傘立てから吸血鬼
未由季
傘立てから吸血鬼
夕方五時になると、チャイムが鳴る。俺はその音が嫌いだ。チャイムが鳴ると、友達はみんな家に帰ってしまう。
ひとりになった公園で、俺はバットを振るう。びゅんびゅんと空気を切る音が気持ちいい。バットは昔、父さんが使っていたものだ。父さんは病気が見つかるまで、草野球チームに入っていたらしい。試合のたびに、母さんはおにぎりをたくさん握って、応援に行った。
父さんが死んで、バットは俺のものになった。
わざと騒々しく、玄関を開ける。奥に向かって「ただいま」と声を放る。少しすると和室の戸が引かれる音がして、
「おかえりなさい」
と母さんの掠れた声が聞こえてきた。
それから二人が移動しているらしい、ごそごそとした気配が伝わってきた。
俺はバットを傘立てに突っ込み、中へ上がる。
ダイニングテーブルに、担任の島崎先生が座っていた。
「遅かったな、広瀬」
先生の髪は、ちょっとぐちゃっとしている。昼間教室で見たときは、もっとピシッとしていたはずなのに。
「こんな時間まで、どこで何してたんだ?」
「公園で素振りしてた」
俺が答えると、母さんは目を丸くした。「五時のチャイム、聞こえなかったの?」
「集中してたから」俺は嘘をついた。先生が来てるのがわかってたから、わざと帰る時間を遅らせてたのだ。
「もう、たかが素振りくらいで集中って」
「広瀬、あんまりお母さんを心配させるんじゃないぞ」
「先生、なんでうち来てるの?」
本当は先生がうちにくる理由なんて一つしかないのだけど、俺は訊いた。
先生は動じる様子もなく、
「ちょっと広瀬のお母さんと話し合うことがあったんだ」
「話し合うこと?」
「そうだ。広瀬はさ、鴨川や江口と仲いいよな」先生は確かめるみたいに言った。
「仲いいよ」
カモとえぐっちょは同じクラスで、俺の親友。今日も五時のチャイムが鳴るまで、公園で一緒に遊んでいた。
「だけどいつも鴨川と江口とばかりいるのは、どうかと思うんだ」
「え、なんで?」
俺はちょっと目を鋭くして、先生を見た。
先生はさっきから顔中に不自然な笑みを張り付かせてて、すごい気持ち悪い。
「四年二組は、全部で何人だ?」
「三十二人」
「そうだ、三十二人――広瀬本人を抜かせば三十一人もいる。それなのに鴨川と江口の二人とばかり一緒にいるのは、勿体ないと思わないか?」
俺は先生を無視して、ちらりと母さんを見やった。母さんは神妙な顔で頷いて、
「そうよ。鴨川くんや江口くんとばかりいないで、もっと色々な子と喋ったり遊んだりしなきゃ駄目よ」
母さんも先生も、俺がカモやえぐっちょと遊ぶのを良く思っていないみたいだ。
「カモとえぐっちょと遊んじゃまずいの?」
「まずくはないよ」先生は慌てて首を振った。「そういう意味で言ったんじゃないんだ」
「じゃあ何?」
「うーん、そうだな……自ら世界を歪める必要はないって話だよ。広瀬には自分が本当はどんな人間かを、見つめ直してほしいんだ。他のクラスメイトとも関わることは、いいきっかけになる」
先生の言っていることはさっぱりわからなくて、俺は苛立ちを抱えたまま、後はじっと話を聞いているふりをした。
「わかってくれたね?」
と問われたので、頷いておく。
それでようやく先生はテーブルから立った。
玄関扉の前で、母さんと並び、先生を見送る。先生の後ろ姿が遠ざかると、母さんはだるそうに首を回し、
「寒いから早く中入ろう」
と言った。
「夜ご飯、昨日のシチューでいいよね」
母さんはそのまま暖簾をくぐって、台所に消える。俺は三和土に立ったまま、傘立ての中のバットに手を伸ばした。途中まで引き抜いてから、ぐいと素早く差し直しす。
「やあ、こんばんは」
傘立てから、吸血鬼が出てきた。
吸血鬼が現れるようになったのは、俺が小学校に上がる前の年。父さんの葬式から何日か過ぎた頃だった。
その日、朝から伯母さんが訪ねてきていた。母さんと伯母さんは長い間ひそひそと話し込んでいた。はじめのうち、俺は二人の間を無闇にうろちょろしたり、気を引こうとしていた。だけど母さんが嗚咽を洩らしたところで、急に怖くなって部屋を出た。
所在なく、玄関の上り口に腰かけていると、傘立てに父さんのバットが突っ込まれているのを見つけた。
