第三章

 朔次郎と小夜の間は、あの日以来どこか気まずかった。必要なことをしゃべる以外はろくに会話を交わさない日が、もう三日も続いている。

 小夜はつらかった。

 重く苦しい沈黙が必ずといっていいほどやってくる。しかし、自分から話をするわけにもいかず、相手がいいたくないというものを無理に尋ねるわけにもいかなかった。しかし、そんないやな沈黙が続いても、それでも小夜は必ず彼の世話をしに出かけた。

 何故、修行の合間をぬって、わざわざそんな素性の知れない者に気をかけなければならないのか。

 捨てておけばいいのだ。

 しかし、小夜は行かずにはいられないのだ。一度自分が救った命だからというのもある。でも、朔次郎に会いたい。なぜかはわからないけれど、とにかく朔次郎に会いたい――それが正直な気持ちだった。

 気が付くと、小屋の方に気をとられていることがある。それで慌てて、駄目だ駄目だ、こんなことでどうする、私は立派な巫女姫になって村を守っていかなければいけない、少しでも力を高め安定させなければいけない、こんな惑いの心をもってどうする、しっかりしろと、気を入れなおしたりした。それでも修行中、気を操りきれず、何度も巫女姫や父親に叱られる。

 いっそのこと、問い詰めてしまえばいいのだ。

 彼も話せてしまえばいいのだ。

 何もかも。

 突然、「小夜、小夜。」と呼ぶ声に我に返った。

 小夜を呼んだのは、伯母の巫女姫であった。本殿で朝のお勤めの真っ最中だった。祝詞を読み上げなければいけないところで、小夜はぼんやりしていたのだ。小夜はしまったと思い、慌てて祝詞を上げた。

 本殿から石段を下がった仮殿――ここは巫女以外の者も立ち入りを許されているが、そこまで来た時、巫女姫は小夜を正座させ、それから頬を思い切りぶった。

「朝の勤めの最中に、祝詞を忘れるとは何たることか!」

巫女姫は小夜を叱りつけた。巫女姫の怒りの激しさは、小夜の口端から流れた血でわかった。

「近頃そなたの所業は目に余る。一体何を考えて修行しておるのじゃ。そなたの修行ももうすぐ完了すると思うておったのに、何ゆえ、そんなに落ち着きなくなったのじゃ! わけがあるなら言うてみよ!」

厳しい巫女姫も、自ら手を上げることはめったになかった。しかも、顔をうったのは今日が初めてである。無理もない。力も知識もつけて完成間近というのに、小夜がこの体たらくなのである。

「お許しください!」

小夜は慌ててひれ伏し、叫んだ。巫女姫は大きく息を吐き出すと、声を静めた。

「『お許しください。』ではわかりませぬ。きけばそなた、朝と夕の勤めが終わると毎日ハヤテにのってどこかへでかけて行くそうではないですか。一体どこへ行っておるのです。そんないいかげんなことで、巫女姫になれましょうか。乱世の村をまもれましょうか。」

小夜はひれ伏したまま、体を硬直させた。

 言ってはならぬ。

「さあ、言うてみい!」

巫女姫は追及するが、本当のことをしゃべるわけにはいかない。あの御仁の事情がはっきりとわからない以上、たとえ巫女姫さまに嘘をついてでも、本当のことは、話すわけには、いかない。

 小夜は急いで考えをめぐらせた。

「隣国に…、異国から参った珍しい風物があると聞き、朝な夕なと出かけておりました。」

小夜はしどろもどろと答えた。この言葉一つ終えるのに、ひどく時間がかかったように感じる。そしてやっと吐き出したその言葉に、巫女姫は怒りのあまりブルブルと体を震わせた。次の怒号が飛んでくるかと身構えたが、巫女姫はきゅっと下唇をかむと、くるりと本殿の方に向いた。

「もうよい。さがりなさい。滝にでも入って心を改めるがよい。それから、国境を越えるなど、しかもつまらぬことに心を移すなど、もってのほか。以後はなりません。今日のようなこと、二度と許しませぬぞ。よいな。」

「はい。」

小夜は頭を下げたまま答えた。

 扉の開閉があって、巫女姫の気配が本殿の方に消えると、小夜は頭を上げた。

 心の臓が止まるかと思われるほどの心地であった。

 口元の血をぬぐって、ひどく後悔に襲われる。「馬鹿」と一人ごちた。それから、もう二度と小屋のことに気をとられてはならないと思った。朔次郎のことも、旅の途中ケガを負った旅人だと思い、ただ治るまで大人しく世話をしておればよいのだ。

