第十二章

  白石山の西側にある女神山の麓に位置している社殿には、陽が差し込むのが遅い。しかし、動物の目覚める気配で、夜明けを知ることはできる。

 小夜は本殿の扉を開け放った。

 胸の奥にまでしみ渡るような冷気、鮮やかな晴天。

 右手には太刀が握られていた。父親の形見の品だ。

 石段を下りる。仮殿の内扉を開け放つ。中を通り抜け、外扉をも開け放った。

 さらに石段を下り、境内に立つ。

 そこから、後ろを振り返った。

 ガランとしていて何もない。

 それを確かめるようにみつめると、正面に向き直ってハヤテを呼んだ。

「ハヤテ。」

 目の前の空気がそよと動いたかと思うと、木々がサワサワと騒ぎ始めた。後方からサッと風が抜けたかと思うと、目の前にハヤテが現れた。ワサワサと翼を動かし、差し出した小夜の腕に止まる。

「邪魔をするでないぞ。」

言うと、小夜はハヤテを空に放った。そうして、村めざして疾駆させる。その姿を見送りながら、村から境内へと通じる石段まで歩み寄り、村を見下ろした。

 

 靭実がふと目を覚ますと、部屋の中が明るかった。

 白い障子戸だけで外の雨戸は閉められていないので、部屋の中に光が反射しているのだ。

 まぶしい。昨日は戸も閉めずに寝入ってしまったのか。

 手を見ると、籠手がつけられていた。

 何故、こんなものをつけたままで寝入ってしまったのだろう。

 はたと目が覚めた。

 大急ぎで起き上がる。さらりと布が流れた。女物の着物。小夜のものだ。

 何故こんなところで寝ていたのだろう。昨日は小夜が高階につくということで話が決まり、長老と固めの杯を交わしたのだ。それから、長老の心づくしということで、小夜に酒を進められた。疲れていたせいか、二、三杯飲んだだけで眠気が差したのだ。

 眠っていたのか? こんな長い時間。いくら疲れているといっても、「陣中」だぞ。

 靭実は愕然とし、それから慌てて立ち上がった。

 戸を開けて表に出る。

 見張りをしているはずの兵が寝入っているではないか。

 しまった――!

 靭実はしゃがみ込んで、慌てて見張りの兵の胸ぐらをつかみ、たたき起こした。

「おい、起きろ! 小夜は…巫女姫や長老はどうしたのだ!」

 兵は薄目を開けると、慌てて体を起こした。

「あ…? え?」

兵は事態を飲み込めていない。

「このような時に眠りこけているとは、何事か!」

靭実が怒鳴りつけると、兵は慌ててひれ伏した。

「申し訳ございません!」

靭実は立ち上がった。一体どうなっているのか。

 するとどこからともなく靭実を呼ぶ声が聞こえてきた。

「小坂さま―――――っ!」

「靭実さま―――――っ!」

 靭実は声のするほうへと歩みだした。すると、兵たちが取り乱した様子でかけてくる。

「小坂様! 大変でございます!」

「何事か!」

「村が、村中のどの家も、もぬけの殻でございます。自刃した老人達数名を除いては、人っ子一人おりません!」

「お前たちは何をしておったのか!」

「はい、いえ、はい、その、皆が皆眠っておりましたところをみると、どうやら薬をかがされたようで――申し訳ありませぬ!」

 はめられた――!

 まんまと村人たちにはめられたのだ。そして、小夜に! 気を自在に操る女なのだ。手を触れず、兵たちに薬をかがせることだって出来るのかもしれないのだ。甘く見た、何ということだ――! 村人たちに、逃げられたのだ!

「追え! 馬を使っても構わぬ! 女子供を連れているから、まだそう遠くへは行けぬはずだ。手分けして道を急げ! 早く!」

 靭実は振り返り、小夜たちの家へ帰って表戸を開けた。中の戸を開ける。

 すると、老人が一人、床にうつぶせて座っている。長老だ。

 肩を持ち上げると、既に事切れていた。腹をさばいたのだ。

 靭実は家の中を歩き回った。

 誰もいない。

 表に出て、残っている兵四、五名に、

「社殿へ行く! ついて参れ!」

と命令した。

 甘く見すぎた。油断したのだ。たかが女、たかが百姓どもだと。

 力にまかせていうことをきかせれば、何もできるはずがない、と。

 忘れていたのか? 相手は普通の女ではない。馬鹿者が―――!

