ベトナムコーヒーが落ちるまで

砂村かいり

ベトナムコーヒーが落ちるまで

「先輩か俺か、選んで」

 今里いまざとくんは、凛とした声で言った。

「このコーヒーが落ちきるまでに、決めて」


 わたしたちの前には、抽出中のベトナムコーヒーがふたつ、置かれている。コーヒーの粉とお湯が入ったフィルターを乗せた、透明の耐熱カップ。

 カップで直接抽出する、本式のベトナムコーヒーだ。

 アルミ製のフィルターで抽出されたコーヒーがたくさんの細い糸を引きながらゆっくり落ちて、カップに少しずつ溜まってゆく。

 カップの底にはコンデンスミルクが絞られている。

「お湯が落ちきったらフィルターをこのように外して、よくかき混ぜてお飲みください」

 このエスニックなカフェに来るたび、店員さんが身振りを交えて丁寧に教えてくれる。


「そんな……」

 お湯が落ちきって一杯分のコーヒーができるまで、1分半くらいだろうか。

 困っている間にも、ベトナムコーヒーは芳醇な香りを立てながらできあがってゆく。


 このお店を教えてくれたのは、今里くんじゃない。湯浅ゆあさ先輩だ。


 大学生活のほとんどを、わたしは先輩への恋に費やした。と言っても、そのほとんどは片想いだった。

 東南アジア研究会というそのサークルは、みんなでエスニック料理を食べに行くことが主な活動で、それ以外は部室でうだうだと取りとめもない話をするのが常だった。

 学祭では毎年、トムヤムクンの屋台を出すのが慣習だった。


 湯浅先輩は、だらけがちな活動にメリハリをつけるために様々な企画を打ち出す副部長だった。

 きまじめでリーダー気質のある先輩は、サークル在籍中にひとりでタイとベトナムとカンボジアを旅行し、その土産話にわたしは夢中になった。

 少し癖っ毛な黒い髪も、お酒に弱いところも、笑うと少年のように無邪気な笑顔を見せるところも、気づけばみんな好きだった。


「サークル内で恋愛関係になるのは、なんか……いかにもって感じがするから」

 潔癖な先輩はそう言って、何度も好意を示すわたしを拒み続けた。

 でも、わたしのことを好きじゃないとか、迷惑だとか、他のひとを探したらとか、そんなことは一言も言われなかった。むしろ、事務的な会話の中にも特別な温もりがあることを感じずにはいられなかった。他に恋人がいる様子もなかった。


 だからわたしは、彼がわたしを見るときの瞳の奥に意味を探し続けた。一縷の望みに懸け続けた。

 恋のベクトルが自分にもひとつ向いていることに、気づかないふりをして。


 ある日突然、恋は報われた。わたしを呼びだして告白してきたのは先輩のほうだった。4年生が引退し、サークルの部室に来ることもなくなった冬の日に。

「ずっと、気持ちに蓋をしてきたけど」

 学生カップルのデートスポットとして有名な公園で、ポプラの樹にわたしの身体を押しつけて震える唇でキスされたとき、致死量の幸福に、このまま死ぬんじゃないかと本気で思った。


 先輩の暮らす小さなアパートで、わたしは処女ではなくなった。

 わたしを「亜子あこ」と呼び捨てるようになっても、先輩の丁寧な関わりかたは変わらなかった。

 実家暮らしのわたしを、会うたびに必ず家まで送り届けてくれた。おかげで両親の心象も良く、特に母は先輩をいたく気に入った。


 ふたりの蜜月は夢見るように過ぎて、春が来た。先輩は卒業し、全国転勤のある大手メーカーに就職した。最初の勤務地は静岡県浜松市だった。

「新幹線に4時間乗れば会えるから」

 そう言ったのは先輩なのに、デートはなかなか実現しなかった。


 営業部に配属された先輩は常に多忙で、たまの休みは溜まった家事を片付けて死んだように寝るのが精いっぱいとのことだった。毎晩していた電話は3日に一度になり、一週間に一度になり、やがてとうとうLINEの簡素なメッセージだけになった。

