第九章

 村の一人の男が、

「巫女姫さま――っ、巫女姫さま――っ!」

と血相を変えて、叫びながら走り来た。

 男はまず、女神山の麓にある信乃のいる家に飛び込んできた。走りこんできた男の姿は、この寒い中、薄い衣をよれよれに着ているだけで、髪はぐちゃぐちゃ、一目で寝起きであることが分かった。信乃は驚いて、戸口の男に、

「どうしたのですか、一体!」

と声をあげ駆け寄った。

「巫女姫さまは!」

男は目を見開き、追い詰められた様で信乃に尋ねた。

「巫女姫さまは今本殿にいらっしゃいます。一体こんな朝早くから何事です。」

男は話そうとしたが、息が切れて声が出ない。とんでもない大事が起こったということは、信乃にも容易に想像できた。

「落ち着いてください。一体何があったのですか?」

信乃が静かな口調で男に尋ねると、男は何とか呼吸を整えた。

「敵兵が、やってきたのだ。」

「え?」

「慈五郎の妻と子をつれている。まだ寝ているところを襲いに来たのだ。」

信乃は自分の耳を疑った。心臓の音が高鳴り始める。

「と、とにかく、巫女姫さまにお知らせしなければ。」

信乃は立ち上がった。足がガクガクと震えている。

 二人は表に出て駆け出した。

 まるで、夢の中をさまよっているようだ。石段を上がる。この石段の、なんと長いことか。足の動きがもどかしい。信乃は押し潰されそうな気分で階段を駆け上がった。石段が終わる。境内に足を踏み入れる。途端に、信乃は叫んだ。

「姉さまぁ―――――――――っ!」

 本殿の中で、小夜は立ち上がった。本殿の扉を開け、石段を下りて仮殿の扉を開ける。中を通って境内に面した扉を開けると、二人と鉢合わせた。

「朝っぱらから何事だ。想像しい。」

 二人はかなり切迫した様子で、すがるように這い来て小夜を見上げた。小夜は板間で腰を下ろす。

「大変でございます! 敵の、高階の兵が村内に入りましてございます。」

「何?」

「兵の数約五十。寝込みを襲われましてございまする。慈五郎の妻子を連れておりますれば…。」

「して、誰がやられたのだ。」

「いえ、敵は抗えば切ると刀でおどして皆を縛り上げてございます。今の所負傷者はございません! ですが――。」

男は顔をゆがめた。

「何だ。」

小夜の問いに男は小夜から視線を外して床を見た。

「敵の、将は、あの男、で、ございます。成長して、少し変わっておりましたが、あの、男、五年前巫女姫さまが命を救われた謀反人、義見朔次郎でございます――!」

 小夜は全く動じなかった。それよりも信乃の方がひどく驚いた様子だった。

「して、目的は何じゃ。」

「それは――。」

男が言おうとして顔を上げると、甲冑のガチャガチャいう音が、石段の方から、石段を上る足音と共に近付いてくる。三人はじっとそちらの方をみつめる。すると、ようよう石段の真ん中に、男の頭が現れた。

 見覚えのある顔だ。向こうもこちらをじっと見ている。

 男は上りつめると、境内の中程まで歩いた。六、七人の兵がその後ろに続いている。彼が立ち止まると、兵は両側に分かれて社殿に向かって構えた。そのうちの二人の兵が、慈五郎の妻子を連れている。

 小夜はすっくと立ち上がった。

「このような早朝から、そのようなナリで、一体何者か! 無礼者! 名を名乗れ!」

その小夜の言葉、姿、そして張りのある声は、どこまでも威厳にあふれていた。そしてまた男の方も、それに負けぬ風格で、強い口調で言った。

「無礼は承知の上。お気に障られたのなら許されよ。拙者、高階隆明が家臣、小坂靭実と申す。」

「名は聞いたことがある。名将、小坂茂実殿のご子息。」

「いかにも。」

「その敵国の将が、この村に何の用だ。」

「今日はわが主、高階隆明の名代で参った。」

「ほう、高階隆明殿の。して?」

「わが主、高階隆明は、巫女姫殿のお力を聞き及び、ぜひともその力をお貸し願いたく、つきましては、巫女姫殿ご賛同の上、わがお館にお招きいたしたくとのことでございます。」

