第十一章

 小夜の家の外にいた兵たちは、既に薬をかがされて眠っていた。あとは、村中に広がる兵たちである。小夜と信乃が境内まで戻ると、佐助と楓が包みを持って待っていた。

「小坂靭実は?」

「大丈夫。ぐっすりと眠っている。」

 小夜は包みを受け取り、その口を開けた。

 忍びの里の長老に分けてもらった、眠り薬だ。逃げる途中赤ん坊が泣き出さぬよう、赤子のいる家にも少しずつこれが配られている。

「皆、戸を閉ざして家の中にこもっておろうな。」

「だと思うよ。家の明かりが漏れていない。――兵たちの野営している火が、漁火みたいに見えるだけ。」

小夜の問いに楓が答えた。

 石段の上からは、風のせいか火が揺らめいて見える。空は雲が覆っていて、月夜でないのが幸いだ。

 小夜は真っ暗な空を見上げた。

「ハヤテ。」

 境内を囲む木々が一瞬ザッと揺れたかと思うと、目の前の枝の上に、イヌワシの姿をしたハヤテが現れた。小夜はその目をじっとみつめる。それから、小夜は手に眠り薬を握りしめた。

 「頼むぞ。」と小夜がハヤテに言うと、ハヤテは舞い上がり始めた。

 小夜は集中を始める。

 握った手をひらくと、薬が風に乗って流れて行く。一つかみしては流し、一つかみしては流し、薬が糸のように連なって闇に消えていく。手元の薬がなくなり始める頃、ハヤテは村中を巡回し始めた。

 

 皆が行動を開始し始めたのは、それから一時ほど経った頃だった。

 村中に配備した兵士たちはほどよく眠りに落ちていた。

 それを認めると、村人たちはそろりそろりと家から、そして村から抜け出した。早足で行きながら、何度も後ろを振り返った。

 後に残ったのは、足手まといになるから言って残った老人が何人かと、長老と、それから小夜と信乃だけになった。

 佐助と楓はまだ小夜姉妹に付き添っている。

 境内から皆が出立した気配を感じると、小夜と信乃、佐助と楓は本殿へと向かった。

 本殿の中に入って灯りを灯すと、先ほどとはうってかわってガランとしていた。

 小夜は祭壇の前まで来ると、紐をかけた箱を持って来て、信乃の前に腰を下ろした。

 小夜は立っている信乃を見上げて、

「すわれ。」

と促した。

 信乃が座ると、小夜はおもむろに紐を解き始め、そして箱の蓋を取った。それから信乃に近く寄るようにと手招きをした。二人が近く向かいあって腰を下ろすと、小夜は信乃の頭に両手を伸ばした。両手は信乃の左右のこめかみ辺りで頭を挟んだ。小夜は真剣な目で信乃を見つめた。

 このとき、信乃は、姉の目がとても美しいと思った。何をするのだろうと身構えていたら、小夜が、

「肩の力を抜け。」

と言った。

 小夜は目を閉じた。しばらくして小夜の気が集中したかと思うと、信乃の頭にビリビリとした感覚が走った。途端に、すさまじい衝撃が頭の中に走った。

 信乃は、「ああ!」と声をあげ、思わず後ろに退いた。信乃は頭がつぶれたかと思って両手で頭をさわってみた。しかし、なんともない。

 姉を見ると、うつむいて、呼吸を整えていた。

「姉さま?」

小夜は信乃を見上げた。

「何なのです。今のは…。」

信乃は恐る恐る尋ねた。

 一体何があったのだろうか。

 小夜は呼吸を戻すと座りなおした。

「お前の気を解放した。」

「え?」

「お前は前巫女姫に、まだ物心つかぬ頃訓練によって心を調整して、力を抑え込めたと教えられたろう?」

「ち、違うのですか?」

「違う。お前の招く気の乱れ方は子供の頃、常軌を逸していた。巫女姫たちは初め、力が強すぎて生まれたばかりに、狂った子になったのかと思った程にな。そのうち、村に大災害が起こった。巫女姫様はそこで、お前を殺そうと考えたのだ。そこを、母上がかばわれたのだ。『力を持ってうまれたのは、この子を産んだ私のせいです。この子には何のとがもありません。この子を殺すなら、どうか代わりに私を殺してください。』とな。そこで考えに考えあぐねた末、代々巫女姫たちが書き記した書物の中に、『気封じの玉』という玉があったのを思い出されたのだ。それが、これだ。」

