとき、最初に向かった場所。そこで、女はかつての自宅から出てきた雄吾に目を止めた。

 全て、女が仕組んだことだ。雄吾の後をつけ、高台を通る時間を調べて待ち伏せたのも。最初に出会ったあの日、雄吾がコンビニに寄った隙に傘を盗んだのも。

 ただひとつ、誤算があったとすれば。ぽつりと独り言が漏れる。

「予想以上に、長居してしまったな」

 自分を捨てた街、追い出された街に長く留まるつもりはなかった。高台で雄吾と会う習慣を作ってしまえば、機を見ていつでも突き落とせた。だというのにそれをせず、だらだらと長居をしてしまったのは何故だろう。


『俺の、姉になってください』


 冷房の効いたカフェで、雄吾が口にした言葉が耳の奥に木霊する。姉として振る舞うのが楽しかったから。不意に心に浮かんだ言葉を、女は首を振って打ち消した。

 スピーカーから音の割れたアナウンスが響く。じきに電車がやってくる。終点のターミナル駅で乗り換える新幹線の切符はもう用意してあった。雄吾に告げたF県ではなく、かつF県よりも遠い場所。そこで自分は何を支えに生きてゆこうとするのだろう。父親に捨てられた先で、母親にも見放された。ネグレクトに近い環境から血を吐くような思いで這い上がり、手にした看護師免許のおかげで職には困らない。

 だが、これからの目的意識がぽっかりと欠けている。自分を捨てた父と家族を踏みにじった女への復讐。それだけが支えだった。


──ならば、復讐を果たしてしまった自分は。後はもう、燃え尽きるだけ。そんな予感があった。


(ああ、違うな)

 少なくとも自分がこの街にいる間には、復讐以外の心の支えがあった。ひたむきに自分と向き合おうとしてくれた、幼さを残す顔を思い出す。認めよう。女は唇を噛む。

 キャリーケースを抱え上げ、ホームに滑り込んだ電車に乗り込む。座席に腰掛け、足下に暖房を感じながら目を閉じた。

 不倫に走り、家庭を破壊した父が父なら子供も子供だ。──だからあれほど、許されないと言ったのに。降りしきる雨の下、高台の上で。自分は誰を待っていたのだろう、何を願っていたのだろう。


「来なければ良かったのに。──本当に、馬鹿な異母弟おとうと


 姉になりきれなかった女を乗せて。明け方の街を、列車は静かに滑り出ていった。

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ジギタリスと愚者 百舌鳥 @Usurai0000

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