 神社へと続く長い石段の前まで来て、上り始めると、一番上に誰かが立ってこちらを見下ろしている。

 あの、鳥居の下――小夜だ!

「小夜!」

靭実は中段まで駆け上がり、立ち止まった。小夜は顔色一つ変えず、こちらを見下ろしている。

「よく眠れたかや?」

小夜は嘲笑の色を浮かべた。

 その小夜の様子に、靭実は全身を怒らせた。

「小夜、お前よくも――!」

靭実と、共の者が刀を抜いた。そして石段をさらに駆け上がる。小夜は微動だにしない。

 と、突然、靭実の後ろについて駆け上がってきた五人の兵の前で空気がよどんだ。次の瞬間、すさまじい勢いで圧力がかかり、真ッ逆さまに落ちて行った。

「ああ――――――っ!」

 靭実は思わず落ちて行った兵を見下ろした。そして、小夜を見上げた。

 自分はなんともない。しかも、落ちた兵たちも普通なら途中で止まるであろうに、一番下まで転げ落ちた。

 尋常ではない。

「亡き巫女姫様に伝授いただいたときは、一体何の役に立つのかと思うておったが、まさかこんな所で使うことになろうとはな。」

 小夜は言って、それから刀を抜いた。

 鞘を放り捨てる。

「雑魚はいらぬわ。来や。」

そして刀を右手で構えた。

 その姿に呆然とし、靭実は一度に頭に上った血がひいて行くのを感じた。構えた刀を下ろし、じっと小夜を見上げる。

「どうしたのだ。」

「やめておけ。」

「邪魔者はおらぬ。あやつらはしばらくは動けぬわ。力を使うては、お前も一たまりもなかろう。だから、剣で勝負してやろうというのだ。」

「無駄だ。一体俺が、幾つの戦を戦ってきたと思っているのだ。今日初めて剣を握ったような奴を相手に、俺が戦えるとでも思っているのか。ちょうどいい。お前一人が残ったのは、かえって好都合だ。小夜、心を改めて俺と一緒に、高階様の屋敷へ行こう。」

「断る。」

「小夜!」

「私は誰にもつかない。誰が――誰が人殺しの道具になど使われるものか。たとえこの身果てても、誰の言うなりにもなるものか!」

 小夜は剣を振りかざし、その石段のてっぺんから飛び立った。靭実の頭めがけて剣を振り下ろす。

 キン…! と音がなって、靭実が小夜の剣を受ける。小夜はそれを反動にして、宙に浮いたまま、また翻って石段の上に降り立った。そして今度は、低い姿勢で剣を構えた。

 一寸の隙もない。

 靭実は刀を振り下ろし、小夜を見上げた。

 女のくせに、なぜあれほど重い剣がふるえるのか。

 靭実は剣を握る手に力をこめた。

「小夜! なぜそんなにしてまで意地を張る。しかも、そんなにしてまで抗うなら、何故村人達と逃げなかったのか!」

「私はどこへ逃げても同じだからだ。」

「何?」

「私は、心乱せば気を乱し、見とうもない先の世まで見えてしまう。所詮私は、運命からは逃れられぬ。どこへ逃げても、真には自由にはなれないのだ。たとえ今逃れても、この力がある限り高階のような男はいくらでも群がろう。村人たちは私を希代の子、乱世をのりきるために与えられた子よと喜んだ。しかし、私のような者は、この乱世に生まれてはならなかったのだ。」

「使わねばよいではないか。」

 靭実は言いながら、石段を上る。

「使わねばよいのだ。一人の女として、生きればよいのだ。」

「私に、私の力を持って、それは不可能なのだ。しかも、この乱世、この力を持ってして、何故使わずにおれようか。――それでも、知らねば良かったのだ。普通の生き方になど、運命になど、気付かねばよかったのだ。そうすれば、大木村の巫女姫として生き、村人達に言われるがまま、ふさわしくその職をまっとうしたであろうに――お前のせいだ! お前がいなければ、私は自分自身に疑問を抱くことなどなかったのだ。こんなことにも、ならなかったかもしれない。」

