第六章
小夜がやっと落ち着きの心を取り戻して、朔次郎との別れを考え始めたのは、朔次郎と再会を果たしたその日だった。
現実をみつめたのは小夜の方が早かった。小夜は巫女姫として生きていかねばならない。この恋は貫き通せない。
今は互いに一つ所にいられれば、それだけで幸せだった。しかし、このままで行けば、いつかそれだけでは許されない時が来るだろう。朔次郎ももうすぐ動けるようになる。そうすれば国境を越えなければならないのだ。
重い心で別れを告げねばと決めたのだ。
別れを考えてから、三日後のことだった。
だが、言おうと決心したその日の夕べ、小夜はなかなか言い出せずにいた。囲炉裏の端にすわって、何か言いたげにそわそわと落ち着かない小夜に、朔次郎は「どうしたのだ。」と尋ねた。
「いえ」と誤魔化そうとしたが、すぐに思いなおし、膝の上の拳をぎゅっと握り締めた。
「もう、傷もずいぶんよくなりましたなあ。」
「ああ。」朔次郎は笑った。「小夜のおかげだ。」
胸がしめつけられるように痛んだ。
「もう二、三日したら、自由に動けましょう。私がハヤテで、国境いまでお送りいたします。」
朔次郎は小夜の言葉にはっとして、思わず体を固くした。予期しなかったことではないはずなのだ。ただ、心のどこかにあるそれを、無意識のうちに打ち消していたのだ。
言い出さなければならないのは、朔次郎の方だった。
まさか、志半ばでこんなところで埋もれていられるわけがない。
「小夜。」
小夜は朔次郎の方を向いた。その目は潤んで光っていた。朔次郎は小夜の方へと手を伸ばす。袖をつかんで引き寄せると、その胸に小夜を抱きとめた。
二人共、しばらく抱き合ったまま、何も言わなかった。
頼る者もない他国。国境を越えたからと言って、その先はどうなるかもわからない。村に入り込むには、よそ者には厳しい。お館などに仕官を目指したところで、氏素性の知れぬ身である。仇討ちなど到底おぼつかないかもしれない。
そして、そんな朔次郎が去った後、小夜はそこに取り残されるのだ。巫女姫として一生、生きていかねばならない。しかもたった一人で、この村の、あの社殿の中で――。
朔次郎を知ってしまった今の小夜には、それはあまりにも辛すぎることだった。
「一緒に行こう、小夜。」
小夜は思わず顔を上げた。
朔次郎を見ると、その目は輝いていた。朔次郎は小夜の両腕をつかんで、小夜の目をじっとみつめた。
「一緒に行こう。一緒に、国境いを越えて、二人で暮らそう。お前がいれば、きっとうまく行く。俺の、嫁になってくれ、小夜。」
それは、朔次郎がここ数日ずっと夢に描いていたことだった。小夜と夫婦になって暮らしていく。そんなことが現実になれば、どんなによいだろうかと。
しかしまさか、そんなことを朔次郎が言い出すとは、小夜には思いつきもしなかった。
「出来ません。」
「なぜ!」
朔次郎は声をあげた。
「私は巫女姫として生きていかねばなりません。巫女姫は神の花嫁、人との婚儀は一切許されぬのでございます。」
「そんな馬鹿なことがあるか。巫女姫として生きていかねばならないだと? そんなこと、一体誰が決めたのだ?」
「さだめでございます。」
「何?」
「私はこの力を持って生まれてしまった。それは、私が、巫女姫として生きねばならないということなのです。」
「お前が好きでそうなったわけではないだろう! 生まれたとき、勝手にくっついてきただけだ。それなのに、なぜお前がそんなものにしばられねばならないのだ!」
必死で訴える朔次郎に、小夜は思わず目をそらせた。
「お前はそれで幸せなのか?」
小夜はどきりとした。
今まで、幸せかどうかなどと考えたことはなかったのだ。
幸せとは、何だろう。朔次郎と共にいる時の、あの感覚?