そう言って、小夜はその玉を箱の中から取り出した。

 手の平にすっぽり入る大きさの水晶玉だ。

「見覚えがありまする。」

信乃は信じられないといった顔で、その玉をみつめた。

「そうであろう。おぬしは、この玉を使って、まだいとけない赤子の頃から己の中に己の気を留める訓練をしたのだ。巫女姫はこれに気をこめて、お前が心乱せばそれがそのまま外の気に触れさせずお前の中に納まるしかけにした。しかしそれと同時に、お前はその玉の力を借りて、自分自身で巫女姫としての力をも、封じ込めてしまったのだ。」

信乃は小夜の目をみつめた。小夜も信乃の目を見つめ返す。

「では、それを今、お解き放ちになったのですか。」

「そうだ。」

「なぜでございます! 危険ではございませぬか!」

信乃は身を乗り出して尋ねた。そんな信乃に小夜は全く心を乱さず、おだやかな目で見た。

「なあ、信乃。私は思うのだ。子供の時は、とかく心が安定せぬもの。少しばかり枠を外れておっても、人と交わり成長することによって次第に自分を抑えることを覚え、枠にはまるようになる。だから、お前ももう、枷をとってもいいと思ったのだ。これに―――」言って、小夜はその玉を示した。「今度はお前の力が己で操れるように、私が気をこめた。」

そう言って、小夜は信乃の手にその水晶玉を握らせた。

「お前はもう一人で大丈夫だ。これを持って、すぐに逃げよ。」

信乃が驚きの目を開く。 

 姉の言っていることが、よく理解できない。

 いや、理解したくないのだ。

「姉さま。」

「何だ。」

「姉さまはどうなさるのです。」

「私か。私はここに残る。」

「では、私もここに残ります!」

「信乃!」

「姉さまは、姉さまは、皆が幸せにならねばならぬとおっしゃったではありませんか! それなのに、ご自分だけがここに残ろうなどと…。私は、姉さまと一緒でなければ行きません!」

信乃の瞳から、涙がこぼれた。

 身を切るような声で叫ぶのだ、この娘は。

 小夜はそんな信乃を見ながら苦笑した。

「だからなのだ。」

小夜の言葉に、信乃が軽く眉根を寄せた。

「だから…皆が幸せにならねばならないから、お前にここを去れと言っているのだ。」

「おっしゃっている意味が…。」

「お前は、私たちに妹が一人いたのを知っているか?」

「え?」

信乃はまた、まじまじと姉の顔を見る。涙で濡れたその顔を、拭おうともしない。

「妹?」

「そうだ。生まれ落ちたその日、嵐を呼び、その風雨のために数名のものが死傷した。事態を重く見た巫女姫と父上、長老、年寄り達は、生まれて三日になるその子を始末したのだ。」

これには流石に傍らで沈黙していた佐助と楓も、「え」と小さく声をあげて驚いた。

「父上と母上はいとこ同士であった。力を持った子を得るため、我ら一族は何度となく近親婚を繰り返した。呪われた血の宿命か、時には人として形を成さず、殺された子もいるという。そんな子供らは、巫女姫一族の犠牲になったのよ。そして、我らの妹も同じ。犠牲になったのはそれだけではない。厳しい秘密保持のために、死ななくてもいい慈五郎が死に、うっかり話してしまったために娘が殺され、偶然知ってしまったために故郷を去ることを余儀なくされた者たちが大勢いる。そういう犠牲者たちの上にあぐらをかいて、巫女姫一族はその地位を保ち続けてきたのだ。初代はただの約束事だった。巫女姫が気を占うかわりに、村人たちはその存在を秘密にする。その後の子孫たちは、ただの村娘でよかったはずなのだ。巫女姫である必要はなかった。それが、その約束事が何故か因習となり、悪習となっていった。そしてその悪習は、子孫たちが人一人として生きる権利まで奪ってしまったのだ。私も、お前も、巫女姫一族と大木村の加害者であり犠牲者なのだ。――今、力が解放された後、どんな感じを受けたか、信乃。」

「あ…。」

「心が軽くならなかったか?」

信乃は胸に手を当てて、そしてうなずいた。

「皆が幸せにならねばならぬ。村の者も、一族の者も。そのためには皆、解放されねばならぬ。だから皆を一度村から離し、私はその因習の元である巫女姫の歴史を、私でもって終わらせようと思うのだ。幾つもの犠牲を払って守られ築かれたこの職を、私の手で壊そうと思うのだ。もう二度と、巫女姫と呼ばれる能力者を作らぬために。」