 考えまい。小夜はそう心に決めた。巫女姫や村人の気持ちを裏切ってはならぬ。母上の遺言を破ってはならぬ。

 立派な巫女姫にならなければ。

 小夜は仮殿を出て境内を出、石段を降りた。滝にうたれるための衣を取りに行くのだ。

 滝にうたれて、心を改めようと思った。滝にうたれていれば、すべてが忘れていられる。

 すべてを、忘れていられる。

 小夜の家は、長い石段を降り切った所にある。小夜は入り口の戸を開けた。と、入り口のすぐの所にある棚が目に入った。そこには、朔次郎の所へ行くときにいつも抱え手いく箱が置いてあるのだ。小夜はその箱が目に入った途端、はっとした。そして、尋ねもしないのに、空気が彼女の体にまとわりついて、一つの場面を脳裏に浮かび上がらせたのだ。

 それは、朔次郎の今の姿だった。山小屋の寝床を出て、雪の中に倒れる朔次郎。

 小夜は思わず我を忘れた。棚の上の箱に手を伸ばし、開けて薬が入っているのを確認すると、慌てて外に飛び出した。それから思いなおして家に入り、家の中に誰もいないのを確かめて、飯を椀についでそれを箱の中に入れた。そしてまた表に出ると、誰にも見られていないのを確かめ、走りだしてハヤテを呼んだ。

 見ているものには、このとき小夜が風にさらわれたように見えただろう。しかし、「見えるもの」には、見えたはずなのだ。ふわりと浮いた体をイヌワシにのせ、遠く飛び去っていく様が。

 そしてその時、小夜の姿を見送る者がいたのだ。

 それは信乃だ。

 離れの父親のところから、朝食の膳を運んで出てきたところだったのだ。


 朔次郎は雪の中に倒れながら、次第に堪え難い睡魔に襲われていくのを感じていた。先ほどまであった傷の激しい痛みを感じなくなると、睡魔が襲ってきたのだ。

 小屋を出立したのは早計だった。しかも、戻らねばと思うのに、動けない。

 まぶたを閉じて意識が遠のきかけたとき、体の上をふわりと風が抜けた。

 わずかに開けた薄目の先に見えた景色に、思わず朔次郎は目を見開いた。イヌワシにのった小夜が、目の前に現れたのである。小夜は急く心を隠しきれない様子で、イヌワシにのって降りてくる。朔次郎の手前でふわりと飛び降りると、

「朔次郎さん!」

と叫んで駆け寄った。ひざまずいて倒れた彼の体にすがった。

「朔次郎さん! 朔次郎さん、しっかりして! どうして、なぜ、こんなところにいるのです!」

「小夜。」

小夜の姿を見てほっとしたのか、朔次郎はゆっくりと目を閉じた。

「朔…! まだ治りきっていないのに、どうして外に出たりなんか…。とにかく、小屋へ戻りましょう。」

小夜は朔次郎の上半身を抱え上げた。朔次郎は体全体がふわりと浮くのを感じて、驚いて目を開いた。朔次郎は小夜に抱えられたまま、地上から膝の高さで浮いている。そして、すいと下を風が流れたかと思うと、小夜がいつも乗ってくるイヌワシが姿を現した。見る間に、イヌワシは高く飛び上がり、すぐに小屋へと二人を運んだ。

 小夜は何事か口の中でぶつぶつと言った後、イヌワシから降り、浮いたまま朔次郎を小屋の中へと運び、寝床の上へと下ろした。床に下ろした途端、小夜はぜいぜいと荒い息をし、その息のまま何とか立ち上がると戸を閉めに行って、息を整えながら朔次郎の元まで帰ってきた。朔次郎は大きく目を見開いて、小夜の動きを見守っていた。

 小夜は、冷え切った体を温めるのに布団をかぶせ、自分の上着も着せて、囲炉裏の火をかき起こした。

「このようなことをすればまた熱が高くなりますのに。もう少しで自由に動けるようになりましょうに、どうして表に出たりしたのです。」

言って、小夜は朔次郎の額に手を当てようとした。すると、朔次郎は目に恐怖の色を浮かべて顎をひいた。

 それはまるで異形のものを見るのと同じものだった。

 小夜は慌てて手をひいた。村では皆承知していることだから、誰も小夜のことをそんな目で見ることはない。むしろ希代の巫女姫と尊敬されているのである。

 しかし小夜には、朔次郎がどんな気持ちでいるのか想像できたし、それも仕方のないことだと納得した。

「きつい、ことを言って、申し訳ありませぬ。体はまだ本当ではないのだから、いたわらないと…」

 小夜は立ち上がり、足早に戸口に向かった。

 朔次郎は突然我にかえり、自分のしてしまったことと、それが小夜を傷つけたのだということを瞬時に悟った。

「待って…!」

朔次郎は己の体のことを忘れ、中途半端に起こした体のまま小夜を追った。板間の上で何とか小夜の袖口をつかまえられたものの、つかまえた途端、体中傷の痛みに攻め立てられた。