「いやだと言ったら――?」

 小夜の言葉に靭実はニヤリと笑った。

「村人達の命、すべて果てるまで――。」

 突然、女の声が空を切った。

「巫女姫様ぁ―――っ、申し訳ありませぬ――っ。」

兵に後ろ手をつかまれた慈五郎の妻が、髪を振り乱しながら泣き叫んだ。

「私が、私が話してしまったばかりに、この様な目に! 村人達や巫女姫様に、何とっ、何とお詫びすればよいのでしょう。しかしっ、この子を盾にとられて、どうしようもなく話してしまったのでございます―――っ!」

女は泣き崩れた。小夜は女の方を見ていたが、靭実に視線を戻した。

「おぬしら、男――慈五郎をどうした。」

「死んだ。」

「殺したのか?」

「この女がすべて話した後、舌を噛み切ったのだ。」

小夜は表情を変えず、靭実を見た。足元にいる信乃と男は、じっと靭実を睨みつけている。

「巫女姫殿、ご返事を――。」

靭実もまた、平然と言い放った。小夜は考えているそぶりを見せたが、おもむろに前に歩を進めると、履き物をはいて石段を下り、そこで立ち止まった。

 この場合、道は二つしかない。小夜が行くか、村人が死ぬか。

「三日待ってくれぬか?」

「何?」

靭実は顔をしかめる。

「私一人の身なれど、私一人のことではない。私一人では決められぬ。動くとなれば私一人で動くわけにもゆかぬ。年寄り達にも相談せねば。」

 三日あれば稲賀の耳にこのことが届く。時を稼ごうという魂胆か――。

「駄目だといったら?」

「今ここで、舌噛み切って果てるまでよ。」

 要するに、必要なのは小夜だけなのだ。村人の命は、小夜に言うことをきかせるための盾に過ぎない。だから小夜は、自分の命を盾にとり、時間稼ぎの賭けに出た。

「わかった。――そのかわり、三日は駄目だ。明日夕刻、せめて明後日の朝には結論を出せ。また、何かおかしな動きをすれば容赦なく村人たちを始末する。」

「よかろう、明後日の朝には結論を出す。それともう一つ。」

「何だ。」

「見張りをつけても構わぬから、男達を離してくれぬか。寄り合いも出来ぬでは、話にならんからな。」

靭実は小夜をみつめながら、

「いいだろう。では明後日の朝。よい返事を期待している。」

「承知した。」

靭実は視線を外し振り返った。兵二人に何事かを言い伝え、その二人を残して、あの長い石段へと向かった。下りていく。

「おい。」

小夜は振り返って、急を伝えに来た男を見た。

「は、はい!」

「解放された男から順に、長老の家に集まる様に伝えろ。」

「は、はい。」

男は頭を下げた。

「それから信乃。」

「はい。」

「一族の者たちにも同様のことを。」

「はい。」

 二人は立ち上がり、小夜の横を通り過ぎて、急いで石段を下りて行った。

 小夜は一人、取り残される。

 動き始めた、と、小夜は思った。すべてが動き始めたのだ。

 もう、後戻りは出来ない。

 しかし、何故だろう。不思議にも、不気味なほど、小夜の心は落ち着いていたのだった。

 

 皆が揃った頃を見計らって、小夜は信乃を連れて長老の家へと出かけた。無論、見張りの兵がついてきたのは言うまでもない。

 長老の家に行くと、たくさんの男達が集まっているようだった。

 見張りの数は表に八人。

 中へ入っていくと、四、五十人ばかりの者が集まっていた。部屋はいっぱいで、皆沈痛な面持ちをしていた。不安の空気が部屋中に満ち溢れている。長老が小夜の姿をみとめると、

「巫女姫殿。」

と声をかけて、皆が一斉に小夜を見た。

「巫女姫様!」「巫女姫様!」

それぞれが小夜に呼びかけた。小夜は信乃を伴って長老のそばへ行くと、腰を下ろした。部屋の中はいっぱいだ。一族の女もいる。

「巫女姫殿が来たので始めよう。」

長老は皆に話し始めた。

「要旨は先ほど説明した通りだ。そこで――。」

長老は小夜の方へ向き直った。

「わしはそなたの率直な意見がききたい。」

皆がいっせいに小夜の方を見た。

 静かに、小夜の言葉を待つ。

 小夜は一同を見渡してから、語り始めた。

「もし私が、高階の元に行けば、稲賀殿は黙ってはおるまい。そしてもし断れば、高階はお前たちを皆殺しにするだろう。」

平然として小夜は言い放った。皆がどよどよと声を上げる。要するに、どちらか一方につけば、皆殺しにあうか、戦が必ず起こるだろうということである。

「それでは、我々はどう決断すればよいのでしょうか。」

男の一人が小夜に問いかけた。

「どうも何も、お前たちが一番良いと思える答えを出せば良いのだ。また、どういう身の振り方をお前たちに決められても、それに従うか従わないかはどうともいえない。ただ、私一人のためにお前たち全員が犠牲になることはない。私が言いたいのは、それだけだ。」

