キンセンカと隠者
水族館での一件の後も、高台での関係は続いていた。一日おきの夕方に、高台のベンチで出会う。変わったことといえば、ベンチに腰掛ける際の距離が縮まったことと、戯れに互いを「姉さん」「雄吾」と呼ぶようになったこと。最初のうちは、姉さんと口にするたびに雄吾の口の中がくすぐったくて溜まらなかった。それも、回数を重ねるうちに慣れてきたのだろう。今では自然と呼びかけられるようになっていた。
そうこうしているうちに、雄吾の高校が夏休みに入る。自然と雄吾が登下校する時間も変わるため、あらかじめ連絡をとってから待ち合わせるようになった。
綾がぽつりと零したのは、夏休み中のそんなある日のことだった。
「雄吾のご両親って、どんな風に出会ったの?」
「父と、母は……うーん、よく聞いていないけれど、大恋愛の末に結婚したって言ってた」
その日は高台の頂上ではなく、その中腹にある公園だった。日陰がなく、真夏の日差しに晒される頂上を嫌っての綾の指定だ。ローヒールのパンプスを履いた綾の足が、軽く地面を蹴る。腰掛けていたブランコが後ろへ、前へと揺れた。木漏れ日が綾の体に木々の影を落とす。
「憧れるな」
「俺の両親に?」
こちらは両足を地に着けたまま、隣のブランコに座る雄吾が尋ねる。揺れるブランコの上で、綾は小さく頷いた。
「満ち足りた幸せな恋愛というものに、憧れる。そんなもの、自分にはできるはずがないって分かってるのに。僻んでるのかな」
どことなく、独り言めいた呟き。
「できるよ、きっと。姉さんも、いつか」
「……ありがとう」
ふ、と軽く息を吐いては地面に立つ。公園の中央に立つポール先端の時計を一瞥した。
「あ、もうこんな時間だ。ごめん、仕事があるから先に行くね」
そう言い残し、ハンドバッグを肩にかけ直して綾は駅の方向に駆けていった。後には小さく揺れ続けるブランコと、座る雄吾だけが残される。去り際に見せた綾の表情は何を意味していたのだろう。ぼんやり考えながら、雄吾もブランコを後にする。綾が去った方向に背を向け、自宅の方向へと歩き出した。
夏休みも終わった九月のこと、それは唐突に訪れた。
『ごめん、しばらく仕事が忙しくて会えそうにない』
トークアプリの最後の更新。自室のベッドに寝転びながら、雄吾は絵文字付きで送られた文面を見返す。送信された日付は一週間前、高台で別れた数時間後だ。何回も眺め返した、短い文面だ。
一週間、会えなかったからといって寂しがるほど子供でもない。仕事だから仕方ないとすっぱり割り切れるほど大人にもなりきれない。中途半端な自分がもどかしくて、雄吾はごろりと寝返りをうった。窓を叩く雨粒の音がうるさい。列島をゆっくりと北上する秋雨前線は、本日雄吾の街の頭上を通過中だ。テレビの中のキャスターは、夜更け過ぎには過ぎ去る見込みだと真面目な顔で告げていた嵐。
ご飯よ、と雄吾を呼ぶ母親の声。ベッドから身を起こした雄吾は、手に掴んだままのスマホと一瞬にらみ合って。渋々といったふうに端末をベッドの上に放り投げ、雄吾はダイニングへと出て行く。
雄吾が自室の扉を閉めた、ちょうどそのとき。布団の上に投げ出されたスマホが軽く震える。液晶に表示されたトークアプリの通知は、綾の名前を表示していた。
献立は、雄吾の好物である唐揚げだった。熱いから火傷しないようにとの母の忠告もそこそこに、雄吾は茶色く揚がった鶏肉を口に放り込んでいく。食卓に並べられた料理は三人前と少し。今日のように父が早く上がれた日は、豪華な献立だ。色鮮やかな料理が盛られた大皿から、家族三人で食卓を囲む時間を大切にしたいとの母の思いが伝わってくる。物心つく前からこの家に息づく、ささやかな慣習。妻と夫、父と子が和やかに語り合う、雄吾にとって当たり前だった風景。
(綾さんには、当たり前じゃなかった)
家庭環境を吐露する綾の顔が脳裏によぎった瞬間、ずしりと胃に重いものが落ちる感触。食卓に並ぶ好物の山にも、食指が動かない。
ごちそうさまと口にして席を立つ。
「雄吾、今日は全然食べてないじゃない。こんなに残して」
「そうだぞ、お前の好きな唐揚げじゃないか」
背後から響く両親の呼び止める声に、食欲がないとだけ返す。億劫な足取りで自室に戻り、ベッドに倒れ込んだ。惰性で手を動かし、指先に触れた固い感触を引き寄せる。スマホを持ち上げて通知欄を表示させた次の瞬間、雄吾は飛び起きた。綾から、新着メッセージが二件。
《from:太田綾
久しぶり、雄吾。なかなか会えなくてごめんなさい。
実は、勤務先の店舗の閉店が決まったの。それに伴い、本社から辞令が降りました。新しい勤務先は、F県のショッピングモール。エリアマネージャーに昇格、来週から現地支店に出勤するように、だって。既に引っ越し先の社宅も用意されている。
私は、明日の朝にこの街を発ちます。
突然の連絡、心の底から申し訳なく思っている。姉弟ごっこは、本当に楽しかった。弟ができたみたいで、とても嬉しかった。だけど、こうするしかなかったの。私たち、結局は大人と子供で、たまたま出会っただけの他人同士。これ以上ずるずると続けるわけにはいかなかった。だから、もうおしまいにしましょう。》
《from:太田綾
ごめんなさい。ありがとう。さよなら、弟になってくれた人》
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