バットは長いことそこにあったはずなのに、俺はこのときまでその存在を忘れていた。
弾かれたように立ち上がり、バットに手を伸ばした。そうすることで、父さんの断片を掴める気がした。
傘立てからバットを引き抜いた瞬間、一緒に黒い小さな影が飛び出てきた。
影は宙に舞い上がり、ちょうど傘を開いたみたいにふわりと広がった。三角形のシルエットが縦に伸びて、たちまち俺の背丈を超えた。見上げると、いつの間にか三角形の先端には青白い顔がついていた。黒い髪を後ろに撫でつけ、目は赤く、口の端からは鋭い牙がのぞいている。白いシャツの上に黒色のマントを羽織り、それは誰が見ても間違いなく吸血鬼のいでたちなのだった。
俺は息を呑み、その存在を見つめた。もしかしたら悲鳴を上げたかもしれないが、母さんたちが駆け付けて来る気配はなかった。それどころか、母さんと伯母さんの会話する声が遠くなった気さえした。今、家の中には俺と吸血鬼の二人きりしかいないのではないか。そう錯覚するほどに、静かだった。空気が冷たくなるのを感じた。
吸血鬼が口を開いた。
「子ども、何をそんなに落ち込んでいる?」」
低く落ち着いた声だった。
吸血鬼は続けて言った。「助けてやろうか?」そうしてにやりと笑ってみせた。
俺は恐ろしさに硬直していた体を、必死に動かした。
「別に、いいよ」
首を横に振った。
「助けられないよ。だって、死んだ人は生き返らないでしょう?」
俺の言葉を聞いても、吸血鬼は別に残念がったりも脅かしたりもしてこなかった。口元だけを歪ませ、ただじっと俺を見ていた。
そうして静かに、吸血鬼は答えた。「ああ、生き返れない」
「父さんが死んじゃったんだ。それで母さんはずっと泣いている」
「助けてやろうか?」吸血鬼はもう一度訊いた。
「父さんを生き返らせる?」
「お前はさっき、それは無理だと自分で言ったじゃないか」
「じゃあどうやって助けるっていうの?」
「父親を生き返らせることはできないが、母親を元気にさせる方法なら教えてやれる。ただし、しっかりと対価は支払ってもらうよ。お前は俺に自分の血を差し出さなければならない」
「血を吸われるの? 嫌だよ」
「なぜ? お前は母親に元気になってもらいたいのだろう」
「だって血を吸うとき、噛みつくでしょう?」
「噛みつく」
「痛いでしょう? 痛いのは嫌だよ」
「それほど痛くはないはずだが」
「本当に?」
「ああ、本当だよ。吸血鬼は嘘をつかない」
「それって本当のことしか言わないってこと?」
「本当のことしか言えないのだよ」
俺は考えた。本当のことしか言わないのと、言えないのとでは、何が違うのだろう。
試しに、吸血鬼には俺がどう見えているのか尋ねてみた。
「物を知らない、惨めな子どもに見える」吸血鬼は言った。
俺はその答えに満足して、
「わかった。あなたは本当のことしか言えないんだね」
「信じてもらえたかな?」
「信じるよ」
吸血鬼はなぜか照れたようにはにかみ、改めて尋ねた。「じゃあ、私に血を差し出す気になったかい?」
俺は今度も首を横に振った。
「なぜ?」
「痛くなくても、やっぱり噛みつかれるのは怖いし」余裕が出てきた俺は、ちょっと強気になって言った。「だから血はあげられない」
吸血鬼の物腰は優雅で、口調は優しい。ひょっとしたら見た目ほど、怖い相手じゃないのかもしれないと思った。
だから吸血鬼が吠えたとき、俺は馬鹿みたいに縮み上がった。
「怖いからなんだっていうんだ! 臆病者め!」
吸血鬼の口が横に伸びて、牙が露出した。さっきより目の赤みが強まった気がした。俺は相手が怪物であることを実感した。
「いいかよく聞け! この先お前を待ち受けてるのは、怖いことばかりだぞ! そのたびお前は怯えて、逃げ出すのか!」
俺が泣き出すと、吸血鬼の勢いはちょっと弱まった。そして「忘れるな。私はいつでもお前の血を狙っているぞ」と言って、傘立てへと消えた。
それからも時々、吸血鬼は傘立てから現れた。吸血鬼の出現条件はわかっていた。俺が弱気になると、現れる。吸血鬼はこちらから呼び出すこともできた。今のように傘立てにバットを差し直すと、出てくるのだ。
「私に何か用か?」
吸血鬼はランプの精みたいに問いかけてきた。
「別に」俺は答える。「くそ担任、ぶっ殺したい」
「お前は口が悪いな」
