第六章

 小夜がやっと落ち着きの心を取り戻して、朔次郎との別れを考え始めたのは、朔次郎と再会を果たしたその日だった。

 現実をみつめたのは小夜の方が早かった。小夜は巫女姫として生きていかねばならない。この恋は貫き通せない。

 今は互いに一つ所にいられれば、それだけで幸せだった。しかし、このままで行けば、いつかそれだけでは許されない時が来るだろう。朔次郎ももうすぐ動けるようになる。そうすれば国境を越えなければならないのだ。

 重い心で別れを告げねばと決めたのだ。

 別れを考えてから、三日後のことだった。

 だが、言おうと決心したその日の夕べ、小夜はなかなか言い出せずにいた。囲炉裏の端にすわって、何か言いたげにそわそわと落ち着かない小夜に、朔次郎は「どうしたのだ。」と尋ねた。

 「いえ」と誤魔化そうとしたが、すぐに思いなおし、膝の上の拳をぎゅっと握り締めた。

「もう、傷もずいぶんよくなりましたなあ。」

「ああ。」朔次郎は笑った。「小夜のおかげだ。」

胸がしめつけられるように痛んだ。

「もう二、三日したら、自由に動けましょう。私がハヤテで、国境いまでお送りいたします。」

朔次郎は小夜の言葉にはっとして、思わず体を固くした。予期しなかったことではないはずなのだ。ただ、心のどこかにあるそれを、無意識のうちに打ち消していたのだ。

 言い出さなければならないのは、朔次郎の方だった。

 まさか、志半ばでこんなところで埋もれていられるわけがない。

「小夜。」

小夜は朔次郎の方を向いた。その目は潤んで光っていた。朔次郎は小夜の方へと手を伸ばす。袖をつかんで引き寄せると、その胸に小夜を抱きとめた。

 二人共、しばらく抱き合ったまま、何も言わなかった。

 頼る者もない他国。国境を越えたからと言って、その先はどうなるかもわからない。村に入り込むには、よそ者には厳しい。お館などに仕官を目指したところで、氏素性の知れぬ身である。仇討ちなど到底おぼつかないかもしれない。

 そして、そんな朔次郎が去った後、小夜はそこに取り残されるのだ。巫女姫として一生、生きていかねばならない。しかもたった一人で、この村の、あの社殿の中で――。

 朔次郎を知ってしまった今の小夜には、それはあまりにも辛すぎることだった。

「一緒に行こう、小夜。」

小夜は思わず顔を上げた。

 朔次郎を見ると、その目は輝いていた。朔次郎は小夜の両腕をつかんで、小夜の目をじっとみつめた。

「一緒に行こう。一緒に、国境いを越えて、二人で暮らそう。お前がいれば、きっとうまく行く。俺の、嫁になってくれ、小夜。」

それは、朔次郎がここ数日ずっと夢に描いていたことだった。小夜と夫婦になって暮らしていく。そんなことが現実になれば、どんなによいだろうかと。

 しかしまさか、そんなことを朔次郎が言い出すとは、小夜には思いつきもしなかった。

「出来ません。」

「なぜ!」

朔次郎は声をあげた。

「私は巫女姫として生きていかねばなりません。巫女姫は神の花嫁、人との婚儀は一切許されぬのでございます。」

「そんな馬鹿なことがあるか。巫女姫として生きていかねばならないだと? そんなこと、一体誰が決めたのだ?」

「さだめでございます。」

「何?」

「私はこの力を持って生まれてしまった。それは、私が、巫女姫として生きねばならないということなのです。」

「お前が好きでそうなったわけではないだろう! 生まれたとき、勝手にくっついてきただけだ。それなのに、なぜお前がそんなものにしばられねばならないのだ!」

必死で訴える朔次郎に、小夜は思わず目をそらせた。

「お前はそれで幸せなのか?」

小夜はどきりとした。

 今まで、幸せかどうかなどと考えたことはなかったのだ。

 幸せとは、何だろう。朔次郎と共にいる時の、あの感覚?

