第十章

 翌朝、再び長老の家で集会が開かれた。そこで村人たちは脱出のために全員を七つの組に分けたのである。

 長老が、信乃が朝食の時に預かったという小夜の文を読み上げる。

「出発は真夜中。追っ手が来ても一人でも多くの者が助かるように、それぞれの道に分かれて行ってもらう。この集会が終わったら、使いのものが巫女姫のところへ来る。夕方小坂靭実と巫女姫を交えて会見する。長老は小坂に『高階につく。』と報告する。その後巫女姫は小坂と会見する。それからここからよくきいてほしいのだが、日が暮れると外にはなるべく出ず、出る場合は口や鼻を布か何かで必ず押さえること。外気は決して吸ってはならぬ。」

長老が読み上げると、比較的若いものが即座に、

「何が起こるのでございますか。」

と問いかけた。その問いかけに長老は、

「文の内容は以上だ。これ以外のことは書いてござらん。巫女姫殿には巫女姫殿の策がおありだろうて、我々はそれに従うのがよかろう。」

それで、小夜が何を考えているのか得心はいかぬものの、長老の言葉に一同うなずきあった。

 昼過ぎまで時をかせいで細かい打ち合わせをし、解散の段になって「それでは。」と、長老が言おうとすると、巫女姫一族の者が「お待ちください。」とそれを制した。

「何だ。」

「巫女姫様と信乃は、一体どこへ入られるのですか。どこへもふりわけておられませぬ。」

 皆が一斉にざわついた。別に忘れていたわけではない。皆はてっきり、二人は風に乗っていくと思っていたのだ。村人達という枷が外れれば、後はどこへでも自由に風で行くことが出来る。

「巫女姫殿と信乃は、皆の中には入らないそうだ。皆が行った後、信乃と二人で風に乗っていくそうだ。」

長老の言葉に、一同は安堵の息をもらした。やはりそうであったかというように。しかし、長老に尋ねた一族の者は、何か納得行かぬというような顔をしていた。

「それから、わしは残る。」

皆が一斉に長老の方を見、先程よりもひどくどよめいだ。

「長老!」

「何故です、長老!」

皆が次々と問い正す。長老は落ち着き払って答えた。

「わしは足が悪い。皆の足手まといになる。それに、生まれたときから暮らしてきたこの先祖伝来の土地を捨てて、老い先短い人生をわざわざ生きたいとも思わぬ。ご先祖様方にも言い訳が立たぬ。」

長老は、村の責任者、長である。彼はその立場上、この村を動くわけにはいかないと考えたのだ。

「でも長老、足が悪いからというなら、皆で交代でおぶって差し上げます。長老がいて下さらなければ、皆のまとまりが取れぬではないですか。」

「皆別れて村を去っていくのだ。それからはまとまりも何もなかろう。わしはもう決めたのだ。気にせずに、自分達の助かることだけを考えよ。そして両軍のほとぼりが冷めたら、この村にまた戻ってくるがよい。」

 本気なのだ。

 もう決めたのだ。

 長老の顔を見れば、その心は分かる。誰もそれ以上は言えず、あるものはうつむき、あるものはくちびるをかんだ。

「それでは、これにてすべて決まったものとする。わしと小夜とは女神山の社で落ち合って、頃合を見計らって小坂靭実に会見する。皆は見張りの兵達に気付かれぬよう準備せよ。夜中、合図とともに村から逃げよ。よいな。」

 皆、うなずいた。

 しかし、決して割り切れたわけではなかった。

 今夜突然、長く暮らした故郷を捨てるのだ。心残りするのは当たり前。しかし、皆生きねばならない。

 それは、敬愛する巫女姫小夜の願いでもあった。

 皆が幸せにならなければならない、と。


 夜の準備があるので、小夜と信乃は先に社殿へ向かった。長老は、夕方に女神山の麓の小夜たちの家に来ることになっている。そして小坂靭実と会見するのだ。社殿へ向かう途中、後ろから、「どうするのか決まったのか。」と靭実が問うたが、「夕刻には返事をする。迎えに行くから待っていよ。」とだけ答えた。