「おああ!」

「朔次郎さん!」

小夜は朔次郎の方を振り向いた。朔次郎は苦しそうに息をしながらも、小夜の袖を離していなかった。今離したら二度と小夜はやってこない、そんな感覚に襲われたからだった。

 小夜は袖口を握られたまま、ひざまずいてうずくまる朔次郎の顔をのぞき込んだ。

「大丈夫ですか、朔次郎さん。」

ぜいぜいと荒い息でなんとか、「大丈夫」とだけ言った。

「ごめん。」

小夜は朔次郎の言葉にどきりとした。

「ごめん、そんなつもりはなかったんだ。ただ、びっくりして…」

朔次郎はまだ、小夜の袖口をつかんだままだった。

「とにかく、横にならないと…。」

朔次郎は小夜に促されて寝床に入った。

「何か、食べ物を口に入れねば…。それから、熱さましのお薬を…。」

小夜が立とうとすると、朔次郎のつかんだ袖口にひっぱられて、小夜は立てなかった。

「朔次郎さん、離してくださらないと、立てません。」

朔次郎はそれでも離さない。

「朔次郎さん。」

「ちゃんとここにいてくれるか? 離したら帰ってこなかったりしないか?」

朔次郎は、まるでだだをこねる子供のようだ。しかし、小夜を見上げたその瞳は、真剣そのものだった。

「どこにも行きません。ですから、お離しください。もう、気にしておりませんから。」

小夜がゆっくり、なだめるように言うと、朔次郎はようやく手を離した。小夜は朔次郎にきちんと布団をかぶせると、部屋の灯りをつけて、囲炉裏に鍋をかけた。

 朔次郎が意識不明の間、必要なものはある程度運び込んでおいたのだ。

 鍋の湯が沸き始める頃、朔次郎は布団の中で、ようやく元の呼吸を取り戻したようだった。小夜は土間の片隅に置いた水桶の水を椀についだ。いちいち水を運ばなくていいように、既に川から水を運んで置いてある。

 水を朔次郎の元へと持ってくると、

「お飲みなされ。少し楽になるでしょう。」

と言って飲ませた。朔次郎も素直に飲んだ。立って火元に行こうとすると、朔次郎が突然、

「小夜、お前、頬が腫れてはおらぬか?」

と呼び止めた。

 小夜は思わず左の頬を押さえた。さっき巫女姫にぶたれたものだ。

「誰にうたれたのだ。」

 小夜は頬を押さえたまま、しばらく言葉を探していた。しかし、みつからず、そのまま立ち上がると、

「小夜!」

朔次郎は体を起こして小夜を呼び止めた。

「誰に殴られたんだ、言ってくれ! もういいではないか。それは、俺のせいなのか? 俺も話す、理由を話すから、お前ももう話してくれ! 頼む、頼む…。」

 朔次郎は寝床にあったまま、板間に片手をつき半ば哀願するように叫んだ。体を起こしていられなくて、前にのめり込むと、小夜は彼に近寄ってまた腰を下ろした。

「どうしたのです、朔次郎さん。あまり無理をすると…。」

 朔次郎の心の乱しように、小夜はとまどった。とにかく、肩にふれて頭をあげさせようとした。すると、頭をもたげた朔次郎の目から涙がぽろぽろとこぼれた。

「つらいんだ。」

朔次郎は小夜の腕にしがみついた。

「十日…もう十日だ。十日もこんな人のろくに来ないところに寝泊りして、いつ追っ手が来るかもしれない、誰かにみつかるかもしれないとおびえながら、ただ何もできない。お前が来ても必要なことしか話さない。――これでは牢獄にいるほうがましだ。」