 しかし―――

「そんなことで、お前は幸せに暮らしていけるのか! 村のことでなく、一族のことでなく、まず、自分のことを一番に考えろ!」

朔次郎は小夜をかき抱いた。

「人間は、一番にまず自分の幸せを考えなければいけない。俺なら、俺なら、お前を幸せにしてやれる。」

 小夜の心が揺らいだ。

 本当のところは、夫婦になるとか、巫女姫として生きることがどうとか、幸福の意味とか、そんなことは頭の中になかった。

 小夜は朔次郎と離れたくない。

 何はさておき、離れたくない、それだけが確かだった。

 朔次郎と共に生きていければ、どんなにか楽しいだろう。

「本当でございますか。」

小夜は頭をもたげた。

「本当に、私を――。」

「ああ、本当だ。運命なんて、くそっくらえだ。俺は一人の女として、お前に惚れたのだ。巫女の力など、どうでもよい。」

朔次郎は小夜をみつめた。小夜もひたと朔次郎の目を見返す。

「ついてきてくれるな。」

 小夜はその時、何か酔わされたような心地で、「決めて」しまったのだ。

 今まで味わったこともない、甘い淡い情動――朔次郎の瞳の向こうに、大きな、幸せという未来が隠れているような気がした。

 行こう。朔次郎と共に行こう。

 つらい修行も、巫女のことも、村も一族も捨てて、私一人が生きるために。

 私のために、泣いて笑って、私は生きるのだ。


 市中にぼろぼろになった靭実が現れたのは、まさに佐助が小夜の所に来たその日の昼近くだった。靭実があの小屋をたったのは、慈五郎が馬を持って来てくれたその日の夜だったから、あのとき小夜が小屋に行っていなければ、靭実は間にあわなかったかもしれない。

 市中を徘徊していた小坂の家来衆が靭実をみつけ、小坂茂実はようやく息子の無事を知ったのである。

「何? 靭実が?」

靭実に付き従っている家来衆より一足先に、靭実の帰りを告げに茂実の元へと使いが来た。

「はい。肩に負傷はされたものの、お命に別状はなく、ただ、傷がなかなか治らなかったのと、敵の目をあざむくのに時がかかり、お帰りが遅れたとのことでございます。」

「そうか。――それで、靭実は今どこに?」

「今ちょうどこちらに向かっておられます。もうすぐお着きになるでしょう。」

茂実は満足気にうなずいた。

「大儀であった。」

「は!」

急使が一礼すると、門前でガヤガヤと騒がしい声がきこてきた。屋敷の玄関のところに立っていた茂実は、馬が門前に止まり、そこから下りてくる息子の姿をみとめた。

「義父上!」

靭実は門の中へ入ると、義父の前で膝をついた。

「靭実、ただいま戻りましてござります。」

「ん。ご苦労であった。傷はどんな具合だ。」

「は! もうふさがりましてござります。敵の追及厳しく、それを欺くのに時がかかり、到着が遅れましてございます。」

「うん。詳しい話は後できこう。とにかく、医師を呼ぶから診てもらえ。それから湯をあび着替えをしなさい。お館様の元に参上して報告に行かねばならぬからの。」

「は!」

靭実が頭を下げると、茂実はうなずいて、家来の者に医師を呼びにいかせた。靭実が胸当てをとって履物を脱ぎ屋敷に入って自室へ向かうと、もう医師がやってきた。段取りの早さに驚いたが、帰参と共に家来衆の一人が呼びにいっていたのだろう。

 現れた医師に向かって、靭実は声をかけた。

「もう傷は治っているぞ。」

「念のため、でござります。治ったからと放っておきますと、たいへんなことになりかねません。――失礼。」

言って、腰を下ろした靭実の上衣をとった。

「失礼ながら、ご自身で治療なされたのですか?」

背中からきこえる医師の声が震えている。靭実には見えないが、医師はひどく驚愕しているらしかった。

「ほかにも傷跡がございます。これはもっと古い…。」

靭実は、ばっと衣をあげて、医師の方へと振り返った。

「何だというのだ。」

「いえ…。」

靭実の気迫に、医師はたじろぐ。

「先日の戦の折に受けた傷は、その肩の傷でございますな? い、いえ、傷跡が、きれいすぎるので…。」

「何?」

「刀傷で、ここまで早く美しく回復しておるものを、私は今まで見たことがございませぬ。まるでただ、赤く線をひいただけのような…。とても、人の技とは思えませぬ。」

 医師のこの言葉で、靭実の脳裏に小夜の姿が浮かんでぎょっとした。

 途端に、靭実は医師を睨みつけた。戦場では鬼神のごときと言われる彼である。医師は思わずひぃと声を上げて後ろにひいた。

「わしの傷に、何か文句でもあるのか?」

「いえ、いえ、何も…。」

靭実は立ち上がった。

「もう傷は完治しておろう。他では余計なことは申すな、よいな。」

「は、は、はい。」

医師はひれ伏した。

 靭実はその姿を一瞥すると、湯をあびるために奥へと入って行った。

 小夜のことを高階隆明に知られれば、隆明はどんなことをしても、小夜を手にいれたいと思われるだろう。確かに、小夜の力があれば、隆明は天下をとれるかもしれない。しかし、靭実は、それはしてはならないと思った。小夜は、靭実の命の恩人である。しかも、二度も助けられた。