 小夜は近付いてくる靭実に、刀の切っ先を向けながら、後ろに退いた。それからまた飛び上がり、靭実の正面で斜めに振り下ろす。靭実が眼前でその剣を受けると、小夜は剣をはねてそのまま横様に薙いだ。靭実は体を退けて危うくそれをかわす。小夜は後ろに大きく飛び上がり、境内の中程へ、宙で二回転して下りた。

「ならば、都へ行け。」

靭実は石段を上りつめ、刀で小夜を指し示しながら言う。

「人に操られるのもいや、己が一人の道も生けぬというなら、都の帝の元に仕え、影ながら世を支配すればいい! それが出来ぬというのなら、おぬしに己の道を言う権利などないわ!」

「世を支配か。しかしな、そこに、私の幸せはないのだ。」

「ならばどうする。」

「とにもかくにもまず、お前を殺す。そして、ハヤテとともにこの国を離れ、一人で生きられる場所を探す。」

「どうしてもか?」

「どうしてもだ。」

「俺は殺されてやるわけにはいかぬ。」

「私もお前に恨み果たさずに行く気はない!」

 小夜は飛び上がった。

 剣を靭実の頭上めがけて振り下ろす。剣は靭実にはじかれ、小夜はその反動で地に降り立った。もう一度真正面から構え、そして剣を左下に下ろした。右上にゆっくりと上げて、靭実にかかったが、靭実はその剣を受けて、小夜の剣を返し、今度は右斜め上から下に振り下ろした。小夜はひよいとよけ、ふりおろされた靭実の剣をそのまま自分の剣でガンと押さえつける。靭実は力にまかせてその剣をはじく。すると、小夜は大きく後ろに飛び退いた。

「ぴょんぴょんと…」

靭実の息が乱れる。小夜の、すさまじい気迫。ろくに実戦したことはないはずだ。それなのに、小夜は息一つ乱していない。しかもその動きは、風が踊るように鮮やかなのだ。

 本気でかからなければ、こちらが殺られる。

 靭実は呼吸を整え、気をひきしめた。

「やっと、本気になったようだな。」

小夜は言って、また剣を構えた。今度は靭実の方からかかっていった。

 幻のようだ、と靭実は思った。昔、手に手を取り合い、抱き合い、心を通わせたあの二人が、今こうして戦っている。あの頃がまるで、幻のようだ。あの母のように優しい、虫も殺せぬようなあの娘が、何故このように変わってしまったのだろう。

 あの頃は、小夜は、思いやりにあふれていた。だが今はどうだ。自分の意志を通さんとするばかりに、村人を追い出し、俺をも殺そうとしている。

 あの頃の私は、死んだのよ。

 そうだ。俺も、人の事は言えぬ。俺も何人もの屍を踏んで、ここまでのし上がってきたのではないのか。

 ふいに、靭実の腕を小夜の剣がかすめた。左手の籠手が、はらりと落ちる。

 皆、自分が一番かわいいのだ。

 靭実は小夜をにらみつけた。

 皆、自分が一番大事なのだ。そして、強い者だけが生き残る。そういうものだ。それが、この世の習い。

 靭実が振り下ろした剣をよけて、小夜はひらりと仮殿の前の石段を飛び上がった。

「お前の言う事は矛盾している、小夜。戦の道具になるのはいやだと言いながら、人殺しの道具に使われるのがいやだと言いながら、今俺を殺そうとしている。」

「もう降参か。」

「誰が! むざむざお前を逃しはせぬわ! 俺に残された道は、お前を連れ帰るか、殺すまでよ。でなければ、親方様に顔向けが出来ぬわ。」

「よう言うた。」

小夜はにたりと笑った。

 靭実は勢いよく仮殿前の石段をかけ上がった。小夜の体を横様に剣で薙いだが、小夜はまたそれをひらりとかわした。靭実が間髪いれずにうってくる。小夜はそれを受け止めた。お互い剣を外し、小夜が右斜めに振り下ろした。靭実は危なくよける。小夜は呼吸を整えつつ、その刀の切っ先を靭実に向けて構える。靭実もまた同様にしてその刀を構えた。二人が睨みあう。小夜はじりじりと後ろ足に歩を進め、仮殿の中へ入っていく。小夜は仮殿の右手に、それに向かいあう格好で、靭実は左手に入った。

