第12話 再会

「あ……あれ? お母さんは……?」

 息を切らしながら問うタカシに、左前方を指差したチハルが答える。

「あそこに、居るよ」

 タカシが振り返ると、トイレの前に、母親が立っていた。 

 タカシは、動けなかった。心の底では、本当に、また会えるとは、思ってなかったのかも知れない。

 数秒の間、完全に停止していたタカシの感情は、母親の優しい笑顔を見つめる内に、激しく揺さぶられ、やがて堰を切ったように溢れ出した。

「お母さあああん!」

 駆け寄ってきたタカシを、母親が優しく抱き止める。

 感動的な場面であったが、チハルの胸中は、比類なき緊張感に支配されていた。

 よし。出だしはまずまずだ。知らずの内に、チハルは拳を握り締めていた。

 これは、チハルにとって、非常に難度の高いミッションであった。一番の趣旨は、母親の未練を少しでも無くし、成仏させることである。しかし、それと同時に、タカシの心情にも気を配り、母親が偽物だとバレないよう、ヒデオの挙動を管理する必要がある。

「お母さん……おく、おくのえいえ、ごめんああい」

 タカシは、号泣のあまり、まともに言葉を発せないでいる。

 泣いているタカシを、お腹の辺りで抱きしめたまま、母親はチハルの顔を一瞥する。

 チハルは、右手をわずかに動かし、空間に、上から蓋をするような仕草を見せた。「待て」のサインだ。事前に、何種類かのサインを決めてきたのである。

 一分ほどで、タカシの号泣は、少しだけそのトーンを下げ、ある程度、落ち着きを取り戻したらしいことが分かった。

 母親の霊は、相変わらず、悲しそうな顔をしていたものの、その目には、かすかに生気が宿ったように見えた。

 チハルは、次の指示を出す。

 母親は、中腰になり、タカシに右手を差し出した。

「はい、これ。遅くなっちゃってごめんね」

 母親の右手が持っているものを見るなり、タカシは、再び母親に抱きつき、その泣き声のトーンを少し上げた。

 また、しばらく待機状態だ。

 やがて、母親に抱きついていたタカシが離れ、母親の右手から、おもちゃ屋の紙袋を受け取った。

「う……う……。ごめんなさい」

 チハルは、努めて冷静に、次の手を考える。タカシには申し訳無いが、この勝負は、短期決戦なのだ。長期戦になるほど、リスクが高まる。

 チハルは、次の行動に移るよう、サインを飛ばす。

 しかし、母親は動かない。

 見えていないのだろうか。チハルは、やや大きめにサインを作ってみせる。

 やはり、母親は動かない。

 チハルの心に、小さな焦りが生まれた。

 ちょっと、あいつ、何やってんのよ。

 チハルがサインを送り続けていると、母親が口を開いた。

「そんなに泣かないの」

 チハルは、心臓が止まるかと思った。

 予定に無いセリフだった。

 あいつにアドリブをさせたら、とんでもないことになる。まずい。まずい。どうしよう。

 強烈な焦燥感に襲われるが、チハルにできることは無かった。

 いざとなったら、殴ってでも止めるか。いや、しかし、あの子の前で母親を殴るのはちょっとな……。

「ごめんなさいぃ」

 母親は、さらに優しい笑顔を湛えて言った。

「なんで謝るの?」

「だって、だって、僕が……ゲームを……」

「タカちゃんが悪いんじゃないわ。むしろ、ドジなお母さんを許してね」

 チハルは、違和感に気付いた。

 あの自然な表情は、ヒデオがやっているにはして上手すぎる。

 そして、あの呼び方――タカちゃん。そんな呼び名は、私も知らないし、ヒデオも知らないはずだ。ヒデオが、そんなアドリブを利かせられるとも思えない。

 そもそも、普段、母親が、タカシのことをどう呼んでいたのかが分からなかったので、今回の作戦では、絶対に名前を呼ばないことにしていたのだ。

 チハルは、はっとした。ヒデオの後ろに、母親の霊が見えない。先ほどまでは、確かにヒデオの後ろに居たのだ。しかし、チハルが、サインを無視するヒデオに気を取られている隙に、居なくなっていた。

 目で、居場所を探るが、見つからない。しかし、チハルは、気付いた。母親の霊は、ヒデオにピッタリ重なるように存在していた。

 チハルが気付いた当初は、数センチほどズレて存在していた二人の母親は、全く同じ動きをし、全く同じ表情を作り、それこそ、乱視で見ているかのようだった。

 しかし、時間の経過とともに、そのズレは少しずつ小さくなっていき、二人は完全に重なった。

 もしかして、ヒデオ、乗っ取られてる……の?