 そうして、何よりも、昔惚れた女を戦の道具に使うことは、靭実は許されぬことだと思ったのだ。


 若さゆえの情熱だったかもしれないと、あとで小夜はよく思ったものだった。

 小夜はあの日、朔次郎との出発は明晩ということにして別れたのだ。行動は早い方がいい。誰にも内緒にして行かねばならぬ。

 小夜は気が気でなかった。

 それでも朝は、これが最後の朝のお勤めだと思い、祈った。村々を回って、もう二度と帰れぬかもしれぬと、あちらこちらを見て回った。人にも会って話をした。

 生まれた時から暮らした故郷。何度あの道を走ったか。何度あの空をめぐったことだろう。

 涙が頬を伝った。声も立てずに静かに泣いた。

 心乱せば風が乱れてばれてしまう。

 いくら村が自分をしばるとて、それを捨てるのは哀しくてならなかった。まさかこんな日が来るとは思わず、今さらながらその愛しさに胸がつまった。

 夕べのお勤めが終わると、小夜は改めて巫女姫に深々と頭を下げた。

 つらいこともたくさんあった。何度も何度も叱られた。しかし、それ以上に巫女姫には弟子として愛してもらった。

 この人に黙っていくのは、一番辛かった。でも、一番言ってはならない人である。なぜなら、小夜は、今からこの巫女姫を裏切るのだから。

 それで、仮殿から本殿に戻ろうとする巫女姫に、思わず声をかけてしまった。「巫女姫さま」と。

「何じゃ。」

巫女姫は振り返った。別に話すことなどなかったのだ。ただ、迫り来るものに耐えかねて、呼び止めてしまったのだった。

「いえ…。」

「何じゃ、何か言いたいことがあるのなら、申してみよ。」

「いえ、いいえ。何でもありませぬ。お呼びとめして申し訳ありませぬ。どうぞ、お休みなさいませ。」

 巫女姫はじっと小夜をみつめた。そんな巫女姫に、小夜は自分の考えが知れたかと思ってどぎまぎしたが、巫女姫は「お休み」と言って帰っていたので、ようやく小夜はほっと胸をなでおろした。

 小夜が仮殿を出ると、あたりはずいぶん暗くなっていた。境内より下る石段から、西の空が淡い茜色に染まっているのが見える。冬の冷たい風が抜けるのを小夜は感じながら、しばらくその景色にみとれていた。

 小夜は石段を下りきってすぐの所にある、自分の家に入った。

 家の中がしんとして、暗い。父親や慈五郎の姿を見て行こうと思ったのに、灯り一つついていなかった。

 少しばかりの旅支度は、朝のうちにすませてしまっている。

 案外、このまま会わずに行ったほうがいいのかもしれない。会えば、決心が鈍るだけ。自分は皆を裏切り、村を捨てるのだ。一生あえないのなら、今ここで死ぬのも同じこと。無駄な名残の面会など、しない方がいい。

 しかし、せめて信乃の顔だけでも見たいと思い、

「信乃。」

と呼んでみた。しかし、返事はなかった。すると、今まで人気のなかった入り口の戸が、突然すすーと開いて、信乃の顔がのぞく。

「信乃。」

 信乃の顔はよく見えなかったが、家の中に入らず、戸口に立ったまま、じっと小夜をみつめている。

 小夜は、何か、変だと思った。

 理由もわからず背筋が寒くなった。

「どうしたの、信乃。こんなに暗くして。父上たちはどこへ行かれた? 長老のところか?」

信乃は答えなかった。

 小夜の不安は、その暗さと静けさにかきたてられる。

「信乃?」

「姉さまは、どこへ行かれるのですか?」

信乃の声は震えている。小夜はぎくりとした。

「え?」

「姉さまは、本当に気付かれませなんだか? 一族の男たちが交代で、毎夜あの猟師小屋を見張りに行っておりましたのよ。」

 小夜は愕然とした。

 体が奮えはじめたのがわかる。

 皆、ばれているのか?