しかし―――
「そんなことで、お前は幸せに暮らしていけるのか! 村のことでなく、一族のことでなく、まず、自分のことを一番に考えろ!」
朔次郎は小夜をかき抱いた。
「人間は、一番にまず自分の幸せを考えなければいけない。俺なら、俺なら、お前を幸せにしてやれる。」
小夜の心が揺らいだ。
本当のところは、夫婦になるとか、巫女姫として生きることがどうとか、幸福の意味とか、そんなことは頭の中になかった。
小夜は朔次郎と離れたくない。
何はさておき、離れたくない、それだけが確かだった。
朔次郎と共に生きていければ、どんなにか楽しいだろう。
「本当でございますか。」
小夜は頭をもたげた。
「本当に、私を――。」
「ああ、本当だ。運命なんて、くそっくらえだ。俺は一人の女として、お前に惚れたのだ。巫女の力など、どうでもよい。」
朔次郎は小夜をみつめた。小夜もひたと朔次郎の目を見返す。
「ついてきてくれるな。」
小夜はその時、何か酔わされたような心地で、「決めて」しまったのだ。
今まで味わったこともない、甘い淡い情動――朔次郎の瞳の向こうに、大きな、幸せという未来が隠れているような気がした。
行こう。朔次郎と共に行こう。
つらい修行も、巫女のことも、村も一族も捨てて、私一人が生きるために。
私のために、泣いて笑って、私は生きるのだ。
市中にぼろぼろになった靭実が現れたのは、まさに佐助が小夜の所に来たその日の昼近くだった。靭実があの小屋をたったのは、慈五郎が馬を持って来てくれたその日の夜だったから、あのとき小夜が小屋に行っていなければ、靭実は間にあわなかったかもしれない。
市中を徘徊していた小坂の家来衆が靭実をみつけ、小坂茂実はようやく息子の無事を知ったのである。
「何? 靭実が?」
靭実に付き従っている家来衆より一足先に、靭実の帰りを告げに茂実の元へと使いが来た。
「はい。肩に負傷はされたものの、お命に別状はなく、ただ、傷がなかなか治らなかったのと、敵の目をあざむくのに時がかかり、お帰りが遅れたとのことでございます。」
「そうか。――それで、靭実は今どこに?」
「今ちょうどこちらに向かっておられます。もうすぐお着きになるでしょう。」
茂実は満足気にうなずいた。
「大儀であった。」
「は!」
急使が一礼すると、門前でガヤガヤと騒がしい声がきこてきた。屋敷の玄関のところに立っていた茂実は、馬が門前に止まり、そこから下りてくる息子の姿をみとめた。
「義父上!」
靭実は門の中へ入ると、義父の前で膝をついた。
「靭実、ただいま戻りましてござります。」
「ん。ご苦労であった。傷はどんな具合だ。」
「は! もうふさがりましてござります。敵の追及厳しく、それを欺くのに時がかかり、到着が遅れましてございます。」
「うん。詳しい話は後できこう。とにかく、医師を呼ぶから診てもらえ。それから湯をあび着替えをしなさい。お館様の元に参上して報告に行かねばならぬからの。」
「は!」
靭実が頭を下げると、茂実はうなずいて、家来の者に医師を呼びにいかせた。靭実が胸当てをとって履物を脱ぎ屋敷に入って自室へ向かうと、もう医師がやってきた。段取りの早さに驚いたが、帰参と共に家来衆の一人が呼びにいっていたのだろう。
現れた医師に向かって、靭実は声をかけた。
「もう傷は治っているぞ。」
「念のため、でござります。治ったからと放っておきますと、たいへんなことになりかねません。――失礼。」
言って、腰を下ろした靭実の上衣をとった。
「失礼ながら、ご自身で治療なされたのですか?」
背中からきこえる医師の声が震えている。靭実には見えないが、医師はひどく驚愕しているらしかった。
「ほかにも傷跡がございます。これはもっと古い…。」
靭実は、ばっと衣をあげて、医師の方へと振り返った。
「何だというのだ。」
「いえ…。」
靭実の気迫に、医師はたじろぐ。
「先日の戦の折に受けた傷は、その肩の傷でございますな? い、いえ、傷跡が、きれいすぎるので…。」
「何?」
「刀傷で、ここまで早く美しく回復しておるものを、私は今まで見たことがございませぬ。まるでただ、赤く線をひいただけのような…。とても、人の技とは思えませぬ。」
医師のこの言葉で、靭実の脳裏に小夜の姿が浮かんでぎょっとした。
