アネモネと賢者

 紡いだ言葉は切れ切れだった。言ってしまった、と頬が熱を帯びる。思わず俯いて、それから雄吾は恐る恐る顔を上げた。


 ――視界に入った綾の表情は、固く。ぞっとするほど寒々しい、何かを堪えてそのまま凍てついたような顔で。


 ごめんなさい。ようやっと綾が口にした六文字を耳にした途端、雄吾は立ち上がって掛けだした。頬の熱はそのままに、感情が頭の中をぐるぐると駆け巡る。やってしまった、という思いだけがあった。背後から呼び止めるような叫びがあった気がしたが、ほとんど意識にとまらなかった。逃げ出すように順路を走り抜け、ミュージアムショップを抜け、そして出口のゲートを出たところでようやく足を止める。

 ふらふらと、陽光が照らす壁にもたれかかった。梅雨明けの日差しがじりじりと皮膚を焼くのとは裏腹に、頭は少しずつ冷えてくる。今となっては後悔しかなかった。何故、あんな暴挙に出てしまったのだろう。浮かれていたとしか言い様がない。だが、しかし。雄吾は唾を飲む。大人の気品と少女のような無邪気さを併せ持つ綾は、どうしようもなく魅力的だった。

 それなのに、何故あんなことを口走ってしまったのか。思考は一周し、最初の後悔に立ち戻る。理由はともかく、これでこの関係は終わりだ。綾に拒絶されてしまった以上、もうあの高台で言葉を交わすこともないだろう。短絡的な、愚かな行動だった。止まらない後悔と自己嫌悪に雄吾が頭を抱えてうずくまった、そのとき。

「やっと見つけた!」

 大水槽の前からここまで走ってきたのか。頬を紅潮させ、荒い息を吐く綾が目の前に立っていた。

「あ、綾さん、じゃなくて太田さん。すみません、俺」

 立ち上がり、逃げるように身を翻す。駅まで駆け出そうとした雄吾の腕を、手を伸ばした綾がつかみ取った。綾も引き留めようとしてのとっさの反応だったのか。一瞬、両者ともに硬直していた。

「……とりあえず、涼しいところでゆっくり話しましょう」

 気まずい空気のなか、綾がぼそりと口にする。拒む気力は、雄吾にはもう残されていなかった。




 駅前のコーヒーチェーン店。冷房の効いた店内で、世界一有名な黒い炭酸飲料を前に雄吾は縮こまっていた。遅れてレジからやってきた綾がテーブルにアイスコーヒーを置き、雄吾に対面するように座る。

「黒瀬くん」

「は、はい」

 呼びかけられただけで、肩が震える。叱られる子供のような雄吾を綾はどんな目で見ているのか、想像したくもない。

「最初に。気持ちは嬉しいの。私も雄吾くんのことは気に入ってる。でも、ごめんなさい。お付き合いをすることは、できません」

「何故」

 綾の目には怒りはなく、さりとて茶化すわけでもなく。悲しむような、憐れむような色があった。

「まず、黒瀬くんは高校生です。そして、私はいい年した大人。

 ……大人はね、子供に好きだって言われてもそれを受け入れちゃいけないの」

「どうして、ですか」

「これを言ったら黒瀬くんは怒ると思うけれど。子供は子供だから、としか言いようがないの。子供だから、自分の感情がどんなものか分かっていない。利用されるリスクも知らない。だから、子供を守るために。大人には、子供の気持ちをそのまま受け入れることは許されない」

 言い返したかった。俺は違うと言いたかった。それでも、俺は子供ではないと、否定する根拠を雄吾は持っていなかった。

「それにね。私には、もうひとつ個人的な理由があるの」

「それは、俺と付き合うわけにはいけない理由ですか」

「ええ。私が許されない恋を忌避する理由が、もうひとつ」

 水滴で濡れたグラスを持ち上げ、綾がストローの先に口をつける。喉を潤すようにグラスの半分ほどを一気に飲み干して、綾は語り始めた。

「私が小学生の頃。私の父は、母と私を捨てたの」

「それは、蒸発したってことですか?」

 雄吾が訊くと、綾はゆるゆると首を振った。

「いいえ、なお悪かった。あの男はね、ずっと不倫していたの。それこそ、母と結婚する前から」

 もとはと言えば、綾の母親が財産目当てに結婚を押し切ったことが発端だったという。綾の父親となった男との結婚生活が数年で破綻したのも無理からぬことだったと、綾は語る。