「朔次郎さん。」

しがみついたまま、小夜の目をのぞきこむように見上げる。

「お前だって、お前だって、誰かの目を盗んで毎日来ているのだろう? お前、最初の頃からずいぶんやせたじゃないか。」

朔次郎の濡れた目の視線が強くて、小夜はふと身動きできなかった。直感で、この男は「普通の男ではないのだ」と意識した。その瞳にとらわれながら、言葉を探し、

「傷、傷を負ったために、体が衰弱して、そんな風に思うのでしょう。気が弱っているのです。早く、元気にならなければ」

そうたどたどしく言って、思わず朔次郎から視線を外した。すると、朔次郎は小夜の頬に右手を伸ばした。

「誰にうたれたんだ。」

と、また尋ねた。朔次郎の持つ何かしらぬ「気」にも影響を受けているのだろうか、小夜は自然と自分が高ぶっているのがわかった。のどまでこみ上げてきたものを押さえつけようとした。

「私は…。」

言葉を返そうとして、思わず涙がこぼれた。慌てて小夜は後ろに退いて顔を手で覆った。

「泣いてはならぬのです。」

小夜は顔を覆ったまま、こらえようとした。すると、朔次郎は起き出して、その顔を覆った手をはいだ。小夜の、覗き込む朔次郎の顔をみつめ返す目から、涙がこぼれた。

「何か変です。」

「うん。」

「哀しいことなど何もないのに。」

「小夜は我慢強いのだな。」

「そんなことは」

「頬を打たれたら、痛いぞ。」

心の中で固まっていた、何か糸のようなものがほぐれていく。

 小夜の目から、涙が次々とあふれた。

 朔次郎はそんな小夜の肩を両腕で抱いた。二人とも、お互いしがみつくように抱き合って、ハラハラと涙をこぼした。止めようとしても止められない。今までこらえていたものが、堰を切って流れ始めた。

 その日、大木村とその周辺の村々は、今までに味わったことのない「哀しみ」を経験した。

 空を覆う雲から、ハラハラと雪がこぼれてくる。

 木枯らしの音、風は、身を切るような刹那さで、泣き声をあげて吹き抜けていく。

 人々は慌てて家に入った。灰色の景色、荒れ狂う風――わけもわからず不安になり、哀しみがこみあげた。

 長老の家でも、たきの抱く赤ん坊が突然「あああ…ん」と泣き始めた。腹が減っているわけでも、おむつが濡れているわけでもなかった。たきは、おろおろしながらぐずる子供をあやし続けた。

「どうしたんでしょうねえ。何でこんなに哀しいのか、みのもこんなに泣いて…」

姑が目に潤んだ涙をぬぐいながら、みのの顔を覗き込んだ。たきの目にも、涙がにじむ。胸が、しめつけられるようにせつなく、哀しくなるのだった。

 果たして、この風と「哀しみ」の原因がわかったのは、巫女姫と信乃だけだった。

 信乃は家の前でじっと風の行く先をみつめ、巫女姫は本殿の入り口に立ち空を見上げていた。

 この「哀しみ」に、一番影響されるのは、むしろこの二人だった。しかし、この「哀しみ」につられては、「哀しみ」はさらに強くなるだろう。二人は心を閉ざしながら、ただただ、空を見上げていた。

 気を読むから、気にも気分が映る。周囲を巻き込む。小夜ら巫女姫の修行は、精神的安定を目指したものが主だった。心を簡単に動揺させない。それゆえに、小夜に近い力を持つ信乃は、巫女姫としての修行こそしなかったものの、感情の制御の仕方だけは仕込まれた。

 だから小夜は、心を開け広げて「泣いてはならぬ」のだ。

 禁は、破られたのだ。

 

「俺の母であった人は、実の母ではなかったのだ。」

二人の心がある程度落ち着いてくると、大事をとって朔次郎は横になった。そして、ポツリポツリと語り始めたのだ。

「俺の実の父母は、結城という家の家臣で、塚本といった。結城の納めるのは小国であったが、お館さまも立派な方だったそうだ。ところが俺がまだ赤ん坊の頃、稲賀政秋に攻め入られ滅ぼされてしまった。今はもうこの国の領国となっている。

 俺の父であった人、それから乳母の夫は、攻められたときに、お館さまと共に城にたてこもり自害、母は乳母と共に数人の家来を連れて逃げ出し、乳母の実家のある高野というところまで逃れた。しかし、たどりつくとすぐ病の床に伏し、まもなく亡くなられたそうだ。俺がずっと母だと信じていた人は母ではなく、このとき共に逃げ延びた乳母で、この話を乳母、つまり育ての母である人にきいたのは、その死の前日であった。俺が十の頃だった。」