小夜の話をききながら、既に、信乃の心は落ち着き払っていた。冷静に物事を判断できるほどに。

「では、私は余計、ここに残らねばならぬのではありませぬか。私も能力者です。」

「私が終わらせたいのは『巫女姫』という地位。しかし、血は絶やしてはならぬ。そこに存在して、ある以上は、意味もなく力を持って生まれたはずもないのだから。その能力を絶やすことを、私の一存で決められるはずもない。いつか、本当に必要となる日が来るかもしれぬ。しかし、絶やしてはならぬとて、組になって逃げた一族の者が、逃げ切れるかどうかはわからない。だから私は、お前にも望みを託したいのだ。それが何代にも渡って、色んな犠牲を払ってまで伝えてきた者たちへの、私からの償いなのだ。」

やはり感情はうちに秘めたままとうとうと語る小夜を、信乃は憂いを含んだ目で見た。

 何故に、今までこの姉を冷酷になったなどと思っていたのだろう。ただただひたすらに、まるで人形のように、職務をこなしているだけなのかと思っていた。

 こんなことを考えていたなどとは、思いもしなかった。

 姉は、れっきとした『巫女姫』なのだ。

 そういえば、長くこんな風に語りあったことなどなかった。冷酷に見えていた小夜には、昔の小夜もきちんと生きていたのだ。この姉に、憎まれても仕方がないと思っていた。しかし、姉は自分を憎んでいない。誰をも憎んでいない。もし、憎んでいるとしたら、それは、己自身の運命だ。

 水晶玉を持った手を膝の上に置いた。涙があふれてくる。

 決断せねばならない。

 姉は、自分一人でここに残ることを望んでいるのだ。きっと最後の望みだろう。

 姉は『巫女姫』として誇りを持って生きていたのだ。この五年間を無為に生きてきたのではない。感情に振り回されることもなく、就いた職に、己の誇りをかけていたように思えた。

「信乃。」

 血は絶やしてはならぬ。

信乃は姉の顔を涙に濡れた目で見上げた。

「行けと仰せなのですね。」

小夜が見た信乃の目に、もう迷いはなかった。

 小夜はゆっくりと信乃にうなずいて見せる。信乃は潤んだ瞳のまま、まぶしそうに微笑んだ。

 そして涙を拭った。

 姉はこの日のことを、おそらく予知していたのだ。姉の決心は、今の今ではくつがえせない。

「私、参ります。姉上さまの、意のままに。」

信乃は真剣な目をして、きっぱりとそう言った。小夜はその答えに、穏やかに微笑んだ。

「ありがとう。」

 そうして、二人は立ち上がった。

 扉まで歩いて行き、立ち止まった。

「今からなら白石山の方へ逃れて行け。途中、兵にもし捕らえられそうになったなら、ハヤテを呼べ。操れなくとも、乗れるはずだ。」

「はい。」

「行く当てもなく、不安で、苦しい日々が続くだろうが、耐えて、生きていけよ。やがて幸福も訪れよう。」

「はい。」

震える声で、顔が歪む。耐えかねて、信乃は小夜に抱きついた。涙があふれて止まらない。この世でたった二人きりの、姉妹の、今生での別れになるかもしれぬのだ。

 信乃が声を殺して泣くのに、小夜はその肩をポンポンと叩いた。

 当てのない旅立ちである。小夜は行く先を思いやると、この妹を行かせるのはつらい。

「達者でな。」

「はい。」

涙声で、涙を抑えようとしながら、顔を上げる。小夜は楓に包みをとらせた。それを、涙を拭う信乃に渡す。

「この中に、しばらくは困らない程度のものが入っている。それから――」

小夜は襟元から金子袋を取り出し、信乃の右手に握らせた。

「金だ。落すなよ。」

信乃はうなずいた。

「心残りしようから、ここで別れる。」

「はい。」

 信乃は扉を開けた。

 泣いたせいか、外気がひどく冷たく感じられた。外に出て、もう一度中の方へ振り返った。

 そこに立つ姉を見た。

「では。」

「ああ。」

頭をゆっくりと下げた。そして、もう一度姉を見ると、振り返り、仮殿の中へと消えて行った。

 小夜は本殿の扉を閉めると、佐助と楓を見た。

「では楓。」

「はい。」

「本当に、よいのだな。」

楓はぐっと小夜を見上げた。

「あたしは常々、小夜の役に立ちたいと思ってたんだ。こんな大事な役を任されたんだから、かえって嬉しいぐらいだよ。」

小夜は楓の真っ直ぐな瞳を、じっとみつめた。

「ありがとう。」

小夜の言葉に、楓は思わず口元が震えた。きゅっと唇を結んだが、その瞳は潤んでいた。

「信乃を頼む。」

「はい。」

 楓は扉を開けた。そして、小夜を一度振り返った。

 その目は涙で潤んでいた。そしてまたあちらへ振り向くと、一目散にかけて行った。

 つまり、小夜から忍びの里の長老への手紙はこうであった。一つは薬を分けて欲しいということ。そしてもう一つは、信乃を旅立たせるために、同じ年頃の優秀な忍びを一人、信乃が落ち着くまでお借りできないかということだった。巫女姫としての、たった一度の、最後の願いとて。こうして、楓が遣わされた。楓なら、信乃も小夜も見知っているから信用もおける。