「父が女の匂いを隠さなくなっても、母は結婚生活にしがみついた。……父の財産や持ち家によほど執着していたんでしょうね。笑っちゃう。あの男、最後の数ヶ月は私の前で不倫相手に電話していたの。小学校に上がったばかりの娘の前で、形だけの家族には絶対に見せない笑顔で」

 綾の告白に耐えかねて雄吾が啜ったコーラは、味がしなかった。綾の声色から、陰鬱な家庭の雰囲気がひしひしと伝わってくる。幸せな家庭に育ったと自認する雄吾には想像もつかない世界が、綾の言葉の中にあった。今更ながら、水族館のデッキで家族の話になったとき綾が見せた表情が雄吾の胸に突き刺さる。

「母親との毎日のような喧嘩も減って、完全に冷戦状態になったある日だった。学校から帰ったら、家の前に引っ越し業者のトラックが停まっていて。私の勉強机、おもちゃ、本、一切が運び出されていた。勿論、母の荷物も。家に駆け込んだら母が父にみっともなくすがりついて泣いていて、そんな母を父は怒鳴っていたっけ」

 自嘲するように、綾の唇が釣り上がる。綾の視界に雄吾はおらず、その目は完全に過去を見つめていた。

「不倫相手に子供ができたから。そんな理由で、父は私たちを捨てた。家から追い出した。訳も分からず私が『お父さん』に泣きついたとき、あの男はなんて言ったと思う? 『俺は、男の子が欲しかったんだ』って。……ああ、本当に」

 本当に、の先に続く言葉はなかった。ぐい、と綾がグラスに残ったコーヒーを煽るように飲み干す。気づけば、雄吾のグラスに浮かぶ氷はほとんど溶けていた。入店時は肌に心地良かった冷房に、突き刺すような寒気を覚える。

「だから、許されないの。まともな愛を知らない私が、子供と恋愛するなんて」

 ごめんね、と綾が零す。

「重い話だったでしょう。こんなこと、子供に聞かせていい話じゃなかったね」

 綾にかける言葉が見つからない。答えに詰まる雄吾を見て、綾は小さく笑った。

「許されない恋は、こうして誰かを踏みつける。だから、大人として、私と黒瀬くんは付き合うわけにいかない。いいお友達でいましょう」

「恋人じゃ、駄目なんですよね」

 これを逃したら綾が二度と手の届かないところに行ってしまう気がして。無我夢中で雄吾は口にしていた。綾の目が丸くなる。

「綾さんの気持ちは分かりました。俺も、無理して受け入れてもらおうとは思いません。だから」

 彼女が拒否するなら、恋人なんて贅沢は言わない。一方で年の離れた友達以上の関係という贅沢をしたいと感情は訴えている。

「俺の、姉になってください」

 矛盾した衝動の果てに口から飛び出したのは、ひどく奇妙な単語だった。

 微妙な沈黙が二人の間を流れる。自分で言っておきながら、どんな選択肢だよと頭を抱えたい気持ちだった。弁解するように雄吾が口を開いたその瞬間、綾の笑い声が響いた。

「ぷっ!くくく、あっはっは……。ああおかしい、まさか君がそんなこと言い出すなんて」

 片手で腹を押え、もう片方の手で目元の涙を拭う綾。先ほどまでの悲壮感が嘘のように、水族館で無邪気にはしゃいでいた綾の姿がそこにあった。

「姉、ね。『お姉ちゃん』、か。じゃあさしずめ君は、私の弟になるのかな」

「は、はい。そういうことになります」

 慌てた末に他人行儀になった雄吾の答えに、また綾が笑う。

「いいね。悪くないと思う。一人っ子だったし、私も君みたいな弟が欲しかったのかもしれない」

「じゃあ、綾さんは」

「ええ。お付き合いは無理だけど、こうして姉弟ごっこをするのには付き合ってあげる。よろしくね、『弟くん』」

 花が咲くような綾の笑顔に、馬鹿みたいに首を縦に振っていた。たとえ最初に望んだ形とは少し違っても構わない。綾と二人だけの、特別な秘密の関係。それを共有することが、何よりも雄吾の胸を高鳴らせた。

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