吸血鬼は呆れたように肩をすくめ、
「では、私がそいつを殺してやろうか? その代わりお前は私に血を差し出――」
「血はあげないよ」
俺は吸血鬼の言葉を遮って言う。
「くそ担任なんてもの、放っておけばいい」
「そうだね。あんな奴、全然怖くなんかないから」
「そうだ、怖くない」
吸血鬼が深く頷く。俺はそれで、ちょっと安心する。吸血鬼にそう言ってもらいたくて、俺は呼び出したのだった。
俺は誰にも負けたくなかった。もちろんこの吸血鬼だって、負けるわけにいかない。俺は吸血鬼に血を吸われないために、強くいなければならないのだった。
遅れて台所に入ると、母さんはけだるそうにシチューの鍋をかき混ぜていた。
「髪切りたい」俺は言った。
母さんは片方の眉だけ上げて、
「あら、今ぐらいの長さがちょうどいいんじゃない。かわいいわよ」
「かわいいとか、そういうのやめろよ」
「何を照れてるの?」
「照れてない」
「それより、宿題は?」
「今からやる」
宿題の入ったランドセルは、和室だ。襖を開け、電気は点けずに隅のランドセルまで近づく。和室の壁際には、折りたたまれた布団が雑に寄せられていた。
宿題を取り出そうとして、俺はごみ箱を覗いた。薄暗がりの中で、ごみ箱に丸まったティッシュが入っているのを見つけた。
「母さん」
俺は台所に向かって声を張る。
「なにー?」
「和室のごみ箱から、変な臭いがするー」
「いいから早く宿題済ませちゃいなさい」
* * *
五年生になってすぐ、カモとえぐっちょは俺を遊びに誘ってくれなくなった。俺から誘いに行っても、何か理由をつけて断られる。「今日は六年と遊ぶから、いっちゃんとは遊べない」「今日はいっちゃんが知らない奴らと遊ぶ約束してるから、また今度ね」
俺は来る日も来る日も、公園でひとり素振りをし続けた。カモとえぐっちょを恨んだりはしなかった。二人はきっと、島崎先生から何か言われたのだろう。それで俺を避けるようになったんだ。悪いのは、島崎先生だ。なぜ先生も母さんも、俺が二人と遊ぶのをよく思わないのだろう。
六年生になる頃には、先生はうちに顔を出さなくなった。それまでは週に一、二度のペースで通って来てたのに、ふいにぱたりと来なくなった。
そして先生と入れ替わるみたいに、望月くんがやって来た。
「ただいまー」
靴を脱ぎ捨て、短い廊下をダッシュ。居間に飛び込む。望月くんは朝起きたままのスウェット姿であぐらをかき、スケッチブックを広げていた。
「おかえり、いっちゃん」
顔だけこちらに向けて、望月くんが言う。
「学校どうだった?」
「ん、普通。女子とか色々うざくて困る。望月くんは? 何描いてたの?」
「うん、新作のキャラクタ―考えてた」
俺は望月くんのスケッチブックを覗き込んだ。髪の毛を逆立てた男の人が描かれている。手に剣を持っているから、剣士とか勇者とか、そういう設定なのかもしれない。望月くんは漫画家志望だ。
「どう思う?」
「かっこいいと思うよ」
「そうか、ありがとう」
そこで望月くんはスケッチブックを閉じてしまう。
「続き描かないの?」
「いいんだ、一日にひとりずつキャラクターを完成させていくのが、俺の制作スタイルなんだよ」
望月くんは言いながら、何度もまばたきをした。普段から望月くんはまばたきが多いほうだけど、ときどきものすごく回数が多いときがあるから、目を痛くしているのかなと俺は心配になる。
「美穂さん――お母さんは今日、いつもより遅くなるって。先に二人でごはん食べててって、さっき連絡あったよ」
「ごはん、望月くんが作るの?」
「うん。だからカレーでいい?」
「いいよ」
望月くんはカレーか炒飯しか作れない。
「買い出し行くから、いっちゃんも付き合って」
「うん」
カレーの材料と明日の朝ごはん用のパンを買って、スーパーを出た。
「そっちは俺持つから、いっちゃんはこれ持って」と言って、望月くんは俺に軽いほうの袋を持たせる。望月くんはガリガリなのに、力持ちだ。
こうして二人並んで歩いたら、すれ違う人は俺たちを親子だと思ったりするのだろうか。望月くんは少し前からうちに住んでいる。
「望月くんは――」
話しかけようとしたら、前から乗用車が走ってきた。
望月くんは俺の肩を軽く押して、道の端に寄らせた。そうして車が走り去ると、