 社殿に着くと、小夜と信乃は仮殿を通り抜けて、真っ直ぐ本殿へと向かった。小夜が扉を開けて入ろうとするのに、信乃は石段の下に立ち止まってじっと小夜を見上げている。

「どうしたのだ。入らぬか。」

小夜が声をかけると、信乃は眉根を寄せて、

「入ってもよろしいのか。」

と尋ねた。信乃は本殿に入ったことがない。信乃のみならず、巫女姫以外に入ることを禁じられているのだ。

「かまわぬ。非常の時だ。」

信乃は戸惑いつつも中に入った。真っ暗だ。ただの暗闇ではない。あくまでもどこか厳粛で、不思議な感じがした。後ろでパタリと扉が閉まる。すると、目の前でぽうと灯りが灯った。目の前で灯りをつけたのは小夜であった。それで信乃が慌てて後ろを振り返ると、後ろにいたのは楓であった。信乃は驚いた。まさか自分のみならず、楓までがいようとは。

「ここは、密会するには最適の場所だ。」

小夜が言ったので、また信乃は小夜の方を見た。――非常の時――返す言葉もなく、信乃は部屋の中をキョロキョロと見回した。目の前の祭壇は意外と簡素なものだった。それよりも、両側に置かれた書物の数。一体誰が何のためにこれだけの書物をここへ持ち込んだのか。

「何ですか、この書物の数は。」

「歴代巫女姫が書き残したのだ。」

「この、書物を、ですか? 姉さまはこの書物を全部読まれたのですか?」

「大方な。半分は修行の仕方などを書いたものだが、そのほとんどを修行時代に巫女姫様に読み聞かされた。」

「修行の…。それでこの書物をどうなさるのですか。」

「処分する。」

「処…!」

信乃は驚きのあまり言葉がつかえた。

「処分するのですか?」

「そうだ。」

「だって、歴代巫女姫によって書き続けられて来たものでしょう。それを何故――!」

「もういらなくなるからだ。我々は、この村を捨てる。」

「また、戻ってくるかもしれぬではありませぬか!」

「戻ってこない。明日お前がこの村を出るのを最後に、この社の巫女姫は歴史の終わりを告げるのだ。」

信乃はじっと小夜の顔をみつめた。

「どういうことですか。明日お前がって…姉さまも一緒なのでしょう。」

「私は行かぬ。」

「姉さま!」

信乃が叫ぶように言った。続いて何か言い出しそうな信乃を見かねて、楓が小夜の袖をひいた。

「小夜、早くしないと…。」

「ああ、そうだったな。信乃、悪いが続きは後で。」

小夜にそう言われて、信乃は不服そうに口をつぐんだ。

「とりあえず今は、夕方行動に移る前にこれを箱の中に全部入れてしまわねばならない。その作業を手伝ってもらいたくて、ここに呼んだのだ。」

「箱につめたらどうなさるのです。」

「隠しておく。今焼くわけにはいかぬから、すべて終わったら佐助に燃やしてもらうように頼んである。さ、手伝ってくれ。」

 小夜が置いてある木の空箱を引きずってくると、信乃はしぶしぶ手伝い始めた。

 ――私は行かぬ――

 きっぱりと小夜は行った。どういうことだ。よく考えてみたら、村人たちの無事を確かめた後では、小夜の力がないと信乃の脱出は不可能ではないか。なのに、何故信乃一人に行かせようとするのだろう。

 黙々と作業をしながら、楓のほうを盗み見る。楓は一体、いつからここにいたのだろう。どう考えても、我々がここに来る前から、ここにいたはずだ。佐助にしても、燃やしてもらう約束をしたなら、既にここに来て、今の村の現状を見たのではないか。それでは、稲賀のお館に筒抜けなのではないか。しかし、昨日の今日でどうやって連絡をとったのか。まるで、前もって知っていたかのような行動の早さだ。

 まさか、姉上は予知されていたのか?