 薄暗い。

 戸を開け放っている分、見えないことはないが、これは、ここに居なれていない分、靭実には分が悪かった。靭実は呼吸を安定させ、小夜の動きをじっとみつめた。ふらりと何かが動いたかと思うと、突然目の前に刀が現れた。

 ガキン! という音がした。刀の根元でようやく受け止めたのだ。靭実の額に汗がみなぎる。早くこの社殿の中を出なければならない。

 カッ! と小夜の剣を押し返した。少しずつ、じりじりと外の方へ移動する。そして小夜めがけて刀を左斜めに振り下ろした。

 よけたのか反応がない。と、突然、刀が走って来た。靭実がよけると、左の髪の毛がはらはらと落ちた。刀は、靭実の一歩後ろの壁につきささっている。と、突然目の前に小夜の顔が現れてドキリとした。その隙に小夜は壁にささった刀を抜いた。

 靭実は先ほどから、何か妙な感じを受けていた。

 何だろう、小夜の動きがおかしいのだ。

 考える間もなく、小夜がうってくる。靭実は刀でそれをはじいた。左手に、壁のつきる柱がさわった。出口なのだ。靭実は小夜をうかがいながら、壁にそってササッと表に出、壁に隠れる。すると反対側の壁際の中から、小夜が現れた。

 靭実は、そんな小夜の姿を見てまたドキリとする。と、小夜はひらりと飛び上がり、本殿へと続く石段の中段へと舞い降りた。靭実が石段の前へと走り出る。

 そうだ、と靭実は思った。このまま行けば後ろは行き止まり。うまくすれば、小夜を生け捕りに出来るかもしれない。と、その時、小夜の剣が襲い掛かった。すさまじい勢いだ。靭実は歯を食いしばってそれを受け止める。それをはじいて小夜は再び元の位置へと戻った。それから小夜は間断なく右斜めから剣を振り下ろす。靭実はそれも受けると、小夜がすぐにひいて左から真横に刀を薙いできた。

 カン! その剣も右下で受け止める。刀は重なりあったまま、靭実はじりじりと小夜を上段へと押し上げた。

 小夜は刀をはじき上げ、靭実の頭めがけて垂直に降ろす。と、靭実はそれをはね、右手から攻撃を加えたが、小夜は後ろに退いてよけた。そして、石段を上りつめる。小夜がまた右手から靭実を打つ。靭実の刀とはじきあって、カン! と音がした。また左、右、勢いをつけて小夜は攻め立てる。後ろに退いて靭実を真横に撃とうとした。目の前で靭実がそれを受ける。互いの目が重なった。小夜の目、すさまじい殺気だ。お互いの刀が重なりあい、押し合う。

 靭実の方が、力は強い。

 小夜はじりじりと後ろに退く。

 靭実も石段を上り詰めた。

 力いっぱいに小夜が靭実の剣をはじき、後ろにひらりと飛んだ。小夜の足が本殿の板の間についた。

 その時だった。

 ふいに、小夜の体からみなぎる殺気と緊張感が、消えうせたのだった。

 そうだ、今だ! 振り下ろせ!

 靭実が左手に上げた刀を、右下へと力強く確実に、その刀を振り下ろした。

 刀は、小夜の体を斜めに斬った。

 命令したのは、靭実の本能の声だった。

 小夜の体がおおきく後ろへとのけぞる。

 違う!

 靭実の心の声が叫んだ。

 違う、そうじゃない!