 長老の、優しい配慮であった。

 小夜は楓を見える限りまで見送ると、扉を閉めた。中に入って、「気封じの玉」の入っていた箱の蓋を閉める。紐をかけた。

「お前もそろそろ行ったらどうだ、佐助。」

小夜は佐助を振り返らずに言った。

「小夜はこれからどうする気なのだ。」

小夜は佐助に振り向いた。

「朝を待つ。」

「俺と一緒に、忍びの里へ来ないか?」

「何?」

「もう村には誰もいない。巫女姫もやらなくていい。お前の気性なら里でも十分にやっていけるし、力も必要なら術として使えばよい。仮に風に乗る姿が見える者がおっても、鷲を扱うのだと説明すればいい。」

話す佐助の顔を、小夜はまじまじとみつめた。それから、忘れていた言葉を思い出したというように、

「お前、一体急に何を言い出すのだ。それに――。」

小夜のみつめる佐助の顔に変化はない。

「私は以前お前に、風を使うことを話したことがあったか? 鷲の姿をしている、とか。」

「いや。」

「じゃあ、なぜ、知っておる。もしかして、見えるのか?」

「見える。」

 その言葉に小夜は呆然とした。

 何故佐助に見えるのだ。

 小夜は考えをめぐらせた。

 忍びの里と何か血のつながりがあったろうか。いやいや、そんなことはないはずだ。忍びの里との交流が始まったのは、ここ二、三年のこと。では、一体何故…。ハヤテが見えるのは、一族の者か、霊能力の強い者、修験者、一定の事情にひどく感性の磨かれたもの、それから――それから?

 佐助がこれのどれかに該当するだろうか。

 小夜の頭の中に、楓の言葉が蘇る。

 兄者は小夜が好きなのだ。

 それが原因のような気もする。違うような気もする。しかし、他に何かあるだろうか。小夜と、心同じくしようと、理解しようとすれば、自然と見えてくるものがあったのかもしれない。

