第八章
山を越えた後、身寄りのない朔次郎にとって、そこからが過酷な世界であった。つてもないから仕官もかなわぬ。村は村人の結束が固く、朔次郎の入り込む隙などなかった。ろくな金もないから宿も借りられぬ。何日も野宿が続く。戸外の夜は、風が身を切るほど冷たく、ろくに寝られない。
見通しが甘かった、と、朔次郎は思った。
しかし、今さら引き返せるわけがない。帰るところなど、もうないのだから。
食べるものもろくになく、次第に頬がこけ、目がくぼむ。乞食のような真似をした。姿が荒み、心も荒んでいく。他人のものに何度も手をだすようになった。みつかれば、ボロボロになるまで殴られた。
そんな生活が、三月も続いたろうか。
やがて春になり、気温も高くなって、幾分過ごしやすくなってきたものの、その頃にはもう、以前の朔次郎ではなかったのだ。ガリガリの体に、目ばかりがギラギラした、野生の狼のようであった。
高階のお館からそう遠くない村の空き家を寝床にして、何とか毎日を暮らすようになった。そんなある日のことである。
朔次郎はいつもの様に、村の家に盗みに入った。盗んだのは米一つかみ。村人達は盗みの被害が著しいので、朔次郎の動きを見張っていた。ある家の裏の小屋に入ったので、出てきた所を袋叩きにしようとした。
ところがである。
朔次郎は最初に襲い掛かった村人をひらりとよけた。小屋の横に立てかけてあった棒を拾い、襲い掛かった村人の背をうった。次の村人が襲いかかるがそれを殴り、朔次郎はその勢いを借りて走りぬけた。村人達が後を追いかける。しかしその時、朔次郎は逃げる方向を誤った。田の視界のひらけた方向に走り出たのだ。隠れる所などどこにもない。後ろから束になって村人達が追ってくる。朔次郎は逃げ切れぬと判断すると、道の途中でくるりと振り返った。そして、村人達が襲いかかった。多勢に無勢、決着はすぐにつくと思ったが、意外にもそうではなかった。束になってつかまえようとする村人を、朔次郎は次々とその棒きれを使って倒していった。
その時、木陰で休息を取っている一団があった。一団の中で、馬に乗った男が、じっとその様子を見ていた。
名将小坂茂実である。
小坂は従者を呼んで何事か告げると、出発した。その従者は、一団の方へ走り来ながら叫んだ。
「お前たち、何をしておるか!」
村人達が手をとめて従者の方を振り返った。
「高階家一の家臣、小坂茂実さまのお通りである。道を開けーい。」
村人たちはわらわらと道の両端に分かれ、ひかえた。しかし朔次郎はただ一人、道の真ん中に棒を握りしめたままたたずんでいる。
「そこのお前、ひかえぬかー!」
従者が怒鳴りつけても、朔次郎は動こうとしない。ただやってくる茂実の顔を、ギラギラとした目で睨みつけた。茂実の馬が近付き、従者が一向を通すために端に跪いても動かぬので、村人何人かが朔次郎をつかんで端へと引き寄せた。
茂実は一向のひれ伏す中で馬をとめた。
「大の男が一人の子供をよってたかって何事か。」
茂実が馬上から問うのに、村人達は顔を見合わせた。実力者らしい男が「恐れながら。」と声を発した。
「この者、村はずれの空き家に住み着いて盗みを働いているものにございます。初めのうちは見逃しておりましたが、被害が著しくなりましたので、待ち伏せして証拠をおさえ、ひっ捕らえようとした所、こやつ…。」
男はちらりと朔次郎を見た。朔次郎は村の男に抑えつけられてはいるものの、まだ茂実を睨みつけている。茂実は朔次郎の前まで馬を進めて、彼の目をじっと見た。
「まだ少年だ。名は何という。」
茂実が尋ねても、何も答えない。従者が、「おい、お前、答えぬか。」と声をかけた。けれども、朔次郎は答えない。「おい!」と強い口調で言ってもビクともしないので、茂実は「まあよい。」と言って、村の実力者らしい男に振り返った。
「世が乱れ、戦しげく、何事かあればすぐにお館に加勢してもらわねばならぬ。この様な無駄ごとで争うでない。」
「ですが――。」
茂実の言葉に打たれたように、男は言葉を返した。しかし、従者に「ひかえよ。」と一喝され、黙った。
「しかし、この様な流れ者を放ったらかしておいたのは、全く我々の責めでもあろうよの。ここは一つ、この者をわしに預けぬか。」
男は、茂実の意外な言葉に思わず顔を上げた。
「しかしこの者は…。」
男は不服そうに顔をしかめた。茂実が従者に合図をすると、従者は胸元から小さな袋を取り出して、そっと男の手に握らせた。
「頼む。」
茂実は馬上から男に呼びかけた。
男は「はは。」とひれ伏した。
「縄をかけよ。」
従者に茂実は命令した。従者は二人がかりで朔次郎を縛りあげた。
「では、皆仕事に励めよ。」
茂実が皆に言い渡すと、朔次郎を連れてそこを去った。