 靭実は崩れ落ちる小夜を、剣を棄てて受け止めた。勢いでひざまずき、何とか小夜の体を支える。

「小夜!」

 小夜は無表情な目で靭実を見上げた。

「何故だ! 何故なのだ! 何故、わざと斬られた、小夜!」

靭実は小夜の顔を凝視する。小夜は弱々しく笑った。

「皆が…」

「何?」

「皆が…幸せにならねばの。だから…」

小夜は苦しそうにハァと息を吐いた。

「私は…」

小夜の目が潤む。

「だから、お前に斬られたかったのだ…。」

 靭実の体が、凍りついたように動かなかった。

 小夜の目から涙があふれた。

 顔は靭実の方を見ているのに、その目は何も見ていない。

 小夜はまた、弱々しく笑った。

 「小夜、おい、しっかりしろ! 小夜!」

靭実は意識の薄らいでいく小夜に必死で呼びかけた。小夜は口元を動かして、何か言いたげである。靭実は「何だ。」と言ってその口元に耳を寄せた。

「次に…生まれ…る…とあら、ば、私、は、かぜに、なりた…」

小夜は目を閉じる。閉じた目から涙があふれた。

「…すれば、もう、…るしむ…ともあ、る、まい…」

 抱く靭実の腕に、ずしりと重みがかかった。

 腕の隙間から髪の毛がこぼれる。腕の中でだらりとなったその体は、もう動かない。

「小夜?」

 小夜の目の端から、涙が一筋こぼれ落ちた。

 しかしそれ以上、何の反応もない。

「小夜?」

 呆然とする。

 小夜を慌ててかき抱いた。

 激しい後悔が、彼の胸を襲う。

 違う。

 そうだ、違うのだ。

 靭実を殺す気など毛頭なかった。靭実が激しい殺気を感じたのはただ一度。しかもそれは、靭実の心を奮い起こすためのものだったのだ。

 靭実はようやく気がついた。

 小夜は俺を殺すために剣を握ったのではない。ここで殺されるために、剣を握ったのだ。

 小夜の言葉を信じた己の浅はかさ、そして、小夜の心のうちは、まだ、昔のまま――。

 靭実の大きく見開いた目から、涙がこぼれ落ちた。

 靭実の背後で、静かに風が揺らいだ。濡れた目で祭壇を見やると、そこには一羽のイヌワシがとまっている。

 哀しげに、こちらを見下ろしている。

「ハヤテ…」

 また、涙があふれた。

 靭実は、もう一度小夜の躯をかたく抱いた。

 ハヤテは羽ばたいた。

 本殿を出、仮殿の開け放たれた扉の中を抜けていく。

 そして、大空へと舞い上がった。

 


 白石山から尾根伝いにめぐって隣の山を横切り、一つ向こうの村へと抜ける道のりを信乃はとっていた。白石山を越えれば敵地。灯台元暗しということもあろうが、やはりそちらへは向かわず、信乃はなるだけ稲賀の領地に残って村人たちと再会する機会の多いほうを選んだ。

 白石山を過ぎたのは、ようやく日が昇った時だった。隣の山へ抜けるには、道を少し下らねばならない。

 夜中じゅう、見えぬ視界で歩き続けたのだ。しかも村近くの本道は通れぬから、山の中を。

 足はもう限界に近かった。

 と、行く手から蹄の音が聞こえてきた。ちょうど道が山に沿って曲がっているので、その姿が見えない。信乃は悪い予感がして立ち止まり、引き返した。後ろから、蹄の音が近づく。上り坂だ。間に合わない。信乃は後ろを振り返った。

 やはり、高階の兵だ! 

 間に合わない。兵たちも、信乃の姿に気がついた。隠れることも適わない。

「おい、あれは…!」

「巫女姫の妹だ! 捕まえろ!」

 信乃は逃げた。蹄の音が近づいてくる。

 その時だった。

 上から何者かが落ちて来て、その手綱を引き、馬を横転させた。そして追っ手の道をふざぎ、立ちはだかった。

 まだ子供…いや、少女だ。

 楓だ!

 楓は腰から短剣を引き抜いた。

「巫女姫小夜の命により参った。お前らに、妹御を渡すわけにはゆかぬ。」

「小娘が!」

兵たちは剣を抜いた。

「楓!」

信乃が振り返って叫ぶ。

「早く行け、信乃!」

「でも…」

「いいから早く!」

楓はこう叫ぶと、男たちに向かって行った。

 逃げる…逃げる…この場をどうしよう。信乃はもつれそうになる足を必死で動かした。握り締める包みの中の、丸い硬い感触――そうだ!

