第七章

 小夜、小夜と呼ぶ声がして、はたと我に返った。お滝場から境内へ向かう途中だった。声は、頭上からする。位置や声、呼び方からして、おそらく佐助だろう。

「佐助か。何用だ。」

サッと目の前に佐助がおりてきた。

「珍しいな。ぼんやりして。」

「私がぼんやししてはいけないのか?」

「いや、そういうわけではないが…。」

「私でもぼんやりする時はある。何の用だ。」

「お館様からの伝言なのだ。ここでは…。」

「重要な話なのか?」

「内密の話なのだ。」

「わかった。中で聞こう。」

小夜が仮殿に向かって歩くのに、佐助も続いた。

「久方振りに現れたと思ったら、突然お館様のご伝言か。――楓はどうした。」

「久方振りでもない。三日ぶりだ。楓は今日長老の使いで出ている。」

「三日…? そうか。翁殿はお元気か?」

「相変わらずだ。」

「それは何より。」

仮殿の石段の前へと到着すると、ゆるゆると上り、社殿の扉を開けた。佐助を中へと促し、扉を閉めると、灯りをつけた。

「伝言とは何だ。」

自ら腰を下ろしながら、手で佐助にも座すことを進めた。

「折りいった話だ。おぬし、高野というところに、諏訪神社というのがある、知っているか?」

「先代巫女姫からきいたことはある。皇族の祖先神の一人を祀る神社だ。」

「そうだ。そこの神社をこのたび、お館様が建て直された。高野は五年前の戦の折、手に入れられた領地なのだが、その戦の折に神主が逃げて、今主がおらぬ。」

「それで?」

「お前に社主になってもらえぬかという話なのだ。」

「私に?」

「そうだ。」

佐助は小夜の様子を見ながら話を続ける。

「先の戦の折、逃れてきた敵将が、大木村に逃げ込んだ。国境い近くにいてはまたその様なことがあるやも知れぬ。巫女姫殿の身を案じて、是非にとのことだ。」

「小坂靭実のことか。」

「だろうな。」

佐助の返事に、小夜は見るともなく床に視線を落とした。万が一、敵に巫女姫の存在が知れて、争いの種になっても困る。それを見越しての配慮だろう。

「せっかくだが―――。」

「そうか。」

「大木村は先祖伝来の地。戦だからとて簡単には動けぬ。それに、この巫女姫、我が身ぐらい自分で護れるわ。」

「わかった。」

佐助は立ち上がった。

「稲賀殿にご厚情感謝すると伝えてくれ。」

「承知した。」

そういって、佐助は扉を開けた。小夜も立ち上がる。

「楓に、また遊びに来いと伝えてくれ。」

「楓は修行中の身。お前の遊び相手ではないぞ。」

「あれがおると、心が和むのだ。」

佐助は驚いた様に小夜を振り返った。

「あれは私の前でも裏表がないからな。」

それを言う小夜の表情は相変わらずであったけれども、佐助は改めて小夜をみつめた。

 すると、佐助の開けた扉の外をじっと見ていた小夜が、境内の向こうからやってくる人影に気付いた。

「信乃。」

佐助は振り返った。

「では、俺はこれで。」

「ああ、ご苦労であった。」

佐助の姿が視界から消えると、信乃が境内を走ってきた。仮殿の石段の前まで来ると、

「佐助が来ていたのですか。」

と尋ねた。

「ああ。」

「何用で?」

「たいした用ではない。何だ。」

信乃はキョロキョロと回りを見回すと、石段を上って、小夜の近くまで寄ってきた。

「姉さま、慈五郎を知りませぬか。」

「慈五郎がどうかしたのか。」

「昨日から姿が見えませぬので、姉さまのお使いかとも思ったのですが…。」

「私は使いなど頼んでいない。」

「ええ。それで、今朝も訪ねてくる気配がないので、風邪でもひいたのかと思い、家に行ってみたのですけれど…。」

「いないのか。」

「家は妻子共にもぬけの殻でございました。隣の者に尋ねてみますと、昨日からいる気配がないと。」

「そのこと、長老には?」