言いながら、小夜は立ち上がった。皆が驚いて小夜を見上げる。

「どこへ行かれる。」

長老が小夜を見上げて尋ねた。

「私の身の振り方を決めるのに、私がいては話し合いにくかろう。私は席を外す。ある程度話が決まったら、呼びにくるがよい。極力声はたてるな。ゆっくり決めよ。急ぐことはない。」

小夜が信乃に目配せすると、信乃はそそくさと立ち上がった。皆が戸惑いを隠せぬ様子で小夜を見送る。長老は、小夜が出て行った後も、その去った後をじっとみつめていた。

 小夜が表戸を開けると、靭実が待ち構えていた。表戸の横で椅子に座っていたのだが、小夜の姿を見ると、立ち上がって彼女の目の前に歩み出た。

「どこへ行かれるのか?」

「社殿へ帰る。」

「話し合いは。」

「まだ続いておるが、今のところ私は不要ゆえ、一度帰る。」

「では、お送りいたす。」

そう言った靭実の顔を、小夜は目だけで見上げた。

「御大将自ら見張りか。ご苦労なことだな。」

「そなたに逃げられては、何の意味もないからな。」

小夜は靭実から視線をはずし、少し不機嫌そうに言った。

「心配せずとも、村人を置いて逃げたりはせぬわ。」

 小夜は歩を進めた。続いて信乃が、それから靭実が続いて歩く。真っ直ぐ行くはずの道で、小夜は横へ曲がった。

「待て、どこへ行く!」

靭実が後ろから慌てて声をかけた。

「家に残されている女や子供達の見舞いに行くのよ。男達が家にいないで、むさ苦しい顔をした敵兵がうろうろしているのでは、皆心細い思いをしておろうからの。」

「明後日までの我慢だ。」

靭実が吐き捨てるように言うと、小夜は立ち止まり、振り返った。

「本当にそう思うか?」

小夜の言葉は、どこか意味深げであった。実際、小夜が高階についたところで、残された者どもの戦は免れ得ぬし、断れば皆殺しだ。どちらにせよ、この先、心休まることはないのだ。

 小夜は信乃の向こうの靭実をじっと見ていたが、彼が何も答えないので、おもむろに振り返り、また歩きだした。

 小夜が最初に行った家では、小夜が家の中に入って行くと、中の人たちはすがるような目で小夜を見た。老女などは小夜の姿をみとめると、「おおお、巫女姫様ぁ。」と言って泣き出した。痩せた皺だらけの細い手が、小夜の腕にすがる。子供達も、女達も小夜の方により来た。

「どうした、皆、しっかりしなされ。ばばさまも。」

小夜は皆を励ました。家の大きさにしては、中にいる人が多い。見張りの数が限られているから、何箇所かに集められているのだろう。分家なら本家に、子は親の家にというように。