これが、茂実と朔次郎の出会いである。
この一年後、その力量、剣の腕を見込まれて、朔次郎は茂実の養子となり、靭実と名を改める。そして、高階隆明の小姓となった。その才覚故に、隆明の寵愛甚だしく、わずか三年あまりで重臣の末席についた。
異例の大出世を遂げたのだ。
戦場での鬼神がごとき勢い、才覚、剣の腕――彼の名はやがて、諸国に知れ渡ることとなったのである。
しかし多くの者は、彼の出自を知らない。
村で盗みをしていた流れ者の少年が、小坂茂実と運命的な出会いを果たした。
知られているのはそこからだけである。
小夜は本殿の闇の中に寝転がっていた。朝の勤めをすませた所なのだが、この本殿は灯りをつけなければ日中でも真っ暗だった。勝手知ったるで、小夜には真っ暗でもどこに何があるか分かるから、考え事をする時などは灯りをつけないのだ。
小夜はこの所毎日、家に帰らず本殿にこもっている。
小夜は、昨夜の寄り合いの様子を思い出していた。
慈五郎親子が姿を消して三日目になった昨日、いよいよ事態は深刻となり、その夜長老の家で寄り合いがあったのだ。小夜は最後に寄り合いの席に入った。たきに案内されて部屋に入ると、部屋に座したものが一斉に小夜を見上げた。小夜は上座にいる長老の席の端の方に腰をおろした。そこが代々巫女姫の定位置なのだ。
長老が簡単に要旨を説明する。内容は信乃が話したのとほとんど変わらない。話が進むにつれて、皆がざわざわと動揺し始めた。
「静かに。」
長老は皆をたしなめた。その言葉でピタリと口々の声が止まる。
「慈五郎はよそ者とはいえ、村の女と結婚し、子までもうけている。先代巫女姫の代から巫女姫に仕え、皆も知っての通り実直な男だ。しかも慈五郎がこの村に来たのは、アレがまだ物心もつかぬ子供の頃。とても、逃げたとは思えぬ。」
皆が長老の話に聞き入り、それぞれにうなずく。
「そこで、巫女姫どの。」
長老は小夜の方を見た。
「はい。」
「そなたはどう思う。」
皆の視線が小夜に集中した。総勢十人余りである。壮年期から老年期にかけての者がほとんどで、巫女姫一族の者も中に混じっている。皆息を飲んで小夜の言葉を待った。
「私は、昨日信乃からその話をきき、夕刻、彼の居所を探してみました。ずいぶん遠く、細い生気で生存しているのがわかりました。ところが――今朝からいくら探しても、慈五郎の気がつかめませぬ。」
「気がつかめぬ。」
「はい。」
「それはつまり――」
長老は探るような目で小夜をみつめた。一座の空気が緊迫している。
小夜は静かにうなずいた。
「そうです。もう、この世のものではないということです。」
その言葉に、今までの緊迫した空気が、瞬時にして動揺の色に変わった。
「それはどこかわかるか?」
「確かなことは分かりませぬが、おそらく、白石山の向こう――。」
「敵国か!」
年寄りの一人が思わず声を上げた。室内の空気がどよっと揺れる。皆が口々に「巫女姫様!」「巫女姫様!」と叫んで、小夜の確かな言葉を求めた。
皆が食い入るように小夜を見る。長老は小夜を見て、
「巫女姫どの?」と尋ねた。
小夜は一点をじっと見据えたまま座している。
「おそらく、何者かに連れ去られたのでしょう。逃げ出したのではありません。しかし、この村と白石山は、慈五郎にとっては自身の庭のようなもの。よもや迷って命を落としたということは考えられませぬ。」
一座の空気が緊迫していた。分かっているのは、慈五郎が死んだということ。一家ごと、誰かに連れ去られたということ。それが白石山の向こうだということ。しかし一体誰が、何の目的で彼を連れ去ったのか。そしてなぜ、慈五郎は死んだのか。
「なぜ、慈五郎が…。」
年寄りの一人がつぶやいた。
「そこまで答えは出せませぬ。ただ…。」
「ただ?」
長老が問い正した。
「近い未来、これがこの村の大事の一因となるでしょう。」
――近い未来、これがこの村の大事の一因となるでしょう――
本殿の暗闇の中で、昨日の自分の言葉を思い出しながら、小夜は自嘲気味に笑った。
何故、すべてを話してしまわなかったのか。「近い未来」などと、「この村の大事」などと誤魔化して。
小夜は寝転がったまま、闇をじっとみつめた。
いや、話しても無駄なのだ。
時は動き出している。それを話すことは、結局、小夜の心を紛らすだけにしかならない。
無駄なのだ。
小夜は仰向けの体を反対向けて、そしてむっくりと起き上がった。両手を前について、正しく座る。その目は、真っ暗な闇をみつめていた。
見えるのだ。
真っ暗な闇の中、遥か遠くの景色が――。
そうだ。手に取る様に分かる。先ほど出発した。――兵の数五十。到着は明日未明となるだろう。
来る――!