「うん?」話の先を促した。
「あのさ、望月くんはさ、母さんと結婚するの?」
俺は訊いた。
望月くんは困ったように笑って、
「さあ、どうかな」
反対に、質問してきた。
「いっちゃんはどう思う? 俺とお母さんに結婚してほしい?」
「結婚したら、望月くんは父さんになるの?」
「そうだね」
「なんか想像できない」
俺は正直に言った。母さんと望月くんは年が離れている。望月くんはお父さんというより、まだお兄さんの雰囲気だ。
「だよねえ……」望月くんは他人事みたいに言った。
* * *
もう長いこと、吸血鬼に会っていない。
傘立ての中のバットは、埃をかぶっていた。
中学生になった俺は、野球部ではなく、美術部に入部した。絵を描くことに興味を持ったのは、望月くんの影響だった。
母さんは仕事が忙しくなり、俺と望月くんは二人きりで過ごす時間が増えていた。望月くんはだいたいいつも家にいて、漫画を読んでいるか描いているかしている。そして気まぐれに、俺に絵を教えてくれた。
絵を教えた後に、望月くんは決まって俺にポーズを取らせる。
「今ちょうどここのところで行き詰まってるんだ……」
などと何度もまばたきをしながら言って、描いている漫画の登場人物に取らせたいポーズを、俺にしてみせるよう要求する。
最初は簡単なポーズが多かった。だけどすぐに望月くんは俺に不可解なポーズをとらせるようなった。何かが変だなと思いながらポーズを続ける俺を、望月くんは血走った目でスケッチした。そして時々は「後で資料として使うから」と俺の姿を写真に写した。
* * *
昼休みを過ぎた辺りから、腹が痛みだした。じわじわと、耐えられないほどでもない痛みが、断続的にあった。俺は部活を休み、早めに帰宅した。家には誰もいなかった。今朝、望月くんが東京まで漫画の持ち込みに行って来ると言っていたのを、俺は思い出した。
しんとした家の中で、俺は心細い気持ちを抱えていた。柄にもなく、泣きたくなった。
傘立ての中から、吸血鬼が出て来た。
「情けない顔をしているな」
吸血鬼は言った。
「腹が痛いんだよ」
「治してやろうか? その代わり――」
「血はあげないよ」俺は先回りして言った。ふいに、懐かしさが押し寄せてきた。
「会うの、久しぶりだね」
「そうだな」
「元気なの?」
「元気そうな顔色に見えるか?」
吸血鬼は真っ白な顔で言った。遅れて、冗談を口にしたのだとわかった。そうしたニュアンスに気付けるほどには、俺は成長していた。
もしかしたら吸血鬼はずっと冗談で、俺に血を差し出せと言っていたのかもしれない。
この吸血鬼は何者なのか。俺はなんとなくわかっていた。
「怖いことばかりじゃないよ」俺は言った。「怖いことなんかなかったよ」
吸血鬼は眉根を寄せ、
「それはお前が目を逸らしているからだ。よおく見てみろ。お前は本当に怖いことを、もう知っている」
そう言い残すと、傘立てに消えた。
腹の痛みが、強く鋭くなった。俺は壁に手をつき、背中を丸め、よろよろと廊下を進んだ。
居間は、望月くんの私物で埋め尽くされていた。漫画制作の参考にすると言って買い集めた、雑誌や写真集、映画のDVDなどが乱雑に積まれている。それらをかき分け、俺は奥からギターケースを引っ張り出した。望月くんがうちに住むようなった初日、それまで住んでいたアパートから持ち込んだものだ。
ギターケースの鍵を開けた。中身はギターでなく、スケッチブックとファイルがそれぞれ一冊ずつ。ここに、望月くんがスケッチした俺と、俺の写真がおさめられている。
俺は二冊を掴み取り、手近にあった紙袋に押し込んだ。台所の引き出しからオイルとライターを取ってきて、制服のポケットに入れた。
靴を履こうとしたところで、望月くんが帰って来た。
望月くんは体中から不機嫌な空気を放っていた。きっと持ち込んだ漫画の評価が良くなかったのだ。前にも一度、そんなことがあった。
「いっちゃん、今日帰り早いね。部活は?」
「休みだよ」
「へえ」
望月くんは行く手を阻むように、俺の前に立ったまま、
「これからどっか行くの?」
「うん。ちょっと、友達のとこ」
「いっちゃん、友達いたんだ?」
「いるよ。友達くらい」
「友達は男の子? 女の子?」
「男」
「へえ」