「まさか、この年になりて、この様な大事が起ころうとは。祖先の代からお守りし続けた尊き巫女姫様を、よもや高階がごとき輩が――。くやしうてくやしうてなりませぬ。」

老女は涙を拭いながら、口をゆがめて言う。小夜は少し困った様な目で、一同をみつめた。

「皆、気をしっかり持て。突然の大事に心乱しておるのだろうが、これからもっと困難なことになるやもしれぬ。皆一緒なら、きっと大丈夫だ。だからの…。」

 小夜は皆を励ました。皆はその言葉に聞き入り、小夜の元にやってくるものには肩をたたいてやったりした。

 そんなふうに、小夜は皆の家を回った。

 中には靭実の姿を見止めると、「復讐か!」と叫んで殴りかかろうとした者もいた。が、小夜が止めたために大事にいたらなかった。

 すべて回り終えて、社殿に帰る頃には、太陽も天中を過ぎていた。

 社殿にはまだ小夜を迎えに来た形跡はなかった。

 長老の家で、まだ話し合いが終わっていないのだ。

 境内には小夜と信乃と靭実と、それから兵が一人。小夜は信乃に向かって言った。

「信乃、家に帰って体を休めておけ。ご苦労であった。年寄りの誰かが呼びに来たら、また一緒に行ってもらう。」

「でも…。」

信乃はチラリと靭実を見た。村人達のいない所で、二人を残すのが不安だったのだ。

「いいから行け。心配ない。」

信乃はじっと立ち止まって二人をしばらくみつめた。二人で、何か話すことがあるのだろう、そう思って、信乃は大人しく境内を下りて行った。

 靭実が兵に目で合図をすると、兵は信乃の後を追った。

「信乃は大きくなったな。幾つになる。」

「十五だ。」

言いながら、小夜は仮殿へ足を進めた。

「先代の巫女姫と父上はどうされた。」

「亡くなられた。巫女姫は四年前、父上は去年だ。」

 四年前――朔次郎が去って一年あまりで巫女姫は死んだ。

 靭実は、小夜をあの時呼び止めた威厳のある中年の女の姿を思い出しながら、何か割り切れぬ思いがした。

 小夜は仮殿の石段の前で立ち止まった。

「お前、ここに来るのは初めてだったな。」

「ああ、お前にあの小屋から出るなと言われていたからな。」

 小夜は妙な気分になった。今は敵国の将、小夜を捕らえようとしている男と、何を平然ととりとめもなく会話を交わしているのだろう。

「小夜。」

靭実が後ろから呼び止めた。その呼び声に、小夜は一瞬背中がしびれるのを感じた。それでも、小夜はそんな心を表に出さず、いつもの無表情でゆっくりと振り返り、靭実を見上げた。

「我がお館様の願いを受けよ。お前だとて、余計な村人の血を流したくはないだろう。」

靭実と小夜の間に、沈黙が走る。気まずい空気がその場を制した。

「その昔お前は――」

口火を切ったのは小夜だった。

「言うたなぁ。運命にしばられることはないと。」

ズキリと靭実の心に傷みが走った。

「おかしなものだ。そう言ったお前が、私を運命で縛ろうとする。」

小夜は視線を落とした。

 靭実はきゅっと、握りこぶしに力を入れる。

「子供だったのだ。親の仇討ちばかり考えて、世間をろくに見もしなかった。」

「それで、おぬしは大人になったのか? 世間が見えたから、私を利用しようとするのか。」

「そうだ。人の大事、世の大事のためなら、細かいことは切り捨てねばならぬ。諦めねばならぬ時は、諦めねばらぬ。」

「親の仇討ちはどうなったのだ。実はもう、どうでもいいのではないか?」

「それは――。」

 靭実は言葉が接げなかった。

 立場上、靭実――いや、義見朔次郎の仇、稲賀政秋は、今既に敵の関係にある。しかし、今では靭実は、稲賀という戦国武将としての立場も理解でき、仇といって一人でどうなるものでもないこともわかっていた。

 何より、今は仇討ちより、敵への憎しみより、出世と護身の方が大事なのだ。

「私は正直、時々あの時、お前についていかなくて良かったと思うことがあるのだ。お前はあの時、自分自身が一番幸せにならなければいけないと言った。でも、今のお前の言う幸せは、一国のためなら、一人の人間の野望のためなら、他の一人一人の幸せなどどうでも良いというものだ。」

「それが乱世というものではないのか!」

靭実は思わず声を上げた。

「一人一人のことを考えていては戦はできぬ。一人一人のことを考えていては、乱世を残っていくことは出来ぬわ!」

靭実は小夜を睨みつけながら怒鳴った。息が乱れる。そんな靭実を、小夜は冷めた目でみつめた。

「その通りだ。」小夜は靭実の言葉を素直に認めた。「誰も死なぬようなどということは出来ぬ。」

 小夜の思いがけない返事に、靭実は思わず言葉をなくした。

「そして私も、そのコマの一つとして、使われるわけだ。」

小夜は振り返り、階段を上った。

「小夜。」

靭実が呼びかけた。

「そうだ、言い忘れたことがある。」

靭実の言葉を制するように、小夜は言って、振り返った。

「この手前の仮殿へは誰でも出入りできるが、奥の本殿へは巫女姫以外の者は入ってはならぬ。用があっても直接声をかけることも許されぬ。用があれば信乃に頼んでくれ。」

「信乃に?」

「そうだ。本殿は、神のまします聖なる場所。乱さば死に値する。よいな。」

「わかった。」

 靭実の言葉をきくと、小夜は仮殿の中へと消えて行った。

 靭実は一人境内に取り残された。

 何故か心の中にひどくむなしさを感じていた。

 自分の言ったことは正しい。確信さえ持っている。

 それなのに、この胸に広がるむなしさは何だ。

 靭実は石段まで行って、腰を下ろした。長老の家では、まだ集会が開かれている。いずれにしても、小夜の運命は、明後日の朝には決定するのだ。

 