「まだ何も――。」

小夜は口に手をあてて、思いをめぐらせた。

 慈五郎は他村の出身である。幼い頃、親が偶然、この村で巫女姫の秘密を知ってしまった。伝え聞いただけの者なら、物忘れの術をかけてそれですますが、慈五郎親子は直接その力を見、聞いてしまったので、村人とされてしまったのだ。巫女姫に忠誠を誓わせ、脱出を試みないために、多くは一族に仕えさせる例が多く、慈五郎の一家もそれに習った。しかし故郷から断絶させられるからといっても、大木村は他村より豊かであったから、脱出を考える者など全くと言っていい程ない。しかも慈五郎がこの村に来たのは、物心つく前であったし、両親も既になく、妻は村の女である。どうしても、逃げ出したとも思えない。

「わかった。長老には私から言っておく。他に言いまわらないように。しばらく、様子を見る。」

「はい。」

信乃は伝えることだけ伝えると、頭を下げて石段を下りて行った。

「信乃。」

ふと小夜が呼びかけた。石段の途中で、信乃が振り返る。

「はい。」

しかし小夜は苦笑して、首を振った。

「――いや、何でもない。すまぬ、行ってくれ。」

言って、小夜は仮殿の扉を閉めた。

 信乃はしばらく閉ざされた扉をみつめていたが、小夜に、別に特にこれといったおかしな様子は見られない。振り返ると、信乃はまた、あわただしく階段を下りて行った。


 高階では負け戦の後にも関わらず、その夜、お館では、雪見の宴だとて、重臣たちが集められ、酒宴が開かれていた。中でも高階隆明は上機嫌で、

「何、数年前から始まったこの戦、勝っては負け、負けては勝ち、気にすることはない。」

と豪語した。

  最初のうちは、互いがふるまわれた美酒にみな酔い興じていたが、やがて隆明が何か思いついた様子で、扇子で膝を打った。

「今宵は雪見の宴。せっかくの宴じゃ。興を添えるために、わしが一つ話をしよう。」

「はは、興を添えるために、でございますか。」

「それは、何の話でございますかな。」

と皆がはやし立てたが、隆明は特にふざける風でもなく、しんみりとした口調で、

「ある所に伝わる話よ。」

「ある所とは?」

「わが敵、稲賀政秋の領地じゃ。我が領地と稲賀の領地の国境い近くにある、小さな村よ。名を大木村という。」

靭実はギクリとした。

「峠に近い村なのだが、その峠、よほどのことがない限り、旅人がそこを通ることはない。それだけ道が険しいのだ。また、道に迷えば山に分け入り、獣に襲われ、中には生きて戻らぬものもあったそうだ。」

皆がホウッと声をあげて聞き入った。

「そのような峠を越えるものは、大方罪人かかけおち者か…。旅人はその超え難き道を行く前に、必ず、四半時ばかり休息をとっていくのだ。後ろから、追っ手がやってくるかも知れぬと思いながらもな。」

「なぜ、わざわざ休息をとって行くのでございますか。後ろから追っ手がやって来るかもしれぬのに。」

「そこよ!」

隆明が膝をたたいた。

「そこに、大木村の名の由来があるのだ。大木村は大きい木の村と書く。その昔、天にも届くかと思われる程の大樹があったのだ。高齢になりて、ある日、大風で倒れ、今はないそうだが、その昔、大人が十人おってもとても囲みきれず、その頂に登らんとすれば、半日はかかると思われるほどの、桜の樹であったそうな。」

「半日!」

「半日でございますか?」

皆がそれぞれに驚きの声をあげる。靭実ばかりが緊張していた。

「その大樹、枝ぶりも見事で、春は花、夏は緑、秋は紅葉、冬は雪景色と楽しませてくれたそうだ。峠に向かう者たちにも自然とその木が目に入り、心急く旅人たちも思わずその荘厳さ、美しさにひかれ、ついつい足を運び、その下にてしばし足をとどめて木を見上げ、心を休めたそうだ。だから、大木村は、大きい木の村と書くだけでなく、木を仰ぐと書いて仰木村とも書くそうだ。」