「今日は皆、昼から長老の家に集まり、日暮れ前にもあの小屋へと出かけていきました。朔次郎どのを、追い出すのだと言って。」

「なぜ―――。」

膝がガクガクと震えている。

「なぜ? なぜわからないことがありましょう。あの、おかしな風が吹いた日、巫女姫様は朔次郎さんのことに気付いておいででした。二、三日、姿を消す私に、何か知らぬかと村人たちが私に問いただしたのです。」

「話したのか?」

「父さまは、姉さまのためだと申されました。姉さまは、本当に、巫女職を捨てて、私たちを捨てて、行くおつもりでしたの?」

 小夜は信乃に返事をせずにかけだした。入り口にいる信乃にぶつかって、信乃が倒れても、目もくれずにかけて行った。

「姉さま! 行っても無駄でございます! 姉さまあ―――――!」

 信乃は必死で叫んだが、小夜の耳には入っていなかった。残り火のような空が、西の山を浮き立たせている。村は闇に沈もうとしていた。

 小夜はハヤテを呼んで飛び乗った。



 その頃、朔次郎は荷作りと部屋の片付けをすませて、小夜が来るのを今か今かと待ちわびていた。小夜は夕べの勤めが終わってから来るはずだから、もうそろそろだろう。

 コンコン――と戸をたたく音がした。朔次郎はすぐに顔を上げて戸の方を見た。

「小夜か?」

呼びかけると返事もなく、突然ガラリと戸が開いた。

 ザザッと土間に多勢の人が流れ込んだ。武装した村の男たちだった。朔次郎は反射的に立ち上がった。男たちは刀や槍を構え、切っ先を朔次郎の方へ突き出した。

 朔次郎は息をのまれた。たたずんでいると、戸口から長身で壮年の男と、弱弱しく杖をついた老人が入ってきた。壮年の男は、三十代後半といったところだろう。体から威厳が満ち、キリリとした相好をしている。持っている雰囲気が、小夜とよく似ていた。

「お前が義見朔次郎か。」

壮年の男が尋ねた。義見とは、朔次郎の乳母方の姓である。

「いかにも。」

「お館からの追討の命が出ている。お館様を討とうとした徒党の頭としてな。北の方角に逃れたと聞いておったのに、よもや負っ手の目を欺いて反対方向に来ていようとは思わなんだ。生け捕りにして差し出せば、恩賞が下されるそうじゃ。」

 恩賞の言葉に、朔次郎はごくりとつばを飲み込んだ。

 額に汗がにじんでいるのが分かる。

「俺を、稲賀に突き出そうというのか。」

「そうだ――と言いたいところだが、このままおとなしくここを去れば、だまって見逃してやる。わが娘小夜をたぶらかそうとした男なれば、なぶり殺しにしても気がすまぬところだがな。匿ったのは誰でもない小夜であることだし――小夜が力を注いで命を救ったのだ。小夜に免じて許す。お前一人で早々に立ち去るがよい。」

壮年の男は小夜の父親で、喜三郎という。現巫女姫の実弟で、巫女姫とは一回りも違った。

 朔次郎は当惑を隠せぬ様子で、喜三郎を見た。

「小夜は、小夜はこのことを知っているのか?」

「知らぬ。」

「ならば、俺一人でここを立ち去るわけにはゆかぬ。小夜も一緒だ。」

朔次郎は当惑を捨て、毅然とした態度になってそう言い切った。土間にいならぶ男たちがザワとうごめいて、刀を持つ手に力を込めた。

「何をたわけたことを―――。」

「たわけてなどいない。俺は、小夜と約束したのだ! 一緒に山を越え、そして夫婦になろうと!」

「たわけ!」

喜三郎が一喝した。朔次郎はひるんで、思わず後ろにさがった。

「巫女姫ともなる小夜が、お前の嫁になどなれるはずがなかろう! まして仇持ちで、恩賞までかかった、どこの馬の骨とも知れぬお前に…。小夜はこの乱世を乗り切るために、神が我々に下された子、我々の期待を一身に背負った娘なのだ。何のためにこの七年間、巫女姫さまが鍛えられたと思うのだ!」