「タカちゃんと話せて良かった。でも、そろそろ行かないと」

 行っちゃヤダ!

 そう叫びそうになったタカシだったが、チハルの言葉を思い出し、こらえた。

 もう、一緒には居られないんだ。僕だって、それは分かってる。

 タカシは、言葉をぐっとこらえて、無言で頷いた。

「タカシが、楽しく笑って暮らしてくれるのが、お母さんの一番の幸せよ」

「うん。僕……約束する」

 そう言うと、タカシは、涙を流しながら、顔いっぱいにぎこちない笑顔を作った。

「ああ、その顔を見たら、お母さん、安心しちゃった」

 そう言うと、母親の霊は、ヒデオの身体から、少し上に浮き上がった。その輪郭は、段々とぼやけていき、やがて、無数の細かい繊維のようにほつれ、空気に溶けるように消えた。もう、チハルにも、その姿は見えなくなった。

 後に残されたヒデオの身体も、消え入りそうに、半透明になっていた。

 それに気付いたチハルは、ぎょっとして、慌ててタカシを引き離した。

「タカシ君。お母さんを、行かせてあげて」

 タカシは、名残惜しそうに母親を見ていたが、すぐに振り向いて、公園の出口へと歩き出した。

 チハルは、公園が見えなくなるところまで、タカシを送っていった。

「ちゃんと、謝れたね」

 強く頷いて、タカシは答えた。

「うん。チハルさん、ありがとう!」

 まだ、顔中を涙で濡らしていたタカシは、おもちゃ屋の紙袋を大事そうに抱えて、帰っていった。


 タカシが充分に離れたことを確認してから、チハルが公園内に戻ると、そこには、まだ半透明のまま、母親の姿をしたヒデオが固まっていた。

「ちょっと、何やってんの! 終わったら、さっさと別の姿になってって言ったでしょ」

「すみません。ちょっと、制御が利かなくて……」

「とりあえず、そのまま居られると困るから、トイレの中に入っててよ」

 チハルは、強引にヒデオをトイレの中に押し込んだ。

 しばらくすると、トイレの中から声が聞こえてきた。

「理由は分からないんですが、上手く化けられません」

 一時的に、肉体を乗っ取られていたからだろうか、とチハルは自問したが、答えが分かるはずもない。

「だったら、化けずに、元の姿のまま出てきたら? さっきの姿のままでいるのは禁止」

 そう言われて、ヒデオは困った。ヒデオにとっては、狸は、決して元の姿ではないのだ。

 トイレのドアが、がちゃり、と開いた。

「ひっ!」

 出てきたものを見て、チハルは、小さな悲鳴を上げた。

 そこには、所々が溶けたように歪み、歪んだ箇所から緑色の光沢を放つ狸が立っていた。

「どうしちゃったの? あちこち、腐っちゃってるじゃない」

「上手く、元の姿にも戻れなかったようで……」

 歪んだ人間よりも、歪んだ狸のほうがマシであろう。それが、ヒデオの判断だった。

「うわー。これ、痛くないの?」

「大丈夫です。」

 やはり、狸の姿で正解だった。それほど怪しまれていないようだ。内心、安堵したヒデオは言った。

「さっきは、何が起きたんですか? 途中から、勝手に身体が動いて、誰かに操られているような感覚でした」

「あの母親に、肉体を乗っ取られたんだろうね。あんたの身体に、ぴったりと重なってるのが見えたよ」

 ヒデオは驚愕した。地球人には、そのような能力があるのか。

 その疑問を、そのまま口にした。

「人間は、そんなことができるんですか」

 おそらく、今回の体験に驚いているのであろう狸に向かって、チハルは言った。

「あまり、人間を見くびらないことね」

 ヒデオは、地球人に対して、新たな畏怖を抱き始めていた。

 何かを思い出したように、チハルが言う。

「あ、そうそう。五千円」

「え?」

「五千円、払ってよね」

「無料って言ってたじゃないですか」

「ゲームソフト買うのにかかったの。それくらい、あんたが払うのが当たり前でしょ?」

 ヒデオの、地球人に対する畏怖は、さらにその幅を広げた。

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