酒に酔った皆が、おおっと感嘆の声をもらした。

「私もその木、見とうござりましたな。」

「今はもうないとか。」

「いやいや、なかなかよいお話を。」

皆がそれぞれに口をそろえて言った。うつむいて、何の反応も示さないのは、靭実だけであった。隆明は横目で靭実をチラリと見やると、ぐいと酒をあおった。

「ついでに、その大木村には女神山という山があるそうだ。桜の木の精霊は男。かの昔、その大樹の華麗な姿に見惚れた天女が、その木に恋をしたのだ。二人は愛し合い、しかし天女の父に許されず、無理矢理引き離されたそうな。その女は恋心ゆえに泣き続け、病に落ち死んでしもうた。それが、女神山の神社に祀られてあるそうだ。」

「人の世にもありそうな話でございますな。」

「ふむ。それで、わしはな、失われた大樹など、どうでもよい、それより、世にも麗しかったという、天女の方を見てみたかったわ。」

 皆が声をそろえてどっと笑う。しかし、靭実の手には震えが起こった。体が強張るのを感じる。

「これは、これは、お館さま、美しい大樹よりも、天女の方をご所望ですか。これはこれは…。」

重臣の一人が言いながら首を振る。酒のせいでなかなか笑いがおさまらない。

「しかしその天女、美しいだけでなく、気を操り、未来を読み、傷を癒すという――。」

 靭実はふいに我を忘れた。思わず隆明を盗み見る。隆明は、意味ありげな視線を彼に送り返した。

 ご存知なのか―――?

「その天女、現におりますれば、戦の役に立ちましょうな。」

「ただの伝説よ。」

 そういって、隆明はまた酒をあおった。

 その話はそれで終わったという様に皆がガヤガヤと入り乱れ、大いに酔った。

 一人、酔えなかったのは、靭実である。

 進められる杯を干しはしたものの、一向に酔えなかった。

 ちらほらと重臣達が姿を消して行っても、靭実は一人、ちびちびと端の方で酒を飲んでいた。と、先ほどまでいらしたお館様の姿が見えない。もうお静まりであろうかと考えていると、小姓が靭実の所へやって来て、お館様がお呼びとの意を告げた。靭実はキリリと姿を正し、立ち上がると、小姓について廊下を歩いた。小姓はある部屋の前まで導くと、立ち止まり、「ここにてお待ちください。」と告げて行ってしまった。

 靭実は戸を開けた。部屋は灯りが一つ中ほどにあるだけで薄暗い。中に入り、後ろ手に戸を閉めると、横からぬっと何か伸びてきて、靭実の首元に突きつける。靭実は後ろに下がりつつあごをひき、最初は刀かと思ったが、ただの扇子らしいので、横目で相手を見ると、それは高階隆明だった。

「酔っておるか。」

「いえ。」

「もしこれが真剣なればいかがした。」

隆明はバッと扇子をひいた。そして、扇子で自分の肩を叩きながら、部屋の中程まで歩を進めた。靭実はそのままそこに沈まりあぐらをかいてかしこまった。

「お呼びとうかがいましたので。」

「うん。」

隆明は振り向いた。

「そこでは話にならぬ。ここへ来い。」

「は!」

靭実は部屋の中程まで行き、隆明の前でもう一度かしこまった。

「話というのは他でもない。先ほど話した大木村の女神のことだ。」

隆明は靭実の前に歩み寄った。靭実は息を飲む。

「あの、伝説のことでございますか。」

「伝説ではない。気を操り、未来を読むという、巫女姫のことだ。」

 ご存知なのだ。

 靭実は、心の中で焦りを覚えた。

 どうして知れたのか。

 己の心の中を、記憶を探ってみる。額に汗がにじむ。

「小夜というのだそうだな。年は十九。」

上から隆明の声が降ってくる。靭実の表情は、隆明には見えない。

 この焦りを、悟られてはならないのだ。

「おぬし、知っておろう。」

靭実は体にぐっと力を込めた。

「何がでございましょう。」

隆明はかがみ込んで、靭実の顔を覗き込んだ。閉じた扇子をピシリとうつむいた靭実の頬にあてた。顔の線にそわせて、顎の下にいれ、それで靭実の顔を上向かせた。

「わしに隠し立てする気か?」

バシッと靭実の顔を、扇子で横様に殴った。靭実が斜めによろける。そして隆明が、その横腹を蹴ると、靭実は床に向かって倒れた。倒れた靭実の前襟をつかんで表を向かせると、「お許しを」といって、靭実は逃げ腰になってもがいた。すると隆明は、直垂の襟をつかんで、靭実の耳元に顔を近づけた。