「それは、それはお前たちの勝手な言い分だ。小夜は巫女姫になることなど望んではいなかった。小夜は小夜の幸せがあるはずだ。」

「それがお前と行くことだというのか。」

「そうだ。」

喜三郎はふっと笑った。

「お前には、巫女姫としての力を持つ小夜が、まるで分かっておらぬ。お前などでは、小夜は幸せにはなれぬわ。」

その時、小屋の外を、ごうと音を立てて風が吹きぬけた。外にいる者たちがガヤガヤと声を立てる。小屋の外もいっぱいに囲まれているのだ。外から、「小夜だ、小夜だ。」と言う声がきこえてくる。と、すぐに、「朔次郎さん!」と叫ぶ声がきこえてきた。

「小夜!」

朔次郎が声を返す。外で囲む者が小夜をとめにかかった。

「小夜、入ってはならぬ。小夜!」

「離してください! はなして!」

皆が小夜を引き止める。細く小夜の「朔次郎さん!」と叫ぶ声が聞こえてくる。

「小夜!」

朔次郎は途端に、囲炉裏に刺してあった火箸を抜いた。そして、戸口目指して駆け出した。戸口の辺りにいた男の刀を力いっぱいキンッと払い、男を蹴飛ばすと、それにつられて後ろが総崩れになる。そうして朔次郎は戸口から出ようとした。しかしその次の瞬間、大きく動く影があって、朔次郎の首元にすっと刀の刃が伸び、皮膚の上に赤い筋が横にひかれた。

 刀は、朔次郎の首をなでた形で静止している。

 朔次郎は体を硬直させたまま、目だけを、その刀の主の方へと動かした。

 小夜の父親の喜三郎だった。眼光鋭く、その構えには一寸の狂いもなかった。

「胸を患って以来、戦場には出ておらぬが、喜三郎殿は剣の名手。お前のかなう相手ではない。」

 横にいる長老が静かに言った。

 小夜の父親がもし胸を患っていなかったなら、今頃は稲賀の重臣の一人にでもとりたてられていたかもしれない。しかし彼は、胸の病と小夜の力の目覚めで戦場を去った。己と一族のことを考えての決断だった。村に戻って病は落ち着いたものの、彼はその腕をもっぱら村の若者の育成にあてた。

 朔次郎は大人しく火箸を捨てた。首筋につきつけられた刀は朔次郎に迫り続け、それをよけるように彼は地に崩れ落ちた。

 回りのものが彼をとりおさえる。

 村人が彼を引っ張って立たせると、「行け。」と後ろ手につかんで外へと歩かせた。

「朔次郎さん!」

朔次郎の姿を見て、群集の中から小夜が叫んだ。朔次郎は小夜の顔をみつめた。その顔には、なんとも言えぬくやしさがあふれていた。

「朔次郎さん!」

小夜がもう一度叫んで手を伸ばす。群衆を押し分けようとする小夜に、村人が「駄目だよ、小夜ちゃん。」とささやきあってとめる。群集の中には女、子供までいる。村人の大半が集まっているのではないかと思われるほどの人数だ。

「小夜!」

行けと押す村人に逆らって、朔次郎が身をよじる。村人は朔次郎を引っ張り続けた。

「待って! 連れて行かないでえ! お願いです。お願い…!」

小夜も、押さえつける若者から抜け出そうと必死にもがいた。すると、ふいに朔次郎が後ろにいる村人をどっかと蹴りつけた。横にいる村人たちを振り払って、小夜の元へとかけてくる。

「朔次郎さん!」

思わず小夜は朔次郎に歓喜の声をあげた。

 ドカッ!

 朔次郎の腹に、長老の杖が食い込んだ。朔次郎は「ぐう…。」と声を上げ、そこに崩れ落ちる。

「小夜よ。」

長老は小夜の方を向く。

「この男が何を言ったかは知らぬ。だがお前は、幼い頃から続けた修行を無駄にするのか。巫女姫どのや我らの心を裏切るのか。」

「私が望んだわけではありませぬ!」

「小夜!」

村人が朔次郎を気付かせると、朔次郎は腹を押さえてだらんとしていた。長老は村人に「連れて行け。」と命じた。

「目を覚ませ、小夜!」

遠ざかる朔次郎を、必死の目で追う小夜に、長老は一喝した。

 小夜は長老に向き直る。

 激しく顔を歪ませた。

「いやああああ!」

 小夜が叫ぶ。すると、凄まじいつむじ風が、ぐんと舞い上がった。

 木々を揺らし、人々が悲鳴を上げて逃げまどう。ある者は木にうちつけられ、ある者は地面にうちつけられた。

 とても、立ってはいられない。

 ヒュウと音を残し、ようやく風が去っても、村人たちは容易には立ち上がれなかった。

 そのすきに、朔次郎は何とか起き上がった。

 小夜の方へと手を伸ばす。

「来い! 小夜!」

 小夜は駆け出した。逃げるなら今だ! 