小夜は囲炉裏の端で、黙って朔次郎が話すのをきいていたが、朔次郎が囲炉裏の方にまなざしを向けたまま言葉をとめたので、

「他に、親族の方はおられませぬのか。」

と尋ねた。

「いや、兄が――実際には義理になるのだが、一つ上の兄と伯父が、いた。」

「いた? そのお方たちは今、どうしておられるのですか?」

囲炉裏の火がパチリと音を立てた。朔次郎は黙って見るともなくそれをみつめると、

「亡くなった。――つい先日。三月前、高野の戦で…。」

「それは、もしかしたら…」

「そうだ。稲賀に攻め滅ぼされたのだ。兄と伯父は、剣の腕を持って高野のお館に志願し、お仕えしていたのだ。稲賀は、親子ほども年の違う、高野のお館さまの姫を妻に迎えながら――。」

 朔次郎の怒りがひしひしと伝わってくるのを感じた。

 小夜は朔次郎の思いもかけない境遇に、ただただ驚くばかりだった。

 小夜は去年母に死に別れたとはいえ、修行もつらいとはいえ、親兄弟の縁がそんなふうに絶えたことはなかったのだ。むしろ強すぎる血の因縁に悩まされるほどである。

「母上は、その死に際、俺の手をにぎって申されたのだ。『貴方様のご両親の仇うち、決して忘れるのではありませぬぞ。決して。』そして母上は強く手を握り、ただただ俺をみつめて、何度も同じことを繰り返された。『稲賀をうて、父上の無念をはらすのだ。』と。俺はその言葉を支えに、ずっと剣の修行に励んできたのだ。思えば、なぜ母上が幼い頃から熱心に、俺たち兄弟に剣の修行をさせたのか、わかるような気がした。」

以来五年、朔次郎兄弟は血のにじむような努力を重ねてきたのだろう。兄は十六、弟は十五で仕官した。先に仕官した伯父の縁故もあって成し得たのだ。しかし、母の遺言も果たさず、伯父も兄も戦場に散ってしまった。」

「お辛かったでしょうな。」

小夜の言葉に、朔次郎は天井に向けた目を薄めた。

「辛いと思ったことなどない。伯父と兄の亡くなられてより三月の間、俺は必死だったのだ。義母の遺言をまもり、実の両親の仇をうつものは俺しかいなくなった。三月の間というもの、稲賀と対抗する手もなく、やっと仲間を探して徒党を組み、お館に忍び入ろうとしたのだが、それでも何もならなかった。一時の怒りにまかせて、馬鹿なことをしたのだ。なんとか逃げ延びたが、仲間はばらばらになり、一縷の望みをたくして今度は近頃何かといっては稲賀を攻める高階に仕官しようと、百姓姿に身を変え、遠回りでも一番見張りの手薄そうな国境いを選んでここまで来て」朔次郎は自嘲した。「――敵にやられるならまだしも、このざまだ。」

 敵の目を逃れ、ようやくここまで来たのだろう。追っ手に対する不安と、疲労――稲賀への怒りと復讐心。精神は極限に達していたに違いない。

「ここにいれば、大丈夫です。」

小夜は横になって天井を向いたままの朔次郎の顔に目をやった。

「たとえ、追っ手がやってきても、ちゃんとお隠しいたします。普通に歩いても差し障りがないようになりましたら、私が国境いまでお送りします。だから安心して、傷を治しなさいな。」

 先ほどの激しい風も、次第に落ち着いてきている様子だ。風が収まったかわりに、寒さが増してきた。きっと雪が近いのだろう。小屋の小窓から見える空が暗い。

 小夜は囲炉裏の火をかき起こした。

「そう、小夜は空が飛べるのだな。」

「はい、とも言えますが、正確には少し違うのです。」

「違う?」

「私は空を鳥のように飛ぶのではなく、風を操れるのでございます。」

「風? でも、あの鳥は…」

「私ののっていたイヌワシの姿をした鳥は、風の化身でございます。本来なら、人の目には見えないものなのですが、私の一族や、霊視の出来る者には見えるのです。それから極稀に、それ以外の人にも――。」

「それ以外とは? 霊視のできない俺にも見えるが」

「私も、巫女姫からうかがっただけですから、よくは知らぬのです。でも、人には時に、ひどく感性の磨かれることがあるのです。そうした人には見えるとききます。朔次郎さんが見ることが出来たのは、おそらく剣によって磨かれた感性が、今度のことで磨き上げられたのでしょう。」