あの男がやってくる。私を捕らえんがために。
私を――。
どうして、あの時、見棄てておかなかったのだろう。そうすれば、あの男は死んで、こんなことにはならなかった。
あの時ばかりではない。威嚇に首を絞めたあの時も、一息に殺してしまえば良かったのだ。いや、私は半分本気だったかもしれない。楓がもし邪魔をしなければ――。
楓は忍びのくせに、奴を見逃した。佐助も佐助だ。敵の将、見つけ次第一思いに殺してしまえばよかったのだ。さもなくば、見張りに仲間の一人でも呼んでおくべきではないか。
小夜は歯をかみしめた。拳をつくった腕に力が入る。小夜はうなだれ、床に頭をつけた。手が震えて、その両手で小夜は己の頭を抑えた。
今さら何を迷う。
はやる心で奴に会いに行ったのは誰だ。助けたときに、決断したではないか。
決めたはずではないか。
佐助にしたって、小坂靭実を生け捕れとの命が出ていたのだろう。佐助は大方一人で行動している。お館に兵を呼びに行くのと、忍びの里に見張りの応援を呼びに行くのと同じくらいの時間なら、兵を呼びに行くのが当たり前で、兵を呼びに行ったのだ。その間に靭実が消えたにすぎない。
楓のは、私に対する思いやり。
第一、佐助に奴の存在を隠し、馬まで与えて逃がしたのは誰だ。
私ではないか。
小夜は頭をもたげた。
もうこれ以上の犠牲を出してはならぬ。
小夜はすわり直し、もう一度闇の中を見つめた。
もう決めたのだ。
小夜は立ち上がった。
夕刻近くになって、靭実の一団は、国境いの白石山の麓、大木村の方ではなく、高階領の麓に到着した。ここで休息をとり、夜中に出発するのだ。白石山をはさんで、東に高階領、西に稲賀領大木村が位置している。高階領側は日が沈むのが早い。
今夜は野営だ。
靭実は皆に火を焚き、暖をとっておくよう命令した。
靭実は既に太陽の見えない明るい空を見上げた。真夜中に出発、村に着くと、早朝、行動を開始する。兵達には長丁場になるかもしれぬから、十分睡眠をとっておけと命令したものの、靭実本人はとても眠れそうにない。
小夜は何と思うだろう。
命を救っておいてもらって、恩を仇で返すような真似をする。あいつは大人しくついてくるだろうか。小夜は、稲賀にその存在を知られていると言った。
いや、それよりも、小夜は気を読めるはずだ。我々の存在など、もう気付いているかもしれない。稲賀にかくまわれて、あの村に、もういないかもしれない。
その方がいい。そうすれば、小夜をとらえずにすむ。お館様に一足違いでしたと報告すればいいのだ。
靭実はその唇を噛んだ。
今さら何を迷う。
兵を連れて、もうここまで来てしまっているのだ。決断した。小夜一人のことよりも、お館様と己をとると。だから来たのではないか。それで戦が起こればそれも仕方がない。
もし、小夜が来ないといいはるならば、場合によっては彼女を切らねばならないかもしれない。
暮れ行く空をみつめながら、靭実はなんだかむなしさを感じていた。
あの、五年前の自分はどこに行ってしまったのだろう。あんなに恋い慕った女ではないか。夫婦にまでなって、二人で生きて行こうとまで思った女ではないか。
運命などくそくらえだと言った。小夜に巫女職を捨てさせようとした。それなのに今、その小夜の生まれ持った能力を利用しようとし、運命に縛り付けようとしている。
この矛盾――。
靭実は空を見るのをやめた。
自嘲気味に笑ってうつむいた。中空では、風がうなり始めている。
靭実の目には、もう風の精霊、ハヤテの姿は見えない。気がついたのは、茂実の養子になった頃だった。それまでは、生きることに必死で、気にとめもしなかった。おそらく、小夜ののっていたハヤテを見たのが、最初で最後だった。
「剣の名手」と呼ばれるたびに、自分のは本物ではないと思った。自分の剣は純粋のものではない。餓鬼の如く、手柄をむさぼったのだ。出世、功名心にかられ、両親の仇討ちさえも忘れてしまった。もう二度と、おちぶれたくはなかった。みずぼらしい思いはしたくなかったのだ。生きていくために、必死になって戦い続けたのだ。
