チハル

鏡水 敬尋

第1話 いつもと同じ日

 チハルは、母親に叩き起こされた。時計を見ると、8時10分。まずい、遅刻だ。

「どうして、もっと早く起こしてくれなかったの!」

「起こしたけど、あんたが起きなかったんじゃない」

 のんびりした口調で母親が応えた。

「私が起きてないなら、それは、起こしたって言わないの!」

 今までに、何回繰り返したかも分からない、反論を口にする。言うだけ無駄なことは分かっている。そして、起きない自分が悪いことも。

 チハルは牛乳を一杯飲み干すと、大急ぎで制服に着替え、家を出た。始業時刻は8時30分。ダッシュで行けば、ぎりぎり間に合う。

 家を出て、少し走ると、大きな車道に突き当たる。左に曲がり、車道沿いにしばらく走ると、スクランブル交差点があり、そこを斜めに突っ切れば、学校はもう目と鼻の先だ。しかし、交差点に向かって必死に走るチハルの目には、点滅する歩行者用青信号が見える。

「もう! なんで、いつも、このタイミングで赤になるの」

 息を切らしながら、小さな声で独りごちた。

 目前で、信号は赤に変わる。

 この際、信号無視をして突っ切ろうかと思ったが、チハルが横断歩道に踏み出すよりも早く、車両用信号は青へと変わり、強行突破は断念せざるを得なかった。

 急いでいる時の赤信号はいやに長く感じる。チハルは横断歩道の手前で、そわそわと身体を揺らした。

 車両用信号が、黄色へ、次いで赤へと変わる。歩行者用信号が青になるのは、約三秒後。

 チハルは、前傾姿勢を取り、信号が、青に変わるのと同時に飛び出した。


 遠くに捉えていた校門が間近に迫り、そのまま真っすぐに駆け抜ける。

 校舎に据え付けられた時計を、ちらりと見ると、8時27分。

 ここでこの時間なら、ぎりぎりセーフだ。経験がそう告げている。

 校舎の入り口を目指して、ひたすら突き進む。右側に見えるグラウンドには、誰も居ない。始業直前なのだから当然だ。

 下駄箱に着くと、下履きを脱ぎ、上履きに履き替える。その所作はまさに神速。靴の履き替えの速さに関しては、この高校で、チハルの右に出るものは居ないであろう。

 階段を、一段飛ばしで駆け上がり、二階に有る、二年C組の教室へと滑り込む。

 セーフだ。まだ担任は来ていない。

 教室の後方、窓際にある自分の席に着くなり、隣から声をかけられた。

「今日もぎりぎりセーフだったね。で、今日は何があったの?」

 親友のミキが、期待を込めた顔で聞いてくる。

「いやあ、今日は向かい風がすごくてね」

「あは、ウケる。私が来る時は、無風だったけど」

 チハルは、ぎりぎり登校の常習犯であり、毎回、適当な理由をでっちあげていた。特段、自分の寝坊を隠そうと思っているわけではないのだが、ミキが、毎回楽しそうに理由を聞いてくるので、それに応えるのが習慣になっていた。いつからそうなったのかは覚えていない。毎回、異なる理由を考え出すのは、中々大変なのだが、今更やめられないという、意地のような気持ちも有り、現在に至っている。

「あと10分早く起きれば良いだけなのに」

 ミキは無邪気な顔で言うが、それができないから苦労しているのだ。朝、10分早く起きることがどれほど大変か。時間は、常に同じ速さで流れていると言うが、朝の10分と、昼の10分とでは、明らかに長さが違う。アインシュタインには、この辺りの謎を解き明かして欲しかった、などとチハルが思っていると、担任がやって来た。


 二限目、数学の授業中、チハルは、教師が板書している数式の内容がさっぱり分からず、退屈を持て余していた。ふと左方に目をやると、窓外のグラウンドに、体育の授業でサッカーをしている生徒達が見えた。

 チハルは、サッカーボールを目で追うわけでもなく、また、特定の生徒を目で追うわけでもなく、グラウンドを縦横無尽に走り回る生徒たちの、わずか上方をぼんやり見ながら、妄想に耽っていた。