「では、今度のことがなかったら、見えなかったかもしれないのか?」

「ええ、だって、以前に見えたことはなのでしょう?」

小夜の言葉に朔次郎は笑った。

「そうだな。見えても区別がついたかどうかはわからないが。」

「きっと、見えておられなかったのでしょう。でも、おそらく磨いた磨かぬだけではなく、朔次郎さんは、剣の腕はなかなかよろしいのではありませぬか?」

「ああ。――たぶん、家系だと思う。俺の生家である塚本の家は、剣で仕えた家だったそうだから。」

小夜は得心したようにうなずいた。

「気は気なりと申します。我々は風の流れを見ることによって、あらゆる気に通じることが出来るのです。人の気、世の気、万物の気。気の動きをみて、将来何が起こりうるかということまで、もとめれば分かることもできるのです。

 道を究めた者は、自分という人格を超え、万物の霊に通じるといいます。それは、すべての気に心を通わせることが可能になるということです。そうして世を包む『気』を見ることができるようになるのです。我々一族は『気』を見ることと通じていると言えると思います。しかし、そもそもある程度素質も必要ですし、そこまで達するのは極わずかです。」

「じゃあ、そういった者たちも、風を操ることができるのか?」

朔次郎を見ながら、小夜は静かに首を振った。

「見るだけです。風にのれるようになるのは、よほどの修験者か、我々一族の、特に能力の優れた者だけです。そして、大木村の女神山を祭る神社の巫女姫になれるのは、一族の中でも最も力の強い女子です。その巫女姫でも、風にのれるのは少なくて…。おそらく、四代か五代に一人だろうと言われています。」

「その巫女姫というもの、小夜もそうなのか?」

「いいえ、今は伯母が巫女姫をしておられるので、私に巫女姫の職を譲られるまでは、私はあくまでも候補にしかすぎません。一族の者が一度候補として挙げられれば、早いものでは七つの年より修行に入ります。」

何年もの間、一族には風にのれる能力を持つ者が現れなかったのだ。それゆえに、小夜が三つの時戯れに風にのったときは、待ちに待った希代の子として喜ばれたのである。それでも、子供の頃は感性が特に優れているのは当然で、きちんと修行を重ねなければ安定せず、最悪の場合は力が消えてしまうということもないわけではない。

 まして、風にのれるといっても、自由自在に操れるわけではなかった。

 折しも乱世、小夜は、鍛えられねばならなかったのである。

 子供に課すにはあまりに重すぎる、しかし、それが小夜の運命だったのである。

「義理の母上が、昔俺に語ったことがある。気性のよいのに、よほどのことがないかぎり心を乱さない娘というのは、幼い頃から相当苦労した者だと。だから決して軽んずるなと。――小夜は口には出さぬが、苦労したのであろうな。」

「いいえ。」小夜は微笑して首を横に振った。「苦労などと思ったことは、一度もありませぬ。」

「一度も?」

朔次郎は目を見開いた。小夜はその朔次郎の仕草に首をかしげ、視線を落とし、少しうつむいて首を小さく横にふると、

「母が、優しかったのです。」

小夜は頭をもたげ、照れたように、にっこりと笑った。

「朔次郎さんのお母上と同じです。」

朔次郎は答えなかった。答えのないまま、小夜は続けた。

「我ら一族は、昔、都で帝に仕えていたのです。陰陽寮の陰陽師の娘、それが、わが巫女姫一族のはじめだったときかされました。

「オンミョウリョウ?」

「はい。宮中にあって、方角を占ったり祈祷をしたりする所です。みおやである人は、かのもろこしが筑紫に攻め入った折、帝からの願いにより命かけて嵐を呼び、もろこしの軍を追い払ったとききました。それ以来、そのものは帝の巫女姫として宮中で仕えておりましたが、かねてより陰陽寮に出入りしていた時に知り合うた陰陽師と恋におち、しかし帝に反対され、二人で都を逃げ出して、落ちて落ちて、この大木村に至ったとききます。そして、ここに根付いたのです。

 村人は初め、彼らをよそ者よと避けておりましたが、彼らが川でおぼれた子供の命を救ったことにより、その恩に報いんとした村人が彼らの存在を隠し通すことを約束しました。――言い伝えですし、何百年も昔のことですから、本当かどうかは知りませぬ。結末が結末ですから、二人の存在も都の正史に現れることもありますまい。」

