猫は猫山へと消える

吉岡梅

猫は猫山へと消える

 小学生の頃に住んでいた地域には「猫山ねこやま」と呼ばれる山があった。正式な地名というわけではない。山の一部が猫の顔の形に見えるのだ。なんでもその昔、持ち主のお爺さんが孫を喜ばすために、一部にだけ別の樹木を植えたらしい。当時、仲の良かった渡辺わたなべくんの家に遊びに行く途中にそんな事を教えてもらった。渡辺くんが指さす山を見ると、確かに山の一部だけ不自然に色が違った。やや不格好だが、猫の顔の形に見えなくもない。


 渡辺くんは、背は小さいがとても足の速い子だった。小学生の頃に足が速いということは、普通はモテる。だが、渡辺くんはちょっと違っていた。妙に大人びていたというか、不思議な雰囲気をまとっていたためだろうか。怪談話や不思議な話など、皆が怖がったり、ムキになるような話で盛り上がっている時にも、一人だけなにか超然とし、ふんふんと頷いて聞いているだけだった。うまく言えないが、私たちよりも少しだけ浮かんでいるような子だったのだ。そんなところが、私以外の女子たちの「好き」の対象からは外れていたのかもしれない。


 4年生の頃、私は渡辺くんと一緒に猫山に向かったことがある。きっかけは私の家で飼っていたミーという猫が行方不明になった事だった。ミーは物心ついたときから家にいたお婆ちゃん猫だ。左の耳の先だけが黒く、あとは真っ白な猫だった。厳密に言うともう一カ所だけ白くない箇所があったが、それは私がプレゼントしたえんじ色の首輪だった。首輪をしている飼い猫とはいえ、外飼いをしていたので、数日の間姿が見えなくなることは良くあった。だがそのときは、1週間近く姿を見せていなかったのだ。


 ミーと仲が良かった私はとても落ち込んだ。そして、給食の時間にポロっとその事を渡辺くんに話したのだ。渡辺くんはいつものようにふんふんと聞いていたのだけれども、ふいにこんな事を口にした。


芙佳ふみかさん、たぶんミーは猫の墓場に行ったんだよ」


 墓場という言葉にどきりとした。私は、心のどこかでミーは死んでしまっているのではないかという思いを抱いていた。それだけに渡辺くんの言葉は私の胸を深くえぐった。だが渡辺くんは、そんな私の様子には気づかずに、淡々との答えを説明するように言葉を続けた。


「猫って、かっこつけな所があるでしょ。だから、死んでいる姿を見られたくないんだよ。もうすぐお迎えが来るな、と感じると、自分で姿を消しちゃうんだ。その時に猫が行く場所が、あの猫山なんだよ」


 私は寂しい山道をひとり歩くミーを思い浮かべた。それだけで涙が出そうだった。今も猫山へと向かって歩いているのだろうか。いや、何も死んでしまいそうだとは限らない。単に迷子になっているのだけなのではないか。そうであって欲しい。


 そんな思いが顔に出ていたのか、渡辺くんは彼にしては珍しく、ためらいがちに声をかけてきた。


「大丈夫? そんなに心配だったら、一緒に猫山を見に行ってみようか。ひょっとしたら、そこにいるかもしれないよ」


と。


###


 その日の放課後、私は自転車で渡辺くんの家へと向かった。かごの中には、ミーが見つかった時のために借りた姉のトートバッグが入っている。バッグの中には、何枚かタオルを入れておいた。


 5分ほど自転車を走らせ、潤井川うるいがわにかかる御先橋おさきばしを渡れば渡辺くんの家に着く。渡辺くんは既に外に出て待っていてくれたようで、そこからは歩いて猫山方面へと向かうことになった。


 田圃と養鱒場ようそんじょうの脇の道を進み、大倉川おおくらがわに突き当たると、丸木橋がかかっている。太い木が3本並んでいるだけの簡素な橋だ。渡辺くんは慣れているのかすいすいと渡っていくのだが、私はちょっと怖かった。下に流れている川は、そんなには深くは無さそうだが、そこそこ流れが急だ。


 既に渡辺くんは向こう岸へとたどり着き、こちらを振り返って不思議そうな顔をしている。他の男子たちのように、からかってくれたり、心配そうにしてくれるのであれば、こちらも文句を言ったり怖がったりできるのだが、あんな顔をされては、覚悟を決めて渡るしかなかった。私はできるだけ平静をよそおって、体を横向きにしてじりじりと橋を渡った。


