ベゴニアと強者

「これ、この前の傘のお返しです。学校で配られたので、良かったら太田さんの友達でも誘ってみてください」

 高台での再会から二週間後。雄吾が綾に手渡したチケットは、水族館の優待券だった。この街からは電車で数駅ほどの地域にある、県外からも観光客の訪れるそこそこ名の知られたスポット。自然学習の促進という扱いで、時折近隣の学校にチケットがばら撒かれる。一枚で最大五人の入場割引が可能なのは、家族連れでの来訪を狙っているのだろうか。

「ああ、あの有名な。黒瀬さんは行かなくていいんですか?」

「俺はもう行ったことがあるので。これは差し上げます」

「お礼なんていいのに。でも、ありがとう」

 チケットを手にして、綾は嬉しそうに微笑む。だが、すぐに何かを思案するような顔になった。

「頂いたのは嬉しいけれど、生憎と休みが重なる友人がいなくて……。転勤してきたばっかりだから、まだここでの交友関係があんまりないのもあるし」

 チケットを見つめながらぶつぶつと呟いていた綾の唇が、止まる。首を巡らし、雄吾と目が合った。

「行ったことある、って言いましたよね」

「ええ、はい」

「でしたら、黒瀬さんが案内してくれますか? 厚かましいお願いですみません。でも、きっと楽しいと思います」


 地平線にさしかかろうとする太陽が街を、雄吾たちを照らす。綾の瞳に映る自分の頬を紅く染めているものは、西日だけなのか分からないまま。雄吾はこくりと頷いていた。



 翌週の週末。件の水族館の入り口で、雄吾はそわそわとしていた。ベンチに腰掛けてもすぐに立ち上がり、意味もなくゲートの前を行き来してはまた腰掛ける。挙動不審と疑われそうな行為を十数分繰り返したところでようやく、待ち望む人は現れた。

「すみません、待ちました?」

 駅の方向から小走りに駆けてくる、ライトブルーのワンピースの女性。いつも会うときは背後で括っている長い髪を、今日は結ばずに風になびかせている。初めて見る綾の姿に、雄吾の心臓が跳ねた気がした。

「いえ、全然! 太田さんこそまだ時間には早いじゃないですか」

「五分前行動はマナーですから。それより、行きましょうか」

 慌てて立ち上がり、やや食い気味に答えた雄吾に笑いかけ、綾は一枚の紙を差し出す。先週に雄吾が渡した優待券だ。雄吾がそれを受け取った瞬間、風が吹く。風に乗って、綾の方からふわりと花の香りがした。同年代の女子は高校ではつけることを禁止されている香水。香りを纏う大人の余裕に、意味もなく待ち合わせた時刻の三十分も前から待機していた自分が恥ずかしくなって、雄吾は耳を赤くして俯いた。

 薄暗い水族館は、なるほど有名なだけあって水槽・説明共に凝っていた。

「この魚、日本では準絶滅危惧種らしいのね」

「ここのプレートに書かれてるクロマグロの乱獲問題、学校で習ったばっかりでした」

「あら、あっちはアザラシやアシカ? 見てきてもいいかしら」

「これがアロワナかあ、変な形の口ですね」

「あっちはピラルクですって。黒瀬くんは知ってる?」

 生息環境が再現された水槽に感嘆し、海獣やペンギンにはしゃぐ。気の利いたことを言おうと水槽脇の説明に目をこらす雄吾を綾が笑い、イルカショーに子供のようにはしゃぐ綾を雄吾は眩しげに見つめる。あっという間に時は過ぎ、気づけば昼時になっていた。

 天気は快晴。混雑する屋内レストランを避け、屋外エリアに設置された屋台で昼食を調達することにする。大人が払うべきと言い張る綾に押し負けて奢ってもらったホットドッグは、冗談抜きに雄吾の人生で一番の味だった。

 デッキに円形の影を落とすパラソルの下。並んで昼食をかじりながら、いつしか砕けていた口調で他愛もない話をする。

「あ……太田さんは、こういった水族館とかにはよく来るんですか?」

 綾さん、と呼びかけようとして言えずじまいになる。舌を噛んだ風を装って、雄吾は無理矢理に話題を紡ぐ。

「ううん、水族館は初めて。子供の頃家族サービスってことで地元の動物園に連れて行ってもらったことはあるけど、それっきりかな」

「家族サービス、ですか。確かに、よく両親に連れて行ってもらったっけ」

「……そう」

 何気なく発した言葉でも、綾の顔色をうかがいながら話していた。だからこそ、綾の顔色がわずかに曇ったのを雄吾は見逃さなかった。しまった、と下唇を噛む。

(まずい、家族の話は駄目だったか?)

 やらかしたことは分かっても、経験の少なさが災いしてカバーするような言葉が口から出ない。

「そろそろ行きましょうか」

 とっさに雄吾が選べたのは、その場を立って曖昧にするという一手しかなかった。


 この水族館は、屋内で中小サイズの水槽が並ぶエリアから始まる。水槽ごとに多種多様な水域を表した区域を抜ければ、イルカやアザラシ等の海獣、ついでにペンギンやカワウソと人気者がひしめく屋外エリアに出る。雄吾たちが昼を済ませた屋台ブースもこのエリアだ。そして順路に従えば、最後の区域は再び屋内となる。

「綺麗……」

 足早に歩き出した雄吾を追うようにして着いてきた綾が、背後で息を呑む音が聞こえた。雄吾自身、訪れるのは二回目であるにもかかわらず、目の前に広がる雄大な水槽には圧倒される。この水族館の目玉、全国有数の体積を誇る大水槽だ。ゆるやかな曲線を描く強化ガラスの向こうで、鮮やかな鱗を煌めかせた魚が悠々と泳いでいく。白い砂が敷き詰められた底面には珊瑚が配置され、石灰質の枝の合間を小魚が出入りする。巨大なエイがその身を翻して水槽前面を横切れば、子供連れから歓声が上がった。

「座りましょうか」

 水槽前にはクッション敷きの長椅子が数列並んでいる。空いている椅子の中で、特に水槽の正面に近いものへ綾を誘導した。中央から右寄りに腰掛けた綾の左側に、雄吾は腰を下ろす。互いの体が触れあうにはやや遠く、さりとて荷物を置くには狭すぎる距離。どこかにスピーカーでもあるのか、流れる音楽が周囲の喧噪を中和している。揺らめく水に吸い込まれるような錯覚を覚えながら、雄吾は綾と共に水槽に見入っていた。

 白い砂の上に不定形の網目模様を投げかける光。ひらひらと舞う魚の群れ。一定の波のリズムは人を落ち着かせると言っていたのは国語教師だったか、はたまた生物教師だったか。学校の授業で聞き流していた内容が雄吾の脳裏をよぎった。顔も思い出せない教師の言葉。白々しいと嘲笑うかのように、雄吾の心臓はどくどくと早鐘を打っている。皮膚を内側から炙る熱。原因なんて、ひとりしかいない。大水槽を見つめたまま一つ深呼吸をして、雄吾は視線を横に向けた。

「綾さん」

 今度は、噛まなかった。きちんと彼女の名前が唇に載る。

「なあに?」

 水槽を照らす淡い光を反射して、隣に座るひとの瞳が煌めく。綺麗だ、と頭の片隅に浮かんだ。

「俺、綾さんが、好きです。もしよかったら、付き合ってください」

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