オトギリソウと虚者

 みしりと、何かがきしむ音。掌の中のスマホから発せられていることに気づいて、端末を放り投げる。収まらぬ激情のままに、壁に拳を叩きつけた。くぐもった音と、拳に返る鈍い痛み。雄吾に残された理性と感情の全てが、このままで終わるのは絶対に嫌だと叫んでいる。

 だが、どうすれば。右手が訴える痛みに少しだけ冷静になった雄吾は頭を抱えた。今更最後に会いたいと言っても、文面の様子からして応じてくれはしないだろう。下手をすればこのまま連絡先を消されてしまう可能性すらある。しかも雄吾は綾の住所を知らず、直接出向こうにもどこに行けば良いか分からない。地方を二つ三つまたぎ、ついでに海峡を越えた先にあるF県は広い。ショッピングモールといっても十数カ所の候補があるだろう。勤務先の特定も絶望的だ。交通手段が不明な以上、駅で待ち構えるといった手も使えない。

 このまま二度と、綾と出会えないのだろうか。雄吾は頭をかきむしる。最悪の想像しか浮かばない。一週間前、この日々がずっと続くと無根拠に信じて背を向けたのが、綾との最後の思い出になってしまうのか。そんなのは、絶対に嫌だ。

 顔を上げる。壁際に歩み寄り、カーテンを引いた。勢いを増した雨粒がガラスを叩くその先、暗闇に紛れて見えないが、切り取られた風景の先にはあの高台があるはずだ。もしかして、という疑念が首をもたげる。わずかな希望を託すように、それは雄吾の中で確信に変わった。ただの妄想に過ぎないことは百も承知だ。急いで床に落ちたスマホを拾い上げる。弾かれるように扉に手を掛けて、止まった。

 嵐の中、綾が本当にあの高台で待っているとして。どんな言葉を掛ければ良いというのだろう。スマホに届いた文字列は、はっきりと雄吾に別れを告げていた。大人と子供。あの拒絶の日に綾が口にした、どうしようもない断絶をひしひしと自覚する。どの面下げて、何を願えばいいのか。それが本当に、彼女のためになるのだろうか。いっそこのまま別れてしまった方が、美しい思い出のままに残り続けるのではないか。スマホを握る手が、だらりと落ちる。後ろ向きな考えばかりが雄吾の頭の中を駆け巡る。

 力なく扉を押し開け、駆け出す気力を失った足で廊下に出る。とぼとぼと歩くうちに、ダイニングに出た。カウンター越しのキッチンでは、雄吾の母が洗い物をしている。

「母さん」

 声を掛ける。進むにせよ留まるにせよ、誰かの声が欲しかった。振り向いた母親に問いかける。

「もしも、もしもの話でさ。母さんが誰かを好きになったとして、でもその誰かは母さんの想いに応えられない理由があったとする。そんなとき、母さんだったらどうする?」

「あらあら、どうも様子がおかしいと思ったら恋の悩み事だったなんて。雄吾も年頃ねえ」

「真面目に」

 誰よりも雄吾のことを知る、雄吾が最も信頼する大人のひとりは。にこりと笑って、こう告げた。

「勿論、諦めてしまうのも手でしょう。真にその人のことを大切に思うのならば、自ら進んで身を引くこともある」

 一見、もっともらしい言葉と笑み。しかし雄吾は息子としての経験から知っている。母のこの表情は、後ろ手に菓子を隠している時と同じ種類。一歩先に踏み込むことを期待しているときの顔だ。そして、いつか漏れ聞いた事実に母の性格を加味すると、答えはひとつ。

「母さんは、引かなかったんだね」

「ええ」

 母は諦めない人だと、父がよく評するのを聞いていた。実際に見ていても、母ならば多少の苦難なら乗り越えていくだろうと納得できる面がある。思えば、あれは雄吾が中学生の頃だったか。豪雨の影響で電車が停まり、隣町の駅で立ち往生していたとき。大雨の中車を運転して迎えに来てくれたのも母だった。

 普段は気弱でおっとりした主婦である母が、土壇場にはどうして強くなれるのか。その理由は、今なら分かる。

「雄吾、覚えておきなさい」

 母の目に強い光が宿る。

「人は、愛するもののためならどこまでも強くなれる。それこそ全てをなげうって、命だってかけられるくらいに」

「だから、父さんと結婚できたって?」

「そう。だけど、もうひとつ覚えておくように。愛は、究極のエゴだって。相手のために身を引くことができないなら、覚悟を決めなさい」

「……ありがとう。覚えておく」

 覚悟は、決まった。雄吾は身を翻し、歩きだす。雄吾の自室ではなく、玄関の方へ。

 ダイニングを出る直前、ふと思うことがあって振り返った。

「母さん、最後に聞くね。父さんと結婚したこと、後悔してる?」

 微笑んで、首を横に振る母の姿を認めて。今度こそ、玄関へ走る。傘を手に取ろうか少しだけ迷って、止めた。どうせこの大雨ではずぶ濡れになる。合羽も同じことだ。

「すぐに帰る!」

 キッチンへ叫ぶが、果たして聞こえただろうか。返事を待たずに雄吾は嵐の中を駆け出した。毎日通る道だ、道順は完全に覚えている。夜も更けて人通りのない道を、濡れ鼠になって全力で走り抜けた。