 その昔、先代巫女姫は、小夜に手の平でつつめる位の水晶玉を見せたことがある。

「これはの、小夜、気封じの玉というのよ。」

「気封じの玉?」

「そう、かつて陰陽師であった我らの祖先が、物の怪の気を封じる時に使ったという。その後、巫女姫の力の安定せぬものは、この玉に頼ったそうな。爆発しそうになる己の気をこの玉にこめるのじゃ。よいか小夜、ようく覚えておけよ。」

 光が当たればきらきらと光る美しい水晶玉、巫女姫の目を盗んでは、こんな美しいものが本当に物の怪を封じたのかと盗み見たものだった。

 小夜は本殿の暗闇の中で、目の前にこれを置いて正座していた。じっとその玉をみつめる。小夜には気封じとしては縁のない、美しい宝玉であった。

 もう夕べの勤めも終えてしまったのに、長老の家からはまだ誰も呼びに来ない。もめているのだろうか。

 当たり前といえば言える。皆の命がかかっているのだから。

 小夜は、気封じの玉を箱の中にしまった。蓋をし、紐をかけていると、外から「姉さま」と呼ぶ声がきこえた。小夜はとうとう来たかと思い、立ちあがると、扉を開けた。

 扉を開けると、信乃が村の男を連れてそこにいた。

「長老さまがお呼びだそうでございます。」

「承知した。では、参ろうか。」

 本殿の扉を閉めた。外はもう随分暗くなっている。小夜が境内へ出ると、回りの木々が風にざわざわと音を立てて揺れた。空は雲の間に間に星が見えた。境内の前の長い石段を下り始めると、見張りの兵一人と、靭実が後ろからついてきた。

 村人達は、一体どんな決断を下したのだろうと小夜は思った。こんなに時間がかかったのだから、かなりもめたに違いない。小夜は長老の家までの道のりを随分遠く感じた。誰も何も言わない。暗い景色、ざわざわと木々を揺らす風は、理由もなく人々を不安にさせた。めざす長老の家の灯火が、ひどく温かいように感ぜらる。

 長老の家に着き、小夜と信乃と男が皆のいる部屋に入った。今朝来た時とかなり雰囲気が違う。今朝はあんなに空気が張り詰めていたのに、今はもう落ちついている。ただ村人の顔は、不安の色が失せた代わりに、若干の疲れを漂わせていた。

 小夜と信乃がいつもの定席に座ると、長老はじっと小夜の顔を見た。

「よいか、巫女姫殿。今から皆で出した結論を話す。だから、黙って聞いていただきたい。」

 先ず長老は、話し合いの段階で出たいくつかの対処法をあげていった。

一、大人しく高階の元に行き、高階側に村人の安全も保証してもらう。この場合、村人が高階領に移住することも可能性として含まれる。

二、なんとかして稲賀政秋に連絡をつけ、小夜も含む大木村村民の保護を求める

三、どちらにもつかず、皆で村を捨てる。

四、小夜は稲賀、もしくは高階につき、村人はこのまま残る。戦が起こっても戦う。

 主として争われた意見は四つであった。そのうちでも意見が集中したのは二と三だった。しかしこの場合、小坂靭実引き連れる兵の目を、どう誤魔化して村を脱出するかというのが問題になったらしい。皆が生き残ろうとし、また小夜が戦の道具に使われぬようにするには、三が一番よい、ということになった。

 それでも問題は、どうやって敵の目を誤魔化すのかということなのだ。

「そこで」と長老は話を改めた。

「我々はそなたの意見が必要となったのだ。」

「私の?」

「そうだ。そしてそれこそ、皆が全員一致で出した結論なのだ。」

長老は小夜の顔をみつめた。皆もじっと二人の様子を見守っている。

「その結論とは?」

「小夜。」

「はい。」

「お前はどうしたい。」

小夜は大きく目を見開いて、じっと長老の顔をみつめた。

「皆、死ぬ覚悟も、戦をする覚悟も出来ている。あとはお前が決めればいい。さあ、小夜、お前はどうしたいのだ。」

 意外だった。

 まさか決定権がすべて自分に回ってくるなどとは、思ってもみなかったのだ。巫女姫が自分で生き方を決めるなどということは、今までありえないことだった。

「何故…。」

「おぬしは今まで、自分の意見を通すということを許されなかった。巫女姫として生まれついたばかりに、ただひたすらにその生き方を強いられ、たった一度の思いさえかなえられなかった。我々はな、巫女姫一族を保護する以上に、お前たちからこれ以上ないという程の恩恵を受けて来た。