「と、すると、小夜のその丁寧な口調は先祖伝来のものか?」

朔次郎の問いに、小夜は苦笑した。

「公家の出だという誇りはあったのでしょうな。今でも一族の間では、普通の村人が話すような言葉で話すことはならぬと、無言の約束のようになっております。でも、宮言葉など、もう誰も使えませぬ。」

話しながら、小夜は立ち上がった。朔次郎は思わずひたと小夜の顔を見上げた。

「何か作りましょう。すっかり忘れておりました。」

小夜はにっこり笑ってそういった。桶の水をくみに行き、かけてある鍋に足すと、持ってきた箱の中の飯を入れた。

 ふたをする。

「少し眠気を感じます。」

そう言って目を押さえた。

「泣いたからでございましょうな。」

泣いた後の目で、じっと火を見ていたから目が疲れていたのだ。気の緩んだせいで、日ごろの疲れがどっと出たせいもあるのだろう。

 小夜は小窓の外を見上げた。

「雪が止みませぬ。」

「ああ、いつの間にか降っていたのだな。どおりで部屋の中が暗いはずだ。」

朔次郎も小窓を見上げた。

「気付きませなんだのか。」

言って、小夜は少し笑った。

「先ほどのおかしな風が、雪雲を呼んでしまったのでしょう。――あんなに泣いたのは、きっと赤子の時以来です。おかげで、心が晴れました。雪も間もなくやみましょう。」

 朔次郎は、小窓の隙間から見える外を何気なく見ていたが、今の言葉にふと、腑に落ちぬところがあると思った。

「小夜。」

小夜は朔次郎の方を向く。

「お前が泣くのと、風が吹くのと、何か関係があるのか?」

 朔次郎の質問に、小夜はまた炉の方を向いた。火の熱に思わず目を閉じ、目頭を軽く押さえて、ふと薄目を開けた。

「なぜ、このように必要以上に力が強く生まれついたのでしょうか。私の心は全開にすると、そのまま空の気、人の気に影響するのです。」

今までの話に特にこれといって驚くことはなかったのに、朔次郎はこのときばかりはひどく驚いたようだった。

「一体、どこまで影響するのかは知りませぬ。しかしそれ故に、私は子どものころから心を開いて泣くこと、怒ることを禁じられておりました。巫女としての知識、風を操る訓練、そして、自分の心を操ることを、修行として身につけて参りましたが、心を制する修行はその半分以上を占めていたと思います。

話す小夜の横顔は憂いを含んでいた。決して、光の加減などではなく、その顔は、憂いに満ちていた。

「先ほど、辛いと思ったことはないかときかれましたな。私はないと申しましたが、それは違うのかもしれませぬ。辛い目に何度出会っても、それは乗り越えなければならぬものであって、自分では気付いていなかっただけなのかもしれませぬ。でも、どうして辛いなどと思えましょう。この力を持って生まれついてしまったのですから、その力を使いこなすよう修行せねばならないのは、私の運命――。」

 たれこめた暗雲が流れたのか、外がようよう明るくなり始めた。雪が小降りになってきたようだ。しかし、小夜も朔次郎も、そんなことに気をとめるふうもなく、ただただしんとして口をつぐんだ。変わらぬ小夜の表情からは、果たして今の言葉を諦めの気持ちで言ったのか、悟りの気持ちで言ったのか、わからなかった。

 小夜は気持ちが静まるにつれ、いつもの自分を取り戻しているようだった。

 ぐつぐつと鍋が音を立て始める。小夜はふたを取って中をかきまぜた。そしてまた、ふたをする。

 小夜は改まって朔次郎の方に向き直った。

「今日、朔次郎さんからうかがったことは、いっさい誰にも漏らしませぬ。国越えの際もお手伝いいたします。そのかわり、今日私がお話ししたことも、私のことも、国越えしても決して他言なさいませぬよう、お願いいたします。」