 ぜいぜいと息を吐きながら、頂上へ続く階段の最後の数段を一足飛びに駆け上がった先。ぽつんと立つ街灯に照らされて、見覚えのある花柄の傘があった。

 服が雨を吸い込んで重い。息も整わないままに、ベンチの上でこちらに背を向ける人影のもとへ向かう。

「綾さん」

 呼びかけると、花柄がわずかに動いた。頭上と背を覆うように斜めに掲げられた傘に遮られ、雄吾からは綾の表情は見えない。濡れた服と疲労で重い体を引きずり、正面へと回り込む。

「来なくて、良かったのに」

 右目の泣き黒子を濡らして。綾の頬を伝う雫は、明らかに雨粒ではなかった。

 一瞬、意識が飛ぶ。次の瞬間には、雄吾は綾を抱きしめていた。

 最初に感じたのは柔らかな感触。続いて、びしょ濡れのまま抱きついてしまったという罪悪感と、ほのかな背徳感。そっと呼びかける。

「姉さん」

「……なあに、雄吾」

 震えつつも、綾の声は優しい。『姉』の声だった。こんなになってもまだ、姉弟ごっこに応じてくれる気はあるらしい。その事実に、胸に温かいものが広がる。それでもここに来てしまったからには、自分の手で終わりにしないといけない。そっと綾の体から身を離した。ベンチに腰掛ける綾と視線を合わせるようにかがみ込む。

「姉さんと呼ぶのも、これで最後にします。今まで俺の我儘に付き合ってくれて、本当にありがとうございました。とても、楽しかったです」

 ままごとの中の『姉』ではなく。『太田綾』に呼びかける。楽しかった姉弟ごっこはこれで終わりだ。そして。傘に添えられていない方の、綾の手を取る。

「俺、今はまだ子供だからこの街から出られないけれど! いつか大学生になって、大人になって、綾さんのこと追いかけます! 自分の足で立って、考えて、行動できる大人になって! そしたらもう一度、今度は大人と大人として、やり直してくれますか!」

 大人も子供も何もない、感情のままに出てきた言葉の羅列。あの大水槽の前よりも遙かに真剣な、雄吾の一世一代の告白だった。脈絡が迷子になった、気迫だけはある雄吾の言葉を受けて綾は目を瞬かせる。ふいに、その表情が緩んだ。

「まるでプロポーズね」

「え、な、うわっ!」

 雄吾が我に返ると、知らず知らずのうちに片膝を濡れた地面についていた。確かに綾にひざまずくような姿勢になっている。動揺でバランスを崩した。

 雄吾の右半身が泥水にまみれる寸前で引き留めたのは、雄吾の手を引いた綾だった。

「帰りましょう、風邪を引く」

 雄吾の手を取ったまま、綾がベンチを立つ。雄吾の頭上に傘が差し掛けられた。

「高台の下まで、送ってくれる?」

「勿論。ところで、あの、これから……」

「落ち着いたら、住所は教える。心配しなくても、連絡先のアカウントを消したりはしないから」

 見透かされていた。急に羞恥に襲われた雄吾が俯くと、綾の手が軽く握られた。

「送ってくれるんでしょう?」

 促すように手を引かれる。連れだって、石畳の階段へと向かった。階段の手前で綾が足を止める。雨脚はやや弱まっていた。見下ろせば、雨にけぶる見慣れた街の煌めき。綾の掲げる傘に二人で入る、相合い傘の体勢で夜景を眺めていた。

「これが、最後かあ」

 感慨深げに綾が呟く。あのメッセージの通りに、朝にはこの街を発ってしまうのだろう。

「あの、綾さん!」

 言い残していたことに気がついた。慌てて雄吾は名前を呼ぶ。

「俺、いつかきっと証明してみせますから」

「何を?」

「綾さんが、満ち足りた幸せな恋愛ができるって。綾さんが以前この下の公園で言っていたことです。綾さんは諦めているみたいですけど、そんなことないって、俺が証明します」

 ああ、と綾の唇が動く。思い出してくれたようだ。深く深く、綾は息を吐く。ゆっくりと、顔を伏せて。

「行きましょう」

 繋いだままの手が軽く引かれた。応じるように、雄吾は一歩踏み出す。当然だが、薄暗い石段は降り注ぐ雨に濡れていた。滑りやすいな、と雄吾が眉を寄せたそのとき。

「ああ、本当に――血は、争えない」

 聞き返す暇はなかった。背に感じる、軽い衝撃。ずるりと靴底が滑る。身をよじった弾みに身体が反転するが、遅い。空中へと投げ出された体が後ろに倒れ、視界が上へと回転する。

 石畳の上、立ち尽くす綾がどんな顔をしていたのか。夜闇に隔てられ、ついぞ目にすることのないままに。雄吾の身体は落下していく。綾の姿が暗闇の彼方に消え、激痛と共に。雄吾の意識は途切れた。

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