 橋を渡って小径を少し先へと進むと、岳境寺がくきょうじというお寺の脇道に出た。渡辺くんが言うには、猫山へはこのお寺の裏手から入っていくそうだ。境内では住職さんと思しきお坊さんが一人、竹ぼうきを手に掃除をしていた。


「こんにちは」

「はい、こんにちは。珍しいね、こんな場所に子供が2人だけで」


 私と渡辺くんが挨拶をすると、お坊さんは掃除の手を止めて話しかけてきた。


「実は、猫山の方へと行くつもりなんです」

「猫山? ああ、裏手の佐野さんの所の山かな。あんなところに何しに行くんだい?」

「ちょっと用事がありまして……」


 なんとなくミーの事を言うのは気が咎めたので、曖昧な返事をした。お坊さんはちらっと私の手にしているバッグを見ると、ひとつ咳ばらいをした。


「あの猫山なんだけどね、どうして猫の顔の形をしているか、聞いたことはあるかい?」


 お坊さんが改まった様子でそう切り出したので、私は渡辺くんの顔を見た。渡辺くんは、いつものように淡々とした顔で黙ってお坊さんを見つめている。お坊さんは、私たち2人の顔を順番に眺めると話をつづけた。


「実はあの場所はね、猫の墓場なんだ。聞いた事があるかな? 猫というのは死期を悟ると、人目につかない安全な場所へと向かうんだ。この地域ではその場所が、君たちの言う猫山だ。たくさんの猫が同じ場所で死ぬので、いつしかそれが肥料となって、その場所の木だけが他とは違う育ち方をするようになっていったんだ。それであの場所だけ色が違って見えるんだよ」


 私は思わず息をのんで口を挟んだ。


「お爺さんが違う木を植えたから色が違うんじゃなかったんですか?」


 お坊さんは私の目を見て腕組みすると、自分の顎をひとつ撫でた。


「そういう話も聞くけどね、実際は違うらしいんだよ。あまりにも沢山の猫がそこで眠りにつくからだろうかね、不思議なことに、猫の顔の形に見えるように木々が育っていったんだ。誰かがわざわざ猫の顔の形に木を植えたわけじゃあないんだよ。怨念という奴だろうかねえ。怖い話だよ。だから君たちもね、あまりあそこへは近寄らない方がいいと思うよ」


 お坊さんはそう言うと、竹ぼうきを手に境内の方へと帰っていった。真偽はともかく、その話は私を怖気づかせるには十分だった。


「どうしよう渡辺くん、行かない方がいいって……」


 不安になった私が尋ねると、渡辺くんは軽く首を振っていつものように淡々と口を開いた。


「あれは嘘だよ。岳境寺のご住職は、僕たちに山に入って欲しくなくて怖がらせてるだけさ」

「そうなの? でも、やっぱり小学生2人だと危ないのかな」

「ううん、芙佳さんが持ってる、そのバッグのせいだと思うよ」

「このバッグが?」


 思わず手にしたトートバッグに目をやる。


「うん。このあたりは山菜が良く取れるんだよ。ゼンマイとかワラビとかこしあぶらとか。それでね、勝手に山へ入って根こそぎ採って行っちゃう人も多いんだ。ご住職は、そういうのを心配して僕らを脅かしてみせたんじゃないのかな」

「そうなんだ」

「うん。たぶんね。理由はともかく、あれは嘘だよ。僕は話しているのを聞けば、それが嘘かどうかは、なんとなく分かるんだ」


 思わず渡辺くんの顔をしげしげと眺める。その視線に気づいたのか、渡辺くんは珍しく目を逸らした。


「猫山へ来ようって行ったのも、芙佳さんが心配してるのが嘘じゃないってわかったからだから」

「え」

「そういうことだから。じゃあ、行こうか」

「あ、うん」


 渡辺くんがさっさと歩いて行ってしまうので、私は慌ててその後を追った。


###


 お寺の裏手から山へと入り、枯れ枝や小石を避けながら山道を進む。次第に周りの木々の本数が増えてくる。麓から見た猫山のあたりは杉の木ばかりのように見えたが、この辺りはまだクヌギが多い。渡辺くんが、夏休みには男子たちがカブトムシを捕りに来る場所だと教えてくれた。