途端に、靭実は医師を睨みつけた。戦場では鬼神のごときと言われる彼である。医師は思わずひぃと声を上げて後ろにひいた。
「わしの傷に、何か文句でもあるのか?」
「いえ、いえ、何も…。」
靭実は立ち上がった。
「もう傷は完治しておろう。他では余計なことは申すな、よいな。」
「は、は、はい。」
医師はひれ伏した。
靭実はその姿を一瞥すると、湯をあびるために奥へと入って行った。
小夜のことを高階隆明に知られれば、隆明はどんなことをしても、小夜を手にいれたいと思われるだろう。確かに、小夜の力があれば、隆明は天下をとれるかもしれない。しかし、靭実は、それはしてはならないと思った。小夜は、靭実の命の恩人である。しかも、二度も助けられた。
そうして、何よりも、昔惚れた女を戦の道具に使うことは、靭実は許されぬことだと思ったのだ。
若さゆえの情熱だったかもしれないと、あとで小夜はよく思ったものだった。
小夜はあの日、朔次郎との出発は明晩ということにして別れたのだ。行動は早い方がいい。誰にも内緒にして行かねばならぬ。
小夜は気が気でなかった。
それでも朝は、これが最後の朝のお勤めだと思い、祈った。村々を回って、もう二度と帰れぬかもしれぬと、あちらこちらを見て回った。人にも会って話をした。
生まれた時から暮らした故郷。何度あの道を走ったか。何度あの空をめぐったことだろう。
涙が頬を伝った。声も立てずに静かに泣いた。
心乱せば風が乱れてばれてしまう。
いくら村が自分をしばるとて、それを捨てるのは哀しくてならなかった。まさかこんな日が来るとは思わず、今さらながらその愛しさに胸がつまった。
夕べのお勤めが終わると、小夜は改めて巫女姫に深々と頭を下げた。
つらいこともたくさんあった。何度も何度も叱られた。しかし、それ以上に巫女姫には弟子として愛してもらった。
この人に黙っていくのは、一番辛かった。でも、一番言ってはならない人である。なぜなら、小夜は、今からこの巫女姫を裏切るのだから。
それで、仮殿から本殿に戻ろうとする巫女姫に、思わず声をかけてしまった。「巫女姫さま」と。
「何じゃ。」
巫女姫は振り返った。別に話すことなどなかったのだ。ただ、迫り来るものに耐えかねて、呼び止めてしまったのだった。
「いえ…。」
「何じゃ、何か言いたいことがあるのなら、申してみよ。」
「いえ、いいえ。何でもありませぬ。お呼びとめして申し訳ありませぬ。どうぞ、お休みなさいませ。」
巫女姫はじっと小夜をみつめた。そんな巫女姫に、小夜は自分の考えが知れたかと思ってどぎまぎしたが、巫女姫は「お休み」と言って帰っていたので、ようやく小夜はほっと胸をなでおろした。
小夜が仮殿を出ると、あたりはずいぶん暗くなっていた。境内より下る石段から、西の空が淡い茜色に染まっているのが見える。冬の冷たい風が抜けるのを小夜は感じながら、しばらくその景色にみとれていた。
小夜は石段を下りきってすぐの所にある、自分の家に入った。
家の中がしんとして、暗い。父親や慈五郎の姿を見て行こうと思ったのに、灯り一つついていなかった。
少しばかりの旅支度は、朝のうちにすませてしまっている。
案外、このまま会わずに行ったほうがいいのかもしれない。会えば、決心が鈍るだけ。自分は皆を裏切り、村を捨てるのだ。一生あえないのなら、今ここで死ぬのも同じこと。無駄な名残の面会など、しない方がいい。
しかし、せめて信乃の顔だけでも見たいと思い、
「信乃。」
と呼んでみた。しかし、返事はなかった。すると、今まで人気のなかった入り口の戸が、突然すすーと開いて、信乃の顔がのぞく。
「信乃。」
信乃の顔はよく見えなかったが、家の中に入らず、戸口に立ったまま、じっと小夜をみつめている。
小夜は、何か、変だと思った。
理由もわからず背筋が寒くなった。
「どうしたの、信乃。こんなに暗くして。父上たちはどこへ行かれた? 長老のところか?」
信乃は答えなかった。
小夜の不安は、その暗さと静けさにかきたてられる。
「信乃?」
「姉さまは、どこへ行かれるのですか?」
信乃の声は震えている。小夜はぎくりとした。
「え?」
「姉さまは、本当に気付かれませなんだか? 一族の男たちが交代で、毎夜あの猟師小屋を見張りに行っておりましたのよ。」
小夜は愕然とした。
体が奮えはじめたのがわかる。
皆、ばれているのか?