 いずれにしても、信乃は小夜が何を考えているのかわからなかった。

 盗み見た姉は、ただひたすらにあの無表情な顔で、書物を集めては箱の中に入れる作業を繰り返していた。

 

 夕刻になって、長老が山の麓の小夜たちの家へとやって来た。会見は亡き父の離れで行うことになった。

 長老が上座に座し、そのそばに小夜が座す。間もなく、靭実が入ってきて長老の目の前に座した。深々と頭を下げた。

「早々のご決断、痛み入ります。」

「うん。わしの家でも良かったのだがな、あそこは子供や女がうるさいで、こちらの家を用意してもらったのじゃ。どれ、靭実殿、顔を上げなされ。」

長老に言われて、顔を上げた。

 初めてではない。以前にも一度会っている。五年前、猟師小屋に村人が攻め入った日、小夜の父喜三郎と共に皆の前に歩み出た。小夜の元に行こうとする彼の腹を殴った。

 顔を上げた靭実に、思わず長老は目を細めた。

「義見…朔次郎だな。」

靭実は今さらながらにその名を呼ばれてドキリとした。

「大きく立派になられた。」

懐かしそうに言う長老に、靭実は「失礼ながら」と声を発した。

「今は小坂靭実と申します。」

「そうであった。小坂茂実殿の養子に入られたのであったの。その出世ぶり、このおいぼれの耳にも聞き及んでおる。」

「は。」

 この長老、小夜のような威厳があるわけでもなければ、身分の高い者の様な品なども見られない。しかし、この、いかにも田舎めいた老人には、どこか人を敬わせずにはおかない魅力のようなものがあった。

「今度は高階隆明殿の名代ということだが、高階殿は巫女姫の力をお望みだったな。」

「さようでございます。」

「そこで、村人と二日かけて吟味いたした。小夜の意志も聞き申した。率直に申す。小夜は高階殿の元に行かせることにした。」

 靭実は思わず己の耳を疑った。

 靭実は、小夜はここから一歩も動かぬと言い出すのではないかと思ったからだ。『運命などに縛られる必要はない』と言ったではないかとて、自分を非難した小夜が――。

 靭実は肩の力を抜いた。

 長老が話を続ける。

「高階隆明殿の気性の激しさは有名だ。温和な稲賀殿に小夜の保護をもとめた方が村人の我々の命が危うい。後ろから高階殿にねらわれることになるでな。それに、高階の元にはおぬしもおる。今まで小夜のことを知りながら見てみぬふりをしてくれた稲賀殿には心苦しいが、我々も己が身はかわいいでの。」

長老の言葉をきいて、靭実は思わずじっと長老の顔を見、それから小夜の顔を見た。まだ半分信じられぬが、嬉しさのこみ上げてくるのが分かる。

 そうだ、これで何もかもすべてうまくいく。

「ただし条件がある。」

長老は真面目な顔つきで重苦しく言った。

「我々村人の身の安全を保証していただきたいのだ。」

「村人の?」

「場合によっては、この大木村を捨てて、そちらで面倒を見てもらわねばならぬ。この条件がのめねば、小夜を高階殿の元に行かせるわけにはいかん。」

靭実は重々しく両手を床について、目だけ長老を見上げた。

「我が主君高階隆明は、戦を起こしてでも巫女姫殿のお力が欲しいと申しております。何故にその条件、入れぬはずがありましょう。」

「では、いいのだな。」

「この小坂靭実、命に代えましてもお約束いたします。」

その言葉に、長老はうなずいた。

「ん、決まりじゃ。」

「それでは――!」

思わず体をあげ、靭実は瞳をきらめかせた。

「小夜、信乃に言うて、かための杯の準備をさせよ。」

小夜は静かにうなずいて立ち上がった。

 靭実の後ろの扉を開けて出て行く。少しすると、信乃を伴ってまた入ってきた。

 信乃は長老と靭実の間に盆を置いて座ると、長老と靭実に杯を配し、酒を注いだ。長老と靭実は杯を揚げて互いの目を見た。

「では。」

「交渉の締結を祝って。」

二人は杯に口をつけた。長老が飲み込むのを見止めると、靭実は杯を干した。

「では、わしはこれで失礼する。このおいぼれには夜の遅いのは体に応えるでな。靭実殿はゆっくりやってくだされ。これまでの疲れも、たまっておりましょうからの。」

長老は杯を干して床に置くと、こう言った。信乃はその言葉を聞くと、立ち上がって部屋を出て行った。しばらくして嫁のたきを連れて戻ってくると、信乃とたきに両脇を手伝われて何とか立ち上がった。