「何故あらがう。大木村で、昔の女にでもおうて来たのか?」

低い声でささやいた。靭実の動きがピタリと止まる。隆明は鼻で笑うと、胸紐を解いて荒々しく直垂を取り、小袖をむいて、靭実の左肩を出し、うつむかせた。

 ポンと肩の辺りを軽く扇子で叩く。

「これが、わしを逃がす時に負うた傷。」

そして、靭実の肩に顔を寄せ、舌を出し、傷にそって下からゆるりとなめ上げた。

 靭実は必死でこらえている。

 隆明は肩の傷をなめ終えると、顔を離し、今度は小袖を腰まで下げた。

「なるほど。」

右手と右足で靭実を抑えつけ、隆明は左手を伸ばして灯りを寄せる。

「ここにも傷が三筋。昔そなたに尋ねた時は、獣傷だと答えた。しかし一昨日、お前を診た医師に尋ねたら、この様な傷が、ここまで美しくなるのはおかしいと言いよった。しかし、もっとおかしいことがある。それは、この肩にある太刀傷が、十日ばかりでここまで癒えるはずはないと…。とても、人の技とは思えぬらしい。」

 隆明は抑えつけていた手と足を離した。

「わしはな、靭実、お前が戻った日、おかしいと思うたのよ。あの超え難き峠を何故馬で越えて逃れ、そしてまた帰ってこれたのかと。しかも深手の太刀傷を負うておったはずなのにだ。答えは簡単だ。傷は何者かに手当てされた。そして道も、初めての者なら分からぬが、地元の者なら皆知っておる道があるそうだ。そこを通れば馬でも越えられる。大木村から白石山を少し登り、それから小川にそっており、国境いを越えて行く。おぬしはその道を知っていた。何故知っていたのか。それはおぬしが、あの村にいて、その道を越えてきたことがあるからだ。お前はあの巫女姫に、二度までも命を救われたのだ。」

 そこで隆明が言葉をとめて、靭実の顔を覗き込むようにすると、靭実は座したままうつむいた姿勢で、声を絞り出すようにして答えた。

「何をおっしゃっておられるのか…。」

「まだシラを切るか!」

隆明は一喝した。

「何故そんなにしてまでその女をかばう! わしを偽りきれると思うておるのか、このばか者め!」

 靭実は隆明の気迫に圧され後ろにしりぞいた。

 相手をかみ殺さんばかりの気迫だ。

 隆明は靭実から視線を外した。

「服を着よ。」

 靭実が隆明にむかれた服を着る。

 居住まいを正した。

「明朝、お前に五十の兵を与える。」

隆明の言葉に、思わず靭実は顔を上げた。

「わしはな、お前がかわいいのよ。」

隆明は愁いを含んだまなざしで、靭実をじっとみつめた。

「だから、こんなつまらぬことで手放したくはないのだ。」

 靭実はゆっくりと、隆明の顔を見上げた。

 隆明の意図がくみとれない。

「明日、大木村へ向かい、巫女姫小夜をわが元に連れてまいれ。」

「お館さま、それは――!」

靭実は思わず目を見開いて叫んだ。

「それは、稲賀の領地に兵を出すことに等しく、そのようなことになれば、稲賀は黙っておりますまい。戦になりまする!」

靭実が必死で訴えるのを一瞥して、隆明はふっと笑った。

「たとえ戦を起こしても、欲しい姫よのう。」

靭実は隆明の言葉に愕然とした。隆明はそれだけ本気なのだ。

「手に入れて、どうなさるのです。」

「気を操り、未来をよみ、人の傷まで治すという。その力があれば、どんな戦でも勝てよう。天下をも取れよう。何故稲賀が放ってあるのかは知らぬが、他の武将たちに奪われる前に、手に入れねばならぬ。」