「ごめん。亜子に会いたいのに、全然余裕なくて……」

「それならわたしが行きますから」

 就職活動の傍ら、バイトをして交通費を稼ぐのは容易ではなかった。それでも、節約を重ねて往復の新幹線代を捻出し、わたしは先輩の住む町へ向かった。


 久しぶりに会った先輩の顔に、喜びよりも戸惑いの割合を大きく感じたのは気のせいだろうか。

 一緒に浜名湖を散策し、名物の鰻重を食べている間にも、先輩の仕事用携帯には業務連絡の電話やメールがばんばん入ってきた。

「落ち着かなくてごめんね」

 先輩は何度も謝ったけど、むしろわたしがいることが先輩を落ち着かなくさせているのではないか。それを悟ったとき、心の奥がしんと冷えた。

 もうわたしからは会いに来れない。来ちゃいけない。帰りの新幹線の中で、流れる車窓を見ながら苦い涙がこぼれた。


 お盆の期間、先輩は帰省してきた。業務用ノートPCと、たくさんの資料の束と一緒に。

「プロジェクトがね、忙しすぎるんだ」

 駅まで迎えに行ったわたしに、先輩は言いわけめいた口調で言った。少しやつれたようだった。

 まじめな先輩は、毎年欠かさないという祖父母の墓参りとその後の親戚の集まりには行くことができたようだった。

 その翌日のデートでは、前回に増して心ここにあらずの様子で水族館を回った。

 胸ポケットのスマートフォンが振動するたび、「ちょっと」と言ってわたしの傍を離れ、駆けてゆく。

 電話の相手とビジネス口調で話し、ぺこぺこと礼までしている先輩の姿を遠目に見ながら、わたしは彼の心の中に自分の居場所がないことを悟った。

 夕食のあと、小さなラブホテルで慌ただしくわたしを抱くと、先輩はその足でJRの駅に向かった。

 デートをしたという実感が、まるで持てなかった。


 内定が出た日の夜、わたしは先輩に電話した。LINEで済ませたくなかった。

「おめでとう」

 3度かけ直してやっとつながった先輩は、疲れのにじむ声で言った。

 沈黙ができた。

「……それだけですか?」

 わななく唇を動かして、とうとうわたしは言った。

「えっ」

「お祝いしてくれないんですか?」

「……いや」

 先輩は諾否だくひのわからない返事をし、黙りこんだ。

 わたしは全神経を研ぎ澄まして、スマホの向こうの先輩の気配に耳を澄ませた。海の底にいるような気持ちがした。

「俺だって亜子に会いたいよ」

 たっぷりと沈黙したあと、先輩は言った。

「でも、仕事が忙しすぎてなかなか、こう……恋愛モードに切り替わらないっていうか……」

 すうっ、と目の前が暗くかすんだ気がした。

「いつになったら、切り替わるんですか」

 涙声になった。

「いつになったら落ち着くんですかっ」

「亜子」

 何か言いかける先輩の声を遮断するように通話ボタンを切って、ひとしきり泣いた。


 また次の冬が巡ってきた今に至るまでわたしたちが会ったのは、あの2回だけだ。

 先輩は、そのまじめさゆえに会社人間になってしまった。いわゆる社畜というやつかもしれない。

 そしてきっと彼は、わたしの恋人としての自分よりも、その社会的属性を愛しているのだ。

 消耗しながらもプライベートを仕事に捧げる日々に、充足しているのだ。


 今里くんには、すべて見抜かれていた。

 わたしが片想いを実らせたことも。それなのに、遠距離恋愛がうまくいっていないことも。

 ――今日が、わたしにとって大切な日であることも。

「そもそも誕生日だろ、今日。なんで会わねえんだよ、土曜日なのに」

 まるで自分のことのように悔しそうに顔を歪ませる。

「内定が出たときも電話で終わっちゃったもん、無理だよ」

 みるみる溜まってゆくコーヒーを見ながら、わたしはかすれた声で答える。


 そう言いながらも昨夜、先輩に予告はしておいたのだ。あの電話以来、連絡するのは初めてだった。

「今里くんに呼びだされました。明日の15時、あのベトナムカフェに」

 たったそれだけをLINEに打ちこんだ。

 意外にすぐに既読はついたけれど、今に至るまで返信はない。


 でも、先輩には伝わったはずだ。わたしが先輩を、試しているということ。

 先輩と結ばれた春休み、彼の部屋でコーヒーをすすりながら、彼はぼそりとつぶやいた。

「今里ってさ、亜子のこと好きだよ。たぶん」

 わたしだって気づいていた。いつだってさりげなく私の隣りをキープする今里くんの気持ちに、気づかないでいられる方が難しかった。

「あいつとふたりきりになったりしないでね」

「しませんよ」

 先輩が垣間見せた独占欲が愛おしくて、その首に腕を巻きつけると、彼はわたしを優しく押し倒した。


 あの日から1年も経っていないのに、わたしはこうして今里くんとふたりきりで会っている。

 心の距離は、すっかり今里くんと近づいてしまった。

 あの電話の次の日、誰もいない部室で先輩の面影を探してこっそり泣いていると、突然ドアが開いて今里くんが入ってきた。

 急なことに涙を止めることもできないまま沈黙していると、彼はしばらくわたしを見つめ、

松永まつなが、キスしていい?」

 と訊いたのだ。

 ずっと見守っていてくれていた瞳が目の前で揺れていた。

 わたしは、拒むことができなかった。


 今里くんは、何も言わずに傍にいてくれた。このカフェや大学近くの公園で、わたしたちはたびたび会った。

 自分から呼びだしておいて何も話さずに黙りこんでいるわたしに、ただ身を寄せてくれていた。それは、泣きたくなるほどの安心をもたらした。

 別れ際にはいつも、目線だけでわたしに確認をとると、そっと小鳥のついばむようなキスをした。

 カラーリングのダメージで痛んだ髪に、シルバーのネックレス。見た目はチャラそうなのに、一途で熱い心を持つ今里くん。

 ずっと求めていた、まっすぐな温もり。確かな恋の手触り。

 今里くんがいなければ、わたしはわたしを支えることができなかっただろう。

 ねえ――わたし、まだ先輩の恋人なのかな。

 目の前の優しさに手を伸ばすのは、いけないことなのかな。

 どっちつかずの自問の日々を送っているうちに、今里くんがとうとう痺れを切らしてしまったのだ。


 既に、15時15分。遅刻だよ、先輩。もし来てくれるならの話だけど――。

 アルミのフィルターから、コーヒーは落ちてカップに溜まり続ける。

 やがて、糸を引いていた液体は水滴になり、ぽたん、ぽたんと水面を打ち始めた。まるで、小さな水琴窟すいきんくつみたいに。

「松永、決めて」

 ざらりとした低く優しい声で、今里くんが促す。

「大切にするから、俺」

 ぽたん。ぽたん。

 わたしは息を詰めて、彼の肩越しに店のドアを見つめた。

 もし、次の瞬間に先輩が入ってきたら。

 11時までに新幹線に飛び乗ってくれていたら、ぎりぎり間に合うはずだ。もし来てくれたなら、わたしは……。


 ぽたん。ぽたん。

 水滴はどんどん小さくなって、やがて最後の一滴が落ちる。

 ――ぽたっ。

「わたし……」

 そのとき、店のドアががちゃりと開いた。




【完】


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ベトナムコーヒーが落ちるまで 砂村かいり @sunamura

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