 朔次郎の手をつかんだ。

 自由だ。

 二人でかけていくのだ。

 ハヤテを呼べ。風に乗っていけば、もう誰も二人をとめられはしない。

 小夜は空を仰ぎ見た。

 その時だった。

「小夜!」

その声で、小夜の動きが瞬時にして止まった。

 聞き覚えのある女の声が、小夜を呼び止めたのだ。小夜は声のする方へ振り向き、そして叫んだ。

「巫女姫さま!」

小夜は驚愕の色を顔に浮かべた。

 師とも母とも慕うこの人に、この裏切りの場面を見られてしまうとは――!

「行ってはならぬ。」

巫女姫は静かな口調で言った。

「その男は――」

巫女姫は朔次郎を指差した。

「この村に災いをもたらすだろう。」

 小夜は動けなかった。

 そしてこの一瞬の迷いが、全てを決定したのだ。

 倒れていた村人が、朔次郎に飛び掛かった。

「わあ…。」

次から次へと、村人が飛び掛かる。

 そばにいた子供が、小夜の手をつかんだ。女が後ろから小夜を抱く。父が、小夜の横に立ち、巫女姫は小夜の前に歩み出た。

 朔次郎は必死でもがき、小夜を呼んだ。

「さやぁぁ…。」

 小夜は朔次郎の方を振り向いた。

 手遅れだ。

 もう、どうすることも出来ない。

 朔次郎を殴る音が聞こえてきた。力を弱めて身動きできぬようにするためだろう。

 ぐったりとした朔次郎を、村人の一人が抱え上げる。

 小夜が動こうとすると、たくさんの手にひきとめられた。

 朔次郎の姿が遠ざかる。

 ぐったりとした朔次郎が、山を下りていく村人の肩越しに顔を上げた。

「小夜ぁ――、必ずだ。いつかきっと、お前を、お前を迎えに来る。その時まで――」

 朔次郎の姿が見えなくなった。

 小夜は、しっかと見開いたその目で、朔次郎の姿を見送った。

 何も言えない。

「忘れよ、小夜。一時の、気の迷いだ。お前は、大事な勤めがあるのだ。」

隣で巫女姫が静かに語る。

 あまりにも、あっけない幕切れだった。

 一時の気の迷いが、小夜の一生を決めてしまったのだ。

 忘れない、と、小夜は思った。

 今、このとき、この気持ちは、一生忘れない――。

 小夜の目から、涙が、後から後からあふれてくる。

 風が、音を立てて吹き始めた。

「気を静めよ、小夜。乱してはならぬ。」

ゆっくりと、巫女姫の方を振りむいた。

 途端に顔が歪んだかと思うと、

「あああああああ―――――――!」

小夜は、叫びともつかぬ声を上げた。そして雪の上に座りこみ、沈みこみ、声をあげて泣き始めた。この世の終わりかと思う、そんな絶望の声だった。

 やがて、風が強くなってきた。

 吹雪がやってくる。

 小夜の悲しみはいかほどであったのか。

 そこにいる村人たちは、小夜の声に知らず知らず涙をこぼした。

 やがて、その声がおさまっても、小夜はそこに座り込んだまま、朔次郎の去った方向をじっとみつめていた。

 雪がふぶいて、帰ろうというのに、小夜は動こうとしなかった。

 一同が発狂したのではないかと思うほどの放心ぶりだった。

 吹雪は、三日三晩続いた。

 このとき、この事件で、村人たちは、激しい罪悪感に襲われた。

 中でも、一番さいなまれたのは、信乃だった。

 人形のように動かず、生気のなくなってしまった姉を見ながら、もし、この姉に死ねと言われたら、死んでも構わないとさえ思った。

 もし、自分があの時、村人の言うことをきいていなければ――。

 信乃は、生きる気力をなくした姉の看病を、つきっきりでした。

 そしてこの事件は、信乃と村人に大きなしこりを残すことになる。

 この時を境に、小夜は小夜でなくなってしまったのだ。

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