「お言葉ですがお館さま。」

取り乱した様子も消え、靭実はきっと構えて隆明を見た。

「一武人が女の手を借りて戦に勝ったなどと知れたら、天下の者は何と申しましょう。まして、人の力を超えた者の…。」

「そう、人の力を超えた者だ。靭実、わしは何も巫女姫を戦の先頭に立たせて戦わせるわけではない。姫の不思議な力を借りるのよ。巫女の力を借りるなどというのは大昔からあること。たとえ、今の世においてそれを何と言われようと、気も未来も本来は目に見えぬもの。目に見えぬものをどうして人が分かりえようか。そういうものを信じぬというのが、今の世の人というものではないか。」

「は…」

「ただ戦女神の巫女姫を手に入れる。それだけなのだ。あるかなきかの力なぞ、誰にも見えぬ。よって誰にも、責められぬ。」

 靭実は苦渋の色を顔に浮かべてうなだれた。隆明はそれを気にもとめない様子だ。

「大木村の結束はすばらしい。巫女姫が言うことを聞かぬなら、村人たちを盾にとってでも言うことを聞かせろ。」

 もう、お館さまの心を動かすことは出来ないのだ。

 靭実の手が震える。どこにも行き場のない思いが、体の中に満ち溢れていた。小夜を捕らえねばならぬ。自分の命を二度まで救って、あんなに好きになった女を、戦の道具にするために――。

 しかし、靭実には、この隆明を裏切ることは、それ以上に出来ないことなのだ。それは、隆明に対する忠誠と、共に戦った仲間を捨てることになる。そして何よりも、我が身のかわいさ――。

 靭実はためされているのだ。どちらを取るかと。

「承知いたしました。」

 彼は決断した。隆明は靭実の言葉に低く「うむ。」とだけうなずいた。

「では明朝、出立せよ。」

「お待ちください!」

行こうとする隆明を呼び止める。

「何故、何故お館様は、大木村の巫女姫のことをお知りになったのです。」

振り返った隆明は、靭実に意味あり気な視線をくれた。

「――お前が、国に帰って変な里心を出したのではないかと案じたのだ。いくら親兄弟を殺されたとて、知人の一人や二人はいよう。お前の帰り来た日、手の者に調べに行かせた。馬と帰り来た方角をてがかりにな。そしてすぐ大木村に行き当たったのだ。しかし馬の主に尋ねても、知っておるようなのに、何故か知らぬという。手の者は不審に思い、その村の者をここまで連れてきて吐かせたのだ。」

 何故、超え難き峠を負傷して、馬に乗ったまま越え得たのか。隆明のこの疑問が、靭実に対する疑惑となった。疑いを抱いたのは、隆明だけではない。他の重臣たちもそうだった。そして、疑いの晴れた後も、靭実の心の程は知り得なかった。今度のことは、靭実の心を知るという腹づもりもあったのだ。

「そうだ、お前、慈五郎という男を知っているか?」

「慈五郎?」

「昨日、大木村から連れて来た親子の父親なのだ。これがどんなに責めてもなかなか吐かぬ。最後には子供を盾にその母親を責めたら、ようやく吐きおったわ。お前のことも、巫女姫のこともすべてな。」

「――その親子は今…」

「父親は今朝方、舌を噛み切って死んでおったそうな。たかが小娘一人に、見事な忠誠心よのぉ。おお、そうじゃ、残った母子も連れて行くがよい。何か役に立つかもしれんでな。」

 隆明はそう言い放った。

 靭実はうつむいた。拳に力がこもって震えている。

 隆明はそんな靭実を尻目に、部屋の入り口まで歩いた。

「では頼むぞ。」

それだけ言い残して、出て行った。

 靭実は、隆明の出て行った板戸をじっとみつめた。ろうそくの灯火しかない暗い部屋の中で、板戸の色はいっそう黒くみえる。

 わかっていたはずではないか。

 靭実は心の中でつぶやいた。

 今の世にあっては、なまやさしいことなど言ってはいられない。食わなければ、食われるだけなのだ。非情にならなければ、渡ってはいけぬ。

 わかっていたはずではないか。

 でも―――。

 靭実はダンと拳で床をたたいた。行き場のない思いが、胸の中で交錯する。

 暗い暗い部屋の中、床をたたいた拳の音は、ただただむなしく響くだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る