その執念の末に手に入れた今の地位を、よもや女一人のために無駄にはできない。五年の歳月を無駄にできない。
――お前、今まで何人人を殺した?――
小夜の声が蘇る。
「そうだ。」
――何人の屍を踏んでのし上がってきたのだ――
そうだ、小夜、お前の言う通りだ。俺は既に、あの頃の朔次郎ではない。そして小夜、それはお前自身にも、言えることではないのか。
あの日、あの時、全く無表情に俺の首をしめた。命を助けたことがお館に知れては困ると。あの、お互いがお互いの心をいたわりあった、あの時と、俺達は全くかわってしまった。そうだ時と共に人は変わる。
誰だって、自分が一番かわいいのだ。
行こう。そうだ、山を越え、巫女姫を生け捕りにするのだ。
靭実は決心した。もう迷うことはない。
夕暮れの風が、冷たく狂おしく吹き抜ける。その声は、何故か、決意したばかりの靭実の心をさいなむのだった。
ちょうどその同じ頃、大木村は見事な夕焼けに染まっていた。
小夜は朝から一歩も本殿から出ていなかったが、夕べの勤めの前にとて、文をしたためていた。書き終えて包もうとすると、外から「小夜。」という声が聞こえたような気がした。現在この村で小夜を呼び捨てにするのは長老のみである。また巫女姫が本殿にこもっている時は、信乃か慈五郎に中継ぎを頼まなければ、たとえ長老であろうとも声をかけることは許されていない。それも、緊急の場合のみである。
小夜は不審に思い扉を開けた。外気がすぐに小夜にふれて心地よかった。建物の影と地面には、夕焼けの色が、冬の愁いた色合いを醸し出していた。
「小夜!」
仮殿の影から呼ぶ声がしたので、ふりむくと、それは楓だった。楓は小夜の方に走り来た。
「よかった。今日はもう会えないのかと思った。」
楓は嬉しそうに笑う。
「さっき外から私に声をかけたのは、お前か。」
小夜の問いに、楓はきょとんとした。
「ううん。前に信乃から、本殿の中へは声をかけちゃいけないって聞いてたから。」
「お前いつからここにいるのだ。」
「半時ほど前からだよ。日が暮れても出てこなかったら、帰ろうと思っていたんだ。」
「用があるのだったら、信乃に頼めばよかったのに…。」
小夜は少し呆れた様子で言った。
「言ったよ。でも駄目だって。」
「お前一体何しに来たのだ。」
「遊びに来たんだよ! 小夜が兄者に『遊びに来い。』って言ったんだろう? 今日は特にこれといった用もないから、ご機嫌伺いに行って来いとうちの長老に言われて…。」
そうであった。確かにそんなことを佐助に伝えた。しかし何かのついででもなく、本当にただ遊びに来るだけとは…。
「く…くくく…。」
小夜は手で押さえて笑いをこらえた。
「何がおかしいんだよ!」
楓はふくれて怒鳴った。
「いや…そうだな、すまぬ。」
何とか笑いを抑えると、目の端に浮かんだ涙をぬぐう。
ふと小夜の緩んだ表情がしまった。
「そうだ、ちょうどよい。」
そういうと、本殿に歩いて行った。中に入って少しすると、紙に包んだものを持って出てきた。
文だ。
「村の者に頼んで、翁殿の所へ持って行ってもらおうかとも思ったのだが、お前が来たのなら、お前に持って行ってもらおう。」
「文?」
小夜の差し出すのを受け取りながら、楓がきいた。
「そうだ。大事な用なのだ。落とすでないぞ。」
「うん、わかった。」
楓は文を胸元にしまいこんだ。
「なるべく早く返事が欲しいんだ。」
「急ぎの文なんだね。」
「そうだ。」
「わかった。じゃあすぐ届けるよ。」
「すまぬな。せっかく来てもらって。」
「ううん。」
楓は首を振った。
「村の人を寄こすより、あたしが受けたほうが早い。ちょうど良かったよ。」
楓は満足そうに笑った。小夜はそんな楓を見ながら、少し淋しそうに視線を落とした。
「また遊びに来るよ。」
「そうだな。――どれ、せっかく来たのだ。そこまで送ろう。」