「今日は皆、昼から長老の家に集まり、日暮れ前にもあの小屋へと出かけていきました。朔次郎どのを、追い出すのだと言って。」
「なぜ―――。」
膝がガクガクと震えている。
「なぜ? なぜわからないことがありましょう。あの、おかしな風が吹いた日、巫女姫様は朔次郎さんのことに気付いておいででした。二、三日、姿を消す私に、何か知らぬかと村人たちが私に問いただしたのです。」
「話したのか?」
「父さまは、姉さまのためだと申されました。姉さまは、本当に、巫女職を捨てて、私たちを捨てて、行くおつもりでしたの?」
小夜は信乃に返事をせずにかけだした。入り口にいる信乃にぶつかって、信乃が倒れても、目もくれずにかけて行った。
「姉さま! 行っても無駄でございます! 姉さまあ―――――!」
信乃は必死で叫んだが、小夜の耳には入っていなかった。残り火のような空が、西の山を浮き立たせている。村は闇に沈もうとしていた。
小夜はハヤテを呼んで飛び乗った。
その頃、朔次郎は荷作りと部屋の片付けをすませて、小夜が来るのを今か今かと待ちわびていた。小夜は夕べの勤めが終わってから来るはずだから、もうそろそろだろう。
コンコン――と戸をたたく音がした。朔次郎はすぐに顔を上げて戸の方を見た。
「小夜か?」
呼びかけると返事もなく、突然ガラリと戸が開いた。
ザザッと土間に多勢の人が流れ込んだ。武装した村の男たちだった。朔次郎は反射的に立ち上がった。男たちは刀や槍を構え、切っ先を朔次郎の方へ突き出した。
朔次郎は息をのまれた。たたずんでいると、戸口から長身で壮年の男と、弱弱しく杖をついた老人が入ってきた。壮年の男は、三十代後半といったところだろう。体から威厳が満ち、キリリとした相好をしている。持っている雰囲気が、小夜とよく似ていた。
「お前が義見朔次郎か。」
壮年の男が尋ねた。義見とは、朔次郎の乳母方の姓である。
「いかにも。」
「お館からの追討の命が出ている。お館様を討とうとした徒党の頭としてな。北の方角に逃れたと聞いておったのに、よもや負っ手の目を欺いて反対方向に来ていようとは思わなんだ。生け捕りにして差し出せば、恩賞が下されるそうじゃ。」
恩賞の言葉に、朔次郎はごくりとつばを飲み込んだ。
額に汗がにじんでいるのが分かる。
「俺を、稲賀に突き出そうというのか。」
「そうだ――と言いたいところだが、このままおとなしくここを去れば、だまって見逃してやる。わが娘小夜をたぶらかそうとした男なれば、なぶり殺しにしても気がすまぬところだがな。匿ったのは誰でもない小夜であることだし――小夜が力を注いで命を救ったのだ。小夜に免じて許す。お前一人で早々に立ち去るがよい。」
壮年の男は小夜の父親で、喜三郎という。現巫女姫の実弟で、巫女姫とは一回りも違った。
朔次郎は当惑を隠せぬ様子で、喜三郎を見た。
「小夜は、小夜はこのことを知っているのか?」
「知らぬ。」
「ならば、俺一人でここを立ち去るわけにはゆかぬ。小夜も一緒だ。」
朔次郎は当惑を捨て、毅然とした態度になってそう言い切った。土間にいならぶ男たちがザワとうごめいて、刀を持つ手に力を込めた。
「何をたわけたことを―――。」
「たわけてなどいない。俺は、小夜と約束したのだ! 一緒に山を越え、そして夫婦になろうと!」
「たわけ!」
喜三郎が一喝した。朔次郎はひるんで、思わず後ろにさがった。
「巫女姫ともなる小夜が、お前の嫁になどなれるはずがなかろう! まして仇持ちで、恩賞までかかった、どこの馬の骨とも知れぬお前に…。小夜はこの乱世を乗り切るために、神が我々に下された子、我々の期待を一身に背負った娘なのだ。何のためにこの七年間、巫女姫さまが鍛えられたと思うのだ!」
「それは、それはお前たちの勝手な言い分だ。小夜は巫女姫になることなど望んではいなかった。小夜は小夜の幸せがあるはずだ。」
「それがお前と行くことだというのか。」
「そうだ。」
喜三郎はふっと笑った。