俺は望月くんが靴を脱げるよう、ちょっと脇に避けた。望月くんは俺の横からさっさと中に上がった。俺は屈みこんで、片足を靴に入れた。その瞬間、ぞわりと背中の毛が逆立った。
望月くんの指が、俺の背骨をなぞっている。
「いっちゃん、そろそろちゃんとした下着つけたほうがいいんじゃないかな。同級生の子たちはどうなの? もうみんな下着つけてるんじゃないの? いっちゃん発育いいほうだと思うからさ、俺心配だよ」
耳元で、望月くんが囁いた。
俺は息を呑んだ。体が動かない。望月くんが俺の手から紙袋を奪う。
「これ、どうするつもり? どこに持って行くの?」
紙袋からスケッチブックとファイルを取り出し、望月くんが言う。
「あ、あの――」
言いかけて、俺の体は勢いよく後方に引き倒された。後頭部に硬い衝撃が走る。天井が視界に入り、すぐに望月くんの顔が迫ってくる。望月くんの顔は真っ赤で、目が吊り上がっている。
声を上げようとしたら、手で口を塞がれた。
望月くんが覆いかぶさって来る。狭い廊下に倒されて、俺は必死に身を起そうとした。だけど望月くんの力は強くて、片肘だけで俺の肩を押さえつけてくる。
「いっちゃん、いっちゃん、いっちゃん――」
望月くんが唾を飛ばしながら、早口で言う。
「いっちゃん、こっち見て。俺を見て。俺の顔ちゃんと見て」
俺は望月くんを睨んだ。望月くんはだらしなく笑っていた。「いっちゃん、大好きだよ」
ずっと気づかないふりをしていた。島崎先生がカモやえぐっちょ以外の子とも交流を持つよう俺を諭した理由。カモとえぐっちょが俺を避けだした本当の理由。学校で、女子がうざったいほど話しかけてくる理由。俺を見る望月くんの、粘ついた視線。
どんなに目を反らしても、俺が女だという事実は変わらない。
母さんも先生も俺に同性の友達とも親しくしろと言った。カモやえぐっちょは俺を異性として意識するようになった。休み時間になると同じクラスの女子から一緒にトイレへ行こうと誘われる。望月くんは俺に恥ずかしいポーズをとらせて、それをスケッチする。
強い存在になりたかった。女のままでは、それが叶わないと思った。誰にも、何も、俺から奪わせない。
望月くんが体勢を変えようとした隙に、俺は無茶苦茶に足をばたつかせた。望月くんの腹を蹴る。そして望月くんが飛び退いたと同時に身を起こし、三和土に飛び降りた。
「助けて!」
傘立てのバットを差し直す。吸血鬼が現れる。吸血鬼は俺を見上げ、ニッと口角を上げた。牙が光っている。それだけで俺はすべてを悟る。吸血鬼は俺の脇を横切り、廊下へ飛ぶ。俺はへなへなとその場に座り込んだ。
後はただ、背後の音に耳を澄ませていた。
吸血鬼の高笑いと、望月くんの叫び声が聞こえた。それから何かが折れるような音。肉のひしゃげる音。濡れた音。血の臭い。
玄関に戻って来た吸血鬼は何事もなかった顔で、傘立てへと消えていった。
しばらく待って、俺は廊下を振り返った。そこには何もなかった。望月くんは消えていて、スケッチブックもファイルも見当たない。
その夜遅く、母さんは
「途中で雨降って来たから、傘買っちゃった。コンビニのビニール傘って高い~」
とぼやきながら帰って来た。
濡れた傘を傘立てに突っ込もうとして、
「あら、お父さんの傘立て、ヒビ入っちゃってるじゃない」
傘立てには確かに、縦に亀裂が走っていた。
「これって、父さんの傘立てだったの?」
「そうよ。結婚してすぐの頃だったかしらね、お父さんがフリマで一目惚れしたとか言って、買ってきたの」
「全然知らなかった」
「あ、そうだっけ」
母さんは誰もいない居間を覗いて、
「あら、まだ持ち込みから帰ってきてないのね……」
と呟く。それから俺のほうを向くと、
「一花はもうごはん食べたの?」
俺は――わたしは質問に答えず、代わりに、
「母さん、わたし生理になった」
「えー? ついに? おめでとーう」
母さんは嬉しそうだった。わたしがちゃんと女の子であることに、心底安心するみたいな笑顔だった。
それからも時折、怖いことはあった。だけどわたしは怖いことに負けず、大人になった。
あの日以来、吸血鬼には会っていない。
傘立てから吸血鬼 未由季 @moshikame87
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