言って、小夜は床に両手をつき、深々と頭を下げた。朔次郎は何か割り切れぬものを感じたが、「承知した。」と答えた。その答えをきくと小夜は頭を上げ、

「かゆも出来たようです。何か召し上がらねば。ずいぶん時も経ちましたし…。」

小夜は立ち上がり、囲炉裏の端に伏せてある椀やさじを取りに行った。戻ってきて鍋のふたを開け、またかきまぜる。

「なぜ、小夜のこと他言してはならぬのか。まさか、都から追っ手が来るわけでもあるまい。ましておぬしの力があれば、この乱世、いくらでも立身出世できようものを…。」

「そうでしたな。」

小夜は椀にかゆをよそいながら言った。

「なぜ話してはならぬのか、肝心のことを話しておりませなんだな。」

小夜は椀とさじを持って朔次郎の元に来た。

「すみませぬ。今日はとり急いでおりました故、これだけしかありませぬ。」

いつもなら、漬物をつけたり煮物などを砕いていれたりするのだが、今日は慌ててやってきたのでただのかゆしかない。

「いや、いい。あまり食欲もないし…。」

「でも、何か口に入れねばなりませぬ。薬も飲まねばなりませぬし…。」

言って、小夜はどこかぎこちなく、朔次郎の肩の下に手を入れて、ゆるりと起こした。上にかけてあった上着をとって、腰にすえてやる。椀の中のかゆをよそってふーふーとふくと、朔次郎の口に運んだ。

「立身出世…と申しましたな。しかし、男ならまだしも、いくら下克上の世だからといって女には無理でございます。風にのって空を飛ぶだけならよろしいのですが、嵐を呼ぶなど大気を思うままに操るのはかなり体に負担がかかります。年に一度使う程度ならなんとかなりましょうが、人にいいようにされ、戦の道具にされてしまうと必要以上に命を縮めることになります。

 そんな力を使わなくても、巫女姫となる者は風を操れなくても、予知の力を持っている者が多いのです。その年の天候、作物の出来、不出来、稲以外に何を植えればよいか、悪い病が流行らぬかどうか。

 ですから、巫女姫がこの村人たちに与える恩恵は絶大なものでした。

 その能力がよそに知れれば、争ってこの村にやってきて、巫女姫を我がものとしようとするでしょう。ですから決して、巫女姫の力が外に漏れることはないのです。近隣の村へと嫁ぐことがあっても、必ず他言無用を約束させられます。また、この村に来て偶然知ってしまった者は、村での生涯を強制させられるのです。」

「それは破られることはないのか?」

口に運ばれるかゆを無言で食べていた朔次郎は、不思議に思ってそうきいた。

「ございませぬ。」

「しかし…」

「昔、嫁ぎ先でうっかりしゃべってしまった娘があったそうです。それを知った村人は、巫女姫と相談し、夜その村へ出かけて皆に暗示のかかりやすくなる薬をかがせ、娘の痕跡をすべて消して、娘のいた記憶を消し、娘を連れ帰ったそうです。」

「その娘はどうなったのだ。」

小夜は椀のかゆをさじですくって、朔次郎の口元に運んできた。

「小夜。」

「殺されたそうです。」

朔次郎の顔も体も一瞬硬直した。

「それ以来、他に嫁いだ者で、巫女姫の話をする者はなくなったそうですよ。」

『みせしめ』である。それだけ、村の秘密は厳守されねばならなかったのだ。

「初代巫女姫の遺言であったともききます。村人から受けた恩を忘れるな、また、帝以外の方には仕えてはならぬと。初代巫女姫は死ぬまで、帝を裏切ってしまったことを気にかけていらっしゃったのでしょう。」

椀の中のかゆがなくなった。

「まだ召し上がりますか?」

「いや、もういい…。」

小夜はゆるりと朔次郎を横にならせると、椀を持って立ち上がった。薬と水を持ってきて、

「熱さましです。飲んで少しお休みなされ。」

そう言って朔次郎に飲ませた。

「気分はどうですか?」

「悪くない。かなり楽になった。」

小夜は安堵したように微笑んだ。

「少しお眠りなさいな。雪がやみました故、私は一度戻ります。」

小夜の声は穏やかで優しかった。朔次郎は腹が満たされ、心も落ち着き、とろんとした気分になっていった。

 カタカタと小夜が何かしている音がきこえる。戸の開く音がして、朔次郎はそちらの方を見ながら、「小夜。」と呼びかけた。外の白い雪明かりが小夜の輪郭を戸口で浮かび上がらせていた。小夜はこちらを向いて、「何ですか。」と問いかける。

「また、戻ってくるな?」

「はい、夕方にもう一度参ります。」

朔次郎は小夜の答えをきくとほっとした。

 意識が遠くなる。

 小夜はそこに立って、朔次郎の方をみつめていたが、すぐに朔次郎の寝息がきこえだすと、外に出て、小屋の戸を閉めた。

 小夜の踏みしめた足元の雪は新しかった。空を重苦しい雲が流れていく。小夜はハヤテを呼びながら歩き出した。やがて、一陣の風が小夜をさらうように吹き抜け、小夜の体は大空高く舞い上がった。

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