「お前には、巫女姫としての力を持つ小夜が、まるで分かっておらぬ。お前などでは、小夜は幸せにはなれぬわ。」
その時、小屋の外を、ごうと音を立てて風が吹きぬけた。外にいる者たちがガヤガヤと声を立てる。小屋の外もいっぱいに囲まれているのだ。外から、「小夜だ、小夜だ。」と言う声がきこえてくる。と、すぐに、「朔次郎さん!」と叫ぶ声がきこえてきた。
「小夜!」
朔次郎が声を返す。外で囲む者が小夜をとめにかかった。
「小夜、入ってはならぬ。小夜!」
「離してください! はなして!」
皆が小夜を引き止める。細く小夜の「朔次郎さん!」と叫ぶ声が聞こえてくる。
「小夜!」
朔次郎は途端に、囲炉裏に刺してあった火箸を抜いた。そして、戸口目指して駆け出した。戸口の辺りにいた男の刀を力いっぱいキンッと払い、男を蹴飛ばすと、それにつられて後ろが総崩れになる。そうして朔次郎は戸口から出ようとした。しかしその次の瞬間、大きく動く影があって、朔次郎の首元にすっと刀の刃が伸び、皮膚の上に赤い筋が横にひかれた。
刀は、朔次郎の首をなでた形で静止している。
朔次郎は体を硬直させたまま、目だけを、その刀の主の方へと動かした。
小夜の父親の喜三郎だった。眼光鋭く、その構えには一寸の狂いもなかった。
「胸を患って以来、戦場には出ておらぬが、喜三郎殿は剣の名手。お前のかなう相手ではない。」
横にいる長老が静かに言った。
小夜の父親がもし胸を患っていなかったなら、今頃は稲賀の重臣の一人にでもとりたてられていたかもしれない。しかし彼は、胸の病と小夜の力の目覚めで戦場を去った。己と一族のことを考えての決断だった。村に戻って病は落ち着いたものの、彼はその腕をもっぱら村の若者の育成にあてた。
朔次郎は大人しく火箸を捨てた。首筋につきつけられた刀は朔次郎に迫り続け、それをよけるように彼は地に崩れ落ちた。
回りのものが彼をとりおさえる。
村人が彼を引っ張って立たせると、「行け。」と後ろ手につかんで外へと歩かせた。
「朔次郎さん!」
朔次郎の姿を見て、群集の中から小夜が叫んだ。朔次郎は小夜の顔をみつめた。その顔には、なんとも言えぬくやしさがあふれていた。
「朔次郎さん!」
小夜がもう一度叫んで手を伸ばす。群衆を押し分けようとする小夜に、村人が「駄目だよ、小夜ちゃん。」とささやきあってとめる。群集の中には女、子供までいる。村人の大半が集まっているのではないかと思われるほどの人数だ。
「小夜!」
行けと押す村人に逆らって、朔次郎が身をよじる。村人は朔次郎を引っ張り続けた。
「待って! 連れて行かないでえ! お願いです。お願い…!」
小夜も、押さえつける若者から抜け出そうと必死にもがいた。すると、ふいに朔次郎が後ろにいる村人をどっかと蹴りつけた。横にいる村人たちを振り払って、小夜の元へとかけてくる。
「朔次郎さん!」
思わず小夜は朔次郎に歓喜の声をあげた。
ドカッ!
朔次郎の腹に、長老の杖が食い込んだ。朔次郎は「ぐう…。」と声を上げ、そこに崩れ落ちる。
「小夜よ。」
長老は小夜の方を向く。
「この男が何を言ったかは知らぬ。だがお前は、幼い頃から続けた修行を無駄にするのか。巫女姫どのや我らの心を裏切るのか。」
「私が望んだわけではありませぬ!」
「小夜!」
村人が朔次郎を気付かせると、朔次郎は腹を押さえてだらんとしていた。長老は村人に「連れて行け。」と命じた。
「目を覚ませ、小夜!」
遠ざかる朔次郎を、必死の目で追う小夜に、長老は一喝した。
小夜は長老に向き直る。
激しく顔を歪ませた。
「いやああああ!」
小夜が叫ぶ。すると、凄まじいつむじ風が、ぐんと舞い上がった。
木々を揺らし、人々が悲鳴を上げて逃げまどう。ある者は木にうちつけられ、ある者は地面にうちつけられた。
とても、立ってはいられない。
ヒュウと音を残し、ようやく風が去っても、村人たちは容易には立ち上がれなかった。
そのすきに、朔次郎は何とか起き上がった。
小夜の方へと手を伸ばす。
「来い! 小夜!」
小夜は駆け出した。逃げるなら今だ!