 所詮、どんな方法を選んでも、わし達とお前は離れなければならないかもしれない。それなら、これが最後のご奉公よ。お前が、一番良いと思う方法を選びなさい。我々は、お前のためなら死んでもよいと決断したのだ。」

 小夜は言葉が出なかった。

 胸が熱くなる。

 熱くなって、こぼれだしそうになるものを懸命にこらえて、体にぐっと力をこめた。一座に顔をあげ、見据えた。

「大切なのは――」

皆が注目する中で、小夜は語り始めた。

「大切なのは、皆が生きることです。幸せにならなければいけないということです。」

小夜は言葉を切って皆の顔を見渡した。そして、きっ、と目を据える。

「覚悟は出来ていると申されましたな。死ぬ必要はございませぬ。その覚悟で、皆で、この村を捨ててくだされ。」

 

 話し合いはその後、一時休息ということで皆家に帰った。明朝その続きがあるのだ。靭実にもそう断った。小夜はその日、本殿の中で灯りを二つ灯して座っていた。何故か灯火の色に包まれたい、そんな気分だったのだ。

 あの後、長老が小夜に尋ねた。

「敵に気付かれずに抜け出せる方法があるのか。」

「あります。」

「どうするのだ。」

かなり方法がないと、ああでもないこうでもないと話し合ったのだろう。小夜が『あります。』というと、感嘆の声を上げた。しかし小夜は敵の目を欺くために、方法は明日手紙でということになった。それで今夜の結論と、村を捨てさせる覚悟を、女や子供にさせるために、よく話してきかせろと言った。

 そして明朝皆が集まれば、六つか七つの集落に分けよと命令した。

 それでその夜は解散したのだ。

 小夜が機嫌よく、今日のことを思い出していると、突然、外から「コンコン」と二度、扉を叩く音がして、小夜は我に返った。自然と顔がひきしまる。この合図、楓がやってきたのだ。小夜は立ち上がり、光が漏れぬように扉を開けた。仮殿の影になるから、境内で野営している靭実達には見えぬだろうが、念のため少しだけ開けた。扉を開けると楓と、佐助の顔が見え、急いで二人を中へ入れた。

「思ったより早かったな。」

「急ぎの御用だから、一刻も早くつくようにせよと、長老が。」

佐助が難しい顔をして答えた。

「小夜、あれは何だ。」

「あれとは?」

「境内にいる小坂靭実と村中にいる敵兵だ。」

「お館様に報告せねばならないか。」

「当たり前だ! 敵兵が領地内に堂々と、一体何があったのだ!」

佐助は声を押さえて言う。

「お館様への報告は、少し待ってくれぬか。」

「何?」

「奴らは高階隆明の使いで、私の力を貸してほしいと言うて来ておるのだ。」

「それは――!」

「ああ、分かっておる。だから我々は、命を盾にその返事を待ってくれと言っておるのだ。明後日の朝までと。」

「だから俺にもそれまで待てと?」

「稲賀の兵が今動かれては困るのだ。――それより長老の返事は?」

「ああ。」

 やっと思い出したというように、佐助は抱えてきた包みを出した。

「これを長老がお前に渡せと――」

言って佐助は包みを小夜に渡した。

「それから、この楓でよろしければ、どうかお役に立ててくだされ、とのご伝言だ。」

「え?」

小夜は思わず楓を見た。楓はじっと小夜をみつめている。

「楓、お前はそれでよいのか?」

「はい。」

「子細を聞いて承知したのか?」

「はい。」

楓は落ち着いた目でじっと小夜の顔を見た。

「一体何の事なのだ。」

横で見ていた佐助が尋ねた。

「今は言えぬ。それから佐助――。」

小夜は佐助の方を向いて、厳しい眼差しで彼の目を見た。

「村に留まって様子を見ると言うのなら構わぬが、余計な口出しはするなよ。」

小夜の眼差しに、思わず佐助は言い返せなかった。一体、小夜が何を考えているのかさっぱりつかめない。何故だろう、佐助は、胸に不安の思いが過ぎるのを、感じずにはいられなかった。

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