 信乃は走りながら上空を見上げた。

「ハヤテ――ハヤテ!」

 風が吹き始めた。そして、その流れにのって一羽の鳥が現れる。

 イヌワシだ!

 小夜のとは違う、信乃はそれに飛び乗った。

「消えた!」

一同がそちらを見上げた。と、またもや上から、一人の男が降ってきた。そして楓の横に並ぶ。

「兄者!」

「ここは俺にまかせて、早くあの風を追え!」

「しかし!」

「大丈夫だ、ここはいいから、早く行け! 見失う!」

 楓は佐助と風の行く手を交互に見る。

「後は頼む!」

「おう!」

楓は山を駆け下りはじめた。

 一方信乃は、ハヤテに危うく乗りながら、大木村へと気を集中させた。

 姉はどうなったのか、それを探すために。

 心を集中する。

 もっと強く。

 見当たらない。どうしたのだろう。自分の力が弱すぎるのか。

 もう一度心を澄まし、姉のことを思う。と、一つの場面が、信乃の頭の中に過ぎった。

 靭実――? 泣いている――あれは、本殿の中だ。靭実の抱いている、あれは――姉だ! 床を血が染めている。傷を負うたのか? 

 いや、違う。

 あれは、あれは――!

 ハヤテがぐらりと揺れておちそうになるので、信乃は慌ててしがみついた。

 嘘だ。

 あんなことが真実であるわけがない。

 しかし信乃がどんなに否定しようと努力しても、それが紛れもない真実であることは、それは確信に近いほど、わかっていたのだ。

 信乃の目に、涙があふれた。

「ねえさまあ――――っ!」

 誰にも聞こえぬその声は、行く手も知らず、吹き行く風の、音の中へと消えて行った。

 

 長老の家族は一団となって、隣村の山を横切り、少しでもお館に近づこうと北上していた。

 日が昇り、ようやく敵の追っ手の届かないところまでやって来たと確信すると、小休止を取ることにした。

 隣村をも抜け、日が昇ったから、追っ手もそうあからさまには追ってこれまい。

 たきは提げてきた袋の中から竹筒を取り出した。歩き詰めに緊張の連続で、のどはからからだった。二人の子供たちに含ませると、自分たちものどを潤した。

「巫女姫様がたは、無事に逃げられたのでしょうか。」

たきは夫に話しかけた。

「さあ、そうであればよいのだが…。大丈夫であろう。あの方の、あのお力だ。」

「そうでしょうか。」

言って、たきはうつむいた。

「どうしたのだ。うかない顔だな。」

「私には、どうしても巫女姫さまがお逃げになるとは思えないのです。まして、ご自分が一番安全な方法で逃げるなどと…しかも、ご姉妹だけで――」

「何だ、何故そのような――」

「ただの勘でございます。されど、先ほどから何か、胸がこう――」

たきはきゅっと胸を抑えた。夫がのぞきこむと、その目が涙で潤んでいた。

「余計な心配をするな。きっと無事お逃げになられたはずだ。お前がそんなことでどうする。どれ、ゆきを貸せ。わしが代わりに背負う。」

夫はたきの背中の赤子に手を伸ばした。去年生まれたばかりなのだ。まだ片言しか話せない。夫はそのゆきをのぞきこんで、はっとした。

「おい、ゆきは目を覚ましているぞ。お前気がつかなかったのか?」

「え?」

たきは振り向きながら、帯をはずした。夫が抱き上げて見せるゆきは、目をぱっちりと開けている。

「ほんに…少しも動きませなんだで…。」

たきは手をゆきの方へ差し出した。しかしゆきは一点をじっと見たまま動かない。

 ここは山の中腹、一団は木々の開けたところに座って日にあたるようにして少しでも暖をとろうとしていたのだが、ゆきの視線の先は、麓の村がのぞめる以外、あとは空しか見えない。

