小休止

 街外れにある小さな喫茶店、風鈴堂。アンティーク調の店内にはゆったりとした音楽が流れ、珈琲豆を挽く音とその香りがしていた。今日はその中に混ざって、甘い香りが漂っていた。冬場の寒いこの時期には、一杯の温かいココアがとても美味しい。私はカウンター席に座りながら、冷えた手を温めるようにカップを持つ。


「この季節のココアは美味しいですね」

「確かにそうですね」

「しかも、月村さんの特製ココア。蜂蜜とシナモンと豆乳でしたっけ?」

「えぇ。なので、家でも簡単に作れますよ」

「今度自分でも作ってみます」


 クリスマスも近いのかお客さんはほとんど来なくて、ここ最近は静かに時間が過ぎていた。豆の種類を教えてもらったり、器具の使い方や注意点なども教わった。それでも時間が余った時は「好きに過ごしてもいい」と言われていたので、お店に並んでいる文庫本を読んだりしていた。置かれている文庫の種類は様々で、日本人作家はもちろん外国人作家も置かれていて、聞いたことのある題名も多かった。そしてその中には、つい最近新しく発売された藤田さんの小説も並んでいた。


 あの出来事の後、藤田さんは新作の小説を発表し、この風鈴堂にもわざわざ届けに来てくれた。寝てしまったことに対する謝罪と、感謝の言葉を。「はっきりとは覚えていないが、あの日あなた達にお世話になった気がする」と、彼は言い残した。


「それにしても、少しですが覚えてることもあるんですね」

「印象が強いこと程、記憶が消えても潜在意識の方で覚えていることもあるのですよ」

「そうなのですか?」

「たまに聞きませんか? 運転は頭で覚えるものじゃないって」

「私の父もたまに言ってました。免許を取るまではわからなかったのですが、今では本当にそう思います」

「無意識にやってることは、ほとんど覚えていなかったり意図していなかったりします。彼が小説を持ってきたのも、恐らくそうでしょう」

「なるほど。ありがとうございました、月村さん」


 藤田さんもはっきりとは覚えていないだけで、無意識では私達のことを覚えていたということなのだろう。そうなのだとしたら、少し嬉しいと思っている私がいた。


「おや、誰か来たようですね」


 月村さんがそう呟いて振り向くと、丁度カランというドアベルの音が聞こえた。また誰かが、この街外れの喫茶店に迷い込んできたのだろう。今日はどんな物語が語られるのだろうか。




「いらっしゃいませ。お好きな席におかけください」

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