「随分、真剣にサッカーを見てたね」

 休み時間になり、ミキが話しかけてきた。

「いや、別にサッカーを見てたわけじゃなくて、人生について考えてた」

 チハルの突拍子も無い返しに、ミキは慣れた様子で応える。

「何? また何か見えちゃったの?」

「みんな、いろんなものを背負ってるね」

 チハルには、不思議なものを見る力があった。これを霊能力と呼ぶのかは分からないが、人の背後に、人ならざる者の姿が見えてしまう。先ほど、体育をしていたクラスの中にも、数人、妙なものを背負っている生徒が居た。

 ミキは、チハルの荒唐無稽な話を、どこまで信じているのか分からないが、バカにしたり否定するようなことはせず、真面目に付き合ってくれる、数少ない友人だった。だからこそ親友なのだ。

「私の背中には、何も居ないよね?」

 この話題になると、ミキは不安そうな顔で毎回聞いてくる。これはもはやお約束であり、チハルが、笑顔でこう返すのが予定調和となっていた。

「何も居ないから安心して」

 実際、ミキの背後には何も居なかった。この教室には、誰一人として、背後に何かを連れている人は居ない。だからこそ、チハルにとって、この教室内は安心できる場所であり、同時に、やや退屈な場所であった。


 学校からの帰り道、スクランブル交差点の数メートル手前で、チハルは足を止めた。少し離れた場所から、交差点の全景を見渡すためだ。

 朝は、ダッシュで駆け抜けてしまうので、そんなことをしている暇は無いが、学校からの帰り道では、これが日課になっていた。

 チハルは、この場所から、交差点を行き交う人々を眺めるのが好きなのだ。

 歩行者の邪魔にならないよう、塀に寄りかかりながら、交差点に目をやる。

 歩行者用信号が青になると同時に、四隅に溜まっていた人々が、交差点内に吐き出されていく。彼らには、それぞれに目的地が有り、自分の目指す方向に歩いて行く。縦に、横に、斜めに、他者と並びながら、他者とすれ違いながら。その様は、まるで人間社会の縮図を見るようで、チハルの胸を打つ。

 同時に、人々に混ざって、人ならざる者も行き交っている。それらを含めると、人間社会を通り越して、人間という生き物、それ自体の縮図を見るようで、なんとも言い難い感動を覚える。

 チハルの目に映る、人ならざる者の多くは、一般的に、怨霊や悪霊と呼ばれる類のものがほとんどなのであろう。強烈な恨みや怒りを感じさせるものが多く、それらを見ていると、その霊の過去に何があったのか、また、その霊を連れている人には何があったのか、そして、これから何が起こるのか、様々な空想が捗ってしまい、時間が経つのも忘れて、見入ってしまう。

 これは、チハルが、誰にも打ち明けたことの無い、自分だけの秘密の趣味だった。

 秘密にしている理由はいくつかあるが、ひとつは、自分の不思議な能力を、他人にべらべらと話す気になれないこと。

 そしてもうひとつ、これこそが最大の理由なのだが、他人の不幸を、娯楽の種にしているかのように思われるのが嫌だからだ。

 それはそうだ。他人に悪霊が憑いているのを見て、これから起こる不幸を空想しては、ほくそ笑んでいるなどと思われては、数少ない友人が本当にゼロになってしまう。

 しかし、違うのだ。私は、決して他人の不幸を楽しみにしているわけではなく、霊や人間の背景にある、物語に惹かれているのだ。人間は何故、霊になって彷徨うのか。人間は何故、彷徨っている霊を引き寄せてしまうのか。

 背景を楽しむだけ楽しんでおいて、悪霊に憑かれた人を救う気は無いのか、と問われれば、無い、と答えざるを得ない。私は、不思議なものが見える以外は、何ら特別な力も無い、ただの女子高生なのだ。そんな私に、一体、何ができるというのか。悪霊に憑かれてる人を見つけたら、その人のところへと駆けて行き、教えてあげれば良いのか。

「あなた、悪霊に取り憑かれてますよ」と。

 そんなことをしても、頭がおかしいと思われるだけだ。もし、信じてもらえたところで、じゃあどうしたら良いのか、と問われても、そんなこと私にも分からない。結局のところ、私には、見ることしかできないのだ。

 こんな話を誰かにしたところで、共感も理解も得られない。ミキにも話せない。これは、私だけの秘密。

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