朔次郎の手をつかんだ。
自由だ。
二人でかけていくのだ。
ハヤテを呼べ。風に乗っていけば、もう誰も二人をとめられはしない。
小夜は空を仰ぎ見た。
その時だった。
「小夜!」
その声で、小夜の動きが瞬時にして止まった。
聞き覚えのある女の声が、小夜を呼び止めたのだ。小夜は声のする方へ振り向き、そして叫んだ。
「巫女姫さま!」
小夜は驚愕の色を顔に浮かべた。
師とも母とも慕うこの人に、この裏切りの場面を見られてしまうとは――!
「行ってはならぬ。」
巫女姫は静かな口調で言った。
「その男は――」
巫女姫は朔次郎を指差した。
「この村に災いをもたらすだろう。」
小夜は動けなかった。
そしてこの一瞬の迷いが、全てを決定したのだ。
倒れていた村人が、朔次郎に飛び掛かった。
「わあ…。」
次から次へと、村人が飛び掛かる。
そばにいた子供が、小夜の手をつかんだ。女が後ろから小夜を抱く。父が、小夜の横に立ち、巫女姫は小夜の前に歩み出た。
朔次郎は必死でもがき、小夜を呼んだ。
「さやぁぁ…。」
小夜は朔次郎の方を振り向いた。
手遅れだ。
もう、どうすることも出来ない。
朔次郎を殴る音が聞こえてきた。力を弱めて身動きできぬようにするためだろう。
ぐったりとした朔次郎を、村人の一人が抱え上げる。
小夜が動こうとすると、たくさんの手にひきとめられた。
朔次郎の姿が遠ざかる。
ぐったりとした朔次郎が、山を下りていく村人の肩越しに顔を上げた。
「小夜ぁ――、必ずだ。いつかきっと、お前を、お前を迎えに来る。その時まで――」
朔次郎の姿が見えなくなった。
小夜は、しっかと見開いたその目で、朔次郎の姿を見送った。
何も言えない。
「忘れよ、小夜。一時の、気の迷いだ。お前は、大事な勤めがあるのだ。」
隣で巫女姫が静かに語る。
あまりにも、あっけない幕切れだった。
一時の気の迷いが、小夜の一生を決めてしまったのだ。
忘れない、と、小夜は思った。
今、このとき、この気持ちは、一生忘れない――。
小夜の目から、涙が、後から後からあふれてくる。
風が、音を立てて吹き始めた。
「気を静めよ、小夜。乱してはならぬ。」
ゆっくりと、巫女姫の方を振りむいた。
途端に顔が歪んだかと思うと、
「あああああああ―――――――!」
小夜は、叫びともつかぬ声を上げた。そして雪の上に座りこみ、沈みこみ、声をあげて泣き始めた。この世の終わりかと思う、そんな絶望の声だった。
やがて、風が強くなってきた。
吹雪がやってくる。
小夜の悲しみはいかほどであったのか。
そこにいる村人たちは、小夜の声に知らず知らず涙をこぼした。
やがて、その声がおさまっても、小夜はそこに座り込んだまま、朔次郎の去った方向をじっとみつめていた。
雪がふぶいて、帰ろうというのに、小夜は動こうとしなかった。
一同が発狂したのではないかと思うほどの放心ぶりだった。
吹雪は、三日三晩続いた。
このとき、この事件で、村人たちは、激しい罪悪感に襲われた。
中でも、一番さいなまれたのは、信乃だった。
人形のように動かず、生気のなくなってしまった姉を見ながら、もし、この姉に死ねと言われたら、死んでも構わないとさえ思った。
もし、自分があの時、村人の言うことをきいていなければ――。
信乃は、生きる気力をなくした姉の看病を、つきっきりでした。
そしてこの事件は、信乃と村人に大きなしこりを残すことになる。
この時を境に、小夜は小夜でなくなってしまったのだ。
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