 しかし小夜はまだ信じられない。こんな奴が。しかも、小夜のような女に。

 小夜は自分で思い返してみたが、佐助に優しくしたことなど、一度もない。

 小夜は佐助を見上げながら、得体の知れない不思議なものを見ているような気がした。

「佐助。」

「何だ。」

「お前、私の一体どこがよいのだ。」

「どこと言われても…。」

佐助はちょっと困ったというように顔をしかめた。

「私はお前より年上だし。」

「たった一つしか変わらぬではないか。」

「しかし、巫女姫の私には、女としての価値はなかったろう。」

「確かに、お前は可愛げがなくてぶっきらぼうだし、態度は偉そうだし…。でも、お前はきれいだ。凛としていて無駄がない。」

 佐助は顔を和らげた。

 何だ、こんな一面もあるのではないか。それなら普段からそうしておればよかったのだ、と、小夜は思うでもなく思った。

「無表情な割りには、子供を見るときは優しいし。」

佐助は続けた。

「でも、風に乗っているときが一番いい。のびやかで生き生きとしている。」

 佐助の言葉に、小夜は何故か胸が熱くなるのを感じた。わなわなと唇が震える。震える唇を、手で押さえてうつむいた。

「小夜?」

小夜はうつむいたまま、顔をあげない。

「小夜、俺の、女房になってくれないか。そして、一緒に忍びの里で、暮らさないか。」

佐助は小夜に近付いて、うつむく小夜をのぞきこむように声をかけた。小夜はぐっとのどに力を込めて、顔を上げ、ため息を一つついた。

「お前はバカな男だ。私は神に仕える身、誰のものにもならぬのに。」

「ああ、でも今は違う。」

「違わない。」

「今はもう、自由じゃないか。」

「私は――。」小夜は佐助をじっと見上げた。「私は死ぬまで『巫女姫』だ。他の道など考えられない。」

 きっぱりとそう言い切った。

 そうだ、佐助の目、確かあの男も、こんなふうな目をして私を見た。そう思う小夜を、みつめる佐助は、奥歯をかみしめた。

 しかしこの瞳には、今日の今日まで気付かなかったのだ。

 小夜は苦笑しながらうつむいた。

「お前に、もっと早く出会えていればよかったかな。そう、もう二、三年ぐらい早く…。」

小夜は心からそう思った。本心だった。もっと早く出会えていればよかった。かなうなら、あの朔次郎に出会う前に――。

「もう、決めたのか。」

声を荒げるでもなく、佐助は静かに尋ねた。小夜はおもむろに顔を上げ、そして静かにうつむいた。

「私は今、すごく嬉しいのだ。」

小夜は真っ直ぐに佐助の目を見た。その小夜の表情は、何もかもふっきれたような清清しいものだった。

「私はずっと、誰も、私のことを理解してくれていないと思っていた。でもそれは、違ったのだな。村人も、この度決断するにあたって、私のやりたいようにせよと言ってくれた。そしてお前…。一人の人として生きることが許されず、心を殺して、おわりばかりをみつめていた私を、人として見ていたのだな。人としての私は、死んだはずだったのに――。お前は、私を、一人の女として、見ていてくれたのだな。」

「それなら」

「しかし」

割り込もうとした佐助の言葉を、小夜は強引に切った。

「今度のことは、私が最後の最後に貫くわがままなのだ。だから、動き出した村人を犠牲にして、巫女姫たちが築き上げてきた歴史を台無しにして、自分ばかりが他の道を行くことは許されない。――誰が許しても、私が許さない。」

小夜はきっぱりとした口調でそう言い切った。

「もう、いいのだ、私は。」

小夜は穏やかに微笑んだ。

 こんな爽やかに、穏やかな表情を、今まで誰にも見ることはなかっただろう。そこにいたのは、もう巫女姫ではない、小夜なのだ。

 小夜は目を閉じる。

 佐助はそんな小夜を、何故か見ていられなくて、視線を外した。小夜はしっかりと目を開けて、静かに口を開いた。

「お前がそうしたいなら、抱いてもよい。」

 佐助は思わず顔を上げた。と、小夜の目とぶつかる。佐助はその小夜の目をじっとみつめていたが、戸惑うように首を横に振った。しかしもう一度、小夜の顔をみつめると、思わず両腕でその体を抱きしめた。

 佐助は、こんなふうに小夜の体に触れたことはなかった。

 触れてはいけないと、心のどこかで思っていた。

 固く強く抱きしめるその力、やはり決して感情を表に出さなかった彼の、心そのものだった。

 その手を離せば、もうそこで終わりなのだ。

 永遠に、触れることはない。

 このまま、連れ去ってしまえばいいのだと思いながらも、無理強いしてもきっと、それは無駄なことなのだとも思う。なぜか、理由のない確信があった。

 細く柔らかな、でも鍛えられた体から、温かい鼓動が伝わる。じっと抱いていて、長い時に思えても、ふりかえればほんの一時になるのだろう。

 佐助はもう一度強く抱くと、その腕をゆるめた。離れたくないと思う前に、離さなければいけない。もう、行かなければ。

 佐助は見上げる小夜の目をみつめると、途端に腕を離して立ち上がった。扉へ向かって歩き出した。

「待て、佐助。」

小夜が呼ぶのに、扉の前で佐助は立ち止まった。

「里の翁どのに、今までのご厚情感謝すると伝えてくれ。」

「わかった。」

佐助は振り向かない。

「稲賀殿は、すばらしいご領主であられた。私の力を知っていても、あえて利用しようとせずに黙認してくれた。己の力だけで立つ、正々堂々としたお方だ。だが…。」

小夜は視線を落とした。

「あの若殿が後を継げば、稲賀の家は滅びる。」

思わず、佐助は小夜に振り向いた。小夜も佐助を見上げる。

 それから、小夜は穏やかに微笑んだ。

「行け。」

言い放った小夜の顔を、佐助はじっとみつめた。

 それから、静かに微笑んだ。

「ああ。」

「達者でな。」

佐助は後ろ手に扉を開けた。そしてゆっくり振り返ると、すっと闇に消えた。

 扉が閉まる。

 扉には、小夜の影が一つ。佐助は足音も立てずに消えていく。

 小夜は目を閉じた。両腕を抱く。そして、顔を空に向けた。

 心が透き通る――。どこまでも、どこまでも――。

 何もかもが溶けていくようだ。

 誰もいない。

 もう、誰もいない。

 あとは、夜明けを待つばかり。

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