「ねえ渡辺くん。猫山まではあとどれくらいかかるの」

「そうだなあ。1時間はかからないと思うけど、芙佳さん平気?」

「うん。大丈夫」


 正直なところ少し不安はあったが、ミーがいるかもしれないと思うと、そんな事は言ってられないと思った。私がしっかりしなくてはいけない。口を真一文字に結んで頷くと、渡辺くんも頷き返した。


 私たち2人は黙々と山道を登る。木々の種類は少しずつ変わり、杉の木が整然と並ぶようになってきた。花粉症の姉が見たらそれだけで倒れてしまいそうだ。おでこには汗が噴き出してくる。私は手のひらで拭って先を見やった。目に見える限りは、まだまだ同じような杉の木が続いてる。猫山の目印となるような、他と違う木は見当たらなかった。


 目を凝らして遠くを見ていると、不意に近くでガサッと音がした。驚きのあまり、思わず声が出る。音がした方を見ると、脇の小径から籠を背負ったお爺さんと女の子がひとり出てきたところだった。お爺さんはギョロリとこちらを睨んで怒鳴るように話しかけてきた。


「わいりゃ、こいなとこで何してる。どけ行くつもりだ」


 がっちりとした体に、年季の入ったねずみ色のつなぎを着ている。顎には白髪交じりの無精ひげを生やし、手には山菜を採りにでもきたのだろうか、土の着いた鎌を持っている。私は思わず渡辺くんの服をぎゅっとつかんだ。


「猫山へ行く途中なんです」


 渡辺くんがいつものように淡々と答えると、お爺さんと女の子は顔を見合わせた。


「小僧2人で猫山までんでくだぁ? なんでだ?」

「実は飼っていた猫が迷子になってしまったんです。それで、ひょっとしたら猫山の方に来ているかもしれないと思ったんです」


 私は渡辺くんの陰に隠れるようにして正直に答えた。


「ほうか。猫が。そらご苦労なこったな。ほんならついでに、道々生えてるわらびだのコシアブラだのを採ってきゃいいらに」


 お爺さんは大声のままだが、別段とがめるでもなくそんな事を言った。さらに隣の女の子に声をかける。


「ほれ、ビニールあったろ。ひとつ分けてやれ」


 女の子は頷いて、パーカーのポケットから折りたたんだビニール袋を取り出すと、それを丁寧に広げて私に渡してきた。ありがとうと声をかけて受け取ると、女の子は私の目をじっと見つめてくる。


 なんだろう? どこかで会ったことがある子なのかな? そう思って女の子をまじまじと眺めてみる。同じ小学生くらいだろうか。少しくすんだ白いパーカーに、白いジャージ。おかっぱ頭には白い帽子まで被っている。帽子や服は汚れてはいるものの、全身真っ白だ。しかし、その顔や姿に特に見覚えは無かった。


 すると、不意に女の子が口を開いた。


「猫山は猫の墓場だという噂があるよね。でも誰も確かめたことは無いの。なんでか知ってる?」


 その声は、女の子の見た目とはそぐわない、低く落ち着いた声だった。私は驚いて首を振る。


「猫は死ぬ姿を見られたくないの。もし見られたら、そういう人を残らず呪い殺すから。だから誰も確かめた人がいないの。見た人はみな死んじゃうからね。それでも行くの?」


 女の子はまっすぐに私の目を見つめたままそう言った。相変わらず低く落ち着いた口調のままだったが、私は背筋に冷たい物を感じた。


「わりゃ、何を怖がらせるような事言い出すだ。そんな馬鹿な事あるわけにゃーずら。小僧ども、わりいな。心配ないからゆっくり気を付けて行ってくりょ」


 お爺さんは、女の子の首根っこを掴むようにして頭を下げさせた。そして、それじゃあなと言うと、山を降りて行った。女の子はしばらく立ったままこちらを見つめていたが、お爺さんにどやされると歩き出した。が、渡辺くんとすれ違う時に、何やらぽつりと囁いているようだった。


 私と渡辺くんは、2人の姿が見えなくなるまで、その場に立って見送っていた。正確に言うと、渡辺くんが動こうとしないので、私もそこにいるしかなかった。貰ったビニール袋をガサガサやっていると、やっと渡辺くんが口を開いた。