「一応、小夜の出立は明朝ということにしてあるが、それでよろしいかの。」

二人に支えられた姿勢で長老は尋ねた。

「有難うございます。皆様のことも国に帰り次第すぐ手配いたしますゆえ。」

「うん。早うしてくれぬと、小夜が一人で舞い戻ってくるかもしれぬぞ。」

「はい。」

「では本日はこれで。ごゆるりとすごされよ。」

靭実は手をついて頭を下げた。長老が二人につかまって足をひきずりながら出て行く。長老の姿が部屋からなくなると、靭実は頭を上げた。と、小夜も立ち上がった。

「すぐ戻る。」

そう言って小夜が部屋を出て行く。しばらくすると、盆に新しい酒をのせて入ってきた。小夜は盆を床に置き、銚子を持って靭実の方へ差し出した。靭実は手の平をこちらに向けて「いや」と辞した。すると小夜は、

「長老の心づくしだ。毒など入っておらん。」

そういって靭実の杯を取ると、自分で酒をついで飲んで見せた。そして、その杯を靭実に返す。靭実は仕方なく、その杯を受け取った。

 儀礼的に、少しくらいなら良いだろう。

 靭実は小夜に酒をついでもらった。

 ぐっと飲み干す。干してから、

「しかし、よく決断したな。」

と言った。

「皆、自分の命は惜しいからな。」

「皆ではなく、お前がだ。」

「ああ。」そう言いながら、小夜はまた酒をついだ。

「私は基本的に力を使うことは嫌いではない。ただ人にいいように使われるのが嫌なだけだ。」

「それなのに、わが主君の元へ参るのか?」

「仕方あるまい。それに、私ももう少し存分に力を使ってみたいのだ。ここにいると、抑えることの方が多い。」

「なるほど。」

靭実は杯を干すと、今度はその杯を小夜の方へ差し出した。

「いらぬ。」

「何故だ。」

「私は本来酒は好きではない。先ほどは、毒見のために飲んだまで。私に遠慮するな。好きなだけ飲め。」

そう言ってまた、銚子を靭実の方へ差し出した。

「傷に障らぬだろうか。」

ふと思い出したように靭実が言った。この前の雪見の宴の時は、焦りに我を忘れて飲みすぎてしまったのだ。

「傷はもう完治しておるはずだ。馬に乗っても痛まぬだろう。」

「ああ。五年前より随分治りが早い。それだけ今度の方が傷が浅かったのか。」

「違う。今度の方が深かった。」

「では何故…。」

「お互い成長したからだ。」

その言葉に靭実はふと動きを止めて何か考える様子だったが、

「なるほどな。」と言葉を吐いた。それから、

「医師がきれいに治りすぎていると言ったが、一体どうやったのだ。」

「気で肉に働きかけ、傷を手で合わせて塞いでいくのよ。傷の深さによってひどく汗をかくので、前後に相当量の水を飲ませねばならない。」

「ふうん。」

靭実は杯の中の酒をゆらゆらと回し、その光の揺れを楽しむように見て、一気に飲み干した。小夜は空になった杯にまた酒を注ぐ。

「小夜。」

「何だ。」

「お前、あの時俺について行かんでよかったと言ったな。」

「ああ。」

「実は俺も、お前を連れて行かなくて良かったと思っていたのだ。あの後、俺の暮らしはひどいものだった。もし、お前を連れて行ったなら、結局はお前の力に頼らずにはおかなかっただろう。」

小夜はじっと靭実の様子を見守る。靭実は瞼が重そうだ。

「…これくらいの酒で、酔う、などと、疲れておるのかな。眠い…。」

「疲れておるのか?」

「ああ、疲れて…いる。あの日…から、ずっと、戦ってきたのだ。戦場や、己自身と…。心の休まる、時の、なかっ…。」

カタンと音を立てて、杯が靭実の手から落ちた。

「おかしい。毒は…入っていない…は…ず…。」

靭実の体が床に倒れた。意識が遠くなる。確かに、毒は入っていない。しかし…。

 小夜は落ちた杯を拾い上げた。

「疲れておる、か。しかし、それがお前の運命なのよ。私が巫女姫であらねばならぬようにな。死ぬまで戦い続け、お前は、修羅の道を歩んで行かねばならぬ。永遠に、心休まることがない。それが、お前の運命なのだ。」

小夜は立ち上がり、上着を脱いで靭実の体にかけた。

「死にはせぬ。一生に一度、底の底まで、眠るがよい。」

小夜は靭実に話しかけると、灯りを消し、静かに部屋を出て行った。

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