「どうしたのじゃ、ゆき。何を見ておる?」

と、その時、ゆきの視線にあわせて視線を延ばしたみのが、突然立ち上がった。

「ハヤテじゃ!」

皆がみのの指差す方へと振り返った。何も見えない。

「ハヤテじゃ。あれは、巫女姫さまのハヤテじゃ!」

みのが「おおい。」と駆け出しそうになるのを、たきがとめた。

「めっそうなことを言うでない、みの。こんなところへ、何故巫女姫さまのハヤテが飛んでくるのじゃ。」

「ううん、あれは、巫女姫さまのハヤテです。間違いありませぬ。」

みのがきっちりとしった口調で言った。たきは、みのの両腕をつかみ、

「本当に? 間違いないのですね?」

と問いただした。

「はい、間違いありませぬ。」

「して、上は乗っておられるのか?」

みのはもう一度ハヤテの方を見た。みのとゆきの視線が中空の一点を追う。

「いえ、誰も乗ってはおりませぬ。」

みのの言葉に、一同が色めき立った。皆が口々に、

「本当か、みの!」

「嘘を言うてはならぬぞ!」

と、すさまじい勢いで問いただす。たきがもう一度みのの腕をつかんだ。

「みの?」

みのは顔をくしゃくしゃにした。半泣きの顔で、

「嘘ではございません。本当でございます。」

と涙声で言った。皆が顔をふせる。たまらずに泣き声を上げる者もいた。

「みのは、みのは…。」

とべそをかくみのを、たきは抱き寄せた。

「すまなんだ。すまなんだのう。」

言うたきの目からも涙があふれる。

 誰も、何も言わず、すすり泣く声が一同の中に響いた。

 誰もがみな、小夜が「後で行く。」と言ったときから、心のどこかでわかっていたことなのだ。

 泣きながら、男が一人つぶやいた。

「そういえば、逃げ出す前日、巫女姫さまは皆の所を一人一人丁寧にまわっておられた。昔にも、似たようなことがあったのう。あれは、義見朔次郎と、かけおちなさろうとしたときであった…。」

 皆がすすり泣く中も、ゆきはただただハヤテの行く方向を目で追っていた。

 主を亡くしたハヤテは、どこか、寂しそうに、中空を舞っていた。

 

 

 靭実は抱いた小夜をゆっくりと床に横たえた。しばらくその姿をみつめ、そして立ち上がる。

 本殿の外に出て、扉を閉めた。

 扉を閉じ切ると、その扉に腕をついて頭を抱えた。

 歯を食いしばり、頭をあげ、振り返って石段を降りる。

 本殿を見上げながら、仮殿の本殿側の扉を閉めた。

 仮殿の中を境内の方へ向かって歩き、仮殿を出て扉を閉める。

 終わった。

 靭実は境内に降り立った。そして、社殿を見上げた。

 静かだ。

 どこまでも静かだ。

 靭実は相好を改め、振り返った。そして中空をにらみあげる。

「これが俺の運命なのだ。」

 まるで、自分に言い聞かせるようだった。

 それは、小夜の言っていた言葉でもある。

 胸の中に虚しさが襲う。靭実は、それをどうすることもできなかった。


 この後、血に汚された神殿は、数十年浄められることはなかった。

 世が鎮まって村人が帰ってきても、社主に巫女が立つこともなく、専ら男性の神主によって一切が執り行われた。

 巫女姫たちの存在は、伝説にかわる。

 実在の記録もなく、存在を立証できる何もない。

 大木村はその後、何事もなかった様に人々は暮らし、特にこれといって目立つこともなく近世を過ぎた。

 近代にいたり、田村と合併され、その農作物の豊かさに表彰まで受ける。戦中は疎開で村も賑わい、戦後には穀物を求めて何人となく、闇に紛れて人が出入りした。

 しかし現在、人口の過疎化が著しく、細々と農業が続けられ、白石山へと登山に来る登山者が、少し淋しい村を賑わしているだけである。

 現在、旧大木村の人口は、百にも満たない。それでも未だに老人たちは、冬が来て、少なくなった子供たちを相手にしては、女神山の方から哀しげな声を上げて吹きぬける風に、

「風の精霊が、巫女姫様のことをお嘆きになっているのだよ」

と、語り伝えているという――。


 〔 ― 第1部 ― 完〕

 

(1991年秋執筆、2003年~2004年ホームページ掲載)

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巫女姫物語・第一部 咲花圭良 @sakihanakiyora

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