「芙佳さん、山を降りよう」

「えっ? でも……」


 突然の事に戸惑っていると、渡辺くんは断言するように力強く言った。


「あのお爺さんは、嘘をついている」


 さらに私の方へ向き直ってまっすぐに目を見て続ける。


「そして、あの女の子は嘘をついていない」


 渡辺くんはそう言うと、私の手を引いて山を降り始めた。良くわからないが、続くしかない。渡辺くんの手をぎゅっと握ると、黙って山道を引き返した。 


###


 岳境寺のあたりまで戻って来ると、日が暮れ始めていた。あのまま登っていたら、ここに着くころには真っ暗になっていたかもしれない。境内にはお坊さんの姿はもう見えない。私は隣を歩く渡辺くんの顔を見ながら、ミーの事を考えていた。


 ミーはいったいどこに行ってしまったのだろう。猫山は確認できなかったが、あそこには行っていないのだろうか。そして、ミーの事も心配だが、あの猫山、――猫の墓場とはいったい何なのだろうか。皆が皆、あやふやな事を言っている。いったい、本当の所はどうなんだろうか。薄闇の中、ぼんやりと考えながら大倉川のほとりまで歩いて来たところで、渡辺くんに急に肩を掴まれた。


「芙佳さん、危ない!」

「え?」


 我に返って前を見ると、大倉橋にかかっている丸木橋がずれ落ちていた。足下でには、ごうごうと音を立てて流れる川が口を広げている。私は、思わずしゃがみこんでしまった。あのお爺さんの言うように、ゆっくりと猫山を確認してから降りてきていたのならば、もう少し日が落ちていたのならば、気づかずにそのまま落ちて流されていたかもしれない。


「ありがとう、私、ぼうっとしてて」

「うん。怪我しなく良かった。あの子の言っていた通りだったよ」

「あの子? あの子って、白いパーカーの子?」


 私は渡辺くんに手を引いてもらって立ち上がると、ズボンのお尻をパンパンと払った。


「うん。あの子だよ。すれ違う時にね、『芙佳さんを守って』って言われたんだよ」

「え、私を? 守るって? あの女の子が。……なんで」


 渡辺くんはわからないというように軽く首を振る。そのとき、近くで耳慣れた鈴の音が聞こえたように思えた。そして、私たちは違う道を迂回して大倉川を渡り、家路へと着いた。


 その後も結局、ミーは見つからなかった。しばらくの間、学校から帰ってきてはミーの餌を置いてあった場所やお気に入りの場所を回っていたものの、どこにもいないという日々が続いた。


 そんなある日、学校から帰ってくると家で渡辺くんが待っていた。学校では渡しづらいからといって差し出したは、えんじ色の首輪だった。


「これ、ミーの!」

「やっぱりそうなんだ」

「渡辺くん、どこでこれを? ミーは?」


 私が勢い込んで尋ねると、渡辺くんはいつものように淡々と答えた。


「昨日、岳境寺の裏山に山菜を採りに行った時に見つけたんだ。見つけたのはそれだけで、周りにミーはいなかったよ」

「そう。そうなんだ」


 私は渡辺くんの目をじっと見る。そしてありがとうとお礼を言うと、渡辺くんは軽く首を振って帰って行った。


 私は渡辺くんのように嘘を見抜けない。だから、本当の所はわからない。でも、なんとなく、そのときの渡辺くんは私に隠し事をしているように思えた。同時に、その隠し事は、私のための隠しごとのようにも思えた。


 でも、それを聞くことはできなかった。私は手にしたミーの首輪を伸ばしてみた。懐かしい鈴の音がちりん、と鳴った。


###


 あれから十数年経ち、成人式に出席するために久しぶりに故郷へと帰った。皆が大騒ぎをする中、渡辺くんとも何年かぶりに再会した。二十歳の渡辺くんは、もう背の小さい男の子ではない。私は渡辺くんを見上げながら、ミーの事や猫山の事を聞いてみた。渡辺くんの返事は、もう覚えてないや。というものだった。


 そうだよね。昔の事だもんね。私が言うと、渡辺くんはにっこりと笑った。それは、あの頃には見たことのない笑顔だった。


 会場から実家へと向かうバスの中、記憶を辿りながら猫山を捜してみた。窓の外には、久しぶりの青々とした風景が広がっていた。その一角に、おぼろげながらに他の箇所とは少し色の違う木々の塊を見つけた。私は、その木々が猫の形に見えるよう願いながら目を凝らした。

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