ジギタリスと愚者

百舌鳥

ゼラニウムと勇者

 掌を叩く雨粒の感触に、黒瀬雄吾は顔をしかめる。よりによってこんな大雨の日に。顔も知らない傘泥棒を心の中で呪った。この最寄り駅から雄吾の自宅まで、十五分。ざあざあと降り注ぐ土砂降りを突っ切れば、靴下どころかスクールバッグの中身までびしょ濡れになるだろう。自宅から持ってきた傘は、乗換駅のコンビニにて傘立てから姿を消した。したり顔で店頭に並ぶ、数百円のビニール傘の群れ。今から売店で買い直すのは、高校生の財布には避けたい出費だ。恨むぞ傘泥棒。声には出さず、悪態を唇に乗せる。

 ええい、こうなったら自棄だ。スクールバッグを頭上に掲げ、雄吾が雨の中へ走り出そうとしたその瞬間。

「すみません。これ、使いますか?」

 横合いから、女性に声を掛けられた。二十代半ばくらいだろうか、長い黒髪を後ろで一つに纏めた小柄な女性。右目の泣き黒子が特徴的な目に心配そうな色を浮かべて、雄吾を見上げている。女性が片手に持ったビニール傘が雄吾の方へ差し出された。錆や汚れはおろか、ほとんど雨粒もついていない、新品同様の傘だ。

「職場に傘を置いているのを忘れて、朝に買ってしまったんです。私は必要ないので、良ければ貰ってくれませんか?」

 降りしきる雨を前に、傘を取り出す様子もなく逡巡する雄吾を見て声を掛けてくれたのだろうか。雄吾にとっては願ってもない申し出だ。喜んで飛びつきたい気持ちを、知らない人から物を貰うことに対する忌避感と罪悪感が邪魔をする。返答に詰まる雄吾の葛藤を見てとったのか、慌てるように女性が付け足した。

「雨が降る度に買っているので、玄関がビニール傘ばっかりなんです。これ以上傘を増やすわけにいかないので、返していただかなくとも大丈夫です。傘をお持ちでしたらすみません。気にしないでください」

「いや、そんなことありません! ありがとうございます、使わせてもらいます」

 自分は大丈夫だと伝えるかのように、女性は鞄から花柄の折り畳み傘を取り出す。女性が申し訳なさそうな顔をするのが気まずくて、ほとんど遮るように返答した。返さなくてよいというのなら、大人しく申し出に甘えることにする。

「ありがとうございます、貰ってくれて」

「いや、お礼を言うのはこっちの方です。傘が盗まれて困っていたところなんです、ほんとにありがとうございます」

 何度も傘の下で頭を下げ、雄吾は雨の下を歩き出す。その日の大雨は、雄吾が自宅に辿り着いた後もしばらく弱まることはなかった。




 三日前にあれだけ降ったというのに、見上げれば梅雨時の空に広がる雨雲。高台へ続く階段を登りながら、視界に広がる曇天に雄吾は溜息を吐いた。せめて自宅に帰りつくまではもって欲しいと願いつつ、頂上へ進んでいく。

 雄吾の自宅から駅までの間に挟まるように存在する、小高い丘のような高台。雄吾の家族を含めた多くの人は急な階段を嫌って池ごと大きく迂回する道を通るが、雄吾はそのまま高台を突っ切っていた。男子高校生の体力にものを言わせた単なる時間短縮のためだけではない。高台の頂上には、街を一望できる空間がある。高級住宅地と謳われることの多いだけあって、見下ろす街並みは美しく整っている。階段を登りきった後にあるその空間と景色を、雄吾は気に入っていた。

 普段なら、頂上にほとんど人気ひとけはない。しかし今日は違った。高台の上へ到達した雄吾の目に、ベンチの片端に佇む人影が映る。

 あ、と声が漏れる。どこか愁いを帯びた眼差しで街並みを見下ろす女性と、その手にあった花柄の折りたたみ傘に見覚えがあった。

「あの、この前はお世話になりました」

 雄吾の声に振り向いた女性は、確かに三日前傘をくれた彼女だった。その目が雄吾を認め、ぱちくりと瞬いたあと思い出したように見開かれる。

「ああ、あの時の学生さん。あの傘、役に立てました?」

「はい、とても。ありがとうございました」

「良かった」

 そう告げてほころぶ彼女の微笑みに。何故か、鼓動が奇妙に高鳴った。


 その日は、それだけ言葉を交わして別れた。翌日の帰途に雄吾が訪れた高台は、いつも通りの誰もいない空間が広がっていた。

 翌々日の夕方、ちょうど雄吾が部活を終えて高台を通りかかる時間帯。雄吾が階段を登り終わると、女性はそこに佇んでいた。降り注ぐ夕日が女性の横顔を茜色に照らし出している。曇天だった二日前との単なる再現ではないと示すような、薄暮の日差し。

「……すみません。ここ、いいですか?」

「どうぞ」

 どうして声を掛けようと思ったのか、自身にも分からない。気がついたら言葉が出ていた。雄吾に気を遣ってか、ベンチの中央に座っていた女性が右側の端に座り直す。中途半端に空いたベンチの、もう一方の端に雄吾も腰を掛けた。

 人ひとり分空けて、右端と左端。先に口を開いたのは、女性の方だった。

「ここ、よく通るんですか?」

「まあ。帰り道なので」

「そう。偶然だったけれど、見晴らしのいい場所を見つけられて良かった」

 アパレル店員の太田綾。そう名乗った女性は、転勤を機に二週間前にこの町へ引っ越してきたのだという。仕事柄転勤の多い彼女は、買い物に来た慣れない街で道に迷ったらしい。そのなかでふと足を運んだこの高台から見える街の景色がひと目で気に入ったと、そう語っていた。

「仕事が終わった後は、ここに寄るようにしたんです。この丘が気に入ったから」

「……偶然ですね。俺も、ここが好きなんです」

「あら、本当? お揃いですね」

 果たしてその会話がきっかけだったのかは、雄吾には分からない。けれどその日以来、暗黙の了解のように。雄吾の部活と綾のシフトの噛み合う一日おきに、月曜と水曜と金曜の夕方。暮れなずむ街を見下ろす高台の頂上で、雄吾と綾は顔を合わせる。たまにベンチの端と端にそれぞれ腰掛けては、とりとめもない話をすることもあった。夕焼けの綺麗な日は、燃える西空と茜色に染まる街並みを二人黙って眺めていた。

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