楓の背中を押してうながした。
「楓。」
「何?」
「次に来るときは、直接本殿に来て二回戸を叩け。」
「本殿に?」
「そうだ。」
「何故に?」
「その時になったらわかる。」
仮殿の横を通り石段を下りて境内へ出た。境内からお滝場へ、裏手に続く道を行く。
「小夜。」
「何だ。」
「何故小夜が風にのっていかぬのか。それが一番早いのに。」
楓は隣を行く小夜を見上げた。気のせいだろうか。今日小夜はどこか淋しげで、元気がない。
「私はここ数日用があって、社を離れられぬのだ。」
「本殿に籠もり切っているのはそのためか?」
小夜は楓をチラリと見た。
「それを誰に聞いたのだ? 信乃か?」
「うん。信乃は小夜の事をとても心配している。何日も籠もっていて、ろくに物を口に入れていない様子だって。」
「信乃は心配性なのだ。案ずるなとあれ程言ってあるのに…。」
お滝場と、白石山へ向かう道の分かれ道に来た。
「でも…。」
楓は立ち止まった。それにつられて、小夜も立ち止まる。
「どうした?」
「信乃の心配もわかる。今日の小夜はどこか元気がない。どうしたのだ?」
楓は小夜をじっと見た。小夜もいつもの無表情の目で見返すが、どこか愁いを含んでいるように見えるのだ。
「気のせいだ。」
「でも…。」
「早う行け。それは急ぎの文なのだ。余計なことを考えて、落とすでないぞ。」
小夜に言われて、楓は思い出したように胸元を押さえた。そして小夜の顔をじっと見上げた。
「頼んだぞ。」
楓はうなずいた。
白石山へ向かう道へと足を進める。しかし少し行くと、やはり小夜のことが気にかかるというふうに、振り向いた。
「行け。」
小夜がそう呼びかけると、楓は山の中へと走り去った。
小夜が楓の姿を見送ると、再び境内へと戻って来た。境内には木の間から柿色の光がさしこんでいる。小夜はその美しさにつられて村へと下りる長い石段の方へと歩いて行った。階段は下りないで、石段の一番上で西の空を見る。山の端を色どる柿色。風は夕方のにおいを含んでいる。そして小夜は、ここから見える西の空も美しいと思ったが、それよりも、石段の中程より下の辺りで、村の夕暮れの景色を見るのが好きだった。冬枯れた景色の中に、照りつける太陽。淡い景色と紅い夕日。なんとも言えぬ情趣がある。
夕べの勤めの時刻だ。でも小夜は長いその石段を下りて行った。美しさにひかれるように…。
と、途中まで石段を下りると、信乃の姿が見えた。石段の前で、ぼんやりと西の空を眺めている。小夜が「信乃。」と声をかけると、信乃はこちらを振り向いた。
「姉さま。」
石段のつきる十段位上の所で、小夜は止まった。
「どうしたのだ、こんな所で。」
「外に出たところ、ふと夕暮れの美しさが目に入って、それで…。姉さまは?」
「私も同じだ。」
二人はしばらく黙って景色をみつめた。ふと信乃が気がついて、小夜に振り返る。
「ここまで下りて来られぬのですか。」
「私はここで見るのが一番好きなのだ。」
小夜の言葉に、信乃は穏やかに微笑んだ。
不思議だ。こんなに心が和んだのは、一体何日ぶりだろう。
「私は、日暮れの景色の中で、秋が一番好きです。一面に黄金色に染まる――。」
信乃の言葉に、小夜の頭の中で稲穂の波が揺れた。鮮やかな黄金色。胸をうつ風景。もうすぐ闇に変わるというのに、何故それほどに鮮やかなのか。
「明日は晴れましょうな。」
小夜はふと我に返った。鮮やかな落日、明日の天気。
風景とは裏腹に、心は嵐の予感を感じさせた。
その夜、小夜はまんじりともしなかった。
本殿の中で、じっと座って目を閉じていた。
やがて、凍りつくような静けさが、闇を包み始める。
夜明けが近い。
山の端々が白々とし始め、陽が昇る。
気が乱れ始めて、小夜がすっと目を開く。
村の一角で、波乱を含んだ朝を告げるように、すさまじい悲鳴が起こった。
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